2013年10月27日(日)(5歳6か月)
ヒッポファミリークラブのメンバーたちで集まる機会があったので、その中のひとりで
スペイン語を得意とするメンバーに、以前にヒッポのファミリーで起こった出来事を話して
みた。
それは、ヒッポのファミリーでそれぞれが自己紹介をする時に、ひとりのメンバーが、
「スペイン語で『小さな家』と言う時って、『カーサ・デ・チャパリータ』でいいん
かな?」
と、言ったので、僕が、
「この場合は『チャパリータ』やなくて『ペケーニャ』の方とちがうかな?」
と、とっさに言ってしまったことだ。
その時は、本当にそう思ったからこのように答えたわけなのだけど、後で考えてみると、
自分でそう思ったにすぎず、はたして正解かどうかは保証できん・・・。
ただ、僕の中では、「チャパリータ」あるいは「チャパリート」は、「おちびちゃん」
みたいなニュアンスを含んでいるようなイメージを抱いていた。
はたして、そのメンバーが答えるには、だいたい僕の解釈どおりだった。
「大きい」の反対となる「小さい」が「ペケーニャ」あるいは「ペケーニョ」。
「チャパリータ」、「チャパリート」は「小っちゃい」とか「おチビちゃん」という
意味でどちらかと言えば会話の中で使われる言葉のようだ。スペイン語には「チキータ」、
「チキート」という言葉があるけど、これも同じ意味だそうだ。
こんな話をした後で思い出したのだけど、幼い頃の春奈は、「少しちょうだい」と言う
時に「小さくちょうだい」と言っていた。
これは、僕たち大人が「チャパリータ」と「ペケーニャ」の違いがよくわかっていない
と同じで「小さい」と「少し」の違いがわかっていないせいにちがいない。
が、それと同時に、区別する必要もまたないのだ。
どういうことなのかと言うと、大人が「小さい」と「小っちゃい」の区別がつかないの
と同じで幼い春奈にとって「小さい」と「少ない」を区別する必要などなかったのである。
なぜなら、それで相手に通じるのだから。
このことは、言葉が育つ過程を見る上で重要な意味を持つ。
つまり、「小さい」と「少ない」の区別がつかないから、まだ言葉は未完成なのだ、と
とらえるのではなく、幼い春奈にとって意味の通じることなのならば、すでに言葉は完成
しているということになるのだ。
もっと突っ込んで言うなら、赤ちゃんの言葉は初めから完成されたものなのだ。
だから、言葉が育つ過程を見る、ということは、未完成品が完成品となる過程を見るの
ではなく、初めから完成されたものが変化していくのを見る過程を見ると言うことなので
ある。
そして、日本語以外の言葉に関しては大人もまた赤ん坊や幼児と同じことをしていると
いうことでもある。
ヒッポファミリークラブのメンバーたちで集まる機会があったので、その中のひとりで
スペイン語を得意とするメンバーに、以前にヒッポのファミリーで起こった出来事を話して
みた。
それは、ヒッポのファミリーでそれぞれが自己紹介をする時に、ひとりのメンバーが、
「スペイン語で『小さな家』と言う時って、『カーサ・デ・チャパリータ』でいいん
かな?」
と、言ったので、僕が、
「この場合は『チャパリータ』やなくて『ペケーニャ』の方とちがうかな?」
と、とっさに言ってしまったことだ。
その時は、本当にそう思ったからこのように答えたわけなのだけど、後で考えてみると、
自分でそう思ったにすぎず、はたして正解かどうかは保証できん・・・。
ただ、僕の中では、「チャパリータ」あるいは「チャパリート」は、「おちびちゃん」
みたいなニュアンスを含んでいるようなイメージを抱いていた。
はたして、そのメンバーが答えるには、だいたい僕の解釈どおりだった。
「大きい」の反対となる「小さい」が「ペケーニャ」あるいは「ペケーニョ」。
「チャパリータ」、「チャパリート」は「小っちゃい」とか「おチビちゃん」という
意味でどちらかと言えば会話の中で使われる言葉のようだ。スペイン語には「チキータ」、
「チキート」という言葉があるけど、これも同じ意味だそうだ。
こんな話をした後で思い出したのだけど、幼い頃の春奈は、「少しちょうだい」と言う
時に「小さくちょうだい」と言っていた。
これは、僕たち大人が「チャパリータ」と「ペケーニャ」の違いがよくわかっていない
と同じで「小さい」と「少し」の違いがわかっていないせいにちがいない。
が、それと同時に、区別する必要もまたないのだ。
どういうことなのかと言うと、大人が「小さい」と「小っちゃい」の区別がつかないの
と同じで幼い春奈にとって「小さい」と「少ない」を区別する必要などなかったのである。
なぜなら、それで相手に通じるのだから。
このことは、言葉が育つ過程を見る上で重要な意味を持つ。
つまり、「小さい」と「少ない」の区別がつかないから、まだ言葉は未完成なのだ、と
とらえるのではなく、幼い春奈にとって意味の通じることなのならば、すでに言葉は完成
しているということになるのだ。
もっと突っ込んで言うなら、赤ちゃんの言葉は初めから完成されたものなのだ。
だから、言葉が育つ過程を見る、ということは、未完成品が完成品となる過程を見るの
ではなく、初めから完成されたものが変化していくのを見る過程を見ると言うことなので
ある。
そして、日本語以外の言葉に関しては大人もまた赤ん坊や幼児と同じことをしていると
いうことでもある。