小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

おさるさん、の謎

2019年06月04日 00時44分47秒 | 日記
2013年12月7日(日)(5歳8か月)


 歌の話をもうひとつ。

 家族で話をしている時、保育園の話題から、「保育園で習う歌」へと
話が移っていった。

 ゆうきとりえが、自分たちの保育園では『アイアイ』を習ったなあ、
と言ったところで、ふっと気が付いた。

 『アイアイ』と言えば、その歌詞が、


 アイアイ アイアイ おさるさんだよ


と、いうものだけども、今まで何も気にしていなかったことに気が
付いたわけだ。

 サルのことを「おさるさん」と言うのはなんでだろう?

 キリンさん、ゾウさん、といったように、動物にさんを付けることは
よくあるけど、おキリンさん、おゾウさん、とは言わない。

 なんで、サルだけ「おさるさん」なんだ?

 あれか?キリンやゾウよりもサルの方が古くから日本にいたから
親近感があるため?馬だって「おうまさん」って言うし。

 ・・・いや、やっぱり違うな。

 その理由なら、犬や猫だって、「おいぬさん」、「おねこさん」と
言うはずだから。あと、馬と同じく古くから家畜となっている牛のことも
「うしさん」と言っても「おうしさん」とは言わない。

 ・・・いや、待てよ。

 犬や猫の方がサルよりも人間の身近にいる。そのせいか愛称があるやん。

 わんわん・ワンちゃん、ネコちゃん、ニャンニャンなど。

 そうか、もしかすると、人の近くにいる存在から順に「ワンちゃん」、
「おさるさん」、「ゾウさん」といった呼び方に変わるとか。

 まあ、思いつきみたいな仮説にすぎんのだけど。

 あと、やっぱり馬は「おうまさん」なのに牛や豚には「お」を付けない
のはなぜだろう?

647 蘇我氏の登場その13

2019年05月27日 01時13分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生647 ―蘇我氏の登場 その13―


 『出雲国風土記』にある仁多郡三沢郷の伝承には、大穴持命(オオナモチノミコト)の御子、
阿遅須枳高日子命(アジスキタカヒコノミコト)が大人になっても夜昼泣いてばかりで言葉を
話すことはなかったので大穴持が、その原因を知ろうと夢占いをしてみた結果アジスキタカヒコが
言葉を発するようになった、という内容です。
 これを谷川健一(『青銅の神の足跡』)らは、指水銀中毒による言語障害だったと考察して
います。

 さらに、『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条には次のような一文があります。

 「今も孕める婦人はその村の稲を食わず。もし食う者があれば、生まれる子はもの言わざるなり」

 これと同じような伝承が三重県四日市市水沢町の足見田神社(あしみだ神社)に残されています。
それは、神域の東にオシミ田という地があり、ここで農耕する者は、口がきけない子を生む、と
いうものです。

 このふたつの伝承が似通っている、ということについて、偶然で片づけることができない理由が
あります。それは水沢がミサワと読むことができるからです。それに、水沢町は三重村の比定地でも
あるのです。
 三重村というのは『古事記』に登場する地名で、大和に帰るヤマトタケルが伊勢国三重村まで
来た時に、
 「わが足は三重の勾(みえのまがり=三重に曲げた形をした餅)のようになってしまい、大変
疲れた」
と、言ったので、この村は三重村と名付けられた、という話が記されています。

 この説話は三重村の地名の由来を語るものでもあるのですが、まったく同じと言っていいほどに
似通った話が『播磨国風土記』に登場するのです。

 「三重の里。昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰って食したところ、
足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。それが三重の名の由来である」

 どちらも足が三重に曲がってしまったためにそれが地名となった、という内容です。
 これも水銀中毒による歩行困難である、と前出の谷川健一は考察しています。

 さらに注目すべきは三重の里が播磨国賀毛郡(かも郡)に属するということです。
 と、言うのも、三沢郷の伝承に登場するアジスキタカヒコは、葛城は鴨の高鴨神社の祭神であり、
『古事記』の中ででも迦毛大神(かも大神)と記されているからです。
 もっとも、『播磨国風土記』には、賀毛郡の地名の由来について、応神天皇の時代、鴨村に
つがいの鴨が巣を作って卵を生んだことから、と書かれています。葛城の鴨とは何の関係もない、
ということになります。
 しかしながら、『播磨国風土記』は鴨村の地名の由来について、応神天皇がこの地を訪れた時に、
従者であった当麻の品遅部君前玉(ほむちべのきみさきたま)に2羽の鴨を射させたことから来て
いる、と記しているのです。さらには前玉が賀毛郡に土地を賜り、それが品遅部村である、と記して
います。
 なお、鴨村は『播磨国風土記』が編纂された時代には上鴨の里と下鴨の里のふたつにわかれて
いるのですが、下鴨の里には大汝命(オオナムチノミコト)が臼を作って米をついたとする伝承が
記されているのです。

 ここで、これまでのことを少し整理しますと、ミサワ(出雲の三沢と伊勢の水沢)には水銀中毒
による言語障害と思われる伝承があり、伊勢の三重村(水沢に比定)と播磨の三重里には水銀中毒
による歩行障害と思われる伝承がある、そしてそこには大国主と鴨のアジスキタカヒコ父子が関係
している、ということです。

 しかし問題はそれだけに留まりません。
 次に注目したいのは『播磨国風土記』の賀毛郡の地名の由来に登場する品遅部君前玉です。
 品遅部(ほむちべ)というのは、垂仁天皇の皇子ホムチワケノミコトから来ている、と伝えられ
ています。ホムチワケもアジスキタカヒコと同じく成人しても言葉を発しないもの言わぬ御子だった
のです。ですが、父の垂仁天皇が夢の中でお告げを受け、出雲大神の宮を訪問することで言葉が
話せるようになったのです。
 この出雲大神が大国主のことである、とは『古事記』には明確に記されていないのですが、
おそらく出雲大神は大国主、出雲大神の宮は出雲大社でよいと思われます。
 つまり、ここでも大国主がもの言わぬ御子が言葉を発せられるようになる存在として登場するの
です。

 それから、ホムチワケが出雲大神の宮を訪ねた時に、曙立王(アケタツ王)と菟上王(ウナカミ王)の
兄弟が付き従いますが、菟上王を祭神とする菟上耳利神社が水沢町と同じ四日市市に鎮座します。
また、曙立王を祭神とする佐那神社が三重県多気郡多気町仁田に鎮座します。
 注目すべきは仁田(にた)という地名です。『出雲国風土記』が伝えるアジスキタカヒコの伝承は、
出雲国仁多郡(にた郡)のものだからです。少なくとも多気町の仁田は「丹田」からきたものでは
ないか、と言われています。と、言うのも、三重県多気郡多気町には丹生という地名が存在し、
ここには丹生鉱山があって、1973年(昭和48年)まで採掘がおこなわれていたからです。

 さらにはもうひとつ、品遅部君前玉に関して、共通するふたつのことがあるのです。
 『播磨国風土記』は、この人物を「当麻の品遅部君前玉」と記します。倭直の祖、市磯長尾市に
よってよって大和に呼ばれた野見宿禰が当麻に所領を賜ったのが垂仁天皇の時代のできごと、ホムチ
ワケも垂仁天皇の御子。

 そういったところで話をまとめますと、大国主には水銀中毒を治す神として信仰されていた時期が
あったのではないか、それこそが吉野郡において大名持神社が最高位を授かっていた理由なのでは
ないか、ということになるのではないでしょうか。


 瀬戸内の海上ルートは単に海運や移動手段としてのみ存在していたのではなく、水銀をはじめ製鉄の
ネットワークも兼ねていたと考えられるのです。
 葛城氏の凋落後、物部氏は渡来系氏族の掌握とともにこの製鉄のネットワークも管理下におこうと
したと想像できます。
 が、しかし、歴史は物部氏の望むようには進まなかったのです。

646蘇我氏の登場 その12

2019年05月13日 01時40分38秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生646 ―蘇我氏の登場 その12―


 妙な、と言うと少し語弊がありますが、しかしながら不思議なほどの関係性が丹生川上
神社から広がるのです。その関係性とは水銀を軸とした倭氏と出雲です。
 ですが、そのことに触れる前に丹生川上神社について語っていきたいと思います。と、
言っても以前にも採り上げた内容ですので、ざっくりとおさらいです。

 丹生川上神社は、実は倭氏が祭祀を司る、奈良県天理市の大和神社(おおやまと神社)の
別社です。このことは大和神社の『大倭神社註進状』に「別社丹生川上神社」と記されて
いますし、『類聚三代格』のでも、大和神社神主の大和人成が、別社丹生川上雨師神について
解状を出したことが記されています。また『延喜式』の中にも丹生川上神社の祈雨神祭は
大和神社の神主が赴いて行う、とあるのです。

 別社とは言え丹生川上神社の社格は高く明神大社です。
 丹生川上神社が鎮座するのはかつての大和国吉野郡ですが、延喜式』の神名帳には、吉野郡に
神社は十座と記され、うち大社が五座、小社が五座となっています。つまり丹生川上神社は
五社ある大社のうちの一社となるわけですが、他の四社のうちの一社に金峯神社があります。
 社名にすでに金という言葉が含まれている金峯神社の祭神は製鉄の神とされている金山彦命
(カナヤマビコノミコト)なのです。

 吉野郡は丹(水銀)の採取地でもありました。『日本書紀』に登場する水無も吉野郡にあった、
と言われています。
 神武天皇は八十梟帥を攻略する際に、倭氏の祖シイネツヒコと宇陀のオトウカシに天の香具山の
社の土を採取させて上で、その土を使って天の平瓫(あめのひらか)八十枚を作らせますが、
次に神武天皇はこの八十平瓫を使って飴(たがね)を造らせます。
 飴(たがね)とは水銀と他の金属との合金と解釈されていますが、その飴を造った場所が水無
である、と『日本書紀』に記されているのです。
 興味深いのはシイネツヒコと行動を共にしたのがオトウカシであったことです。
 オトウカシは宇陀で神武天皇に従った土着の人物なのですが、宇陀には大和水銀鉱山が存在
するのです。

 『古事記』、『日本書紀』がともに記しますが、紀伊から大和に向けて出立した神武天皇の軍は、
吉野でイヒカ(『古事記』では井氷鹿、『日本書紀』では井光)という神に出会います。この神は、
光る井という名前が示すように、水銀の採坑を表わしていると考えられています。
 このイヒカが吉野首(よしののおびと)の祖である、と言うことも『古事記』、『日本書紀』
ともに記しています。つまりイヒカは吉野と非常につながりの深い神と考えられるわけですが、
このイヒカが葛城でも祀られているのです。
 葛城市の長尾神社では、水光姫命(ミヒカヒメノミコト)と白雲別命が一緒に祀られているのです。
 水光姫命はイヒカのことで、この名は神武天皇から与えられたものだといいます。
 ところが、この「葛城市の神社」というところに注意を向ける必要があります。
 実は長尾神社からさほど距離が離れていない所に当麻(たいま)のちがあるのです。
 当麻と言えば、『日本書紀』の垂仁天皇七年の記事に、野見宿禰が当麻蹴速(たいまのけはや)の
所有していた当麻の土地を賜ったとあります。
 この記事によれば、野見宿禰は出雲の人で、垂仁天皇の命を受けた市磯長尾市によって大和に
連れてこられた、とされます。

 土師氏は野見宿禰(のみのすくね)を始祖としますが、『日本書紀』の垂仁天皇七年の記事には、
野見宿禰が当麻蹴速(たいまのけはや)の所有していた当麻の土地を賜ったとあります。
 そのいきさつは、豪勇を誇った当麻蹴速と対等に闘える者をつれてまいれ、という垂仁天皇の
言葉により、倭氏の祖である市磯長尾市(いちしのながおち)が出雲から野見宿禰をつれてくるの
です。そして野見宿禰と当麻蹴速が闘い、結果野見宿禰が蹴速を打ち殺したので蹴速の所領を賜った
というものです。
 なお、野見宿禰は出雲の人と記されていますが、実際には因幡の人であったと考えられています。

 さて、吉野郡と丹生川上神社に話を戻しますが、『延喜式』にある吉野郡の大社五座のうち、
丹生川上神社の格は三番目になります。 
 と、言うのも貞観元年(859年)に丹生川上神社はそれまでの正四位下から従三位を賜って
いるのですが、同じ大社であるに吉野水分神は従五位下から正五位上に、吉野山口神は同じ従五位下から
従五位上に、金峯神は従三位勲八等から正三位に、そして残る一社が従一位から正一位を賜っている
からです。この中では従三位の丹生川上神社が三番目に高いことになるわけです。
 それでは最高位となる正三位を授かった「残る一社」ですが、それは大名持神社です。
 大名持神社の祭神は、大名持御魂神(オオナモチミタマ神)が主祭神で、須勢理比咩命(スセリヒメノ
ミコト)と少彦名命(スクナヒコナノミコト)が配祀されています。
 オオナモチとは言うまでもなく大国主の別名のひとつで、スセリヒメはスサノオの娘であり大国主の妻
です。そして、スクナヒコナは大国主とともに国作りを行った神です。つまりは出雲の神を祀っているの
です。

 それでは、なぜ吉野郡で出雲系の神々が祭祀され、その神社が吉野郡の神社の中で最高位を授かったのか、
残念ながらその理由は分からないのですが、ひとつの仮説として水銀採取を挙げることができるのです。

百滝桜

2019年05月08日 00時35分36秒 | 日記
 前々回に投稿した時に書きましたけども、不具合からブログにアクセスできないと
いう事態になりまして。本当はタイムリーに書きたかったネタがあったんです。

 GW明けという時期になってしまい、今さら感が半端ないんですが、桜の話です。
 去年の春に大阪府和泉市若樫町のソメイヨシノを紹介しました。その時に、ここ
若樫町には有名なエドヒガンザクラがある、と書いたんですね。
 この若樫町のエドヒガンザクラは百滝桜と呼ばれています。

 ただ、僕自身はこの百滝桜の花を見たことがなかったのです。
 と、言うのもエドヒガンザクラはソメイヨシノよりも少し早く咲くので、ソメイ
ヨシノが満開を迎えた頃に見に行ってももう百滝桜はピークを過ぎてしまっている
わけなのです。

 だけど今年、ついに百滝桜の花を見ることがかないました。
 さすがによく知られる存在だけあって見物に訪れる人が何人かいました。


 ちなみに百滝桜は国道170号沿いにあります。
 国道170号と言っても旧の170号の方です。国道170号には新旧の2本が存在し、
新の170号は外環状と呼ばれています。
 で、旧の170号は写真のように幅員の狭い道路です。



 枝が道路の上に伸びていっております。
 ただ、この写真からわかるように車で見に行った場合には迷惑駐車になってしまいますで
ご注意を。











 初めて花が咲いているところを見たわけですが、百滝桜の名で呼ばれているのも納得して
しまいました。
 なかなか満開の時に見に来ることが難しいので、今回見れてよかったです。

645 蘇我氏の登場 その11

2019年05月06日 01時31分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生645 ―蘇我氏の登場 その11―


 大和政権の難波進出の理由で忘れてはいけないのが海人系氏族とのネットワークの構築です。
実はここにも製鉄が関係しているのです。

 ただ、それについてお話しする前に、当時の難波について触れておきたいと思います。
 これまでにも何度かお話ししたことなのですが、古代における難波の地形は現在の大阪市と
大きく異なります。すなわち上町台地以外は海だったのです。大阪湾が現在の東大阪市まで
食い込んでおり、生駒山脈の麓までが海でした。それが、次第に土砂が堆積して上町台地の
周辺が陸地化していったわけですが、東側、つまり現在の東大阪市は内海と化し、やがて
淡水化して河内湖となったのです。
 大和政権が難波に進出した時代。現大阪市は大阪平野ができつつありましたが、内海は依然と
して存在していました。この内海(河内湖)は室町時代に至ってもなお巨大さを誇っていたと
伝えられ、江戸時代にもまだその一部を残していたとされています。

 さて、『古事記』や『日本書紀』によれば、神武東征の時に神武天皇が上陸した地を、

 「その地を名づけて盾津という。今では日下の蓼津(くさかのたてつ)という」(『古事記』)

 「河内国の草香(くさか)の邑の、青雲の白肩之津」(『日本書紀』)

と記します。ともにクサカであったとしていますが、これの有力な比定地が東大阪市日下町です。
記紀でそれぞれ「蓼津」、「白肩之津」と異なってはいるもののともに「津」とあることから、
おそらくは内海の東にあった港ではないかと考えられています。
 一方、現大阪市側の港と考えられているのが『日本書紀』応神天皇十三年九月の記事に登場
する「桑津邑」の桑津、同じく『日本書紀』仁徳天皇十四年十一月の記事に登場する猪飼津です。
 桑津は大阪市東住吉区桑津に、猪飼津は生野区勝山がかつて猪飼野と呼ばれていたことから
この付近に比定されています。

 これに対し、仁徳天皇の「難波の高津宮」の高津や『日本書紀』欽明天皇元年九月の記事にある
「難波祝津宮(はふりつ宮)」の祝津は瀬戸内海に面した港であったとされます。
 ただし詳しいことはわかっておらず、いわゆる難波津と高津、それに祝津が同じものかもしくは
別のものかについてもはっきりとしません。
 とは言え、当時難波の瀬戸内に開いた港は難波津と住吉津のふたつが知られており、その場所に
ついては、難波津が生国魂神社(天王寺区生玉町)の西側、住吉津が住吉大社(住吉区住吉)の
西側とするのが有力です。


 少々港の説明が長くなってしまいましたが、難波津、住吉津は難波の玄関口であり、物流の船や
移動手段としての船が入出港を繰り返していたのでしょう。しかし、その一方で、難波の玄関口で
あるためその防衛も必要だったのです。
 『古事記』では、妻のアカルヒメを追いかけて天之日矛(アメノヒボコ)が難波に入ろうとした
時に渡の神が塞いだために上陸を諦めて但馬へ行き先を変える場面が出てきますが、この逸話も
海人系氏族による難波の海上防衛を意味するものではなかったでしょうか。
 もう一方の住吉津ですが、住吉大社に縁があるとされる津守氏がこの地におり、その氏族名から
港の管理や防衛を担っていたものと考えられます。

 これまでにも何度か採り上げましたが、応神・仁徳天皇の次に皇位に就いた履中天皇の同母弟で
あるスミノエノナカツミコ(『古事記』では墨江之中津王、『日本書紀』では住吉仲皇子)が謀反を
起こした時に、阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)と倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)が
スミノエノナカツミコに加担しています。
 阿曇氏も倭氏もともに海人系氏族と言われており、特に阿曇連浜子の場合、自らを「淡路の野嶋の
海人」と称しています。また、『日本書紀』の応神天皇三年十月の記事に、

 「処処(ところどころ)の海人が命に従わったので、阿曇連の祖、大浜宿禰を遣わしてこれを
平定した。よって海人の宰(みこともち)とした」

とあり、海人系氏族であることが明らかです。
 倭氏が海人系氏族と言われるのは、その始祖が神武東征の際に海上の道を案内したという伝承と、
『日本三代実録』に、阿波国名方郡の海直豊宗や海直千常ら海直氏7人に大和連の姓を賜った、と
記されていることによるものです。
 その記事で、阿波国名方郡にいた海直(あまのあたい)一族の賜った姓が大和連(やまとのむらじ)
というのは、海直が倭氏(大和氏)の流れを汲む氏族であったからだと思われるわけですが、それなら
倭氏の中から海氏(あま氏)を称する者たちがいた、すなわち倭氏は海人系氏族であったのではないか、
と考えられるのです。

 倭氏の一族がいたのは阿波国名方郡であり、国内で発見されたものの中でもっとも古い鉱山遺跡で
ある若杉山遺跡は阿波国那賀郡。郡は違いますが同じ阿波国であり、しかも若杉山遺跡が丹の採掘場
であったのに対して倭氏も丹に関わっていたようなのです。
 製鉄のネットワークと海人系氏族がつながるのです。

 倭氏が丹に関わっていたというのは、『日本書紀』に登場する記述と丹生川上神社の祭祀による
ところです。ただ、ここに妙なことがあります。