小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

542 出雲臣と青の人々 その15

2016年10月30日 23時59分42秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生542 ―出雲臣と青の人々 その15―
 
 
 大伴連吹負(おおとものむらじふけい)の軍に加わっていた者のひとりに高市縣主許梅
(たけちのあがたぬしこめ)がいました。
 『日本書紀』には高市郡の大領と記されています。
 高市縣主許梅は、その名が示すとおり、大和にあった六つの縣のうちのひとつ高市縣を
管理する氏族であったと考えられています。
 天武天皇の長子、高市皇子はおそらく高市縣主に養育され、そのために許梅は大海人
皇子に従ったのでしょう。
 
 その許梅が陣中において突然口がきけなくなったのです。
 それから三日して、許梅に神が乗り移って、
 「吾は高市社におる事代主神である。また、身狭社におる生霊神(いくたま神)である」
と、言いだし、
 「神日本磐余彦天皇(神武天皇)の陵に、馬や兵器を奉れ」
 続いて、
 「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って不破に送り奉って帰ってきた。今もまた
官軍の中に立ってお前たちを守っている」
と、言い、さらに、
 「西道より軍勢がやって来る。油断のないように」
と、言ってから、許梅は正気に戻った、と『日本書紀』は記します。
 
 さらに今度は、村屋神が祝(神官)に憑いて、
 「わが社の中道より敵の軍勢がやってくる。社の中道を封鎖せよ」
と、神託をくだしたのです。
 
 神託のあった三社とは次のようになります。
 
 高市社 高市御坐鴨事代主神社(たけちのみあがたにますかもことしろぬし神社)
(橿原市雲梯町の河俣神社がこれに比定)
 祭神 八重事代主神
 
 身狭社 牟佐坐神社(むさ神社)(橿原市見瀬町)
 祭神 高皇産霊命・孝元天皇
 
 村屋社 村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめ神社)(磯城郡田原本町)
 祭神 三穂津姫命
 
 このうち身狭社の祭神については、現在は高皇産霊命(タカミムスヒノミコト)と孝元
天皇なのですが、『日本書紀』では生霊神となっています。
 伝えられるところでも、安康天皇が身狭村主青に祀らせたのが始まりといい、祭祀は
身狭村主青の子孫が代々務めたとされています。
 
 高市社の祭神、事代主は言うまでもなく大国主の御子神です。
 村屋社の祭神、三穂津姫命は高皇産霊命の御子神で大物主神の妻神です。『日本
書紀』の一書によれば、大国主の国譲りの後、高皇産霊命は大物主を帰順させる
ために、三穂津姫をその妻にしたとあります。
 その大物主は、『出雲国造神賀詞』や『日本書紀』に、大国主と同神とされている
ので、この三社の祭神は大物主と通してつながっていると言えるでしょう。
 
 それにしても、身狭村主青が絡んでいたり、太氏やオオタタネコの始祖である大物主に
関係するなど、ここでも青(オウ)の人々が交差するのです。
 
 ところで、この神託の中で「神日本磐余彦天皇の陵に、馬や兵器を奉れ」というのは
どのような意味があるのでしょうか。
 これについて、研究者たちの多くは神武天皇が皇室の始祖であるため、と解釈して
います。
 
 ただ、神武天皇の和風諡号である神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめら
みこと)の中に磐余という言葉が含まれていることにただの偶然なのか疑いたくなります。
 と、いうのは、この神託から思い出させるのが、『日本書紀』顕宗天皇三年の記事です。
 それによれば、任那に赴いていた阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から、
 「わが祖高皇産霊(タカミムスヒ)は天地を造りし功績を持つ。それゆえに吾を祀れ」
と、神託があり、さらに夏には、今度は日神が阿閉臣事代に神託をして、
 「磐余の田をわが祖高皇産霊に献上せよ」
と、告げたものです。
 
 顕宗天皇三年の神託で重なる部分は高皇産霊神が登場することと磐余の地名なの
ですが、もうひとつ気になるのは、神託を受けた者が阿閉臣事代であることです。
 阿閉氏の発祥の地は諸説あるのですが、そのひとつが伊賀国阿拝郡なのです。
 ただし、伊賀国一宮で、「稚き児の宮」の敢国神社(あえくに神社)は阿閉氏や同族の
阿倍氏と関連があり、敢国神社は阿閉氏や阿倍氏の祖である大彦命を祭神としています。
 敢国神社を含める3つの南宮の近くにはいずれも青墓や青塚の地名や古墳があると
いう共通点はすでに紹介したところですが、壬申の乱には奇妙なほど南宮や青の人々が
絡み合うのです。

子音が入れ替わる

2016年10月29日 01時18分45秒 | 日記
2013年6月15日(土)5歳2か月)
 
 
 このブログを書くにあたって、僕はネームをサダロンと
している。
 
 実はこれ、ヒッポネームである。
 
 ヒッポファミリークラブではお互いニックネームで呼び
合う。
 
 そして、ヒッポではこのニックネームのことをヒッポネーム
という。
 
 
 さて、今日はそのヒッポファミークラブの体験会。
 
 メンバーはみんな名札シールに自分のヒッポネームを
書いて貼ってね、と言われたので僕が自分の名前を書こう
とすると、横から春奈が、
 
 「はるなが書くー」
 
と、言うから任せてみた。
 
 でも春奈が書いてくれた名札には「さらどん」とあった。
 
 SA-DA-LO-Nが、SA-LA-DO-N。
 
 真ん中のDとLが入れ替わってしまったわけだ。
 
 これと同じことが幼児にはよくある。
 
 たとえば、たまご(TAMAGO)と言う時に、
 
 「たがも(TAGAMO)」
 
と、言う。子音が入れ替わってしまうのだ。
 でも、母音は合っている。
 
 しかし、文字でも同じことが起こるとは知らなんだ。

541 出雲臣と青の人々 その14

2016年10月28日 00時56分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生541 ―出雲臣と青の人々 その14―
 
 
 東国や吉備、筑紫に協力の要請する使者を送るのと並行して、近江朝は穂積臣百足(ほづみの
おみももたり)とその弟の五百枝(いおえ)、それに物部首日向(もののべのおびとひむか)を
倭古京に派遣します。
 その指令内容は倭古京の武器庫に保管されている武器を近江に運ぶことでした。
 
 大海人皇子もまた、倭古京の重要性を認識していました。
 ゆえにひとつの手を打っていたものと思われます。
 
 すでに触れたことではあるのですが、あらためて振り返ってみます。
 大海人皇子が倭古京の留守司である高坂王のもとに派遣して駅鈴を求めた時、使者の三名の
うち、逢臣志摩(おうのおみしま)には、
 「もし高坂王が駅鈴を拒否した場合、至急朕のもとに戻って来てそのことを報せよ」
と、指示し、大分君恵尺(おおきだのみきえさか)には、
 「もし高坂王が駅鈴を拒否した場合、近江京に駈けて、高市皇子と大津皇子の両名をつれて
伊勢で合流せよ」
と、指示しました。
 ところが、残るもうひとりの使者、黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)に関しては何の指示を
与えたのか『日本書紀』には何も書かれていないのですが、これについて、おそらく大伴連馬来田
(おおとものむらじまぐた)のもとに行くように指示したのではないか、と、しました。
 なぜなら、結果として高坂王の拒否にあい、大海人皇子らは吉野を脱出することになるのですが、
宇陀郡の吾城(あき=宇陀市大宇陀区に比定)まで来た時に、黄書造大伴が大伴連馬来田と一緒に
大海人皇子一行に追いつき合流しているからです。
 そして、おそらくは馬来田だけでなく、その弟の大伴連吹負(おおとものむらじふけい)とも合議を
したものと思われます。
 兄の馬来田が大海人皇子と合流した後も、吹負は大和に留まっていました。
 しかし、大海人皇子が野上行宮に入ったその二日後の六月二十九日、吹負は行動に移ります。
 坂上直熊毛(さかのうえのあたいくまけ)、秦造熊(はたのみやつこくま)らと共謀して近江から
派遣されてきた穂積臣百足を殺害し、穂積臣五百枝と物部首日向を拘束したのです。
 さらに、高坂王と稚狭王(わかさ王)の両名に、味方につくか否かの決断を迫り、大海人皇子に従
うという言葉を引き出したのです。
 
 倭古京を制圧することに成功した吹負は、大海人皇子のもとに使者を送ってこのことを報告し、
喜んだ大海人皇子は吹負を将軍に任命しました。
 ちょうど時を同じくして、三輪君高市麻呂(みわのきみたけちまろ)と鴨君蝦夷(かものきみえみし)らが
吹負のもとに駈けつけました。
 
 三輪君と鴨君は同族どうしの関係にあります。ともにオオタタネコを始祖にしており、このことは
『古事記』と『日本書紀』がともに記すところです。 
 しかも、オオタタネコは大物主の子(『日本書紀』)あるいは子孫(『古事記』)なので、同じく大物主の
孫である神八井耳命を始祖とする太氏や小子辺氏らとは、大物主を通して同族とも言える関係に
あるのです。
 オオタタネコの子孫という、やはり「青(オウ)」の一族である三輪君と鴨君が大海人皇子側についた
のです。
 
 
 七月二日、ついに壬申の乱は新たな展開を見せます。
 それまで関ヶ原に布陣していた大海人軍がついに動いたのです。
 大海人皇子は、紀臣阿閉麻呂(きのおみあへまろ)、多臣品治(おうのおみほむち)、三輪君子首
(みわのおみこびと)、置始連菟(おきそのむらじうさぎ)らに数万の兵を副えて倭古京に派遣し、
同時に、村国連男依(むらくにのむらじおより)、書首根麻呂(ふみのおびとねまろ)、和珥部臣君手
(わにべのおみきみて)、胆香瓦臣阿倍(いかがおのおみあへ)らにやはり数万の兵を副えて、近江に
向けて進軍させたのです。
 
 紀臣阿閉麻呂ら倭古京に派遣された部隊は、『日本書紀』によれば、伊勢国から宇陀郡を経由
するルートを進んだようです。
 ところが、その道中で驚くべき報せを受けます。
 大伴連吹負が乃楽山(ならやま。現在では平城山と表記)において、近江朝の将軍、大野君果安
(おおののきみはたやす)の軍と戦い敗れた、というのです。
 この報せを受けた阿閉麻呂は、置始連菟を先行部隊として倭古京に急行させます。
 
 菟の部隊が墨坂(現在の宇陀市榛原)まで来た時、馬に乗った吹負が敗走してきました。この時
吹負に従っていた者はわずかに一名か二名であった、と『日本書紀』は記します。
 おそらく吹負も、紀臣阿閉麻呂らがこちらに向かっているという連絡を受けていたものと思われます。
宇陀に向えば阿閉麻呂らと合流できると考えたのでしょう。
 
 菟と吹負らは金綱井(かなづなのい。所在未詳。橿原市今井町付近とする説が有力)に宿営します。
 散り散りになっていた兵たちも次第にこの駐屯地に集まってきました。
 
 この時、大海人軍に神託がくだるのです。

言葉は時間を超えるから

2016年10月26日 00時55分05秒 | 日記
2013年6月13日(木)(5歳2か月)
 
 
 春奈の通う保育所では食育の一環としてお米洗い
当番というものがある。
 
 この当番の子は、少し早めに登園してその日の
給食のお米を洗うのだ。
 
 春奈が言った。
 
 「(今日は)お米洗い当番やと思って早く来たのに
『今日の給食はチャーハンやからお米洗いない
ですよ』言われた」
 
 「早く来た」じゃなくて「早く行った」やろ?
 
 幼児はよくこういう間違いをする。
 
 過去にどこかに行った時の話をしていると、自分が
今その場所にいるかのようになってしまうのだろう。
 
 時間についても同じだと思う。
 
 過去の話をしている時に、今自分が過去のその
時間にイルカのようになってしまうのだろう。
 
 大人よりも幼児の方が言葉をより真剣に扱うのかも
しれない。
 
 大人は過去の話をする時には、話し手である自分を
現在に置いて話すことができる。
 
 しかし、幼児は話している内容にある時間や場所に
自分を置いてしまうのだろう。
 
 言わば過去の自分に「なりきってしまう」のである。
 
 だから、未来や過去の時間軸、つまりは「明日」や
「あさって」、「きのう」や「おととい」などの区別が苦手
なのかもしれない。
 
 でも、これこそ言葉の自然な姿なのかもしれない。
 
 他の生物が仲間同士で交わすコミュニケーションは
「今現在」のことしか伝えられない。
 
 けれど、人間の言葉は過去や未来のことも伝える
ことができる。
 
 人間と言葉が切っても切れない関係なのなら、過去の
話をしている時に話し手の意識も自然に過去の世界に
移っているのが本来の働きなのだろう。
 
 幼児はとことん自然だ。

540 出雲臣と青の人々 その13

2016年10月25日 01時52分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生540 ―出雲臣と青の人々 その13―
 
 
 高市皇子の要請を受けて桑名郡家から不破に向かった大海人皇子は不破郡家に
入ります。
 そこに、尾張国司守(おわりのくにのみこともちのかみ)である小子部連鉏鉤(ちいさ
こべのむらじさひち)が二万の軍勢を率いて恭順してきました。
 大海人皇子は鉏鉤をねぎらうと、その兵を各所の道を封鎖するために配置して野上の
行宮に入ったのでした。
 
 小子部連鉏鉤が率いた二万という兵数は多すぎるように思えます。それゆえに『日本
書紀』の誇張も疑ってしまいますが。遠山美都男(『壬申の乱』)は、鉏鉤が率いた二万の
兵は近江朝が徴兵したものではないか、と推測します。
 『日本書紀』の「天武天皇即位前紀」には、吉野に隠遁していた大海人皇子に、朴井連
雄君(えのいのむらじおきみ)が、
 「朝廷が美濃・尾張の両国の国司に、『天智天皇の陵墓を造るので人夫を徴集せよ』と
命じました。ところが、集めた人夫に武器を与えているのです。思うにこれは陵墓造営の
ためではなく、いくさを起こすつもりでしょう。もしこの地を去らねばまことに危ないことに
なりましょう」
と、吉野脱出を進言する場面が登場します。
 遠山美都男は、この陵墓造営の名目で集められた人夫が鉏鉤の率いる二万の兵だと
推測しているわけです。
 
 しかし、そうすると鉏鉤は近江朝側の人物ということになります。それが大海人皇子側に
寝返ったことになるわけです。
 鉏鉤の裏切りが事実だとすれば、その背景には小子部氏と同族の多臣品治(おうの
おみほむち)と尾張連大隅(おわりのむらじおおすみ)の両名による説得があったのでは
ないか、と遠山美都男は推測しますが、おそらくこれには天武天皇の指示があったのかも
しれません。
 吉野を出立する前に、大海人皇子は、村国連男依(むらくにのむらじおより)、和珥部臣
君手(わにべのおみきみて)、身毛君広(むげのきみひろ)の三名に、
 「汝ら三人、急ぎ美濃国安八磨郡の多臣品治のもとに行き、安八磨郡にて兵を起こせ。
それから国司たちに命じてそれらの兵を集めさせ、不破の道を押さえよ」
と命じて安八磨郡に先行で派遣していますが、この時に多品治に小子部連鉏鉤を味方に
付けさせるよう指示をしていた可能性があります。
 
 多氏(太氏)と小子部氏はともに神八井耳命を始祖とすることが『古事記』に記されており、
また、小子部氏ゆかりの子部神社(奈良県橿原市)は式内社ながら太氏ゆかりの多神社の
境外摂社でもあるというように、両氏には結びつきがあるのです。
 
 そして、尾張氏は大海氏(おおしあま氏)と同族なのです。
 大海氏は大海人皇子を養育した氏族とされています。この時代、皇子や皇女に氏族名の
名がつけられているのは、それらの皇子・皇女を養育した氏族の名である、とされているの
ですが、大海氏が大海人皇子を養育したとされている理由は、単に名前だけのことでは
なく。『日本書紀』に、天武天皇の殯宮(葬儀)における誄(しのびごと=故人である天皇を
偲んでその人生や業績などを語ること)では、まず大海宿禰荒蒲(おおしあまのすくねあらかま)
がその一人目として誄を行い、壬生のことを述べたとあります。
 壬生とは皇子や皇女の養育を司るものですので、このことからも大海氏が大海人皇子の
養育と担当したものと思われるのです。
 このような事情で、尾張連大隅のもとにも、大海人皇子から予め協力の要請があったことは
十分に考えられるのです。
 
 大海氏にかぎらず海人系氏族は結びつきが強かったようです。
 福井県大飯郡高浜町の青海神社(あおうみ神社)や新潟県加茂市の青海神社(あおみ
神社)の祭祀氏族とされる青海氏もまた海人系氏族であったといわれます。それは、青海氏の
祖である椎根津彦(シイネツヒコ)に海人の面影が認められるからなのですが、同時に椎根
津彦は多神社の祭神、弥志理津比古(ミシリツヒコ)と同神であると考える研究者もいるのです。
 
 そうすると、大海人皇子は青(おう)のネットワークを可能な限り利用していたと想像できます。
 
 
 もしも、鉏鉤が率いる二万の兵が近江朝の命令で集められたものであったするならば、鉏鉤の
大海人皇子への合流は相当に想定外のできごとだったに違いありません。何しろ事に備えて
徴発した兵がそっくりそのまま大海人皇子に「持って行かれた」わけですから。
 大海人軍が関ヶ原に布陣したという一報とともに、おそらく鉏鉤の兵二万がそれに恭順したと
いう情報も受けた近江朝は、味方集めに奔走することになるのですが、このうち、すでに鈴鹿関と
不破関は大海人軍によって押さえられ、その他の道も鉏鉤がつれて来た兵によって封鎖された
ために東国に使者を送ることは不可能になってしまっていたのです。
 実際、韋那公磐鍬(いなのきみいわすき)・書直薬(ふみのあたいくすり)・忍坂直大摩侶(おし
さかのあたいおおまろ)が東国に派遣されますが、書直薬・忍坂直大摩侶は封鎖の網にかかって
しまうのです。
 ふたりが捕えられたことを知った韋那公磐鍬は引き返えしてしまいます。
 
 その他では、樟使主磐手(くすのおみいわて)を吉備国に、佐伯連男(さえきのむらじおとこ)を
筑紫に派遣されましたが、両名には、
 「もしも筑紫の大宰栗隈王(くるくま王)や吉備の国司当麻公広嶋(たいまのきみひろしま)が
大海人皇子に加担しているようであればその場で殺せ」
と、命じられていました。
 しかし、ここで近江朝の期待を粉砕する「何か」が起こったのです。
 『日本書紀』はその理由を記していません。
 理由は不明ながら、吉備の当麻公広嶋を訪ねた樟使主磐手は親書を手渡すと同時に広嶋を
殺害してしまうのです。
 
 一方、筑紫の栗隈王は、こちらははっきりと、
 「筑紫は賊から国を守る役目があるので、今筑紫を留守にするわけにはいかない」
と要請を拒否しています。
 ただ、この時栗隈王のふたりの息子が剣を佩いてその傍らに立っていたため、佐伯連男は栗隈王
を殺害することができませんでした。
 大友皇子の使者に対して栗隈王の息子たちが帯刀して謁見の場にいた、というのが事実でしたら、
近江朝に対して疑心暗鬼になっていたとしか考えられません
 ともかく、ふたりの息子のおかげで栗隈王は当麻公広嶋と同じ運命を辿ることだけは免れたのです。
 
 結果として近江朝の動員は不発に終わったことになります。