大国主の誕生⑫ ―天語歌と万葉歌―
忌部氏は阿波の他にも、伊勢にも出雲にもいました。
京都府宮津市にある籠神社(この神社、こもり神社とも)は、「元伊勢」と
呼ばれ、祭神がヒコホアカリノミコト(彦火明命)とされていますが、本来の主
祭神については諸説ありよくわかっていないものの、残されている社伝によれば、
この神社の祀部は海部氏であったあります。
『先代旧辞本紀』では、ホアカリの子がアメノカゴヤマノミコト(天香語山命)
で、その子がアメノムラクモノミコト(天村雲命)とあり、その子孫が尾張氏に
なっていますが、
阿波の忌部氏の拠点であった阿波国麻植郡には、式内社として、アメノヒワシノ
ミコト(天日鷲命)を祀る忌部神社(現・吉野川市山川町)と、アメノムラクモ
とイジハヤヒメノミコト(伊自波夜比売)を祀る天村雲伊自波夜比売神社(同じ
く吉野川市山川町)があります。(注:徳島県には忌部神社がいくつか存在し、
式内社忌部神社がどれに該当するかについても諸説あります)
折口信夫も土橋寛もともにハセツカイを杖部(はせつかべ。丈部とも)と呼ば
れる部民とする解釈を示していますが、井上辰夫もまた、ハセツカイを後の杖部
のこととし、出雲には、神門郡滑狭郷、出雲郡の建部郷、出雲郷、漆沼郷に丈部
がおり、とくに漆沼郷には丈部臣忍麻呂、丈部臣金麻呂と、臣姓をもった、杖部
(丈部)を統括した者と思われる名前がみえることから、八千矛の神の天語歌に
出雲も関わっていたとしています。
その上で、『新撰姓氏録』に天語連と阿波(現在の徳島県)の忌部氏がともに
アメノヒワシノミコト(天日鷲命)の子孫とあることから、この阿波の忌部氏の
影響の可能性を指摘しています。
また、伊勢の渡会氏もアメノヒワケノミコト(天日別命)を先祖に戴いていて、
アメノヒワシとアメノヒワケは同じ神だといわれています。
そうすると、八千矛の神の伝承には、阿波忌部氏、伊勢渡会氏、丹後海部氏が
関係していることになります。それに、尾張氏も関係している可能性すらあるわ
けです。
阿波忌部氏は大嘗祭の時に供物を献上する役を担っており、スセリビメが最後
に酒を献じる場面に共通する性質を持っているのです。
酒を献じるという行為は、服属儀礼であり、皇族への饗宴の儀礼でもあるのです。
『万葉集』巻16-3807に、葛城王が陸奥に遣わされた時に、国司のもてなしが
不十分で王は不機嫌になったところを、以前に采女をしていた女性が、左手に杯
を持ち右手に水を持って、
安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思わなくに
と、詠んだので、王も機嫌を直し、酒を楽しんだ、とあります。
天語の、伊勢国の三重の采女が酒を献上する場面で語られていることもこれに
関係していることなのでしょう。
ところで、『万葉集』の巻16の采女の歌ですが、これにも杖部が関わっていたと
したらどうでしょう?
『続日本紀』の神護景雲3年の記事に、
陸奥国白河郷の人外正七位上丈部子老、賀美郡の人丈部国益、標葉郡正六位上
丈部賀例努等十人に阿倍陸奥臣の姓を賜うのと、安積郡の人外従七位下丈部直継
足には阿倍安積臣、信夫郡の人外正六位上丈部大庭等には阿倍信夫臣、柴田郡の
人外正六位上丈部嶋足には阿倍柴田臣、会津郡の人外正八位下丈部庭虫等二人に
は阿倍会津臣、磐城郡の人外正六位上丈部山際には於保磐城臣の姓を賜う
と、あり、陸奥国に丈部がおり、その中の安積郡にも丈部の直継足という人物が
いたことがわかります。
しかし、身分の低い丈部が唱和していたと考えられる天語歌が『古事記』に取
り上げられたのはどうしてなのかとなると、大嘗祭で寿ぎや服属儀礼の由来譚を
宮廷で語る語部が伝えたものと、考えるのが自然で、天語歌に采女が関係してい
ることも併せ考えたなら、ここに物部氏の存在も無視するわけにはいきません。
『古事記』の神武記には、ニギハヤヒの子ウマシマジノミコトを、「物部連、
穂積臣、婇臣の祖なり」と、記していますが、だとすれば采女を統括する婇臣
と物部氏は同族ということになるわけです。
・・・つづく
忌部氏は阿波の他にも、伊勢にも出雲にもいました。
京都府宮津市にある籠神社(この神社、こもり神社とも)は、「元伊勢」と
呼ばれ、祭神がヒコホアカリノミコト(彦火明命)とされていますが、本来の主
祭神については諸説ありよくわかっていないものの、残されている社伝によれば、
この神社の祀部は海部氏であったあります。
『先代旧辞本紀』では、ホアカリの子がアメノカゴヤマノミコト(天香語山命)
で、その子がアメノムラクモノミコト(天村雲命)とあり、その子孫が尾張氏に
なっていますが、
阿波の忌部氏の拠点であった阿波国麻植郡には、式内社として、アメノヒワシノ
ミコト(天日鷲命)を祀る忌部神社(現・吉野川市山川町)と、アメノムラクモ
とイジハヤヒメノミコト(伊自波夜比売)を祀る天村雲伊自波夜比売神社(同じ
く吉野川市山川町)があります。(注:徳島県には忌部神社がいくつか存在し、
式内社忌部神社がどれに該当するかについても諸説あります)
折口信夫も土橋寛もともにハセツカイを杖部(はせつかべ。丈部とも)と呼ば
れる部民とする解釈を示していますが、井上辰夫もまた、ハセツカイを後の杖部
のこととし、出雲には、神門郡滑狭郷、出雲郡の建部郷、出雲郷、漆沼郷に丈部
がおり、とくに漆沼郷には丈部臣忍麻呂、丈部臣金麻呂と、臣姓をもった、杖部
(丈部)を統括した者と思われる名前がみえることから、八千矛の神の天語歌に
出雲も関わっていたとしています。
その上で、『新撰姓氏録』に天語連と阿波(現在の徳島県)の忌部氏がともに
アメノヒワシノミコト(天日鷲命)の子孫とあることから、この阿波の忌部氏の
影響の可能性を指摘しています。
また、伊勢の渡会氏もアメノヒワケノミコト(天日別命)を先祖に戴いていて、
アメノヒワシとアメノヒワケは同じ神だといわれています。
そうすると、八千矛の神の伝承には、阿波忌部氏、伊勢渡会氏、丹後海部氏が
関係していることになります。それに、尾張氏も関係している可能性すらあるわ
けです。
阿波忌部氏は大嘗祭の時に供物を献上する役を担っており、スセリビメが最後
に酒を献じる場面に共通する性質を持っているのです。
酒を献じるという行為は、服属儀礼であり、皇族への饗宴の儀礼でもあるのです。
『万葉集』巻16-3807に、葛城王が陸奥に遣わされた時に、国司のもてなしが
不十分で王は不機嫌になったところを、以前に采女をしていた女性が、左手に杯
を持ち右手に水を持って、
安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思わなくに
と、詠んだので、王も機嫌を直し、酒を楽しんだ、とあります。
天語の、伊勢国の三重の采女が酒を献上する場面で語られていることもこれに
関係していることなのでしょう。
ところで、『万葉集』の巻16の采女の歌ですが、これにも杖部が関わっていたと
したらどうでしょう?
『続日本紀』の神護景雲3年の記事に、
陸奥国白河郷の人外正七位上丈部子老、賀美郡の人丈部国益、標葉郡正六位上
丈部賀例努等十人に阿倍陸奥臣の姓を賜うのと、安積郡の人外従七位下丈部直継
足には阿倍安積臣、信夫郡の人外正六位上丈部大庭等には阿倍信夫臣、柴田郡の
人外正六位上丈部嶋足には阿倍柴田臣、会津郡の人外正八位下丈部庭虫等二人に
は阿倍会津臣、磐城郡の人外正六位上丈部山際には於保磐城臣の姓を賜う
と、あり、陸奥国に丈部がおり、その中の安積郡にも丈部の直継足という人物が
いたことがわかります。
しかし、身分の低い丈部が唱和していたと考えられる天語歌が『古事記』に取
り上げられたのはどうしてなのかとなると、大嘗祭で寿ぎや服属儀礼の由来譚を
宮廷で語る語部が伝えたものと、考えるのが自然で、天語歌に采女が関係してい
ることも併せ考えたなら、ここに物部氏の存在も無視するわけにはいきません。
『古事記』の神武記には、ニギハヤヒの子ウマシマジノミコトを、「物部連、
穂積臣、婇臣の祖なり」と、記していますが、だとすれば采女を統括する婇臣
と物部氏は同族ということになるわけです。
・・・つづく