小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

394 津守氏と倭氏のつながり

2015年05月31日 00時44分44秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生394 ―津守氏と倭氏のつながり―
 
 
 では、あらためて『日本書紀』の香久山の土を取る話と、『住吉大社神代記』を比べて
みましょう。
 
 『日本書紀』では香久山の土を取りに行くのがシイネツヒコとオトウカシで、ふたりは
老人に変装し、蓑笠をかぶるという姿で赴きます。その姿恰好を見た敵の兵士たちは、
「ずいぶんと醜い年寄りたちだ」と、嘲笑する場面が描かれています。
 
 『住吉大社神代記』では香久山の土を取りに行くのは古海人老父(こあまのおきな)と
為賀𥿻悉利祝(いかしりのはふり)で、姿恰好は田の蓑・笠・簸を着て、「醜き者として
遣わして」と記されています。
 
 どちらも香久山の土を取りに行くのは神託で「香久山の土で天の平瓫を造れ」とあった
ためです。
 
 『住吉大社神代記』で香久山の土を取りに行くのが古海人とあるのは注目に値します。
 『日本書紀』で香久山の土を取りに行くシイネツヒコは、『日本書紀』、『古事記』ともに
倭氏の始祖と記しているのですが(『古事記』ではサオネツヒコ)、シイネツヒコが神武
天皇に従うことになった由来は、『古事記』も『日本書紀』も、大和に向かう航路にあった
神武天皇の前に、海上をシイネツヒコがやって来て海上の道案内を務めたことに始まる
のです。
 このようにシイネツヒコには海人の性格も見られるのです。
 
 ところが、倭氏の始祖について、『古事記』、『日本書紀』とは異なる伝承が存在する
のです。
 津守氏と丹比氏が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホア
カリクシタマニギハヤヒノミコト)五世の孫建筒草命を祖とする、ということが『先代旧辞
本紀』に記されていることは前にもお話ししました。
 しかし、その『先代旧辞本紀』と丹後の籠神社に伝わる『海部氏勘注系図』には、倭氏に
ついて、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊から始まる氏族である、と記されているのです。
 それによれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の孫の、天村雲神と丹波の伊加里姫命
との間に生まれた倭宿禰命という神が倭国造の祖とあります。
 この倭国造が倭氏のことであることは、『日本書紀』にも、
 
「珍彦(註:シイネツヒコのこと)をもって倭国造とす」
 
と、記されているところです。
 
 つまり、倭氏は津守氏や丹比氏と同族というわけです。
 
 それにしても、伊加里姫命という名前は為賀𥿻悉利祝や坐摩神社(いかすり神社)を
連想させるものですが、「山城国風土記逸文」にある、賀茂建角身命の妻、丹波の神野の
伊可古夜日女を思わせる名前でもあります。

また、って言うけども

2015年05月30日 02時09分08秒 | 日記
2012年8月31日(金)(4歳4か月)
 
 
 夏休みの最後に、家族全員で神戸のファミリーに
行くことになった。
 
 神戸に向かって阪神高速湾岸線に車を走らせて
いると海遊館の近くを通った。
 
 海遊館は大阪を代表する観光地のひとつでもある
けど、まず目に入るのが巨大観覧車である。
 
 車の窓から海遊館のその観覧車が見た春奈が
言った。
 
 「春奈また観覧車乗る」
 
 いや、お前観覧車に乗ったことないし。
 
 春奈の「また」はagainの意味ではない。
 
 何と言うか・・・「近いうちに乗るぞー」という意気込み
みたいな意味で「また」を使う。
 
 英語のLet‘sに近いかもしれない。
 
 まだまだ春奈の日本語も少し使い方がおかしな
ところがあったりする。

393 津守氏と丹比氏と海人

2015年05月29日 02時40分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生393 ―津守氏と丹比氏と海人―
 
 
 住吉大社の司祭氏族である津守氏は、『先代旧辞本紀』によれば天照国照彦天火明
櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)五世の孫
建筒草命を祖とする、とあります。
 
 その『先代旧辞本紀』によれば、丹比連も同じく建筒草命を祖にする、とあります。
 丹比氏には、この丹比連の他に、丹比君、丹比宿禰などの氏族がいますが、このうち
丹比君は『古事記』や『日本書紀』に、宣化天皇の系譜と記されているので丹比連とは
別系統の氏族なのでしょう。
 
 問題となるのは、丹比氏の本貫が河内国丹比郡である、ということです。
 丹比郡と言えば、葛城と難波をつなぐ丹比道が通る地であり、葛城曾都毘古の娘、
石之日女命が生んだ反正天皇ゆかりの地でもあるからです。
 住吉にゆかりがあると思われるスミノエノナカツミコの反乱の際に津守氏がこれに
加担した形跡がないのも、津守氏が葛城氏と結びつきがあったからだと思われます。
(スミノエノナカツミコが殺害しようとした履中天皇も石之日女命が生んだ御子です)
 
 旧丹比郡には丹比神社(堺市美原区)が鎮座します。ここの祭神は火明命と反正天皇
です。
 この神社には、反正天皇の産湯に用いたという伝承を持つ井戸があります。
 『日本書紀』には、
 
 「天皇、初め淡路宮(たじいの宮)に生まれませり。生れましながら歯、一つの骨のごとし。
容姿美麗。ここに井あり。瑞井(みつのい)という。すなわち汲みて太子を洗いまつる」
 
 『新撰姓氏録』に、
 
 「丹比宿禰。仁徳天皇の御世、皇子瑞歯別命(ミズハワケノミコト=反正天皇)淡路宮に
誕生の時、淡路の瑞井をもって、御湯にそそぎ奉る」
 
と、記されています。
 なお、文中にある淡路宮については、「あわじの宮」、つまり淡路島にあったとする説も
あります。
 
 ところで、この丹比神社のある堺市美原区多治井に隣接して美原区余部(あまべ)が
あります。
 余部は海部(あまべ)に通じます。
 しかも、この周辺には大饗という地名もあるのです。
 海部、大饗という言葉から連想されるものは、海人系の氏族である安曇氏が大嘗祭に
おいて食膳を司る役目を担っていたことです。
 これは『延喜式』にも、
 
 「安曇宿禰火を吹く。内膳司、諸氏の伴造を率いて、各、その職を供給して、御膳を
料理す」
 
と、記されています。
 なお、文中にある内膳司は高橋氏が務めていましたが、神饌行立の際には、高橋氏が
鮑汁漬(あわびしるしち)を執り、安曇氏が海藻汁漬を執りました。
 
 津守氏も海人系の氏族であった、とする説もあるのですが、これは、火明命系の氏族に
海人系氏族が多くいること、津守氏が祭祀する住吉神に海神の性格が見られるためです。
 その津守氏と同族である丹比氏ゆかりの丹比神社の周辺に海人を連想させる地名が
あることは無視できません。
 
 八十島祭と住吉、住吉と埴使の神事。これらを解き明かすには海人系氏族を通して見る
ことが必要になってくるのです。

首振りの返事はどっちの意味?

2015年05月28日 01時30分49秒 | 日本語
2012年8月30日(木)(4歳4か月)
 
 
 木曜日のヒッポファミリーから帰って来て、春奈が
おなかがすいた、と言うから、パンをテーブルの上に
置いてやった。
 
 でも、春奈はそれを食べようとはしない。
 
 「食べへんのか?」
 
と、訊くと、首を横に振る。「いらない」の意味だ。
 
 たぶん、春奈はおかしがほしかったのだろう。
 
 
 日本の場合、首を縦に振れば「はい」の意味。首を
横に振れば「いいえ」を意味する。
 
 そんなの世界共通じゃないの?と思う人もいるかも
しれないけど、実際のところ首を討横に振ると「はい」を
意味する地域も世界には存在するのである。
 
 さて、今のケースだと、
 
 「食べないの?」
 
と、訊かれて首を横に振れば「いいえ」、つまり
「食べます」の意味になるのじゃないだろうか?
 
 実はこれ、言葉でも同じようなことがある。
 
 言語によっては、「~してもいいですか?」と質問した
時に、「No」という返事だと、それは「OK」を意味する
場合があるのだ。
 
 つまり「ダメか?」、「いいえ、ダメではない」という
やり取りになるわけだ。
 
 日本で、首を横に振れば、それは「OK」の意味に
なる場合と「No」の意味になる場合の両方がある。
 
 今の場合はどちらの意味だろうか?と考えなくても
わかるのは僕たちが決して相手のゼスチュアだけを
見て意味を取っているわけではない、ということなの
だろう。
 
 
 春奈、今日で満4歳4か月。

392 住吉大社の土を取る伝承

2015年05月27日 01時28分29秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生392 ―住吉大社の土を取る伝承―
 
 
 『住吉大社神代記』には、畝傍山の土を採取して八十平甕を作るという埴使の神事の
起源と思われる伝承が残されています。
 この話は『日本書紀』が伝えるシイネツヒコとオトウカシが天の香久山の土で天の
平瓫(あめのひらか)80枚を作る話を連想させるものです。
 
 シイネツヒコとオトウカシの話は以前にも紹介しましたが、これは神武東征に登場する
エピソードのひとつです。
 大和の勢力のひとつ八十梟帥(ヤソタケル)を攻めあぐねていたイワレヒコ(神武天皇)の
夢の中に天つ神が現れて、
 「天の香具山の社の土を取りて天の平瓫(あめのひらか)80枚を作り、同時に厳瓫(いつ
くへ=神酒を入れる瓶)を神に供えよ。その上で厳呪詛(いつのかしり)を行えば敵は
おのずから伏する」
と、お告げをくだします。
 そこに、オトウカシ(大和在来の豪族で神武天皇に帰順した人物)が天皇の元にやって
来て、
 「天の香具山の社の土で天の平瓫を作り神々にお供えすれば必ず敵を打ち破ることが
できることでしょう」
と、夢のお告げと同じことを進言したので、イワレヒコは、オトウカシとシイネツヒコのふたりを
天の香具山に行かせます。
ただ、香具山は敵のテリトリーであり、その道中にも敵の兵士が臨戦態勢を取っていたので、
ふたりは身分の賤しい者が身にまとう衣服に着替え蓑笠をかぶり、シイネツヒコは老爺の
姿に、オトウカシは老婆の姿に変装します。敵の兵士たちは、ふたりを見て、
 「ずいぶんと醜い年寄りたちだ」
と、嘲笑して通してしまうのです。結果、ふたりは香具山の土を採取して天皇の元に帰還
します。
 
 さて、『住吉大社神代記』には次のような伝承が記されているのです。
 
 大神、昔皇后(神功皇后)に神託をくだし、
 「我をば天香山の社の中の埴土を取り、天平瓫を作って奉斎すれば、謀反を企てる者が
おっても必ず屈服させよう」
と、おっしゃった。
 そこで、古海人老父(こあまのおきな)に田の蓑・笠・簸を着せ、醜き者として遣わして土を
取り、それを用いて大神を祀った。それはすなわち為賀𥿻悉利祝(いかしりのはふり)、
古海人らなり。ここに天平瓫を造る」
 
 このふたつの説話を比べてみると、非常に似通っていることに気づきます。
 天の香久山の土を取りに行くのが老人、あるいは老人に変装した者であり、蓑に笠、そして
その姿が醜き者であるという共通点が挙げられます。
 
 しかし、それは今のところはさて置き、土を取るという説話は、その土地を領有する呪術で
ある、と多くの研究者が指摘しているところです。
 同時にそれは地主神、国魂神の信仰につながるものでもあります。
 太陽神であるとされる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカ
リクシタマニギハヤヒノミコト)を始祖とする津守氏だけに、太陽信仰を司っていたと考えがちに
なりますが、実は国魂神の信仰も司っていたと思われるのです。