小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

イッゴと1コ

2012年12月31日 01時23分34秒 | 日本語
2010年3月2日(火)(1歳11か月)


 今日は春奈の大好きなイチゴが家にある。

 今日のヒッポのファミリーから帰ったら
食べよう、とみんたに言われたのを、春奈
はしっかり覚えていた。

 家に着くなり、みんたに、

 「いっごちょーらい!(イチゴちょうだい)」

と、催促した。

 どんだけ食い意地張っとんねん。


 ところで、「1コ」のことを「いっこ」と
みんな言うけども、春奈がイチゴのことを
「イッゴ」と言うのと同じだね。

 大人の使う日本語も、赤ちゃんの言葉が
そのまま残っているケースもあるにちがい
ない。

76 伊和大神と大国主

2012年12月31日 01時19分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生76 ―伊和大神と大国主―


 伊和の里の神が伊和大神ではなくオオナムチになっていることに加え、スクナビ
コナと合体したような名前も登場するですから、いろんな神がゴチャ混ぜになって
いる感があります。
 オオナムチとホアカリの神話に登場する匣丘の地名の由来について『播磨国風土
記』はまた別の神話も載せています。

 匣丘の由来は、大汝少日子根命(オオナムチスクナヒコネノミコト)が日女道丘
(ひめじおか)の女神と契りあった時に、日女道丘の神が、この丘に食べ物や匣の
器などを備えたので匣丘といわれるようになった。

 ちなみに、この日女道丘は、姫路城の天守閣が建つ姫路丘に比定されています。
 『播磨国風土記』では、オオナムチとスクナビコナが一緒に登場する神話も載せ
ていますから、播州でもこの2神が別々の神であったわけなのですが、匣丘の神話
にかぎっては、オオナムチとスクナビコナが合体したような神名になっているので
す。

 他にも、美嚢郡の志深(しじみ)の里の項では、

 三坂に坐す神は、八戸挂須御諸命(ヤトカカスミモロノミコト)なり。大物主葦
原志許(オオモノヌシアシハラシコ)、国をかためしし後、天より三坂の峯に下ら
れた。

とあり、大和の三輪山のオオモノヌシとアシハラシコオが合体した神名が登場し
ます。
 これまでに何度もお話したように、アシハラシコオはオオクニヌシの別名の1つ
と記紀に記され、またオオモノヌシは、『日本書紀』ではこれまたオオクニヌシの
別名の1つにされていますが『古事記』だとオオモノヌシとオオクニヌシは別の神と
して描かれています。
 それに、『播磨国風土記』のこの記事では、オオモノヌシアシハラシコはヤトカ
カスミモロという名も持っていることになっていますが、ミモロは、三輪山の別名
あるいは三輪山の古い名称と考えられている御諸山に重なります。

 オオモノヌシアシハラシコはともかく、伊和大神がオオナムチと混合されている
ことについては、この神が出雲から来たとされることが影響しているのかもしれま
せん。
 すなわち、『播磨国風土記』の讃容郡の項にある次の記事です。

 筌戸。大神、出雲国より来られた時、嶋の村の岡にて腰掛を置き、坐して、筌
(うえ=魚を捕らえる道具)を川の中に置かれた。ゆえに筌戸とよばれる。

 もっとも、ここでは大神とだけ書かれていますので、この神が伊和大神ではなく
オオナモチのことである可能性もあります。
 ですが、他のエピソードを見る限りでは、この大神は伊和大神と考えるべきで
しょう。

 また、託賀郡の項では、袁布山(をう山)の神話として、

 袁布山というは、昔、宗形の大神、奥津嶋比売命(オキツヒメノミコト)、伊和
大神の子を孕みまして、この山に来て、
 「我が産むべき時を訖う(おう)」
と、言ったので袁布山という。

と、ありますが、オキツヒメは『古事記』には別名タキリヒメとあり、オオクニヌ
シの妻となってアヂスキタカヒコネを生んだ、とあります。
 ここでも、オオナムチ(オオクニヌシ)と伊和大神が同神として語られているこ
とになります。

 アシハラシコオについてもそうです。
 そもそも、『古事記』に登場するアシハラシコオは、オオナムチが八十神から迫
害を受け、根の国のスサノオを訪ねた時に、スサノオが、
 「この神はアシハラシコオだ」
と、言ったもので、すなわちオオクニヌシの別名とされています。
 このアシハラシコオの神名は『出雲国風土記』には登場せず、『播磨国風土記』
にはアメノヒボコとの土地の占有争いをするエピソードがいくつも紹介されていま
す。
 この点で言えば、『播磨国風土記』のオオナムチとアシハラシコオは別神のよう
に思えるのですが、アシハラシコオとアメノヒボコの争いに混じって、伊和大神と
アメノヒボコの土地の占有争いも語られているのです。

 このように他の神との混同が見られる伊和大神の本来の姿とはどのような神だっ
たのでしょう?


・・・つづく

大河ドラマ

2012年12月30日 01時46分24秒 | 日記
 今日は2012年の12月29日。
 今年もあと2日で終わりです。
 
 ところで、今年の大河ドラマは視聴率がよくなかった
ようですね。
 このブログにアップしている2010年の大河ドラマは
なかなかに好調だったようです。

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2010年3月1日(月)(1歳11か月)


 仕事から家に帰ると、春奈が出迎えてくれて、

 「くっしゃくたしせたよ」

と、言った。

 リビングを見ると、新聞の折り込みチラシが散乱して
いた。

 「クシャクシャにしたよ」と言いたかったのだな。

 とりあえず、それらを片付けて古新聞の置き場所にやる
と、きのうの新聞をロクによんでいなかったことを思い出
し、そいつを取り出して広げてみる。

 ちなみに、新聞は番組欄から見る、という人が圧倒的
多数なんだそうだ。

 でも、僕は1面から見る。

 最後に、番組欄のページに目をやる。と、言ってもきのう
の新聞なのですけどね。

 すると、大河ドラマ『龍馬伝』の文字が目に入った。それで
僕が、

 「今年の大河の『竜馬伝』は視聴率がいいらしいな」

と、言うと、りえが、学校の友だちも観ている、と言う。

 ほう、小学生なのに。

 主演の福山雅治がお目当て?


 ドラマの舞台は尊王攘夷の嵐が吹き荒れた時代だ。

 現代人にとって攘夷思想は非現実的な考えのようも思われてい
るけど僕はそうは思わない。

 そもそも、日本は神の国だから外国人がやって来るのは許さ
れない、だとか、鎖国は日本の国是だから、なんて言っていた
のは上流階級の人間、いわば高学歴の人たちだ。
 武士階級でも身分の低い方の人たちが考えていたのは経済
だった。当時の日本には、商店はあっても企業はなかった。

 そこに開国によって外国資本がやって来たらどうなるか?日
本の経済は外国資本に支配されてしまう。

 そういう考えから高杉晋作は攘夷に走り、坂本龍馬は亀山社
中を作った。
 じゃあ、なぜエリート層に経済の観念がなかったかと言えば、
商人は物を生産しないし、他よりも自分が儲けることを優先す
る商売という「仕事」は道徳的にダメなもの、という考えがあっ
たからだ。

 なんでこんな話をするかと言うと、新たなる国際化の時代、
などと言われる現代、日本の政治家や知識人たちの思考は大
丈夫か?と少し心配してるからだ。

 本当に時代に対応できるのか?間違うと困るのが、ゆうきや
りえ、それに春奈の世代だ。

 せっかくヒッポやってるんだから、言葉だけじゃなく、独自
の力で国際化の波を乗っていってほしいものだ。
 

年度末って何?

2012年12月29日 01時27分05秒 | 日記
2010年2月28日(日)(1歳11か月)


 今日で2月も終わりだ。

 「2月は28日しかないから今日で春奈は満1歳11か月やな」

と、僕が言うと、りえが、

 「なんで2月は短いん?」

と、訊いてきた。

 「大昔には2月も30日まであったよ。そんで31日の月が5つ
しかなかった。それがローマ時代に7つに増えたために、その分を
2月から持ってきたからね。それで2月は日が少なくなった。なん
で2月から持ってきたかと言うと、古代ローマでは2月は年度末やっ
たから」

と、答えてやると、

 「年度末って何?」

と、さらに訊いてきた。

 そうか、りえはまだ年度という語を知らなかったのだな。


マネすることに意義がある

2012年12月28日 01時13分21秒 | 日記
2010年2月26日(金)(1歳10か月)


 りえが、髪を伸ばしたい、と言い出してから、だいぶ
時間がたつ。

 今ではけっこう長くなっている。

 ゆうきがりえの髪を結んでやっているのを見て、春奈
もそのマネをして、りえの髪を結ぼうとする。

 当然うまくいくわきゃないのだけど、マネすることに
意義があるようだ。満足そうだった。

 春奈は、というか幼児が周りの人間のマネをするのは、
結果ではなく行動そのものに目的があるようだ。

 でも、春奈がりえの髪を結ぼうとしている絵柄は、ま
るでサルのノミ取りにしか見えない・・・。

 ちなみに春奈も髪を伸ばしている。

 もっともこれは本人の意思ではなく、七五三の時に
自前の髪で日本髪を結えるようにという、みんたの思い
からである。