小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

435 天照大神高座神社の謎③

2015年09月30日 02時12分06秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生435 ―天照大神高座神社の謎③―
 
 
 岩戸神社という社名は天の岩屋戸伝承を想像させます。
 『古事記』は、天照大御神が天の岩屋戸に籠った時に、どうにかして天照大御神を
天の岩屋戸から出せないものか講じる神々の中に玉祖命(タマノヤノミコト)を登場
させています。
 天照大神高座神社は高安山の中腹に鎮座しますが、高安山の麓には玉祖神社が
鎮座します。
 玉祖神社の祭神は天明玉命ですが、この神は玉祖命の別名であるとされています。
 そして、天照大神高座神社や玉祖神社と同じく大阪府八尾市にある恩地神社は
かつて天小屋根命を祭祀していたと伝えられ、天小屋根命も天の岩屋戸伝承に登場
する神であることは先にお話ししたとおりです。
 また、『古事記』の天の岩屋戸伝承では、常夜の長泣鳥を鳴かせる場面が登場しま
すが、これは鶏のことです。
 菅原道真が筑紫に左遷される時に、道明寺村に住む伯母を訪ねて泊まっていきま
したが、鶏が刻を間違えて早く鳴いたので、不満足な別れをして出立をしたという伝承
があります。
 この故事にのっとって、道明寺村の人たちは鶏を嫌い、鶏を飼わなくなった、と伝えら
れていますが、この道明寺村は現在の藤井寺市に含まれており、天照大神高座神社の
ある八尾市に隣接しています。
 
 天の岩屋戸伝承は、天照大御神の籠りである、とも言われています。
 大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)も、天照大神高座神社の周辺の地形から、ここを
籠りの聖地であった、と推測をしています。
 「身ごもる」という言葉がありますが、胎児は母親の体内に籠っているものです。
 ただし、天の岩屋戸伝承にある「籠り」とは、「死と再生」を意味します。
 つまりは冬至のことです。
 一年でももっとも日照時間が短くなるのが冬至であり、それを境に今度は日照時間が
長くなっていきます。古代の人々は、冬至とは太陽が死に再生をすることだと考えて
いたのです。
 
 天皇が即位する時に践祚大嘗祭が行われますが、その前日には新天皇による鎮魂祭が
行われていました。
 『江家次第』や『儀式』の記載から、鎮魂祭では琴師が和琴を奏で、女官が御衣筥を
振動させる、ということが行われていたことがわかります。
 この振動させる、というのは魂振(たまふり)の儀礼であろうと思われます。
 鎮魂というのは、魂が体から離れて抜け出すのを防ぎ、体の中にしっかりと落ち着か
せる儀礼であり、魂振は、体の中の魂が勢いを失った状態から再び活発にさせる儀礼
である、と解釈されています。
 
 同じように死と再生の儀礼が白山信仰です。
 これも以前に採り上げたものなのですが、白山信仰では山に入った人が再び山から
戻ってくることを再生と見るようです。
 柳田國男の「稲と産屋」(『海上の道』に所収)には、愛知県北設楽郡の山村で行われ
た「シラ山」という行事について記している部分があります。
 これは旧暦の11月に、行われる霜月神楽(における行事で、幾多の木の枝やその他の
材料で大きな山を作り、その中を通り抜けるというものですが、「シラ山」では「胎内くぐり」
と呼び、行道をなし遂げることを「生まれ清まわり」と呼ぶ。と「稲と産屋」にあります。
 
 白山信仰は朝鮮半島から伝わったものであるとされています。
 天照大神高座神社の祭祀氏族である春日戸氏は渡来系であるといわれていますから、
死と再生の儀礼を行っていたとしても何の不思議もありません。
 
 そして、冬至で見落としてはいけないことが2つあります。
 
 1つは、冬至の時に、難波の坐摩神社(いかすり神社。ざま神社とも)がかつて鎮座して
いた地(現在大阪城のある場所)から臨む朝日が昇るのが高安山山頂であることです。
 
 そしてもう1つは、新天皇が即位する時に、践祚大嘗祭の前日に魂振祭が、翌年(同年に
行われた時もありますが)に八十島祭が行われていたということです。

おぼえられた

2015年09月29日 01時20分35秒 | 日記
2012年11月14日(水)(4歳7か月)
 
 
 近頃の春奈は字を書く練習をよくして
いる。
 
 昔にゆうきやりえが使っていた字の
学習帳を使っての練習だ。
 
 なぜ字に興味をもつようになったの
かはわからないけど、独学で平仮名や
カタカナを覚えて言っている。
 
 今日も字の練習をしていた春奈が
あいうえお表をを僕のところに持って
来て訊いた。
 
 「『る』ってどれやった?」
 
 おいおい、さっき練習してた字やん。
 
 思い出させようと思って、
 
 「さっき書いてたやろ?」
 
と、ヒントを与えてやると、
 
 「忘れた」
 
 しゃーないな。
 
 「これ」
 
と、「る」の文字を指さしてやると、
 
 「おぼえられた」
 
 思い出したって言いたいのか?
 
 でも、思い出したことで確実に頭に
インプットされたかもしれないし、そう
いう意味では「覚えられた」でもいい
のかもしれない

434 天照大神高座神社の謎②

2015年09月28日 00時44分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生434 ―天照大神高座神社の謎②―
 
 
 山城国の春日部氏が津速魂命(ツハヤヒノミコト)の曾孫、大田諸命(オオタモロノ
ミコト)の子孫を称していたなら、河内の春日戸氏(かすかべ氏)も同様に大田諸命の
子孫を称していた可能性が高いのではないでしょうか。
 
 津速魂命という神はあまり馴染のない神ですが、『先代旧辞本紀』では、天小屋
根命も大田諸命と同じく津速魂命の曾孫となっています。
 天小屋根命は天の岩屋戸神話に登場する神ですが、中臣氏や、中臣鎌足を祖と
する藤原氏が始祖にいただくのがこの神なのです。
 
 天照大神高座神社が鎮座する大阪府八尾市には、中臣氏に関係する恩地神社が
あり、東大阪市にもやはり中臣氏に関係する枚岡神社があります。
 枚岡神社の祭神は天小屋根命で、恩地神社の祭神は大御食津彦命(オオミケツヒ
コノミコト)と大御食津姫命(オオミケツヒコノミコト)です。
 ですが、恩地神社の社伝によれば、元々この神社では天小屋根命を祭神としていた
のが、枚岡神社にこの神が遷されたために大御食津彦と大御食津姫を祀るように
なった、というのです。
 ちなみに恩地神社の社伝では、大御食津彦は天児屋根命の五世の孫となってい
ます。
 
 さらに南に目を向けると、堺市美原区に菅生神社が鎮座します。
 この神社の祭神も天小屋根命で、祭祀氏族の菅生氏は中臣氏から枝分かれした
人々です。
 
 神護景雲四年(770年)、称徳天皇が崩御すると、それまで天皇の厚い信頼を得て
いた僧道鏡とその一族が配流されるという事件が起こりますが、この時、道鏡に協力
したとして、伊勢神宮の宮司であった菅生朝臣水通がその職を解任されています。
 このことから、菅生氏は伊勢神宮とも関わりがあったことをうかがい知ることができる
のです。
 
 天照大神高座神社と同じ八尾市に鎮座する恩地神社の祭神の大御食津姫は伊勢
神宮外宮の豊受大御神のことである、とされているから、河内は伊勢と関わりが深い
ように思えます。
 ですが、伊勢神宮から見た時に、河内との関係が見えてこないのです。
 とすれば、河内の太陽信仰については、本来伊勢神宮とは関係のないものだったと
考えられるわけです。
 そもそも皇祖神としての天照大御神を祭神とする伊勢神宮の成立はもう少し時代が
下った頃と考えられているので、河内が伊勢とつながっている理由そのものも成立し
ないわけです。それは天照大神高座神社が平安時代はじめ頃まで春日戸神社と呼ば
れていたことからもうかがえます。
 
 しかし、それならどうして後世になって天照大神高座神社をはじめとする河内の信仰が
伊勢神宮と結びつくことになったのか、という疑問が残ります。
 結論を先に言えば、河内には元々太陽信仰があったためでしょう。
 かつて太陽神は複数存在していたと考えられます。
 たとえば、南河内に尾張氏がいたと思われるとしましたが、その尾張氏や伊福部氏、
丹比郡の丹比氏、住吉大社の津守氏が始祖とする天火明命も太陽神だったと考えら
れている神です。
 それが後世、伊勢神宮の天照大御神が唯一無二の太陽神とされたことで天照大神
高座神社の春日戸神は天照大御神に替えられたではないか、というわけです。
 ですが、天火明命や、同じく太陽神だったと思われる三輪山の大物主、それに高皇
産霊神が天照大御神に替えられることがなかったのに対し、なぜ春日戸神のみが天照
大御神に替えられたのか、この問題だけは残ります。
 その答えは、天照大神高座神社に隣接する岩戸神社にあるのではないかと思えます。
 なお、現在では岩戸神社は天照大神高座神社の摂社となっています。

お仕事なのだ

2015年09月26日 01時54分06秒 | 日記
2012年11月13日(火)(4歳7か月)
 
 
 今日は火曜日なのでヒッポのファミリーの日。
 
 ただ、春奈、ファミリー中にウトウトとしている
時があった。
 
 ファミリーが終わって家に帰り、春奈と風呂に
入っている時に、僕が、
 
 「眠そうやったな」
 
と、話しかけると、春奈がこう答えた。
 
 「仕事が大変やねん」
 
 仕事って、何やねん?何をしてる言うねん?
 
  さらに、 春奈、
 
 「仕事は働かなアカンねん」
 
 いや、だから何をしてるって言うねん?
未就学児が?
 
 春奈の中で、仕事とか働く、という言葉はどう
いう意味があるのだろう?

433 天照大神高座神社の謎①

2015年09月25日 01時14分36秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生433 ―天照大神高座神社の謎①―
 
 
 渡来系の氏族が運んできた太陽信仰から、葛城氏や忍海飯豊青尊らと渡来系氏族の
関わりを見てきたところで、再び八十島祭に立ち戻ります。
 しかし、そこに戻る前に、少しばかりの寄り道をしたいと思います。
 
 大阪府八尾市の高安山の中腹に天照大神高座神社(あまてらすおおかみたかくら神社)が
鎮座します。
 その名が示すように天照大神、そして高皇産霊大神を祭神としています。
 周辺には「品陀(ほむた)の 日の御子」で採り上げた、大阪府羽曳野市誉田の伝・応神
天皇稜(誉田御廟山古墳)があります。
 
 天照大神高座神社は、古い記録には春日戸神社(かすかべ神社)と記されているので、
元はこの名で呼ばれていたとみられます。
 春日戸というからには、祭祀氏族は春日戸村主(かすかべのすぐり)です。
 このことは、 南禅寺蔵の『大智度論』には河内国高安郡春日部村主広田という人名が
登場することからもうかがえます。
 
 ただ、問題はこの春日戸村主が渡来系氏族だといわれていることです。
 渡来系の氏族がなぜ天照大神を祭祀していたのか、その理由を探る必要があるわけです。
 
 社伝によれば、天照大神高座神社の祭神は、雄略天皇の時代に伊勢から当地に遷座
したといいます。
 これと同じように、天照大神高座神社の祭神は伊勢津彦神で伊勢から高安に遷座したと
伝えるものもあるようです。
 
 伊勢津彦は、「伊勢国風土記逸文」に、神武天皇より派遣された天日別命(アメノヒワケノ
ミコト)の前に降伏し、伊勢から信濃へと遷っていった、とあります。
 それが社伝では雄略天皇の時代となっているのは、『日本書紀』に、雄略天皇十八年に、
物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討たせた、とする
記事があるためでしょう
 なお、この記事では、朝日郎が官軍と戦った場所を、伊賀の青墓と記します。ここにも青が
登場します。
 
 ところで、『日本書紀』の「安閑紀」には春日部采女という女性が登場します。
 先に、伊勢神宮の斎宮であった栲幡姫皇女の伝承を紹介しましたが、これと似た伝承が
「安閑紀」にも登場するのです。
 栲幡姫皇女の伝承とは、湯人(ゆえ)の廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)が栲幡
皇女を孕ませました、という虚偽の讒言があったため、自信にも禍が及ぶのを恐れた武彦の
父廬城部連枳莒喩(いおきべのむらじきこゆ)に武彦は殺され、栲幡姫皇女も五十鈴川の
川上で自害した、というものです。
 これは「雄略紀」に記されていている伝承ですが、「安閑紀」にも廬城部連枳莒喩という人物が
登場するのです。
 こちらの方は、枳莒喩の娘、幡媛(はたひめ)が、首飾りを安閑天皇の皇后、春日山田皇女に
献上した首飾りが、実は幡媛が物部大連尾輿(もののべおおむらじおこし)から盗んだ物で
あることが露見し、枳莒喩は幡媛を采女として皇后に差し出した、これが春日部采女である、
という伝承です。
 采女として献上された幡媛が春日部采女を呼ばれたのは、皇后の名、春日山田皇女から
来たものでしょうが、ただ、この皇女の名も南河内に存在した石川郡山田村に関わるとする
説があります。
また、これが廬城部氏に関わる伝承であることに注意が必要となります。
 
 廬城部は五百木とも表記され伊福部氏(いぶきべ氏)とも同族です。
 『新撰姓氏録』には河内国の氏族に五百木部連の名が見え、天火明命の子孫とあります。
 また『新撰姓氏録』左京の項には伊福部宿禰、山城国の項には伊福部の名が見えますが、
やはり天火明命の子孫とあります。
 天火明命は太陽神であったとも考えられていますが、住吉大社の祭祀氏族の津守氏も
天火明命を祖とします。
 
 同じく天火明命を祖とする氏族に尾張氏がいます。本拠は尾張国なのですが、葛城の高尾張邑
にも拠点を持っていました。
 しかも、古代の南河内に存在した安宿郡(あすか郡)には尾張郷という村があったので、ここ
にも尾張氏がいた可能性があるのです。
 
 尾張国、つまり現在の愛知県には春部郡(かすかべ郡)が存在しました。春郡は後に春日井郡
(かすがい郡)と改め、春日井郡が消滅した今日でも春日井市といったように名残をとどめて
います。
 河内国には春日戸村主の他に春井連(春日井連)がおり、後漢光武帝七世の孫、慎近王の
子孫を称していたので、やはり渡来系の氏族です。
 ところで『新撰姓氏録』には、山城国の氏族に春日部主寸の名が見えます。
 主寸とは「すぐり」と読み、つまりは村主のことです。ただ、この春日部主寸は『新撰姓氏録』
には、津速魂命(ツハヤヒノミコト)の曾孫、大田諸命(オオタモロノミコト)の子孫とあります。
 主寸という姓から、この山城国の春日部氏もまた渡来系と思われるのですが、そうすると、
日本の神を始祖にすることでより日本に同化しようとしていたものと推測されます。
 渡来系である河内国の春日戸氏が天照大神という日本の神を斎くのも同じような理由があった
と考えられるわけです。