小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

645 蘇我氏の登場 その11

2019年05月06日 01時31分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生645 ―蘇我氏の登場 その11―


 大和政権の難波進出の理由で忘れてはいけないのが海人系氏族とのネットワークの構築です。
実はここにも製鉄が関係しているのです。

 ただ、それについてお話しする前に、当時の難波について触れておきたいと思います。
 これまでにも何度かお話ししたことなのですが、古代における難波の地形は現在の大阪市と
大きく異なります。すなわち上町台地以外は海だったのです。大阪湾が現在の東大阪市まで
食い込んでおり、生駒山脈の麓までが海でした。それが、次第に土砂が堆積して上町台地の
周辺が陸地化していったわけですが、東側、つまり現在の東大阪市は内海と化し、やがて
淡水化して河内湖となったのです。
 大和政権が難波に進出した時代。現大阪市は大阪平野ができつつありましたが、内海は依然と
して存在していました。この内海(河内湖)は室町時代に至ってもなお巨大さを誇っていたと
伝えられ、江戸時代にもまだその一部を残していたとされています。

 さて、『古事記』や『日本書紀』によれば、神武東征の時に神武天皇が上陸した地を、

 「その地を名づけて盾津という。今では日下の蓼津(くさかのたてつ)という」(『古事記』)

 「河内国の草香(くさか)の邑の、青雲の白肩之津」(『日本書紀』)

と記します。ともにクサカであったとしていますが、これの有力な比定地が東大阪市日下町です。
記紀でそれぞれ「蓼津」、「白肩之津」と異なってはいるもののともに「津」とあることから、
おそらくは内海の東にあった港ではないかと考えられています。
 一方、現大阪市側の港と考えられているのが『日本書紀』応神天皇十三年九月の記事に登場
する「桑津邑」の桑津、同じく『日本書紀』仁徳天皇十四年十一月の記事に登場する猪飼津です。
 桑津は大阪市東住吉区桑津に、猪飼津は生野区勝山がかつて猪飼野と呼ばれていたことから
この付近に比定されています。

 これに対し、仁徳天皇の「難波の高津宮」の高津や『日本書紀』欽明天皇元年九月の記事にある
「難波祝津宮(はふりつ宮)」の祝津は瀬戸内海に面した港であったとされます。
 ただし詳しいことはわかっておらず、いわゆる難波津と高津、それに祝津が同じものかもしくは
別のものかについてもはっきりとしません。
 とは言え、当時難波の瀬戸内に開いた港は難波津と住吉津のふたつが知られており、その場所に
ついては、難波津が生国魂神社(天王寺区生玉町)の西側、住吉津が住吉大社(住吉区住吉)の
西側とするのが有力です。


 少々港の説明が長くなってしまいましたが、難波津、住吉津は難波の玄関口であり、物流の船や
移動手段としての船が入出港を繰り返していたのでしょう。しかし、その一方で、難波の玄関口で
あるためその防衛も必要だったのです。
 『古事記』では、妻のアカルヒメを追いかけて天之日矛(アメノヒボコ)が難波に入ろうとした
時に渡の神が塞いだために上陸を諦めて但馬へ行き先を変える場面が出てきますが、この逸話も
海人系氏族による難波の海上防衛を意味するものではなかったでしょうか。
 もう一方の住吉津ですが、住吉大社に縁があるとされる津守氏がこの地におり、その氏族名から
港の管理や防衛を担っていたものと考えられます。

 これまでにも何度か採り上げましたが、応神・仁徳天皇の次に皇位に就いた履中天皇の同母弟で
あるスミノエノナカツミコ(『古事記』では墨江之中津王、『日本書紀』では住吉仲皇子)が謀反を
起こした時に、阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)と倭直吾子籠(やまとのあたいあごこ)が
スミノエノナカツミコに加担しています。
 阿曇氏も倭氏もともに海人系氏族と言われており、特に阿曇連浜子の場合、自らを「淡路の野嶋の
海人」と称しています。また、『日本書紀』の応神天皇三年十月の記事に、

 「処処(ところどころ)の海人が命に従わったので、阿曇連の祖、大浜宿禰を遣わしてこれを
平定した。よって海人の宰(みこともち)とした」

とあり、海人系氏族であることが明らかです。
 倭氏が海人系氏族と言われるのは、その始祖が神武東征の際に海上の道を案内したという伝承と、
『日本三代実録』に、阿波国名方郡の海直豊宗や海直千常ら海直氏7人に大和連の姓を賜った、と
記されていることによるものです。
 その記事で、阿波国名方郡にいた海直(あまのあたい)一族の賜った姓が大和連(やまとのむらじ)
というのは、海直が倭氏(大和氏)の流れを汲む氏族であったからだと思われるわけですが、それなら
倭氏の中から海氏(あま氏)を称する者たちがいた、すなわち倭氏は海人系氏族であったのではないか、
と考えられるのです。

 倭氏の一族がいたのは阿波国名方郡であり、国内で発見されたものの中でもっとも古い鉱山遺跡で
ある若杉山遺跡は阿波国那賀郡。郡は違いますが同じ阿波国であり、しかも若杉山遺跡が丹の採掘場
であったのに対して倭氏も丹に関わっていたようなのです。
 製鉄のネットワークと海人系氏族がつながるのです。

 倭氏が丹に関わっていたというのは、『日本書紀』に登場する記述と丹生川上神社の祭祀による
ところです。ただ、ここに妙なことがあります。

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2 コメント

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Unknown (二瓶好一)
2019-05-11 22:47:01
渡来人は本当に外国人だったのでしょうか。ずっと先進地域だった九州地域の知識、住民はどこへいったのでしょう。
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九州と大和 (サダロン)
2019-05-13 01:50:49
 大変興味深いコメントありがとうございます。
 なるほど、渡来人と呼ばれる人たちの中には九州の人も含まれている、というのは考えが及びませんでした。
 昔は帰化人という呼称もされていたので渡来人と言えば中国や朝鮮半島から来た人というイメージでした。

 九州がいつ大和とひとつになったのか?謎でありロマンでもありますね。そもそも邪馬台国が九州にあった、とする説は今も近畿にあったとする説と二分しますしね。
 古代天皇家は記紀にあるように日向からやって来たのが史実である、とする説もありますし。
 興味は尽きないです。
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