小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

580 大国主に秘められた製鉄の性格 その2

2017年03月31日 02時23分18秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生580 ―大国主に秘められた製鉄の性格 その2―
 
 
 このように、伊和大神と大国主が重なり合う点を挙げてみましたが、それでは次に、この伊和大神に
見られる製鉄の性格を挙げる必要があります。
 
 まずは、伊和大神とオオナムチが登場する『播磨国風土記』の餝磨郡の条をさらにみてみると、
ここに尾張氏が登場することに注意を向けてみたいと思います。
 
 尾張氏は製鉄に深く関わっていたと考えられている氏族で、よく使用されるデータとして、田中卓の
『神宮の創祀と発展』(1959年)に書かれている、
 「全国の銅鐸の出土地は約230ヶ所であるが、それ等の出土地付近に上古尾張氏の居住の跡と
みられる約190ヶ所で80パーセントの一致をみる」
というものがあるように製鉄に関わる氏族の中でも特に代表的な氏族と言えます。
 
 実は、『播磨国風土記』の餝磨郡の条、それも伊和里の記事にこの尾張氏が登場しているのです。
そこには、
 
 「伊和の里の船丘の北に馬墓の池あり。昔、雄略天皇の時代に尾治連(尾張連)らの祖長日子は
よき婢(女性の私有民)と馬を持っていた。
 長日子は死の床にあって、わが子に自分の埋葬について遺言した。
 それにより3つの墓を造った。
 1つ目は長日子の墓とし、2つ目は婢の墓、3つ目は馬の墓である」
 
と、記されています。
 
 尾張氏は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマホノニニギノ
ミコト)を始祖とする氏族ですが、播磨国で言えば、現在の兵庫県たつの市に鎮座する粒坐天照神社
(いいぼにますあまてらす神社)が、天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)を祭神と
しています。
 この神社の社伝によれば、
 
推古天皇2年(594年)、現たつの市である揖保郡関村に、伊福部連駁田彦(いふくべのむらじふじた
ひこ)の家の裏に異様に輝くものが出現した。
それは、容姿端麗な童子に姿を変えると、自分は天照国照彦火明命の使いである、と言い、フジタヒコに
稲種を授けた。
その種を水田に蒔くと、一粒が万倍となり、豊かな穀倉地帯になった。
 
と、あり、伊福部氏が関係するのです。
 この伝承は、尾張氏の稲種公を思い起こさせますが、伊福部氏もまた天火明命を始祖とする尾張氏の
同族です。
 この辺りのことは、因幡国造のことで採り上げたのでここでは割愛させていただきますが、しかし、
粒坐天照神社が鎮座する揖保郡に伊福部氏がいたことは、『日本三代実録』に、貞觀四年(862年)
六月の記事に、
 
 「播磨国揖保郡の人、雅楽寮答笛笙生無位伊福貞(いぶきさだ)、本姓五百木部連(いおきべのむらじ)に
復す」
 
とあることからもわかります。
 
 その粒坐天照神社ですが、今も紹介しましたように、祭神は伊福部氏の始祖とされる天火明命である
のですが、『播磨国風土記』は揖保郡の条にアシハラシコオの伝承も載せています。
 それが先だって紹介した粒丘の伝承で、すなわち天日槍命(アメノヒボコノミコト)が、
 「この国に吾の住む土地を分け与えてはもらえないか」
と、頼んできたので、アシハラシコオが海中ならばよい、と答えたところ、アメノヒボコが剣で海をかき混ぜ、
海水を飛ばして土地を作り出したので、驚いて先に国占め(くにしめ)を行おうと、粒丘に登って食事をした
もののアシハラシコオの口から飯粒がこぼれ落ちた、というものです。
 
 さて、先の『日本三代実録』の記事にある伊福貞は「雅楽寮答笛笙生」でしたので、伊伊福貞は雅楽の
演奏に関わる職務にあったことになりますが、『新撰姓氏録』を見ると、河内国の氏族に、伊福部氏と
同じく火明命を祖とする笛吹氏の名が登場します。
 その氏族名からして笛吹氏も雅楽の演奏に関わる氏族だったのではないかと想像されるのですが、
『新撰姓氏録』はこの笛吹氏の次に吹田連の名を載せています。吹田連もまた火明命を祖とする氏族
なのです。
 『新撰姓氏録』はこの吹田氏を河内の氏族としていますが、摂津国に属する大阪府吹田市の高浜神社は、
吹田氏の創始と伝えられています。そもそも、吹田市という地名自体が、吹田氏がこの地に居住していた
ことから来たという説もあるのです。
 
 注意が必要なのは、吹田市と隣接して茨木市があることです。
 神武天皇の皇后イスケヨリビメは『古事記』に、元の名は富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキ
ヒメノミコト)、そして『日本書紀』には姫踏鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)と記され、ともに
「踏鞴(たたら)」が含まれている名前なのですが、この人は茨木市の生まれなのです。
 それに、この地には35点もの銅鐸の鋳型が発見された東奈良遺跡も存在するのです。
 これらのことも、天火明命を始祖とする氏族は製鉄に関係が深いと考えられているのです。

ニュアンス

2017年03月29日 01時31分09秒 | 日記
2013年8月15日(木)(5歳4か月)
 
 
 いつものように春奈を風呂に入れてやっている時のこと。
 
 春奈がお湯につかって、僕が体を洗っていると、春奈が言った。
 
 「石鹸の泡が湯船に入った」
 
 「そう?」
 
 別段そんなこと気にも留めていなかったので、半ばスルーする
ように答えると、
 
 「ごめんね言って」
 
と、責めてきた。
 
 思わず驚いて、
 
 「え?ああ・・・さーせん」
 
と、答えると、
 
 「それ軽すぎるわっ!」
 
と、ツッコまれてしまった。
 
 いや、思わず口から出た言葉ながら軽かったのは認めるよ。
 
 でも、それが軽い言葉だとわかってたのか?
 
 案外春奈も僕が思っている以上に、言葉の持つニュアンスと
いうものが理解できているようだ。

279 大国主に秘められた製鉄の性格 その1

2017年03月26日 23時44分01秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生279 ―大国主に秘められた製鉄の性格 その1―
 
 
 アシハラシコオに製鉄の性格を見ることができる、と言うのは先にお話しした2点です。
 垂仁天皇とホムチワケには製鉄の性格を見ることができ、そのホムチワケ伝承の中では、
アシハラシコオと呼ばれていること。
 『播磨国風土記』には、アシハラシコオがやはり製鉄の性格を持つというアメノヒボコと
争う神話がいくつか登場すること。
 
 このうち、1つ目についてはこれ以上の追究は不要かと思いますが、では問題は『播磨国
風土記』に描かられるアシハラシコオについて、になります。
 この『播磨国風土記』からアシハラシコオが製鉄の神であると読み取ることはできないか、
となると、アシハラシコオと同じくアメノヒボコと土地争いをする伊和大神に注目が必要となり
ます。
 アシハラシコオと伊和大神がともにアメノヒボコと土地争いを繰り広げるという共通項を
持つのなら、この両神は同じ性格と持っている可能性が高くなります。その性格とはつまり
製鉄なのですが、それでは『播磨国風土記』に伊和大神が製鉄神の性格を持っていると
思わせる神話が存在するのか、と問われたなら、たしかにいくつかそれが存在するのです。
 
 その前に、伊和大神が大国主と同神とされる理由を紹介したいと思います。
 もちろん、その理由はいくつかあるわけですが、やはり、伊和大神を祭神とすると言われる
兵庫県宍粟市の伊和神社が、祭神を大己貴神(オオナムチ神)としていることが大きな影響を
与えていると言えるでしょう。
 そして、伊和神社の裏山からは銅鐸が発見されているのです。このことからも伊和大神と
製鉄の関係を見て取ることができるというものです。
 
 なお、伊和神社の祭神オオナムチが伊和大神だといわれる理由は、『播磨国風土記』の
餝磨郡伊和の里の条には次のような伝承が記されているからです。
 
 「伊和部(いわべ)と名づけるは積嶓(宍禾)郡の伊和君らの一族がこの地に来て住み着い
たので伊和部になった」
 
 つまり、伊和氏という氏族名ならば、奉じる神は伊和大神にちがいない、ということなの
ですが、注目したいのは、伊和氏が積嶓郡、すなわち宍粟市から移って来たと記されて
いることです。伊和神社の鎮座する宍粟市からやって来たのだから、やはり伊和大神を
奉じていたのだろう、という論法です。
 
 しかも、その一方で、同じ『播磨国風土記』の讃容郡の条には次のようなことが記されて
いるのです。
 
 「筌戸。大神、出雲国より来られた時、嶋の村の岡にて腰掛を置き、坐して、筌(うえ=魚を
捕らえる道具)を川の中に置かれた。ゆえに筌戸とよばれる」
 
 この記事には大神としか書かれていませんが、これも伊和大神のことであろう、と言われて
います。
 そうすると、伊和大神は出雲からやって来たことになります。このために、伊和大神が
大国主と同神とされる理由のひとつになっているのです。
 
 さらに言うと、餝磨郡にはオオナムチの神話も存在します。これも伊和大神が大国主と
同神とされる理由のひとつになるのですが『播磨国風土記』の餝磨郡の条に登場する、
大汝命(オオナムチノミコト)の御子神、火明命(ホアカリノミコト)と、伊和大神の御子神、
伊勢津彦命(イセツヒコノミコト)に共通点が見られることも、大国主と伊和大神が同神と
なった理由のひとつでもあります。
 
 『播磨国風土記』の伝承では、その荒々しい性格のために父神のオオナムチから捨てら
れた火明命は、捨てられたことに気づくと激昂し、波風を起こしてオオナムチが乗った船を
追い迫っていった、とあります。
 
 一方の伊勢津彦は、「伊勢国風土記逸文」によれば、天日別命(アメノヒワケノミコト)に
敗れて東国に去って行きますが、その際には、大風が起こり、波が荒れ、海が昼間みたいに
明るく光り輝いた、とあります。
 
 その伊勢津彦は、「伊勢国風土記逸文」に、
 
 「出雲の神の子、イズモタケコノミコト(出雲建子命)、またの名をイセツヒコノミコト(伊勢津
彦命)、またの名をクシタマノミコト(櫛玉命)」
 
と、記されているので、これもまた、伊和大神が出雲の神であるとなった理由のひとつに
なります。
 
 ちなみに、『播磨国風土記』の餝磨郡の条の伝承では、大汝命が火明命を捨てた場所は、
因達の神山とあります。
 因達の神山とは、姫路市の八丈岩山のこととされていますが、伊和神社の社伝によると、
伊和神社の大神は伊和の地から因達の神山に遷され、その後に射楯兵主神社の祭神に
なった、とあります。
 ところが、その射楯兵主神社の祭神は射楯大神と兵主大神で、射楯大神とは五十猛命
(イソタケルノミコト)のことです。これは、五十猛命を祀る紀州の神社が伊達神社(いたて
神社、いだて神社)、出雲の神社が韓国伊太氐神社(からくにいだて神社)と称していることと
対応します。
 ただし、射楯兵主神社の社伝にも、飾磨郡伊和里にて祀られていた射楯大神を当社に
遷した、とあるので、その点においては、伊和神社の社伝と矛盾しないものになります。

その国の習慣にもチャレンジしよう

2017年03月19日 02時32分12秒 | 日記
2013年8月10日(土)(5歳4か月)
 
 
 さて現在1か月間のアメリカホームステイ中のりえ、一体どんな生活を
送っていることやら。
 
 まあ、少なくても風呂には入れていないわな。
 
 アメリカじゃシャワーだろうからな。
 
 アメリカでは、と言うよりも、まず入浴の習慣を持つ国の方が珍しい。
 
 今までうちにホームステイに来たゲストで風呂に入った子はいない。
 挑戦してもいいと思うけど。
 
 ゲストのうち、何人かはスーパー銭湯につれて行ったこともある。
 
 入浴を拒否したゲストはいなかったけど、人前で裸になることに対して
抵抗のあるゲストも少なくはなかった。
 
 その点、家の風呂ならひとりなのだから湯船につかってみたらいいと
思うのだけど、ちがうのかね。
 
 そういう面では、うちの子たちもそうだけどヒッポの子どもたちは、海外に
行っても日本には存在しないような現地の習慣にも普通にチャレンジ
できる子が多いようだ。
 
 その理由は、やっぱりヒッポの多言語活動なんだと思う。
 
 他の国の言葉を習得することは、その言葉を話す人たちを身近になる
ことでもある。
 
 それは、その相手を外国人と見做さず同じ人間として接することができる、
ということでもある。
 
 だから、えっ?と思うようなことでも、とりあえずやってみよう、と思えるのだ。
 
 だって、それはその国の人たちが普通にやっていることなのだから。
 
 で、りえは、今頃どんなことにチャレンジしてるのだろうね。
 
 土産話が楽しみだ。

278 大国主と垂仁天皇 その15

2017年03月16日 02時29分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生278 ―大国主と垂仁天皇 その15―
 
 
 『播磨国風土記』に見られる、アシハラシコオや伊和大神とアメノヒボコの土地争いは、単なる領地争い
ととらえることもできます。
 しかし、これを鉱物の採れる土地を巡っての紛争ととらえる説もあるのです。
 
 ただ、ここでひとつ注目しておかなければいけないことがあります。
 これらの伝承で、アメノヒボコと土地争いをするのは、アシハラシコオと、大国主と同神とされる伊和
大神なのです。
 つまり、大国主でもオオナムチでもなく、アシハラシコオである、ということです。
 大国主にはいくつかの別名があり、『古事記』では5つ、『日本書紀』では7つの名を持つ、と記されて
います。そして、記紀ともに、別名のひとつにアシハラシコオの名がある、と記しているのです。
 逆に言えば、それゆえについ『播磨国風土記』のアシハラシコオのことも大国主のこと、として見過ごし
がちですが、なぜアシハラシコオで統一されているのか、ということに関しては、これまであまり採り上げ
られることはありませんでした。
 しかし、すべてアシハラシコオと記されていることには何か意味があるはずです。
 
 では、まず『古事記』に登場するアシハラシコオについて見てみたいと思います。
 大国主は、はじめ大穴牟遅(オオナムチ)の名前で登場しますが、兄の八十神たちから迫害を受け、
根之堅須国(ねのかたすくに)にいるスサノオのもとに逃げ込みます。
 この時、根之堅須国でスサノオの娘、須勢理毘売(スセリビメ)とまず出会い、オオナムチとスセリビメは
その場で夫婦になります。
 それから、スセリビメが父のスサノオのところにオオナムチを連れて行くと、スサノオが、
 「この神は葦原色許男神(アシハラシコオ神)だ」
と、言います。
 それから、オオナムチはスサノオからの試練に、スセリビメの助けを得ながらこれを乗り越え、根之堅須
国を出ていく時に、スサノオから、大国主神と宇都志国玉神(ウツシクニタマ神)の名をもらうのです。
 
 そのため、根之堅須国にいる間がアシハラシコオの神話として捉えられているわけです。
 
 松前健(『日本神話の形成』)は、『古事記』に記されたこのエピソードとは成人儀礼である、と読み解きます。
 成人と認められるための儀式というものは世界中に見られるもので、その神話もまた世界中に存在します。
そして、それらは共通したストーリーが多く見られるのです。
 もっとも、松前健は、アシハラシコオのこの神話が海外から伝わったと見るよりは、世界中で同じような思想や
神話が、共通した考え、価値観の下に作り出されたのだ、と考えています。
 たとえば、アシハラシコオ(オオナムチ)が死と再生を繰り返すこと、長老(スサノオ)から試練を与えられること
などは、世界の神話に多く見られるパターンなのです。
 
 ただし、記紀神話以外で、大国主が受けたこの試練を伝える神話は残されていません。
 おそらく『古事記』の編纂者は、大国主という神を作り出す過程で、この成人儀礼のエピソードを挿入したものと
思われるのですが、では、この神話はまったく『古事記』の編纂者たちによる創作だったのか、と言えば、これも
おそらく元となる神話が存在したのでしょう。
 これは、ホムチワケ伝承にもその要素が見られるからです。
 
 ホムチワケは、もの言わぬ皇子でしたが、大国主の宮を訪ねることで言葉を発するようになり、これは一人前の
人間として成人儀礼を行ったものと解釈できるわけです。
 
 ここで注意したいのは、出雲においてホムチワケが、
 「アシハラシコオを祀る斎場」
と、言っていることです。
 出雲大神、あるいは大国主とは言わず、アシハラシコオと言っているところに、アシハラシコオと成人儀礼の
関連性を垣間見られるのではないでしょうか。
 言葉を発するようになったホムチワケが出雲で肥長比売(ヒナガヒメ)と一夜をともにするも、ヒナガヒメの正体が
実は大蛇で、あわてて逃げるホムチワケとそれを追うヒナガヒメ、命からがら大和に逃げ帰ったエピソードなども
成人儀礼のための試練ととらえることもできなくはありません。
 
 同時に、ホムチワケが、アシハラシコオと言っているところに、もうひとつの意味が隠されているような気がします。
 ここまで見てきたように、垂仁天皇とその皇子ホムチワケには、製鉄にたずさわる人々の姿が見え隠れしています。
 その垂仁天皇は、ホムチワケを大国主の宮に行かせ、その後出雲大社を新たに造営します。そして、大国主の
御子神で、やはりもの言わぬアジスキタカヒコ。
 これらが製鉄でつながっているとするならば、当然のことながら大国主もまた製鉄に関わっていなければなりませ
ん。
 そのことで言えば、記紀神話の大国主にはそのような製鉄との関連性は見られません。
 
 しかしながら、アシハラシコオに関して言うならば、製鉄との関連性が見られるのです。