小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

624物部氏と出雲 その12

2018年03月19日 00時33分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生624 ―物部氏と出雲 その12―


 ただし、刈羽井については京田辺市大住の他にも綴喜郡井手町とする説もあります。
 その大住の東、井手町の北に位置するのが旧青谷村(現在の京都府城陽市)です。

 以前にも青谷村に関する谷川健一(『青銅の神の足跡』)の見解を紹介したことが
あります。青谷村は現在では城陽市に含まれて今では存在しておりませんが、かつての
青谷村が存在していたところには今も市辺という地名が残されているのです。谷川健一は、
これは市辺之忍歯王(イチノベノオシハ王)から来たものであり、また大柴という地名も
あり、これは忍歯からきたものだと考察しています。
 さらには、青谷村という地名についても、市辺之忍歯王の妹、忍海飯豊青尊に由来
するかもしれない、と推測しています。
 青尊は一名を青海皇女といいましたが、福井県大飯郡高浜町青と地新潟県加茂市に
青海神社(あおみ神社)が鎮座します。

 ふたつの青海神社と青尊の関連については、以前に採り上げたところでもあり、また
今回の主題とは直接の関係がないため割愛させていただきますが、新潟県の青海神社が
加茂市に鎮座していること、神社の周辺の地名が加茂であり、これは鴨縣主に関連して
いるものとされています。
 岐阜県美濃加茂市もそうでしたが、新潟県加茂市も鴨縣主と結びついているようです。
綴喜郡を含む南山城が、鴨縣主が平安京へと進出していくルート上にあることを考えると
単なる偶然とは思えないのです。

 さて、阿曇氏ら海人を考察した時に、城陽市の水度神社(みと神社)と水主神社
(みずし神社)の関係について、を採り上げました。
 水度神社の祭神は天照大御神と高御産霊神(タカミムスヒ神)、少童豊玉姫命(ワダツ
ミトヨタマヒメノミコト)の三神で、ただし天照大御神の祭祀は後世に追加されたもので
元々は高御産霊神と豊玉姫命の二神であったらしい、とその時にも紹介しましたが、
しかしながら、なぜ豊玉姫が祀られているのか、という理由については深く考察しない
ままでした。
 それが、服(はた)から見ると、そのつながりがおぼろげながらも現れてくるのです。

 三重県松阪市には神服織機殿神社(かんはとりはたどの神社)と神麻績服殿神社(かん
おみはたどの神社)が鎮座します。
 この両社は皇大神宮(伊勢神宮の内宮)の所管社で、現在も続く伊勢神宮の神御衣祭
(かんみそさい)に関わります。
神御衣祭とはと、毎年5月と10月に、内宮の御正宮と荒祭宮に和妙(にぎたえ=絹織物)と
荒妙(あらたえ=麻織物)の2種類の神御衣を奉る祭礼のことで、御衣祭(おんぞさい)
とも呼ばれているものです。
うち、和妙は神服織機殿神社に、荒妙は神麻績服殿神社に奉織されます。
 『倭姫命世記』には、

 「麻績の郷と名づくるは、郡の北に神あり。この神、大神の宮に荒妙の衣を奉る。
神麻績の氏人等、この村に別れおりき。よりて名となす」

と、あり、荒妙の衣に従事する人々は麻績の郷に居住していたというのです。

 さて、製鉄に関するところで何度となく採り上げたように、伊勢国は物部目大連らに
よる朝日郎討伐や天日別命による伊勢津彦討伐の伝承があり、「青」に関連する青墓や
青谷村、青海神社のつながりなど、非常に重要と思われるキーワードが多く存在するの
です。

 天日別命(アメノヒワケノミコト)は、阿波の忌部氏の祖、天日鷲命(アメノヒワシノ
ミコト)とその名が似ていることから同神ではないか、ともいわれています。
 忌部氏は伊勢国にもおり、伊勢の忌部氏の本貫は伊勢国員部郡(いんべ郡)とされて
います。
 一方、阿波忌部氏の本貫は阿波国麻植郡といわれています。これは旧の麻植郡である
吉野川市に天日鷲命を祀る忌部神社と、その父神の天村雲神(アメノムラクモ神)と
伊自波夜比売(イジハヤヒメ。伊志波夜比売とも)を祀る天村雲神社が鎮座するからです。
 ちなみに忌部神社は『延喜式』に載る式内社忌部神社に、天村雲神社は天村雲神衣自波
夜比売神社の論社です。
 そして、麻植郡と同じ阿波国の名方郡に、豊玉比売の名を冠した天石門別豊玉比売神社と
和多津美豊玉比売神社が鎮座するのです。大和岩雄(『神社と古代民間祭祀』)によれば、
この両社のうち天石門別豊玉比売神社は忌部氏に関わる神社であるといいます。

 ここで思い出していただきたいのが、豊玉比売の名を冠した式内社が阿波国にあるこの
ふたつの神社だけであり、豊玉比売の妹、玉依比売(タマヨリヒメ)の名を冠した式内社が
長野県長野市の玉依比売命神社だけであること。それから、豊玉比売と玉依比売の姉妹神は
綿津見神の娘なのですが、綿津見神の女婿である建御名方神の名を冠した神社が阿波国
名方郡の多祁御奈刀弥神社(たけみなとみ神社)と長野市の建御名方富命彦神別神社(たけ
みなかたとみのみことひこかみわけ神社)、それから飯山市の建御名方富命彦神別神社で
あること。すなわち、どちらも阿波と信濃のみ存在するということなのです。
 そして、建御名方神信仰の総本家が諏訪大社も信濃に鎮座しています。

 阿波と信濃を繋ぐものは、海人や製鉄にたずさわる人々ですが、ただ、なぜ阿波忌部氏が
豊玉比売の祭祀に関係しているのか、ということについては追及してこないままでした。
 しかし、ここに物部氏を加えるとどうなるでしょう。
 先述の、イカガシコオを祀った伊加加志神社は忌部神社と同じ阿波国麻植郡に鎮座するの
です。
 海人や製鉄の人々と伊勢国が大きく関わっており、忌部氏も伊勢に関わっている。そして、
物部氏もまた伊勢に進出していった。さらには鴨氏の存在。
 いろいろなことが物部氏と重なり、そしてつながっていくのです。
 とは、言えまだまだたくさんの謎は残っています。
 そのひとつが、なぜこれほどにまで出雲系の神々との結びつきが強いのか。というものが
あります。
 これは、海人系氏族が出雲系の神々の信仰と結びついていたからだけではないように思え
ます。

623 物部氏と出雲 その11

2018年03月05日 00時25分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生623 ―物部氏と出雲 その11―


 旧三島郡で、現在の大阪府高槻市に鎮座する式内社の阿久刀神社を紹介したいと思います。
と、言っても阿久刀神社については以前にも採り上げたことがあるのですが。
 阿久刀神社の祭祀氏族と祭神についてはよくわかっていません。現在の祭神は住吉神ですが、
本来は別の神を祀っていたと言われています。

 まず、祭祀氏族については、ニギハヤヒの子孫であり、物部氏とは同族となる阿刀連(あとの
むらじ)とする説や、調連(つきのむらじ)とする説などがあります。
 このうちの、調連を祭祀氏族とする説に関連して、祭神を調連阿久太(つきのむらじあくた)と
する説もあります。
 阿久太は『新撰姓氏録』によれば顕宗天皇に絁絹を献上したとあり、養蚕、織物にたずさわる
氏族だったようです。
 しかし、注目するべきは阿久太の祖父にあたる努理使主(ぬりおみ)です。
 この人物は百済よりやって来た渡来人とされ、一説には周から来たともいわれ、『古事記』に
登場する奴理能美(ぬりのみ)と同一人物だとされています。
 『古事記』では、奴理能美は韓人で山城国綴喜郡に住み、蚕を飼っている人物と記されている
ので、やはり渡来人で養蚕にたずさわっていたということです。
 そして、重要なことには奴理能美が仁徳天皇の時代に活躍した人物だという点です。
 つまり、「伊予国風土記逸文」にある、大山津見神が仁徳天皇の時代に百済より渡ってきた、
という記述と同じことが奴理能美に当てはまるわけです。

 さて、阿久刀神社と古くから神輿渡御を交すなどの交流があったのが、同じ高槻市に鎮座する
式内社の神服神社(かむはとり神社)です。
この神社は服部連(はとりのむらじ)の創建と伝えられており、服部とは衣を織る職業集団です
から、この服部連が三島木綿に携わっていたのではないか、といわれています。
 阿久刀神社の祭祀氏族が仮に調連であったとするならば、絹織物にたずさわる調連と服部連が
つながりを持つのも決して不思議ではないのですが、ここに、同じく織物にたずさわる氏族に
長幡部(ながはたべ)がいます。

 『常陸国風土記』の久慈郡太田の郷に長幡部神社(ながはたべ神社)の項には、

 「長幡部の祖先の多弖命(タテノミコト)が美濃から久慈に移り機殿(はたどの=はた織り機の
置かれた製作所)を造った」

と、いう一文が記されています。
 ただ、長幡部氏の祖について『古事記』の開化記には、

「神大根王は、三野国(美濃国)の本巣国造、長幡部連(ながはたべのむらじ)の始祖」

とあり、長幡部連の祖を神大根王(カムオオネ王)としています。
 しかしながら多弖命が「オオテのみこと」と読むことができることから、神大根王と多弖命は
同一人物ではないかと言われています。

 なお、神大根王は日子坐王(ヒコイマス王)の子ですが、その日子坐王を祭神とするのが岐阜県
美濃加茂市に鎮座する縣主神社(あがたぬし神社)です。
 縣主神社の鎮座地は、美濃加茂市西町ですが、かつての地名は加茂郡太田町でした。
 この地名から思い起こされるのが、少し前にも紹介した『播磨国風土記』の伝承です。

 「昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡り来て、はじめ紀伊の名草の郡の大田に留まった。その後、
分かれて摂津の三嶋の賀美の郡大田に移り住んだ。それがまた分かれて揖保の郡の大田に移り
住んだ。(『播磨国風土記』揖保郡の項)」

 さらには先述の長幡部神社も、『常陸国風土記』に、

「太田の郷に長幡部の社あり。珠売美万命が天より降った時に、その御服を織るために従って
一緒に降った綺日女命を祀る」

と、記されています。
 そして、美濃国の縣主神社にも大田の地名が登場するのです。それも加茂郡太田。おそらく
鴨氏が拠点を置いたものと思われるのですが、縣主神社という社名からこちらの鴨氏は鴨君では
なく鴨縣主の方ではないか、といわれています。
 しかし、それはそれで非常に興味深いところではあるのです。
 なぜなら、鴨縣主は鴨君と同じく大和国葛城の鴨が出自とされていますが、その後山城国
相楽郡に拠点を遷し、さらに平安京に拠点を遷すからです。
 相楽郡の拠点とは、旧加茂町(現在の木津川市加茂町)で、奴理能美の拠点である綴喜郡と
近い距離にあったのです。

 『古事記』には、第11代垂仁天皇の妃のひとりに弟刈羽田刀弁(オトカリハタトベ)という
女性の名が記され、『日本書紀』の方には綺戸辨(カニハタトベ)という妃が登場します。
どちらも山城国の女性と記されていることから、綴喜郡苅羽井(後に樺井。現在の京田辺市大住に
比定)の女性ではなかったといわれていますが、注意すべきは、『古事記』と『日本書紀』で
その名が異なりながらも、どちらも名前に「ハタ」という語が含まれている点で、これは服(はた)
との関連性を思わせます。
 しかも、『日本書紀』の方の綺戸弁(カニハタトベ)という名は、長幡部神社の祭神綺日女命
(カムハタヒメノミコト)を連想させるものでもあるのです。