小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

会話のリズム

2015年03月30日 02時37分26秒 | 日記
2012年7月24日(火) (4歳3か月)

 ヒッポのファミリーから家に帰り、子供たちは入浴の
準備。

 と、いうのがいつものことなのだけど、今日は家に
帰ってみると、夕方取り入れた洗濯物がそのまま床の上に
散乱していた。

 夕方ファミリーに行くために洗濯物をたたむ時間が
なかったようだ。

 みんたから、其の洗濯物をたたんで片づけておいて、と
頼まれたゆうきとりえだったけど、りえは他にやらなきゃ
いけないことがある、と言うことで、ゆうきがやることに。

 不満そうなゆうきに、

 「借りやん。今度何かあったらうちがやるから」

と、りえが諭すと、

 「絶対やで。ウソやったら罰ゲームやからな」

 「どんな罰なん?」

 「一生春奈の世話をする罰」

 「えー、絶対いやな罰やん、それ」

と、りえが言うと、

 「おい!」

と、春奈が言った。

 なんか、ここでツッコミ入れるとかが分かってきた
みたいだな。

 あと、会話のリズムというものも分かってきたようだ。

374 ホムタの日の御子③

2015年03月30日 02時34分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生374 ―ホムタの日の御子③―


 土橋寛の『古代歌謡全注釈 古事記編』にあるように、仁徳天皇が誉田で養育され
たために「品陀(ほむた)の 日の御子」なのでしょうか。
 その説に従うならば、「品陀の 日の御子」とは「誉田に坐すオオサザキノミコト」
の意味になるわけですが、実際のところは、誉田で養育されていたからという理由では
なく、誉田という地そのものに理由があるのではないでしょうか。

 それでは、誉田について考察してみたいと思います。
 まず、そもそも誉田とはどこか?
 これは、大阪府羽曳野市誉田です。ここには応神天皇稜と伝えられる誉田御廟山古墳が
あるので「品陀」がこの誉田であると考えてよいでしょう。
 注目すべきは、旧道明寺村が誉田の近くであるということです。
 道明寺村というのは、これまでにも紹介してきましたが、土師氏の拠点であり、常世の
長啼鳥に関係する伝承、つまりは太陽祭祀に関係する伝承を持ちます。
 現在、近鉄土師ノ里駅がここにありますが、土師ノ里駅のすぐそばには仁徳天皇の子で
ある允恭天皇陵と伝えられる市野山古墳もあります。

 さらに言えば、長尾道は道明寺村のあたりを通っていたとされるのですが、長尾道は
現在の堺市につながり、同じく仁徳天皇の子で、允恭天皇の同母兄である反正天皇陵と
伝えられる田出井山古墳のそばを通るのです。
 もちろん、これら天皇陵というものは『古事記』や『日本書紀』に記された、天皇が
葬られた地名から現存する古墳を当てはめたもので、近年の調査などから、その古墳が
築造された年代とその天皇が在位していたと推定される年代が一致しないということは
言わば「常識」となっているわけですが。

 ただ、それでも記紀編纂時に、仁徳天皇の父や子の陵墓が長尾道を基に指定されたこ
とは偶然とは言えないでしょう。
 長尾道は葛城の長尾神社から大阪湾(旧堺港)につながる道であり、記紀編纂自には
すでに滅亡して久しい葛城氏の影響力をなおも反映させているのです。
 なおも古市古墳群やそこに含まれる誉田周辺を特別視していたと見做せるわけです。

 それから、羽曳野市が八尾市に近いということも考慮する必要があるでしょう。
 どういうことかと言えば、大阪府八尾市と奈良県の境界となしているのが高安山で、
羽曳野市は高安山に近いというわけです。
 これまでに何度となくお話ししたように、夏至の時に等乃伎神社から見た高安山頂に
朝陽が昇り、反対に冬至の時には、坐摩神社の旧社地から見た高安山頂に朝陽が昇りま
す。
 この両社の配置というのは、等乃伎神社から真東に線を引いてこれを底辺に見立てた
時に、高安山頂は、等乃伎神社から北東に30度の角度になり、坐摩神社の旧社地から
同じく真東に線を引いたときに、高安山頂は南東30度の角度になるものです。
 しかも、高安山の中腹には天照大神高座神社(あまてらすおおみかみたかくら神社)
が鎮座し、天照大神を祀っているのです。
 この天照大神については、多神社社伝の「社司多神命秘伝」が、多神社の祭神、天祖
賢津日女神尊は天疎向津姫命(アマサカルムカツヒメノミコト)であり、天照大神高座
神社の天照大神と同体異名である、としています。
 そして、アマサカルムカツヒメと言えば、『日本書紀』にある、神功皇后に降りた神が
撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)で、
「伊勢国度会郡の五十鈴宮に坐す神」と名乗っているので、伊勢神宮内宮の天照大御神と
いうことになるのです。

 難波は「押し照る難波」と言われ、瀬戸内から見れば朝日が昇る地でした。
 それは、難波を背にした生駒山から朝日が昇るからで、難波は「日の本(ひのもと)
だったのです。「日の本」は「日の元(もと)」であり「日の下(もと)」でもあります
が、難波から見た日の下とは生駒山の麓、東大阪市の日下だったのです。
 それともうひとつ、難波から見た日の本が誉田だったわけです。

まだまだその段階

2015年03月27日 02時09分51秒 | 日記
2012年7月23日(月) (4歳3か月)


 仕事が忙しく、今日は会社を出るのが遅くなった。

 家に着くと、ちょうど春奈は風呂から上がってきた
ところだった。

 いつもは僕が春奈を風呂に入れてやる係だけど、
今日はみんたが代わりに入れてくれていた。

 僕が春奈の濡れた神をタオルで拭いてやっていると、
その春奈が、

 「はるなと一緒におふろ入りたかった?」

と、訊いてきたので、

 「うん」

と肯定してやる。

 すると、

 「さびしいやろ。でも、さびしくても我慢せなあかん
ねんで」

 どこかでそんな説教じみたことを言われたか耳にした
のか?

 幼児は聞いた言葉を自分も誰かに使ってみるという
ことをよくやる。

 そうやって、言葉を成長させていくわけなのだけど、
春奈もまだまだその段階にいるんだな。

373 ホムタの日の御子②

2015年03月27日 02時06分01秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生373 ―ホムタの日の御子②―


 このように『古事記』に見られる「高光る 日の御子」が『日本書紀』には見られ
ないのです。

 『古事記』で、建内宿禰が仁徳天皇に贈った歌、

 高光る 日の御子 うべしこそ 問いたまえ まこそに 問いたまえ 我こそは 
世の長人 そらみつ 倭の国に 雁卵生と いまだ聞かず

が、『日本書紀』では、

 やすみしし わが大君は うべなうべな 我を問わすな 秋津島 大和の国に 
雁卵産むと 我は聞かず

と、なっているのです。
 「高光る 日の御子」が、『日本書紀』では「やすみしし わが大君」になっている
のです。
 『日本書紀』の「推古紀」には、蘇我馬子が歌った歌として、

 やすみしし わが大君の 隠ります 天の八十蔭(下略)

というものがあります。

 もっとも、『古事記』に「やすみしし わが大君」がないわけではありません。
 先に紹介した、ミヤズヒメがヤマトタケルに贈った歌は、

 高光る 日の御子 やすみしし わが大君 あらたまの 年が来ふれば あらたまの 
月は来へゆく うべなうべな 君待ちがたに わがけせる 襲(おすひ)の裾に 
月立たなむよ

と、いう歌では「高光る 日の御子 やすみしし わが大君」となっています。

 また、雄略天皇が狩りをした時に歌った、

 やすみしし わが大君の 遊ばしし(下略)

と、いう歌や、天語歌の舞台となった豊楽で、春日の袁杼比売(ヲドヒメ)が歌った歌も
 やすみしし わが大君の 朝とには(下略)

と、いうものです。
 ただし、雄略天皇の歌については、『日本書紀』では廷臣が歌ったものとなっており、
実際にはそうであったものと思われます。他の歌を例にとってみても、「やすみしし 
わが大君」は天皇に対しての言葉だからです。

 以上のことから考察してみれば、「やすみしし わが大君」の方が新しく、「高光る 
日の御子」の方が古い言葉だろう、と思われます。
 このことは、やはり岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』)も同様のことを指摘して
います。

 『古事記』と『日本書紀』を比べてみると、神功皇后の三韓征伐がそうであるように、
『日本書紀』の方が日本という国を東アジアの中のひとつの国家として描いている印象を
強く受けます。その記す内容も当然のことながら新しい形に改められています。
 神功皇后のエピソード以外でも、たとえばヤマトタケルが『古事記』では倭建命と表記
されているのに対して『日本書紀』の表記は日本武尊です。ヤマトを倭と記す『古事記』の
方が古い形で日本と記す『日本書紀』の方が新しいのです。(もっとも、すべてがそうでは
なく、むしろ『古事記』の方が新しいものであろう、と思われる伝承も存在しますが)

 では、「高光る 日の御子」が古い形であるとして、そうすると特殊な形となるのが
「品陀の日の御子」です。
 「高光る」が日の御子にかかる枕詞であることを考慮すれば、「高光る 品陀の日の御子」
でなくてはいけないのに、これが付いていないのは、「高光る 日の御子」よりも古い言い方
だと考えるべきでしょう。
 ならば品陀(ほむた)は何を意味する言葉なのか、というところの問題に戻ることになり
ます。

環境に馴染む体験

2015年03月25日 01時01分34秒 | 日記
2012年7月21日(土) (4歳3か月)


 今日は保育所の懇談会。

 父兄に園児たちの普段の様子を見てもらうことも
兼ねている。

 わが家も僕とみんたと春奈とで保育所に行くけど、
みんたより一足先に僕と春奈のふたりで家を出た。

 今日は僕が春奈を自転車に乗せて走っていく。

 「お父さん、安全(安全運転)やなあ」

と、春奈が言った。

 「そりゃあ春奈を乗せてるからな」

 そう僕が言うと、春奈、

 「お母さんとばすからなあ」

 たしか前にも一度春奈を自転車に乗せた時に言って
たなあ、それ。

 ただヨメの名誉のために言っておくと、別にスピー
ド狂なわけではない。
 いつも春奈の朝ごはんがゆっくりなために時間が
ギリギリになってしまうのである。

 保育所では、春奈もなかなかにしっかりとやっていた。

 ほとんどの子が年少組さんから入園していた中、春奈は
年中組さんから入園したため最初の頃は馴染めなくてスト
レスがあったようだけど、今はしっかり馴染んでいる。

 春奈も小学校5年生になればひとりで海外ホームステイ
に行くんだろうか。

 これまでに何度か書いたことだけど、ヒッポファミリー
クラブでは小学校5年生になれば夏休みにひとりで海外
ホームステイを体験できるプログラムがある。

 このプログラムで、ゆうきはロシアに、りえは台湾に
ホームステイしてきた。

 ただ、さすがに小学生だ。ホームステイの最初の頃は
ホームシックになる子が多い。

 それでも、その後ホスト達と家族になるのだけど、
まれに、いつまでたっても部屋にひきこもったり泣いて
ばかりいる子もいるにはいる。

 その子の性格によるところも大きいけど、やっぱりそれ
までの人生で、いろんな環境に馴染める体験をすることが
大切なことだよね。