小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ごはんあげてる

2014年06月30日 00時20分35秒 | 日記
2011年8月30日(火)(3歳5か月)


 僕が晩ごはんを食べていると、春奈が、

 「お母さんがいつもお父さんにごはんあげてる」

と、言った。


 オレは飼い犬かよ。

 それを言うなら、「お母さんがいつもお父さんにごはん
作ってる」やろ。

 日本語は難しいよ。

 春奈が生まれたばかりの頃に、家族みんなでお出かけする
時に、ゆうきが、

 「春奈も持ってきてな」

と、言ったことがあった。

 新生児をひとり家に置いていくわけはないのだけど、そん
なことより、「持ってきて」はない。「連れてきて」やろ。

 日本語は、人に対する言葉と、動物や物に対する言葉が違う
のだよ。

 そんな春奈今日で満3歳5か月。

212 物部氏とタケミナカタ

2014年06月30日 00時14分53秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生212 ―物部氏とタケミナカタ―


 ここで、少しこれまでのことを整理してみましょう。
 これらの3つの神話を並べてみると次のようになります。

 ①建御雷命と建御名方命(『古事記』)
 ②天日別命と伊勢津彦命(「伊勢国風土記逸文」)
 ③物部莵代、物部目と伊勢朝日郎(『日本書紀』)

 このうち、①と②は、敗者がそれまでいた土地を出て信濃に遷る、という
ものです。
 この点では、③のエピソードのみ、それまでの地主神が討伐側に討たれる
という最期をむかえているところが異なります。

①と②の共通点をもう1つ挙げると、タケミナカタもイセツヒコも、ともに
大国主の御子神とされている点です。
 タケミナカタが大国主の子であることは『古事記』に記されているとおり
なのですが、イセツヒコも大国主の子である、というのは、『伊勢国風土記』
の別のいつ分の中に「出雲の神の子」と記され、また別名が出雲建子命とあ
ること、それに『播磨国風土記』に伊和大神の子と記されているからです。

 伊和大神を祀るのは、播磨国一宮である伊和神社とされていますが、この
神社の祭神は大己貴(オオナムチ)となっており、つまり伊和大神は大国主
と同神ということです。
 もっとも、多くの研究者たちはオオナムチとは別の神としていますが、
『播磨国風土記』において、伊和大神は、大国主の別名とされるオオナムチ
やアシハラシコオと共通した伝承をもち、また「出雲から来た」と記されて
いるのです。
 さて、その『播磨国風土記』の揖保郡伊勢野の条に、

 「山の峯に坐す神は、伊和大神の御子、伊勢都比古命(イセツヒコノミコト)
と伊勢都比売命(イセツヒメノミコト)」

と、あるのです。

 信濃におけるタケミナカタの祭祀には、安曇氏が関係しているようですが、
タケミナカタの原郷と考えられる阿波国名方郡にも安曇氏がいました。
 安曇氏がタケミナカタの祭祀に関わっているというのは、タケミナカタの
妻が、安曇氏の始祖綿津見神(ワタツミの神)の御子神であることにその理由
がありそうなのですが、阿波の忌部氏もワタツミ系の祭祀に関係している
ようです。


 忌部氏は阿波の他にも伊勢や信濃にもいました。
 忌部氏の始祖は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)なのですが、このアメノ
ヒワシと②の天日別命はともに天村雲神(アメノムラクモの神)の御子神なの
です。
 そして、アメノヒワケを始祖とする氏族に、伊勢の度会神主や伊勢国造が
いるのです。

 伊勢が関係している以上、③の伝承もこれらと大きく関わってくることに
なります。
 この③の伝承ですが、前回にお話したとおり、物部氏は采女の伝承と関わり
があり、伊勢の三重の采女が歌った歌は、『古事記』では、「天語歌(あまが
たりうた)」と呼んでいます。
 このことから、天語氏もこれに関係していると思われるわけですが、天語氏も
『新撰姓氏録』によれば、阿波忌部氏と同じくアメノヒワシを祖としているの
です。
 さて、その天語歌は、『古事記』に登場する、八千矛神こと大国主が高志の
沼河比売(ヌナカワヒメ)との間に交わした恋文のやりとりとよく似ています。
 この点が重要なのです。
 なぜなら、大国主と高志のヌナカワヒメとの間に生まれたのがタケミナカタ
だからです。

 つまり、物部氏もまたタケミナカタと結びつくわけです。

スカートかわいい

2014年06月29日 00時16分44秒 | 日記
2011年8月29日(月)(3歳4か月)


 春奈には珍しく今日はスカートをはいている。

 本人も気に入ったらしく、僕に向かって、

 「スカートかわいい」

と、言った。

 ん?それ何?

 スカートをはいてる自分がかわいい、と言いたいのか?

 それともスカートそのものがかわいいと言いたいのか?

 もし後者ならおかしくない?スカートがかわいい、って・・・と、
思っていて、おや?と気づいた。

 そう言えば女の子は、よく「この服かわいい」とか言うよなあ。

 でも、これって男は使わない。

 男と女では服に対する感覚そのものが違うのか?

 今まで気にしたことすらなかった。

 「かわいい、っていう感覚がある、ってのは、やっぱり服に興味
とかあるんかな?」

と、みんたに話しかけると、

 「そうとちゃう?よく(この服は)かわいい、とか言うてるし」

との返事。

 やっぱり。

 うーん、さっき僕は男の子にはそういう感覚はない、と言ったけど、
反対に、「この服は女の子っぽいからイヤ」とか「まるでお坊ちゃん
みたいでイヤ」的な、否定の感覚は持っている。

 女の子と正反対だけど、どちらも、主観的ながらも「一般的にみて
○○だろう」みたいな判断が行われているってことなんじゃないかな。

 だんだんと「みんながどう思うか?」という感覚が生まれ、「みんな
の中にいる自分」というものがベースとしてできつつあるのかもね。

メキシコでのパーティ

2014年06月28日 00時26分40秒 | 日記
2011年8月28日(日)(3歳4か月)


 きのうはおばあちゃんのお通夜で今日はお葬式。

 春奈もお骨入れに参加した。本人はよくわかっていない
ようで、箸で何かをつまんで壺に入れる、という行為とし
か思っていない様子だった。

 たぶん周りのみんながしているから自分もやりたくなっ
たのだろうけど、おばあちゃんだって曾孫に骨入れして
もらったならきっとうれしいだろうから、春奈の体を抱き
上げて骨入れをさせてやった。


 ところで、きのうのお通夜で、子供たちが場馴れしている、
とみんなから言ってもらった話だけども。

 親戚と言ったって、そのほとんどの人は子供たちが初めて
会う人や昔に1、2度会ったことがある程度だ。しかも、子供
はうちの3姉妹だけ、という状況だ。

 そんな中で子供たちは自然に周りの大人たちと接している。

 きのう、僕は、これをヒッポの活動のおかげだろう、って
言ったけど、僕にはホームステイでちょっとした思い出がある。

 それは昔メキシコにホームステイした時のことだ。

 12月31日の夜に、僕のホスト家族の親戚たち総勢約30人
が集まるパーティがあった。

 みんなが楽しく談笑する中、僕はひとりでポツン。

 だって、みんな身内だし、僕はそうじゃないし日本人だし、
それにスペイン語がペラペラじゃないし・・・。

 そんな風に、僕は自分で自分を部外者の立場に追いやって
しまっていた。

 それが、途中で開き直ってみんなの中に飛び込んでみたら・・・
自分でも知らないうちにスペイン語でみんなと一緒に楽しんでいた。

 周りにいる人たちと一緒に、というのはヒッポの活動そのものだ。

 この時に僕がしたことは、普段ヒッポでやっていることそのまま
だった、というだけのこと。


 今回、子供たちがしていたことだって、周りはみんな大人だけど
自分たちは子供、だとか、知らない人ばかりだし、「自分はちがう
」なんて思わない、それだけのこと。

 でも、それが自然にできるところが、こどもはすごいよなあ。

211 物部氏と伊勢と采女

2014年06月28日 00時21分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生211 ―物部氏と伊勢と采女―


 この伊勢津彦と似た話が、物部氏の伝承として『日本書紀』に載せられ
ています。それがこの記事です。

 「雄略十八年に、物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎(あさ
けのいらつこ)を討たせた。
 朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は二重
の鎧も貫くほどの威力だったので、官軍は攻めることができず、2日間対峙
したままだった。  
 そこで、物部目連が筑紫の聞物部大斧手とふたりで攻めこんで朝日郎を
斬った」

 このように、物部氏が伊勢朝日郎を討伐する話なのですが、伊勢津彦の話
とよく似ているのです。
 伊勢津彦も伊勢朝日郎も、ともに伊勢の地主神だったのでしょうが、伊勢
 朝日郎という名は、伊勢国朝明郡に関係するものと思われます。
 朝明郡は員弁郡の隣に位置し、伊勢船木氏の本拠とされているところです。

 ところで、物部莵代宿禰と物部目連が伊勢の朝日郎を討つ話であるが、これ
は雄略天皇の時代のこととなっています。
 同じ雄略天皇の時代のこととして、『古事記』には、伊勢国の三重の采女が
雄略天皇に大盃を捧げ奉った時に、その大盃に百枝槻の葉が落ちたことに気付
かないまま采女が差し出したため、天皇が激怒し、采女の首に刀を当て、今
まさに切ろうとしたところ、采女が、壽ぎ(ことほぎ)の歌を歌ったので、
天皇はその罪を赦した、というエピソードが載せられています。

 ただ、この歌の最後の詞は、「事の語り言も是ば(事の語り言として、この
ことを申し上げます)」となっています。
 これは、『古事記』で、八千矛神(大国主)が、高志の沼河比売(ヌナカワ
ヒメ)に贈った求婚の歌の最後が、
 「海人駈使が、事の語り言も是ば」
と、なっていること、また、八千矛神(大国主)がこのことを知った正妻のスセ
リビメに贈った歌の最後が、
 「事の語り言も是ば」
となっていることとまったく同じです。

 伊勢の三重の采女が歌った歌を、『古事記』は、「天語歌(あまがたりうた)」
と呼んでいます。
 すると、天語氏がこれに関係していると思われるのです。
そして、この天語氏も『新撰姓氏録』によれば、阿波忌部氏と同じくアメノヒワシ
を祖としているのです。

 天語歌には天語氏の他にも関係していると思われる氏族がいます。婇(うねめ)
氏です。

 婇氏は采女を統括する氏族であったといわれていますが、『古事記』は、ニギハ
ヤヒの子宇摩志麻遅命(ウマシマヂノミコト)を、

 「物部連、穂積臣、婇臣の祖なり」

と、記しており、婇臣と物部氏は同族ということになります。

 『日本書紀』の雄略元年3月の記事には、雄略天皇が童女君(おみなぎみ)と
いう元采女に生ませた女の子(後に仁賢天皇の皇后となる春日大娘皇女)をわが子
と認めなかったものを、物部目大連が、認めさせた、というものがあります。
『日本書紀』では、雄略天皇の時代のこととして、物部氏や物部(当時の警察官の
ような職務を務める人々のこと)が絡む采女の伝承として、上の記事と合わせて
4つのエピソードを載せているのです。

 このことからも、采女を統括する婇氏と物部氏が強く結びついていたとみられ
るのです。

 しかし、ここで問題となるのが、先ほどお話しした天語歌なのです。