小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

冴える、と、賢い

2016年06月30日 00時52分00秒 | 日本語
2013年3月24日(日)(4歳11か月)
 
 
 休日の朝。
 
 少し睡眠不足気味のまま起きて、リビングに顔を出す。
 
 「目がさえて寝れんかった」
 
と、ぼやくと、りえが、
 
 「お父さんの目って賢いん?」
 
 は?何を言っておるのだ?こやつは?
 
 「だって、目がさえて、って言うたやん」
 
 いや、「目がさえる」と「頭がさえる」はまた別やって。
 
 「冴える」は、澄みきった状態や鮮やかな状態のこと
であって「賢い」とはちょっと違う。
 
 「頭が冴える」と「頭が賢い」の意味は似てんだけど
違うんだな。
 
 違うんだけどその違いを説明するのは難しいんだな。
 
 まして外国の人に説明する時はもっと難しいんだな。
きっと。

510 継体王朝と蘇我氏の登場 その3

2016年06月27日 01時04分11秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生510 ―継体王朝と蘇我氏の登場 その3―
 
 
 『日本書紀』のこの記述に対して『古事記』の、「オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の
皇女の手白髪命と結婚させて天皇の位を授けた」、という記述は対照的とも言えるでしょう。
 
 『日本書紀』が、オオド王(継体天皇)が帝王になるべくしてなった偉大な人物という描写なのに対し
、『古事記』の方は、大和の側からの立場で、「(皇統が途切れたので)オオド王をつれてきて天皇に
就かせた」としているのです。
 
 しかし『古事記』のこの記述は継体天皇を入り婿という形でとらえている、とも言えます。
 これと同じことが顕宗天皇と仁賢天皇にも見られるのです。
 顕宗天皇の皇后は雄略天皇の孫とされる難波王で、仁賢天皇の皇后は雄略天皇の皇女の春日
大郎女です。
 顕宗天皇と仁賢天皇は履中天皇の孫ですから、応神天皇五世の孫である継体天皇よりも天皇に
近い血筋なのですが、允恭系の血筋が允恭天皇を含めて三代四名続いた後の皇位継承であり、
先代の清寧天皇とはまたいとこの関係になるので、允恭系と一体化する必要があったものと思われ
るわけです。
 継体天皇の皇后の手白髪命は仁賢天皇と春日大郎女との間に生まれた皇女なのですが、実は
継体天皇の御子である安閑天皇と宣化天皇も、ともに仁賢天皇の皇女を皇后にしています。
 
 いずれも前の皇統と婚姻関係を結んでいるわけです。これは政略結婚といったレベルではなく、
「女王」を妻に迎えなければ天皇としての正統性を認められなかった、と解釈するべきなのかもしれ
ません。
 
 ここで想像力を膨らませてみると、允恭系から履中系に替わる時にワンクッションを置く形で摂政を
行った忍海飯豊青尊と手白髪皇女の名にもメッセージが隠されていると見ることもできるのです。
 
 忍海飯豊青尊には「青」が、手白髪皇女には「白」と、その名に色が含まれているのです。
 
 もっとも手白髪皇女という名ですが。
 雄略天皇の後を受けた22代清寧天皇の和風諡号が、『古事記』は白髪大倭根子命、『日本書紀』は
白髪武広国押稚日本根子天皇としていますが、清寧天皇は自身の名代として白髪部を定めた、と
『古事記』にあり、『日本書紀』には白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負を設置した、とあります。
 手白髪皇女はこの白髪部に養育されたのでこの名があるのかもしれません。
 
 応神天皇以降、朝鮮半島からさかんに知識人や技術者を帰化させ、また大陸の文化を取り込んで
きましたが、こうした渡来人が朝廷のブレーンとして活躍もしていました。『日本書紀』には、雄略皇が
寵愛したのは(渡来人の)身狭村主青と檜隈民使博徳らのみであった、と書かれているほどです。
 『古事記』には、和邇吉師(『日本書紀』でが王仁と表記)が百済から召されて応神天皇に『論語』
十巻と『千字文』一巻を献上としたとあり、このように日本に伝わったもののひとつに易があると言わ
れています。
 
 『古事記』にも易の影響がある、とする研究者もいますが、「想像力を膨らませてみると」と、言うのは、
忍海飯豊青尊の「青」と手白髪皇女の「白」を易に当てはめてみるとどうなるか、ということです。
 
 易で青は少陰。二陰の下に陽が発生し、万物を奮い立たせる、新しいことの始まり、賑やかな様を
あらわします。五行では木。五色では青。五方では東。五時では春です。
 太陽が昇り新しい1日の始まりを告げる方角であり、新しい1年の始まりをイメージさせる季節です。
 長く続いた允恭系が終わり、履中系の新しい時代の到来をイメージすることができます。
 
 一方、易で白は老陽。旺盛な陽気を陰気が和らげ、穏やかにする様をあらわします。五行では金。
五色では白。五方では西。五時では秋です。
 盛んな太陽が穏やかな夕陽に替わる方角であり、暑さ盛んな夏から穏やかな気候に替わる季節で、
実りの季節でもあります。
 履中系の時代から「女王」たちによる允恭系の時代の再到来を意味するとも、継体王朝の誕生に
よって激動の時代が落ち着いたともイメージすることができます。
 
 さらに「青」が五行で「木」、「白」が五行で「金」ということは、易では「金剋木」になります。「金が木に
打ち勝つ」あるいは「金が木を制御する」関係性になるのです。
 まさに履中系から新時代の変化を意味するものになり得るわけです。
 
 実際のところはそのような意図が隠されていたのかどうか、あくまでも「想像」ではありますが。
 
 しかし、実際のところ継体王朝の誕生は簡単にはいかなかったようです。
 大和王権側からの要請を受け越前(もしくは近江か?)を出立したオオド王でしたが、大和を目前に
意外とも思える行動を取るのです。

受動と能動の言葉

2016年06月26日 00時35分52秒 | 日記
2013年3月21日(木)(4歳11か月)
 
 
 入浴中のこと。
 
 最近、頭や体を自分で洗う練習をさせている。
 
 もっとも、自分で洗わせても仕上げとして僕が手伝うのだけども。
 
 「興は自分で頭洗う?お父さんが洗う?」
 
と、訊くと、
 
 「パパが頭洗ってあげる・・・パパに頭洗ってもらう」
 
 かんだ?って言うか言い直した?
 今よりずっと幼い頃にはよく、「春奈がしてあげる」と言うところを
「春奈がしてくれる」と言っていた。
 
 これは単純に言葉が育つ過程での、受動と能動の言葉の区別が
ついていなかったせいなのだけど、今のはそれとは違う。
 
 受動と能動の言葉が区別できている上で間違えたのだ。
 
 このことは、言葉の成長過程でこんな風に間違える時期がある、
ということと同時に、春奈が無意識のうちに、相手の立場に自分を
置き換えていることを示している。
 
 やっぱり相手との関係性の変化が言葉の成長と関係するの
だろう。
 
 赤ん坊の時は「してもらう」だけだけど、だんだんと相互の関係性に
変わっているってことなのだろうね。

509 継体王朝と蘇我氏の登場 その2

2016年06月23日 01時13分38秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生509 ―継体王朝と蘇我氏の登場 その2―
 
 
 継体天皇、「体系を継ぐ」という諡号を持つこの天皇はまさしく断絶した皇室を紡いだ天皇です。
 神武天皇から続いた皇族は武烈天皇で断絶してしまい、これを応神天皇五世の孫である継体
天皇が継いだわけです。現在に至る皇室はこの継体天皇から続く皇統なのです。
 しかし、この天皇の生涯については多くの謎に包まれています。
 『日本書紀』が記すところでは、皇位継承の懇願を受けたのが57歳の時であったといいます。
しかし、実際に継体天皇が大和に入ったのはその20年後、77歳の時でした。さらに死にまつ
わる奇妙な記載。
 
 継体天皇が応神天皇五世の孫である、ということは『古事記』に、
 
 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を
授け奉りき。(応神天皇五世の孫、オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の皇女の手白
髪命と結婚させて天皇の位を授けた)」
 
とあり、『日本書紀』にも、
 
 「男大迹王天皇は誉田天皇の五世の孫。彦主人王の子なり。母を振媛ともうす。振媛は活目
天皇の七世の孫なり。(オオド天皇=継体天皇は応神天皇五世の孫で、彦主人王の子である。
母を振媛という。振媛は垂仁天皇七世の孫である)」
 
と、記されています。
 
 ところが、『日本書紀』には、
 
 天皇の父、彦主人王(ヒコウシ王)は振媛がたいそう美人であると聞いて、近江国高嶋郡の三尾の
別業より使者を遣わして、三国の坂中井に媛を迎えて妃とした。そうして継体天皇が生まれた。
天皇が幼少の頃、父王が亡くなった。振媛は嘆き、
 『今、私は故郷から遠く離れたところにいる。どうして父母に孝行ができよう。高向(越前国坂井郡
高向)に帰って父母を敬い、同時に天皇を育てよう』
と、言った」
 
と、あり、『古事記』では、継体天皇は近江にいたとなっていますが、『日本書紀』の方では越前にいた、
となっているのです。
 しかし、多くの研究者は、オオド王が越前から近江にまたがる広い版図を有していたものと考えて
いるようです。
 
 それにしても、オオド王の父が近江の高島郡を有し、母が垂仁天皇七世の孫とする『日本書紀』の
記載は注目に値します。
 「難波王自害の背景」で採り上げたように、和邇氏や春日氏、それにオケ王とヲケ王に関わる氏族
たちには不思議に近江や垂仁天皇が関係しているからです。
 
 滋賀県高島市の稲荷山古墳の被葬者について、かつてはオオド王の父の彦主人王ではないかとも
言われていましたが(近年の調査で稲荷山古墳の築造が6世紀前半と考えられるようになったため、
彦主人王の年代と合わない)、この古墳からは、玉類や鏡などともに、広帯二山式冠、環頭大刀などの
副葬品が出土しています。
 そのために、稲荷山古墳の被葬者がただの地方豪族ではない、王権の中枢に近い立場にあったと
推測されるのですが、それだけでなく、これらの副葬品の中には舶来のものと思われるものがあると
いいます。
 これらのことは、日本海に面した越前を勢力基盤に持つオオド王が朝鮮半島や大陸と独自のルートで
交流を持っていた可能性を示します。
 そして、琵琶湖の水運を利用して近江にまたがる支配地域を運営していたものと想像させるのです。
 
 そのオオド王にもとに大和政権の使者が訪れた時の様子を『日本書紀』は次のように記します。
 
 男大迹王天皇、晏然に自若して、胡坐に踞坐す。陪臣をととのえ列ねて、すでに帝の坐すが如し。
しるしを持つ使等、これによりて敬憚りて心を傾け命を委せて忠誠を盡さむことを願う(オオド王は泰然と
座られ、すでに天皇の風格をまとわれておられた。使者たちは眼前にあって、敬いの気持ちと命をかけ
ての忠誠を誓う決心をした)」
 
 この記述はオオド王がすでに天皇としての資質を有し、なるべくして天皇となった、という意味に捉える
ことができます。
 
 『日本書紀』のこの記述に対して『古事記』の、「オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の皇女の
手白髪命と結婚させて天皇の位を授けた」、という記述は対照的とも言えるでしょう。

焼き芋を食べながら

2016年06月22日 00時45分41秒 | 日記
2013年3月20日(水)(4歳11か月)
 
 
 春奈が焼き芋を食べながら僕に言う。
 
 「ヤキイモってイモを焼いてあるんやで」
 
 だから焼き芋っていうんちゃう???
 
 春奈にとってはひとつの発見だったのだろうか?
 
 まだ食べている途中だけど、もう時間も遅いので
風呂に入れる。
 
 風呂から出てからまた焼き芋の残りを食べる春奈。
 
 「お風呂上りに焼き芋食べる人多い?」
 
 「いや、あんましおらんやろ」
 
 「普通に少ないんか」
 
 いや、だったら何なんだよ?別にええやん少数派でも。
 
 ってか、「普通に」って何?