大国主の誕生367 ―香坂王と忍熊王の反乱―
新羅から戻って来た神功皇后でしたが、日本では大きな問題が待ち
かまえていました。
香坂王(カゴサカ王)と忍熊王(オシクマ王)の反乱です。
14代仲哀天皇にはふたりの妻がいました。オキナガタラシヒメ
(神功皇后)と大中比売命(オオナカツヒメノミコト)です。
『古事記』も『日本書紀』もともにオキナガタラシヒメのことを
「皇后」と記していますが、本当は大中比売の方が皇后だった可能性
が高いのです。
なぜなら、仲哀天皇は景行天皇の孫ですが、大中比売も同じく景行
天皇の孫で、血筋で言えばオキナガタラシヒメよりもずっと天皇に近い
人物だからです。
歴史というものは戦争の勝者によって作られる、というのは有名な
言葉ですが。冷静に考えれば、オキナガタラシヒメ側が正統である
香坂王兄弟を滅ぼして政権を簒奪したと見た方が自然に思われます。
それはさておき、ここでは、『古事記』、『日本書紀』の記述に
従ってすすめていきたいと思います。
その大中比売命の系譜ですが、父は景行天皇の皇子、大江王です。
ところが大江王の母親については、前にも採り上げましたが、実に
おかしなことになっているのです。
大兄王の母親とは迦具漏比売(カグロヒメ)という人物です。
『古事記』はその系譜を記していますが、以下のような内容なのです。
仲哀天皇はヤマトタケルと布多遅能伊理毘売命(フタヂノイリビメノ
ミコト)との間に生まれていますが他にも異母兄弟たちがいました。
その中で、弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)が生んだ若建王
(ワカタケルノミコ)と名前がわからない「ある后」が生んだ息長田別王
(オキナガタワケノミコ)がいます。
若建王は、異母兄弟である息長田別王の孫娘、飯野真黒比売命(イイノ
ノマグロヒメノミコト)と妻にして須売伊呂大中日子王(スメイロオオナ
カツヒコノミコ)が生まれます。
この王、須売伊呂大中日子王の娘が迦具漏比売(カグロヒメ)なのです。
そして、この迦具漏比売が景行天皇の妃となって間に生まれたのが大江王
で、その娘が大中比売命というわけです。
つまり、ヤマトタケルの曾孫息長田別王の系譜で見れば6代目です)が、
ヤマトタケルの父景行天皇の妻になっているということなのです。
実に不思議な系譜ですが、『古事記』の応神天皇の后妃の項と混乱がある
ようです。
それと言うのも、応神天皇の妃のひとりにも迦具漏比売という女性がいる
こと、それに妃のひとり息長真若中比売(オキナガマワカノナカツヒメ)が
杙俣長日子王(クイマタナガヒコノミコ)の娘とあることです。
前出の、若建王が異母兄弟である息長田別王の孫娘、飯野真黒比売命
(イイノノマグロヒメノミコト)と妻にして須売伊呂大中日子王(スメイロ
オオナカツヒコノミコ)が生まれた、というところで省略しましたが、息長
田別王の子で、飯野真黒比売命の父である人物の名前が杙俣長日子王なの
です。
それでは系譜について語るのはこの辺りに留めておいて、帰国後の神功
皇后の物語に移ります。
九州の筑紫に戻った神功皇后はこの地で仲哀天皇の忘れ形見を産みます。
それが品陀和気命(ホムタワケノミコト)、後の応神天皇です。
実は、この皇子の兄として品夜和気命(ホムヤワケノミコト)を産んで
いたことが『古事記』には記されているのですが、『日本書紀』では、この
皇子は、仲哀天皇と、大酒主(オオサカヌシ)の娘、弟媛(オトヒメ=この
人物は『古事記』には見えません)との間に生まれたことになっています。
さて、ホムタワケを産んだ神功皇后は大和に向かいますが、大和では香坂王
と忍熊王の兄弟が皇位を奪うために待ち受けていたのでした。