大国主の誕生542 ―出雲臣と青の人々 その15―
大伴連吹負(おおとものむらじふけい)の軍に加わっていた者のひとりに高市縣主許梅
(たけちのあがたぬしこめ)がいました。
『日本書紀』には高市郡の大領と記されています。
高市縣主許梅は、その名が示すとおり、大和にあった六つの縣のうちのひとつ高市縣を
管理する氏族であったと考えられています。
天武天皇の長子、高市皇子はおそらく高市縣主に養育され、そのために許梅は大海人
皇子に従ったのでしょう。
その許梅が陣中において突然口がきけなくなったのです。
それから三日して、許梅に神が乗り移って、
「吾は高市社におる事代主神である。また、身狭社におる生霊神(いくたま神)である」
と、言いだし、
「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵に、馬や兵器を奉れ」
続いて、
「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って不破に送り奉って帰ってきた。今もまた
官軍の中に立ってお前たちを守っている」
と、言い、さらに、
「西道より軍勢がやって来る。油断のないように」
と、言ってから、許梅は正気に戻った、と『日本書紀』は記します。
さらに今度は、村屋神が祝(神官)に憑いて、
「わが社の中道より敵の軍勢がやってくる。社の中道を封鎖せよ」
と、神託をくだしたのです。
神託のあった三社とは次のようになります。
高市社 高市御坐鴨事代主神社(たけちのみあがたにますかもことしろぬし神社)
(橿原市雲梯町の河俣神社がこれに比定)
祭神 八重事代主神
身狭社 牟佐坐神社(むさ神社)(橿原市見瀬町)
祭神 高皇産霊命・孝元天皇
村屋社 村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめ神社)(磯城郡田原本町)
祭神 三穂津姫命
このうち身狭社の祭神については、現在は高皇産霊命(タカミムスヒノミコト)と孝元
天皇なのですが、『日本書紀』では生霊神となっています。
伝えられるところでも、安康天皇が身狭村主青に祀らせたのが始まりといい、祭祀は
身狭村主青の子孫が代々務めたとされています。
高市社の祭神、事代主は言うまでもなく大国主の御子神です。
村屋社の祭神、三穂津姫命は高皇産霊命の御子神で大物主神の妻神です。『日本
書紀』の一書によれば、大国主の国譲りの後、高皇産霊命は大物主を帰順させる
ために、三穂津姫をその妻にしたとあります。
その大物主は、『出雲国造神賀詞』や『日本書紀』に、大国主と同神とされている
ので、この三社の祭神は大物主と通してつながっていると言えるでしょう。
それにしても、身狭村主青が絡んでいたり、太氏やオオタタネコの始祖である大物主に
関係するなど、ここでも青(オウ)の人々が交差するのです。
ところで、この神託の中で「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や兵器を奉れ」というのは
どのような意味があるのでしょうか。
これについて、研究者たちの多くは神武天皇が皇室の始祖であるため、と解釈して
います。
ただ、神武天皇の和風諡号である神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめら
みこと)の中に磐余という言葉が含まれていることにただの偶然なのか疑いたくなります。
と、いうのは、この神託から思い出させるのが、『日本書紀』顕宗天皇三年の記事です。
それによれば、任那に赴いていた阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から、
「わが祖高皇産霊(タカミムスヒ)は天地を造りし功績を持つ。それゆえに吾を祀れ」
と、神託があり、さらに夏には、今度は日神が阿閉臣事代に神託をして、
「磐余の田をわが祖高皇産霊に献上せよ」
と、告げたものです。
顕宗天皇三年の神託で重なる部分は高皇産霊神が登場することと磐余の地名なの
ですが、もうひとつ気になるのは、神託を受けた者が阿閉臣事代であることです。
阿閉氏の発祥の地は諸説あるのですが、そのひとつが伊賀国阿拝郡なのです。
ただし、伊賀国一宮で、「稚き児の宮」の敢国神社(あえくに神社)は阿閉氏や同族の
阿倍氏と関連があり、敢国神社は阿閉氏や阿倍氏の祖である大彦命を祭神としています。
敢国神社を含める3つの南宮の近くにはいずれも青墓や青塚の地名や古墳があると
いう共通点はすでに紹介したところですが、壬申の乱には奇妙なほど南宮や青の人々が
絡み合うのです。