小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

604 八千矛の神 その9

2017年07月31日 00時10分32秒 | 大国主の誕生
 すいません。忙しさにかまけてまたまた更新をしばくらお休みさせていただきました。
 また再開しますので今後もよろしくお願いします。
 
 
大国主の誕生604 ―八千矛の神 その9―
 
 
 土橋寛は、その著『古代歌謡と儀礼の研究』の中で、本来は民間行事であった国見や歌垣が、民間に
おいては花見などの行事となり、または物語文学へと発展していった一方、宮中にも取り入れられて
王権祭祀に発展した、と記しています
 
 本来は地方の素朴な寿ぎ(ことほぎ)であった歌物語がやがて中央の儀礼として取り込まれるように
なったものが天語であり神語であったのです。
 民間行事や民間の口語文学であったものが宮中に取り込まれた背景には語部の存在があったと
考えられます。
 以前に少し触れたように、語部というのは、新天皇の即位の儀である践祚大嘗祭において古詞(ふる
ごと)を奏する人々のことで、古詞の内容はよくわかっていませんがおそらくそれぞれの地で伝えられて
いる神話などで構成される壽言(よごと)であろう、と想像されています。
 おそらく出雲国造によって行われた出雲国造神賀詞の奏上もそのひとつだったと思われます。
 
 八千矛神の、沼河比売への妻問である神語も元はそのようなもののひとつだったのでしょう。語部に
よって宮中に入った可能性も十分に考えられるのです。
 しかし、それではどのような過程を経て宮中に入ったのでしょう。
 先に少し触れたように、井上辰雄(『古代王権と語部』)は、天語歌が阿波国板野郡の語部によって
語り継がれてきたもの、と考察していますが、天語と神語が同源のものであるとするならば、神語もまた
阿波の語部によって語り継がれてきたものとかんがえることができます。
 
 語部というのは、新天皇の即位の儀である践祚大嘗祭において古詞(ふるごと)を奏する人々のことで、
古詞の内容はよくわかっていませんがおそらくそれぞれの地で伝えられている神話などで構成される
壽言(よごと)であろう、と想像されています。
 もっとも、践祚大嘗祭は頻繁に行わるものでありませんから、語部たちも平時は農業などに従事して
いたと考えられています。
 
 それで、井上辰雄が天語を阿波国板野郡の語部によって語り継がれてきたもの、とするのは、板野郡の
語部を天語連系のもの、と考えているからです。
 まず、阿波の語部が板野郡にいた、というのは、延喜二年(902年)の阿波国板野郡田上郷の戸籍に、
家部千成の妻として、
 「語部刀自売(とじめ)」
の名が見られるからです。
 そして、阿波国には阿波忌部氏がおり、この阿波忌部氏と天語氏がともに天日鷲命を祖としているとこ
ろから、井上辰雄は板野郡の語部を天語氏系と考察しているわけです。
 
 天語だけでなく神語もまた阿波と何かしらの関係があるのもしれません。
 それと言うのは、阿波国名方郡には建御名方神(タケミナカタ神)を祀る多祁御奈刀弥神社(たけみな
とみ神社)が鎮座するからです。
 建御名方神は八千矛神こと大国主と沼河比売との間に生まれた神なのです。
 
 これまでに何度も採り上げたので、いささかくどくなりますが、建御名方の名を冠した式内社が、阿波と
信濃にのみあり、豊玉比売と玉依比売の姉妹の名を冠した式内社もまた阿波と信濃にのみ存在するの
です。
 建御名方の名を冠した式内社は徳島県名西郡石井町(旧名方郡)の多祁御奈刀弥神社、長野市の
健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけ神社)、飯山市の健御名方富命彦
神別神社です。
豊玉比売の名を冠した式内社は阿波国名方郡の天石門別豊玉比売神社と和多津美豊玉比売神社(両社
とも比定される神社が複数あり)で、玉依比売の名を冠した式内社は長野市の玉依比売命神社です。
 
 豊玉比売の名を冠した式内社が名方郡に二社存在するわけですが、うち天石門別豊玉比売神社は
忌部氏に関わる神社である、と大和岩雄(『神社と古代民間祭祀』)はします。
 天日鷲命を祖とする阿波忌部氏と豊玉比売との関係は不明ですが、あえてその理由を探せば、阿曇氏と
凡海氏にあるのではないでしょうか。
 阿波国名方郡に阿曇氏の一族がおり、淡路と阿波に凡氏(凡海氏)の一族が分布していたのですが、
阿曇氏と凡海氏はともに穂高見命を始祖とします。もっとも、凡海氏には穂高見命を祖とする凡海氏と
天火明命を祖とする凡海氏がいたのですが、応神・仁徳天皇が淡路の海人を使役していたことを考えま
すと、淡路と阿波の凡海氏は穂高見命系だと思われます。
 豊玉比売と玉依比売姉妹と穂高見命はともに綿津見命の御子神であり、同じく八坂刀売神(ヤサカトメ神)も
綿津見命の御子神であるといいます。
 八坂刀売命は記紀神話には登場しないので、民間伝承によるところが大きいのですが、穂高見命の妹
とも言われ、あるいは綿津見命ではなく天八坂彦命の御子神とする伝承もあります。
 問題はこの八坂刀売が信濃の諏訪大社で祀られており、かつ建御名方の妻である、ということです。
 豊玉比売と玉依比売は皇族の祖にあたることから、阿曇氏や凡海と同じく践祚大嘗祭に関わる阿波
忌部氏も豊玉比売とつながりを持つようになったのかもしれません。
 
 しかし、神語には、建御名方の他にも信濃と関わる信仰が存在するのです。

100年たっても

2017年07月22日 01時06分55秒 | 日記
2013年9月19日(木)(5歳5か月)
 
 
 今夜は中秋の名月。
 
 木曜日の和泉中央のファミリーの帰り道、満月が照らしてくれている。
 
 これまでにも何度か書いたけど、ヒッポファミリークラブではメンバーが
集まる場所をファミリーと呼ぶ。
 
 ヒッポは多言語の自然習得をしている団体だけど、語学教室ではない。
 
 だから、学年といった区割りはないし、卒業もない。
 
 家族と一緒にいつまでも楽しんで参加できる活動だ。
 
 そんなファミリーの帰り道に、不意に春奈が、
 
 「うちのファミリーが100年経ったらみんなで写真撮ろな」
 
と、言いだした。
 
 うちのファミリーというのは、みんたが主催する火曜日のファミリーの
ことだ。
 
 「100周年の時にはお父さんもお母さんも生きてへんな。春奈は
もしかするとまだ生きてるかもしれんけど」
 
と、答えると、
 
 「春奈と、春奈の子供と、その子供で写真撮る」
 
 その頃にはもうヒッポの存在が必要としなくてもいい時代と世界に
なってるかもしれんよ?
 
 世界はどんどん近くなっているだろうしね。
 
 その頃は日本人もみんな普通に多言語を話しているかもしれない。
 
 でも、母親のお腹の中にいた時からヒッポをやっている春奈にとって、
ヒッポはいつまでも続けていくもの、そして家族と一緒にするもので、
まさに日常の中にあるものなんやなあ、とつくづく思った。

603八千矛の神 その8

2017年07月20日 01時27分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生603 ―八千矛の神 その8―
 
 
 『万葉集』巻16-3807が天語と関連しているとする説についてはすでに紹介しましたが、本田義憲「中央の
神々―構造と歴史との間において―」(『講座 日本の古代信仰4 呪祷と文学』に収録)は、『万葉集』巻十三に
収録されている歌の中からも天語との関連を見ることができる、とします。
 
 その歌は『万葉集』の注釈に、柿本人麻呂の歌集より採った、とありますが、その歌集はすべて人麻呂の作に
よるものか、あるいは他の人の詠んだ歌も収録しているのかわかりませんので、ここで紹介する歌も人麻呂の
作であるかどうかはやはり不明です。
 
巻13-3310
 
隠口(こもりく)の 伯瀬(はつせ)の国に さ結婚に わが来れば たな曇り 雪は降り来 さ曇り 雨は降り来 
野つ島 雉はとよみ 家つ鳥 鶏も鳴く さ夜はふけ この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ
 
(現代語訳)
 伯瀬の国に 結婚に私がやって来ると、一面に曇って雪は降って来、曇って雨は降って来る。雉は鳴き立て、
鶏も鳴く。夜は明け、この夜は明けてしまう。入ってそして共寝をしたい。この戸を開けて下さい。
 
 この歌に対する返歌が巻13-3312で、
 
 隠口の 伯瀬小国に よばい為す わが天皇よ 奥床に 母は寝たり 外床に 父は寝たり 起き立たば 
母知りぬべし 出で行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明け行きぬ 幾許(ここだく)も 思うごとならぬ 
隠妻かも
 
(現代語訳)
 伯瀬の国に 私を求めておいでになった天皇よ、奥の床には母が寝ています。外側の床には父が寝ています。
私が起き立ったらばきっと母が気づくでしょう。出て行ったらばきっと父が気づくでしょう。夜は明けはなれてしま
いました。ほんとに何とも思うようにできない隠れ妻です。
 
 なお、歌の中にある「天皇(すめろぎ)」ですが、伯瀬が登場することから、ここに宮を置いた雄略天皇ではないか、
と言われています。
 しかし、この歌のやり取りやりとは、天語よりはむしろ神語における八千矛神と沼河比売のやり取りと似ています。
 もし仮にこの歌の天皇が雄略天皇だとすれば、一方では天語の主人公であり、もう一方では神語と似た恋話の
主人公をも務めていることになります。つまりは、天語と神語が別々のものではなく一体のものであった可能性が
出てくるのです。
 
 そうは言ってみても、天語と神語ではその内容が大きく異なっているように思えます。
 天語が王を讃えて酒を献上するものであり、かつ雄略天皇が荒々しい一面を見せているのに対し、神語や『万葉集』
巻十三の歌が妻問の物語で、しかも女性がやんわりと拒絶する内容になっています。
 もっとも、八千矛神と沼河比売がそれでも結婚しているわけですし、『播磨国風土記』でも、景行天皇が印南の
別嬢(いなみのわきいらつめ)を妻問した時、印南の別嬢は、はじめ南毗都麻嶋(ナビツマ島)に隠れてしまいますが
最後には后になっているわけですから、神語は決して王が振られてしまうといった内容ではなく、逆に妻を得る話に
なっていることになります。
 
 さて、ここで『古事記』にある、仁徳天皇と黒比売の話をもう1度採り上げてみたいと思います。
 黒比売は吉備の海部直(あまべのあたい)の娘で宮中に仕える女性でしが、仁徳天皇の寵愛を受けます。天皇も
黒比売を妃に迎えたいと思っていましたが、黒比売は皇后の嫉妬を恐れて吉備に帰ってしまいます。
 そこで黒比売のことが忘れられない天皇は、皇后には、
 「淡路島に行ってくる」
とだけ言って、まず淡路島に渡った後、黒比売に会い吉備へ行きます。
 淡路島に渡った時に天皇は、
 
おしてるや 難波の崎よ いで立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 佐気都島 見ゆ
 
と、歌っています。
 しかし、この歌は淡路島で歌ったものと見るよりは難波宮の高殿より詠んだものと見た方が自然なように思えます。
 そう考えてみると、『日本書紀』にある応神天皇と妃の兄媛(えひめ)の物語にも関連した部分が登場します。そもそも
この物語は『古事記』の仁徳天皇と黒比売の物語と非常に似通ったものですが、ここで採り上げたいのは次の部分です、
 兄媛は吉備臣の祖御友別(みともわけ)の娘ですが、応神天皇が難波の大隅宮の高殿にて遠方を眺めていた時に、
兄姫が西の方(吉備の方角)を見て
 「もう長い間父母にあっておりません。しばらく故郷に帰って父母によくしたいと思います」
と、帰郷を願い出る、というこの部分なのです。
 なぜ、この部分に注目するのかと言うと、これが天皇の国見を意味するからです。
 仁徳天皇の歌も、内容を見れば恋歌などではなく国見の歌となっています。
 『古事記』の仁徳天皇も、『日本書紀』の応神天皇も、妻問のために淡路島から吉備へと渡っていきますが、そこに
国見のエピソードがあるとするのなら、それは王の国見の儀礼と妻問がセットになっているということになるのです。

泉州に眠るロシア兵の魂

2017年07月17日 00時28分14秒 | 日記
 ヒッポファミリークラブには海外ホームステイのプログラムでロシアもある。
 わが家でロシアホームステイに行ったことのあるのは、ゆうき一人である。
 ロシアと言ってもヒッポで行くロシアは極東ロシアと呼ばれる地域で、かつての北満州である。
 ちなみに、清という国は、満州が中国(明)、モンゴル、チベット、ウイグルなどを併合して作ったものだ。清朝末期に
満州北部はロシアに奪われて、満州南部は辛亥革命の後、中華民国がわが国の領土、と主張した。一時日本の
支援のもと満州国として独立したものの第二次大戦後は中華民国に属し、現在も中華人民共和国の一部となって
いるのは周知のとおり。
 まあ、満州のことがメインではないのでここら辺にしておいて、本題の内容に移る。
 
 僕のひいじいさんは旧日本海軍の人で、じいちゃんは、ひいじいさんの当時の赴任地であった横須賀で生まれた。
 そのひいじいさんは日露戦争における旅順港第三次閉塞作戦で戦死した。
 日露戦争と言えば1904年だから、もう100年以上も昔のことになる。
 それでも、わが家では遠い日の出来事ではない。
 なにしろ、10年ほど前に、ひいじいさんの百回忌をしたのだから。
 だから、僕にとっても日露戦争は歴史本の中の出来事ではなく身近に感じられる戦争なのである。
 
 ところで、泉州には日露戦争に絡む歴史がある。
 僕が住む堺市に隣接した高石市、そして泉大津市だ。
 
 まずは、高石市にある南海電鉄高師浜駅。
 
 
 
  この駅舎前のスペースの一角に、ロシア兵捕虜収容所に関するプレートがある。
 それが、これ。
 
 
 
 
 「明治37年(1904年)より始まった日露戦争では、多くの俘虜が日本に連行され、翌年1月第4師団司令部により、
ロシア人俘虜収容所が設置されました。その範囲は紀州街道西側の北は芦田川から南は王子川に至る地域で、
大部分が高石村の土地でした。当時高石村の人口は約3500人で、収容された俘虜は約28000人であり、村人に
とっては大きな出来事でした。その後俘虜は、明治39年(1906年)2月までには、全員ロシアに送還されました。
 現在も高師浜2・4丁目、千代田2・4・6丁目一帯に残る整然とした道路は、俘虜収容所の区画の名残と言われて
います。」
 
と、書かれている。
 この28000人の捕虜は戦争終結後に帰国したけど、不幸にも89名の兵士がこの地で命を失った。
 その兵士たちの眠る墓地が泉大津市にある。
 
 
 
 こちらにも解説のプレートがあり、以下のことが書かれている。
 
 「日露戦争の開始により、明治三十七年(一九〇四)十一月、多数のロシア兵捕虜のうち約三万人が堺市浜寺の
海岸の仮設テントに終了されました。翌、明治三十八年(一九〇五)、高石に捕虜収容所が建設され、そこで八十九名の
兵士が死亡しましたが、彼らの冥福を祈るため、隣接する泉大津の住民がみずからの墓地のうち600㎡を提供し、
ロシア兵の墓地が造られました。
 墓石は八十九墓あり、兵士の宗教を表す紋・所属部隊名と、その下に自国語と片仮名で名前が刻まれています。
中央には、当時のロシア政府が建設した五稜の石像慰霊碑が
建っています。
 慰霊碑の下部には、兵士それぞれの自国語であるロシア語、アラビア語、ドイツ語・ポーランド語・ヘブライ語の
五ヶ国語の文字で「魂よ 安らかなれ」を意味する言葉が、亦上部にはロシア語で「死せるロシアの戦士たちへ 
旅順港の戦友より 一九〇五年」と刻まれています。この慰霊碑の東側には、捕虜収容所長の漢文による墓地建設由来を
刻んだ石像記念碑が建っています。
 時折、兵士の母国の人々が墓参に訪れますが、墓地は、地元の有志による清掃活動によって、美しく保たれています。」
 
 ロシア兵墓地の慰霊碑
 
 
 
 上部は帝政ロシアの国旗の紋章になっている。
 
 
 なお、この墓地は浜街道沿いにある。
 浜街道そのものは、現在ではかなり消失されている箇所が多いけども、墓地近くには雰囲気がよく残されている地域も
ある。
 もしロシア兵墓地を訪ねることがあった時には、こちらも歩いてみるのもいいかもしれない。
 
 浜街道(泉大津市)
 
 

602 八千矛の神 その7

2017年07月15日 01時24分21秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生602 ―八千矛の神 その7―
 
 
 神語(かむがたり)と天語歌(あまがたりうた)が同じものである、というのは、折口信夫も
「国文学の発生(第四稿)」の中で、
 「名は神語・天語歌と区別しているが、此の二つは、出自は一つで、様式も相通じたものである」
と、しています。
 
 折口信夫は、海人駈使を、海部駈使丁(駈使丁は、官内の雑務に駆使される者のこと)の
ことだとして、神祇官の配下の駈使丁として召された海部の民の上流子弟の者とします。
 天語歌についても、海部駈使丁や卜部が行った壽(ことほ)ぎの護詞や占い、お祓いなどが
次第に物語化して「天語歌(あまがたりうた)」である、とする考えを唱えています。
 
 一方の土橋寛は、海人駈使を、「伊勢の小氏族天語連に隷属する海部で、宮廷に駈使丁と
して貢進され、斎部氏(忌部氏)の配下に属して物語・歌謡の伝承・述作に任じたものと思われる」
とし、八千矛の神の物語を作ったのもこの海人駈使とする説を述べています。
 
 両者の考察は根本的な部分においては同じものと言ってよいものです。
 さらに、折口信夫も土橋寛もともに馳使(はえつかい)を杖部(はせつかべ。丈部とも)と呼ばれる
部民とする解釈を示しているのですが、これについては井上辰夫(『古代王権と語部』)もまた、
ハセツカイを後の杖部のこととし、出雲には、神門郡滑狭郷、出雲郡の建部郷、出雲郷、漆沼郷に
丈部がおり、とくに漆沼郷には丈部臣忍麻呂、丈部臣金麻呂と、臣姓をもった、杖部(丈部)を統括
した者と思われる名前がみえることから、八千矛の神の天語歌に出雲も関わっていたとしています。
 
 ところで、天語歌と同類のものと考えられる歌が『万葉集』に収録されているのです。
 
 『万葉集』巻16-3807に、葛城王が陸奥に遣わされた時に、国司のもてなしが不十分で王は
不機嫌になったところを、以前に采女をしていた女性が、左手に杯を持ち右手に水を持って、
 
 安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心をわが思わなくに
 
と、詠んだので、王も機嫌を直し、酒を楽しんだ、とあります。
 天語が、伊勢国の三重の采女が酒を献上する場面で詠んだ歌であることと同じ形式になっている
わけですが、見すごしてはならないのが、これが陸奥である、という点です。
 それと言うのも、『続日本紀』の神護景雲三年の記事に、
 
 陸奥国白河郷の人外正七位上丈部子老、賀美郡の人丈部国益、標葉郡正六位上丈部賀例努等
十人に阿倍陸奥臣の姓を賜うのと、安積郡の人外従七位下丈部直継足には阿倍安積臣、信夫郡の
人外正六位上丈部大庭等には阿倍信夫臣、柴田郡の人外正六位上丈部嶋足には阿倍柴田臣、
会津郡の人外正八位下丈部庭虫等二人には阿倍会津臣、磐城郡の人外正六位上丈部山際には
於保磐城臣の姓を賜う。
 
と、あり、陸奥国に丈部がおり、その中の安積郡にも丈部の直継足という人物がいたことが記されて
いるのです。
 
 采女と言えば、倭氏も采女に関係します。
 仁徳天皇が崩御した後、次の天皇となったのが履中天皇ですが、同母弟の墨江中津王(スミノエノ
ナカツミコ)が履中天皇暗殺を企てます。
 淤宇宿禰の件で決着に導いた倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)は阿曇連浜子ともにこの時墨江
中津王側についたのです。
 そのため履中天皇は吾子籠を殺そうとしたのですが、吾子籠は自分の妹の日之媛(ヒノヒメ)を天皇に
献上することで許してもらいます。
 『日本書紀』は、
 
 「倭直等、采女貢る(たてまつる)こと、この時に始まるか」
 
と、記します。
 倭氏は采女を差し出す役を担っていたのです。
 
 倭直吾子籠と言えば、淤宇宿禰が朝鮮半島に渡っていた吾子籠を呼び戻す時に、仁徳天皇から
淡路の海人八十人を副えています。
 そして、吾子籠とともに墨江中津王についた阿曇連浜子もまた淡路の海人と関係します。
 墨江中津王の謀反の時に、浜子が、
 「淡路の野嶋の海人である。吾は安曇連浜子」
と、名乗っているのです。
 
 もっとも、重要なのは淡路だけでなく阿波を含んだ地域になるのですが、天語に関して、もうひとつ
注目すべき氏族が存在します。
 天語氏です。
 天語氏が天語に関係するというのは多くの研究者が指摘するところです。