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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

647 蘇我氏の登場その13

2019年05月27日 01時13分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生647 ―蘇我氏の登場 その13―


 『出雲国風土記』にある仁多郡三沢郷の伝承には、大穴持命(オオナモチノミコト)の御子、
阿遅須枳高日子命(アジスキタカヒコノミコト)が大人になっても夜昼泣いてばかりで言葉を
話すことはなかったので大穴持が、その原因を知ろうと夢占いをしてみた結果アジスキタカヒコが
言葉を発するようになった、という内容です。
 これを谷川健一(『青銅の神の足跡』)らは、指水銀中毒による言語障害だったと考察して
います。

 さらに、『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条には次のような一文があります。

 「今も孕める婦人はその村の稲を食わず。もし食う者があれば、生まれる子はもの言わざるなり」

 これと同じような伝承が三重県四日市市水沢町の足見田神社(あしみだ神社)に残されています。
それは、神域の東にオシミ田という地があり、ここで農耕する者は、口がきけない子を生む、と
いうものです。

 このふたつの伝承が似通っている、ということについて、偶然で片づけることができない理由が
あります。それは水沢がミサワと読むことができるからです。それに、水沢町は三重村の比定地でも
あるのです。
 三重村というのは『古事記』に登場する地名で、大和に帰るヤマトタケルが伊勢国三重村まで
来た時に、
 「わが足は三重の勾(みえのまがり=三重に曲げた形をした餅)のようになってしまい、大変
疲れた」
と、言ったので、この村は三重村と名付けられた、という話が記されています。

 この説話は三重村の地名の由来を語るものでもあるのですが、まったく同じと言っていいほどに
似通った話が『播磨国風土記』に登場するのです。

 「三重の里。昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰って食したところ、
足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。それが三重の名の由来である」

 どちらも足が三重に曲がってしまったためにそれが地名となった、という内容です。
 これも水銀中毒による歩行困難である、と前出の谷川健一は考察しています。

 さらに注目すべきは三重の里が播磨国賀毛郡(かも郡)に属するということです。
 と、言うのも、三沢郷の伝承に登場するアジスキタカヒコは、葛城は鴨の高鴨神社の祭神であり、
『古事記』の中ででも迦毛大神(かも大神)と記されているからです。
 もっとも、『播磨国風土記』には、賀毛郡の地名の由来について、応神天皇の時代、鴨村に
つがいの鴨が巣を作って卵を生んだことから、と書かれています。葛城の鴨とは何の関係もない、
ということになります。
 しかしながら、『播磨国風土記』は鴨村の地名の由来について、応神天皇がこの地を訪れた時に、
従者であった当麻の品遅部君前玉(ほむちべのきみさきたま)に2羽の鴨を射させたことから来て
いる、と記しているのです。さらには前玉が賀毛郡に土地を賜り、それが品遅部村である、と記して
います。
 なお、鴨村は『播磨国風土記』が編纂された時代には上鴨の里と下鴨の里のふたつにわかれて
いるのですが、下鴨の里には大汝命(オオナムチノミコト)が臼を作って米をついたとする伝承が
記されているのです。

 ここで、これまでのことを少し整理しますと、ミサワ(出雲の三沢と伊勢の水沢)には水銀中毒
による言語障害と思われる伝承があり、伊勢の三重村(水沢に比定)と播磨の三重里には水銀中毒
による歩行障害と思われる伝承がある、そしてそこには大国主と鴨のアジスキタカヒコ父子が関係
している、ということです。

 しかし問題はそれだけに留まりません。
 次に注目したいのは『播磨国風土記』の賀毛郡の地名の由来に登場する品遅部君前玉です。
 品遅部(ほむちべ)というのは、垂仁天皇の皇子ホムチワケノミコトから来ている、と伝えられ
ています。ホムチワケもアジスキタカヒコと同じく成人しても言葉を発しないもの言わぬ御子だった
のです。ですが、父の垂仁天皇が夢の中でお告げを受け、出雲大神の宮を訪問することで言葉が
話せるようになったのです。
 この出雲大神が大国主のことである、とは『古事記』には明確に記されていないのですが、
おそらく出雲大神は大国主、出雲大神の宮は出雲大社でよいと思われます。
 つまり、ここでも大国主がもの言わぬ御子が言葉を発せられるようになる存在として登場するの
です。

 それから、ホムチワケが出雲大神の宮を訪ねた時に、曙立王(アケタツ王)と菟上王(ウナカミ王)の
兄弟が付き従いますが、菟上王を祭神とする菟上耳利神社が水沢町と同じ四日市市に鎮座します。
また、曙立王を祭神とする佐那神社が三重県多気郡多気町仁田に鎮座します。
 注目すべきは仁田(にた)という地名です。『出雲国風土記』が伝えるアジスキタカヒコの伝承は、
出雲国仁多郡(にた郡)のものだからです。少なくとも多気町の仁田は「丹田」からきたものでは
ないか、と言われています。と、言うのも、三重県多気郡多気町には丹生という地名が存在し、
ここには丹生鉱山があって、1973年(昭和48年)まで採掘がおこなわれていたからです。

 さらにはもうひとつ、品遅部君前玉に関して、共通するふたつのことがあるのです。
 『播磨国風土記』は、この人物を「当麻の品遅部君前玉」と記します。倭直の祖、市磯長尾市に
よってよって大和に呼ばれた野見宿禰が当麻に所領を賜ったのが垂仁天皇の時代のできごと、ホムチ
ワケも垂仁天皇の御子。

 そういったところで話をまとめますと、大国主には水銀中毒を治す神として信仰されていた時期が
あったのではないか、それこそが吉野郡において大名持神社が最高位を授かっていた理由なのでは
ないか、ということになるのではないでしょうか。


 瀬戸内の海上ルートは単に海運や移動手段としてのみ存在していたのではなく、水銀をはじめ製鉄の
ネットワークも兼ねていたと考えられるのです。
 葛城氏の凋落後、物部氏は渡来系氏族の掌握とともにこの製鉄のネットワークも管理下におこうと
したと想像できます。
 が、しかし、歴史は物部氏の望むようには進まなかったのです。

646蘇我氏の登場 その12

2019年05月13日 01時40分38秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生646 ―蘇我氏の登場 その12―


 妙な、と言うと少し語弊がありますが、しかしながら不思議なほどの関係性が丹生川上
神社から広がるのです。その関係性とは水銀を軸とした倭氏と出雲です。
 ですが、そのことに触れる前に丹生川上神社について語っていきたいと思います。と、
言っても以前にも採り上げた内容ですので、ざっくりとおさらいです。

 丹生川上神社は、実は倭氏が祭祀を司る、奈良県天理市の大和神社(おおやまと神社)の
別社です。このことは大和神社の『大倭神社註進状』に「別社丹生川上神社」と記されて
いますし、『類聚三代格』のでも、大和神社神主の大和人成が、別社丹生川上雨師神について
解状を出したことが記されています。また『延喜式』の中にも丹生川上神社の祈雨神祭は
大和神社の神主が赴いて行う、とあるのです。

 別社とは言え丹生川上神社の社格は高く明神大社です。
 丹生川上神社が鎮座するのはかつての大和国吉野郡ですが、延喜式』の神名帳には、吉野郡に
神社は十座と記され、うち大社が五座、小社が五座となっています。つまり丹生川上神社は
五社ある大社のうちの一社となるわけですが、他の四社のうちの一社に金峯神社があります。
 社名にすでに金という言葉が含まれている金峯神社の祭神は製鉄の神とされている金山彦命
(カナヤマビコノミコト)なのです。

 吉野郡は丹(水銀)の採取地でもありました。『日本書紀』に登場する水無も吉野郡にあった、
と言われています。
 神武天皇は八十梟帥を攻略する際に、倭氏の祖シイネツヒコと宇陀のオトウカシに天の香具山の
社の土を採取させて上で、その土を使って天の平瓫(あめのひらか)八十枚を作らせますが、
次に神武天皇はこの八十平瓫を使って飴(たがね)を造らせます。
 飴(たがね)とは水銀と他の金属との合金と解釈されていますが、その飴を造った場所が水無
である、と『日本書紀』に記されているのです。
 興味深いのはシイネツヒコと行動を共にしたのがオトウカシであったことです。
 オトウカシは宇陀で神武天皇に従った土着の人物なのですが、宇陀には大和水銀鉱山が存在
するのです。

 『古事記』、『日本書紀』がともに記しますが、紀伊から大和に向けて出立した神武天皇の軍は、
吉野でイヒカ(『古事記』では井氷鹿、『日本書紀』では井光)という神に出会います。この神は、
光る井という名前が示すように、水銀の採坑を表わしていると考えられています。
 このイヒカが吉野首(よしののおびと)の祖である、と言うことも『古事記』、『日本書紀』
ともに記しています。つまりイヒカは吉野と非常につながりの深い神と考えられるわけですが、
このイヒカが葛城でも祀られているのです。
 葛城市の長尾神社では、水光姫命(ミヒカヒメノミコト)と白雲別命が一緒に祀られているのです。
 水光姫命はイヒカのことで、この名は神武天皇から与えられたものだといいます。
 ところが、この「葛城市の神社」というところに注意を向ける必要があります。
 実は長尾神社からさほど距離が離れていない所に当麻(たいま)のちがあるのです。
 当麻と言えば、『日本書紀』の垂仁天皇七年の記事に、野見宿禰が当麻蹴速(たいまのけはや)の
所有していた当麻の土地を賜ったとあります。
 この記事によれば、野見宿禰は出雲の人で、垂仁天皇の命を受けた市磯長尾市によって大和に
連れてこられた、とされます。

 土師氏は野見宿禰(のみのすくね)を始祖としますが、『日本書紀』の垂仁天皇七年の記事には、
野見宿禰が当麻蹴速(たいまのけはや)の所有していた当麻の土地を賜ったとあります。
 そのいきさつは、豪勇を誇った当麻蹴速と対等に闘える者をつれてまいれ、という垂仁天皇の
言葉により、倭氏の祖である市磯長尾市(いちしのながおち)が出雲から野見宿禰をつれてくるの
です。そして野見宿禰と当麻蹴速が闘い、結果野見宿禰が蹴速を打ち殺したので蹴速の所領を賜った
というものです。
 なお、野見宿禰は出雲の人と記されていますが、実際には因幡の人であったと考えられています。

 さて、吉野郡と丹生川上神社に話を戻しますが、『延喜式』にある吉野郡の大社五座のうち、
丹生川上神社の格は三番目になります。 
 と、言うのも貞観元年(859年)に丹生川上神社はそれまでの正四位下から従三位を賜って
いるのですが、同じ大社であるに吉野水分神は従五位下から正五位上に、吉野山口神は同じ従五位下から
従五位上に、金峯神は従三位勲八等から正三位に、そして残る一社が従一位から正一位を賜っている
からです。この中では従三位の丹生川上神社が三番目に高いことになるわけです。
 それでは最高位となる正三位を授かった「残る一社」ですが、それは大名持神社です。
 大名持神社の祭神は、大名持御魂神(オオナモチミタマ神)が主祭神で、須勢理比咩命(スセリヒメノ
ミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)が配祀されています。
 オオナモチとは言うまでもなく大国主の別名のひとつで、スセリヒメはスサノオの娘であり大国主の妻
です。そして、スクナヒコナは大国主とともに国作りを行った神です。つまりは出雲の神を祀っているの
です。

 それでは、なぜ吉野郡で出雲系の神々が祭祀され、その神社が吉野郡の神社の中で最高位を授かったのか、
残念ながらその理由は分からないのですが、ひとつの仮説として水銀採取を挙げることができるのです。

645 蘇我氏の登場 その11

2019年05月06日 01時31分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生645 ―蘇我氏の登場 その11―


 大和政権の難波進出の理由で忘れてはいけないのが海人系氏族とのネットワークの構築です。
実はここにも製鉄が関係しているのです。

 ただ、それについてお話しする前に、当時の難波について触れておきたいと思います。
 これまでにも何度かお話ししたことなのですが、古代における難波の地形は現在の大阪市と
大きく異なります。すなわち上町台地以外は海だったのです。大阪湾が現在の東大阪市まで
食い込んでおり、生駒山脈の麓までが海でした。それが、次第に土砂が堆積して上町台地の
周辺が陸地化していったわけですが、東側、つまり現在の東大阪市は内海と化し、やがて
淡水化して河内湖となったのです。
 大和政権が難波に進出した時代。現大阪市は大阪平野ができつつありましたが、内海は依然と
して存在していました。この内海(河内湖)は室町時代に至ってもなお巨大さを誇っていたと
伝えられ、江戸時代にもまだその一部を残していたとされています。

 さて、『古事記』や『日本書紀』によれば、神武東征の時に神武天皇が上陸した地を、

 「その地を名づけて盾津という。今では日下の蓼津(くさかのたてつ)という」(『古事記』)

 「河内国の草香(くさか)の邑の、青雲の白肩之津」(『日本書紀』)

と記します。ともにクサカであったとしていますが、これの有力な比定地が東大阪市日下町です。
記紀でそれぞれ「蓼津」、「白肩之津」と異なってはいるもののともに「津」とあることから、
おそらくは内海の東にあった港ではないかと考えられています。
 一方、現大阪市側の港と考えられているのが『日本書紀』応神天皇十三年九月の記事に登場
する「桑津邑」の桑津、同じく『日本書紀』仁徳天皇十四年十一月の記事に登場する猪飼津です。
 桑津は大阪市東住吉区桑津に、猪飼津は生野区勝山がかつて猪飼野と呼ばれていたことから
この付近に比定されています。

 これに対し、仁徳天皇の「難波の高津宮」の高津や『日本書紀』欽明天皇元年九月の記事にある
「難波祝津宮(はふりつ宮)」の祝津は瀬戸内海に面した港であったとされます。
 ただし詳しいことはわかっておらず、いわゆる難波津と高津、それに祝津が同じものかもしくは
別のものかについてもはっきりとしません。
 とは言え、当時難波の瀬戸内に開いた港は難波津と住吉津のふたつが知られており、その場所に
ついては、難波津が生国魂神社(天王寺区生玉町)の西側、住吉津が住吉大社(住吉区住吉)の
西側とするのが有力です。


 少々港の説明が長くなってしまいましたが、難波津、住吉津は難波の玄関口であり、物流の船や
移動手段としての船が入出港を繰り返していたのでしょう。しかし、その一方で、難波の玄関口で
あるためその防衛も必要だったのです。
 『古事記』では、妻のアカルヒメを追いかけて天之日矛(アメノヒボコ)が難波に入ろうとした
時に渡の神が塞いだために上陸を諦めて但馬へ行き先を変える場面が出てきますが、この逸話も
海人系氏族による難波の海上防衛を意味するものではなかったでしょうか。
 もう一方の住吉津ですが、住吉大社に縁があるとされる津守氏がこの地におり、その氏族名から
港の管理や防衛を担っていたものと考えられます。

 これまでにも何度か採り上げましたが、応神・仁徳天皇の次に皇位に就いた履中天皇の同母弟で
あるスミノエノナカツミコ(『古事記』では墨江之中津王、『日本書紀』では住吉仲皇子)が謀反を
起こした時に、阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)と倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)が
スミノエノナカツミコに加担しています。
 阿曇氏も倭氏もともに海人系氏族と言われており、特に阿曇連浜子の場合、自らを「淡路の野嶋の
海人」と称しています。また、『日本書紀』の応神天皇三年十月の記事に、

 「処処(ところどころ)の海人が命に従わったので、阿曇連の祖、大浜宿禰を遣わしてこれを
平定した。よって海人の宰(みこともち)とした」

とあり、海人系氏族であることが明らかです。
 倭氏が海人系氏族と言われるのは、その始祖が神武東征の際に海上の道を案内したという伝承と、
『日本三代実録』に、阿波国名方郡の海直豊宗や海直千常ら海直氏7人に大和連の姓を賜った、と
記されていることによるものです。
 その記事で、阿波国名方郡にいた海直(あまのあたい)一族の賜った姓が大和連(やまとのむらじ)
というのは、海直が倭氏(大和氏)の流れを汲む氏族であったからだと思われるわけですが、それなら
倭氏の中から海氏(あま氏)を称する者たちがいた、すなわち倭氏は海人系氏族であったのではないか、
と考えられるのです。

 倭氏の一族がいたのは阿波国名方郡であり、国内で発見されたものの中でもっとも古い鉱山遺跡で
ある若杉山遺跡は阿波国那賀郡。郡は違いますが同じ阿波国であり、しかも若杉山遺跡が丹の採掘場
であったのに対して倭氏も丹に関わっていたようなのです。
 製鉄のネットワークと海人系氏族がつながるのです。

 倭氏が丹に関わっていたというのは、『日本書紀』に登場する記述と丹生川上神社の祭祀による
ところです。ただ、ここに妙なことがあります。

644 蘇我氏の登場 その10

2019年05月04日 02時14分08秒 | 大国主の誕生
 皆さん、お久しぶりです。
 ちょっとした事情からこのブログの編集画面にアクセルできない
状態が続いておりまして・・・長らく更新できずでした。
 今回ゴールデンウィークで時間があったのでやっと環境を復活
させることができた次第です。


大国主の誕生644 ―蘇我氏の登場 その10-


 この時代、難波が重要視されていた理由は主に2つのものが考えられます。
 ひとつは、中国や朝鮮半島との交易が活性化されたため。ふたつ目は吉備や紀伊、それに
阿波を含めた瀬戸内のネットワークを堅固なものにするためです。どちらかと言えばおそらく
後者の方が重要な意味合いを持っていたと考えられます。造山古墳から推測される吉備と
大和の関係性、葛城氏の系譜に紀伊が大きく関係していることなどから、大和政権と地方勢力
との連帯を強くする目的があったと思われるのです。

 これらは、主に葛城氏にとって意味のあることだったわけですが、一方、物部氏にとっても
難波の進出は意味を持つこととなったのです。
 それは、難波の枕詞が「押し照る難波」であることも関係します。この時代、大和政権では
太陽信仰が公的に行われていたと考えられ、難波の地から臨む朝日は生駒山の方角から昇ります。
物部氏の本拠は東大阪市だとされており、それも生駒山の山麓ではなかったかとも言われて
います。つまり、物部氏の本拠はまさに「日の下(もと)」あるいは「日の本(もと)」だった
わけです。
 実際、東大阪市には日下(くさか)という地名が存在しますが、古くには現在よりも広い範囲が
日下と呼ばれていたと言われており、中臣氏ゆかりの枚岡神社(ひらおか神社)も日下に含まれて
いたと言います。(枚岡神社の現在の地名は出雲井町)
 物部氏はニギハヤヒの子、宇摩志麻遅命(ウマシマヂノミコト)を祖としますが、枚岡神社に
近い東大阪市石切町にはウマシマヂを祀る石切剣箭神社が鎮座します。

 難波や瀬戸内海から見て日の下を治める物部氏はその利を生かして瀬戸内の海人たちに対する
影響力を強めていこうとしたのです。と同時に進められたのが渡来系氏族の掌握だったのです。
 そもそも葛城氏が大和政権の河内進出に際して大和の渡来系氏族を河内に移住させたのは彼らが
専門技術者たちを擁していたからなのです。
 ちなみに昭和の頃は、朝鮮半島から移住してきた渡来人たちによって最新技術や最新の文化が
古代日本にもたらされた、と考えられていました。昨今では、当時の日本は中国から直接それらを
取り入れていたと考えられるようになりましたが、それでも『日本書紀』に朝鮮半島から技術者を
つれて来たとする記事があることなどからも、朝鮮半島から移住してきた技術者たちは重宝された
ようです。

 少し前に河内にいた渡来系氏族をピックアップしましたが、丹比郡には船氏、津氏など海に関係
した氏族名を有した渡来系氏族がいました。
 直木孝次郎は『大阪府史 第二巻』の第一章第二節「政治と文化の展開」の中にある「渡来人の
活動」の項で、船氏は関税または港湾税の記録を担当し、津氏は港の管理に関する職務を担当した
のではないか、と考察しています。
 なお、『日本書紀』の欽明天皇十四年の記事に、船氏の祖である王辰爾(おうじんに)が登場します。
その内容は、天皇の命を受けた蘇我稲目が王辰爾を船長(ふねのつかさ)にして船の賦(みつぎ)を
記録させたことで、王辰爾は船史(ふねのふびと)の姓を賜わった、これが船連(ふねのむらじ)の
祖である、というものです。
 直木孝次郎の考察もこの『日本書紀』の記事からよるものです

 ちなみに津氏は王辰爾の弟の牛が敏達天皇三年に津史(つのふびと)の姓を賜わったことから
始まります。
 船氏と津氏に関する記事は応神・仁徳朝よりもずっと後の時代のものではありますが、このように
専門的な知識や技能を持った渡来系氏族を掌握することは葛城氏にとって自身の勢力や影響力を増す
ことになったでしょうし、その葛城氏滅亡後は物部氏がポスト葛城氏の地位を狙ったと推測されるの
です。

 大和政権が取り込もうとした渡来系氏族の技術のひとつが製鉄です。製鉄に関しては古くより日本
も行われていたのですが、それでも渡来系氏族が擁する製鉄の技術者たちは重宝されたようです。
っとも、最新の技術が他勢力に流出するのを防ぐ目的で囲みこもうとした面も否定できませんが。
 そして、国内の製鉄について語る時に徳島県阿南市の若杉山遺跡を外すわけにはいきません。
 若杉山遺跡は辰砂(しんしゃ)の採掘跡で、すなわち鉱山遺跡です。辰砂は水銀と硫黄の加工物の
ことで丹(に)とも呼ばれます。そして、国内で発見された辰砂の採掘遺跡は若杉山遺跡ただひとつ
だけなのです。
 平成三十一年(2019年)2月、若杉山遺跡から弥生時代後期の土器が発見されました。それまで、
国内で発見された採掘遺跡は山口県美祢市の永登銅山跡(ながのぼり銅山跡)がもっとも古いものと
されていましたが、この永登銅山遺跡が8世紀のものと見られているのに対し、弥生時代後期の土器が
発見されたことで若杉山遺跡は古くて1世紀、新しくても3世紀には存在していたことになります。
 しかも、若杉山遺跡からは山陰や近畿といった地域の特徴をもった土器も発見されているので、
れらの地方とも交易があったとみられるのです。

 徳島県と言えば吉野川市川島に、物部氏の祖であるイカガシコオとイカガシコメを祀る伊加加志神社
(いかがし神社)が鎮座し、また愛媛県今治市にもイカガシコオを祀る伊加奈志神社(いかなし神社)も
鎮座します。
 そして、今治市には三三島のひとつ大山祇神社(おおやまつみ神社)が鎮座します。三三島(三みしま)は
以前に考察したように、製鉄に関係し、かつ鴨氏という葛城の氏族とつながりがあるのです。

643蘇我氏の登場 その9

2019年02月27日 00時47分08秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生643 ―蘇我氏の登場 その9―


 それでは、現在の東大阪市にいたとされる物部氏がいつ頃現在の富田林市や河南町、羽曳野市の
辺りにまで進出していったのか、というところを考えてみるべきだと思います。
 そもそも物部氏が台頭してきたのは雄略朝の時代と考えられているのですから、進出の時期は
雄略天皇の登場よりも以降ということになります。先にお話しした、物部目大連が餌香(えが)の
長野邑を賜った、という話も『日本書紀』の雄略天皇十三年の三月の記事ですから、やはり雄略朝
時代ということになります。
 むしろ、雄略朝時代よりも前ということの方が考えにくい。
 なぜならそれよりも以前は葛城氏がこの地域の渡来系氏族を傘下に収めていたと思われるからです。
 かつては絶大な力を誇った葛城氏でしたが、19代允恭天皇の時に葛城玉田宿禰が討たれ、
さらには20代安康天皇が殺害されて21代雄略天皇が即位する間の期間に葛城円大臣が討たれた
ことで歴史の表舞台から消えてしまいました。それに替わって登場してきたのが、物部氏、大伴氏、
中臣氏といった連(むらじ)の姓を持つ氏族たちだったわけです。

 葛城氏の本拠はその氏族名から大和国の葛城地方とされています。始祖は葛城襲津彦(かつらぎの
そつひこ)です。
 『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事にある、葛城襲津彦が新羅からつれ帰った桑原、佐穈(さび)、
高宮、忍海(おしぬみ)に住む渡来人についても、それぞれの居住地が葛上郡、忍海郡と、葛城地方
です。
 先に少し触れましたが、河内国の讃良郡の高宮という地名があり、河内国の石川郡とにも佐備(さび)
という地名があるので、このことからも葛城氏が管轄する葛城の渡来人が河内に移住してきたと考えられ
るのです。

 ところで、先に、石川郡の佐備については渡来人ではなく大和の忌部氏が関係しているとする説がある、
と言いましたが、これについても触れておかなくてはなりません。

 石川郡の佐備(現在の大阪府富田林市佐備)には佐備神社が鎮座しますが、ここの主祭神は天太玉命
(アメノフトタマノミコト)なのです。そして葛城にも天太玉命を祀る神社が存在します。それは奈良県
橿原市忌部町の天太玉命神社です。
 問題は、この天太玉命は大和の忌部氏の祖といわれる神だということです。
 つまり、このことによって河内国石川郡の佐備に進出したのは大和の忌部氏だとも考えられるわけです。
 もっとも、忌部氏に付き従うように、佐味の渡来人の子孫たちに一緒に移住してきた可能性も考える
ことができるのですが。

 しかし、佐備に進出してきたのが仮に忌部氏であったとしても、こちらも看過してはいけないことでは
あるのです。
 なぜならば、忌部氏には大和の忌部氏の他にも紀伊の忌部氏、阿波の忌部氏、讃岐の忌部氏、出雲の
忌部氏などが存在するからです。

 葛城襲津彦は、『古事記』では葛城長江曽津都毘古と記されていますが、その系譜は武内宿禰の子と
なっています。つまり、蘇我氏の始祖である蘇賀石河宿禰とは兄弟の間柄なのです。
 武内宿禰は七男二女をもうけたと『古事記』には記されていますが、葛城長江曽都毘古(葛城襲津彦)や
蘇賀石河宿禰の兄弟に木角宿禰(きのつぬのすくね)がおり、これが木臣(紀臣)の祖とあるのです。
 そもそも武内宿禰自身も母が紀伊国造の女性であり、紀伊とはつながりが深いのです。
 なお、少々蛇足かもしれませんが、紀臣と紀伊国造について、『古事記』の記載に従うなら紀伊国造が
紀臣の祖ということになるのですが、これとは反対に紀臣から紀伊国造が分れたとも言われています。

 さて、本題に話を戻しますと、葛城襲津彦が新羅からつれて来た渡来人を住まわせたのが葛城地方であれば、
大和の忌部氏の本拠も葛城という、いずれにせよ葛城氏の影響が非常に強いわけなのです。
 さらには、安宿郡には尾張郷が存在しましたが、葛城にも高尾張邑がありました。そもそも安宿(あすか)
という地名もそうですが河内の近つ飛鳥と大和の遠つ飛鳥など。
 このように、葛城と河内には共通した地名などが存在し、これが、葛城氏が河内に進出していった名残だと
いうのです。

 南河内の河南町と葛城の當麻町にはかつて日本最古の官道である竹之内街道が走っていました。竹之内街道が
作られたのは推古朝時代なので、葛城氏の本宗が滅亡させられたよりもずっと後の時代のこととなるわけでは
ありますが、その基となるものが葛城氏の全盛期に存在したのではないでしょうか。
 そもそも竹之内街道は現在の堺市堺区と當麻町を結ぶ道でしたが、葛城氏の全盛期は難波がクローズアップ
された時代でもあるのです。葛城氏が大和政権の中心に座るようになったのは応神・仁徳朝時代の頃で、
ちょうど大隅宮や難波宮の時代です。
 応神天皇は第15代天皇、仁徳天皇は第16代天皇ですが、その前の第14代仲哀天皇から継体朝誕生までの
歴代天皇の陵墓を見てみれば、実に12人中9人までが河内に陵墓を築いているのです。
 ちなみに河内以外に陵墓を築いたのは第20代安康天皇と第23代顕宗天皇と第25代武烈天皇なのですが、
顕宗天皇と武烈天皇はともに、當麻町に接した香芝市に陵墓を築いているのです。
 もちろん、これらの陵墓はあくまでも記紀に記述にされているというものであって、近年の調査によって
これらの陵墓が築かれた年代と被葬者とされる天皇の在位期間が一致しないといった結果も出されているの
ですが。しかし重要なことは、記紀の編纂者たちが14代から25代までの歴代天皇のほとんどが河内に埋葬
された、としていることです。
 このことは、ある時期に難波が重要視されたという史実があり、そこから作られた物語ではないか、と考え
られるのです。少なくとも古市古墳群や百舌鳥古墳群にみられる巨大古墳は一地方の豪族が造ることのできる
規模ではありません。明らかに国家事業と言えるものです。
 要するに、葛城氏あるいは物部氏の南河内進出は単独ものではなく大和政権としてのプロジェクトだった
可能性が考えられるのです。
 おそらく南河内には、葛城氏、物部氏、それに大伴氏、中臣氏、それに渡来系氏族たちが一斉に進出してきた
ものと思われます。その中でも中心となったのが葛城氏だったのでしょう。
 奈良県と大阪府の境界は、生駒山、葛城山、金剛山などといった山々が連なり天然の巨大な壁によって隔たれ
ています。大和の人々にとって大和の内がひとつの城に例えるならこの壁の向こう側は城外ということになり
ます。城外のその果てにある難波と大和の間に位置する南河内は当然盤石に治める必要があったと言えるでしょう。