小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

デ・ジャヴじゃない

2019年01月26日 02時10分27秒 | 日記
2013年12月3日(水)(5歳8か月)


 春奈がそろそろ寝なきゃいけない時間帯になってから、ガムがほしい、と
言い出した。

 先日ヒッポでハロウィンをしたから今は大量のお菓子を持っている春奈である。

 「虫歯になるからアカンよ」

と、みんたがたしなめるが、納得しない。

 そんな春奈に向って僕は、

 「明日、保育所に行く途中に噛めば?」

と、言って、またすぐに、

 「いや、まあ、冗談やけど」

と、訂正すると、りえが、

 「え?それ、ええんちゃうん?」

と、喰いついてきた。

 いや、お前が反応してどうする?って言うかナイスアイデアみたいにとらえるなよ。

 それで、

 「ふつう、ガム噛みながら登園してくる園児なんておらんやろ」

と、返すと、

 「あー、そっかあ」

と、納得している。


 このやり取りで、ふっと、前にもこんなことがあったような気がした。

 デ・ジャヴってやつか?

 ・・・じゃない。本当に前に同じようなことがあった。思い出した。

 それは去年、春奈が自転車に夢中になっていた頃だ。

 今日も自転車の練習する、と言う春奈と、今日はやめなさい、と止めるみんた。

 それで僕が、

 「明日、保育所行く時に、練習がてらに乗っていけば?」

と、言って、すぐに、

 「いや、まあ、冗談やけど」

と、訂正すると、りえが、

 「え?それ、ええんちゃうん?」

と、喰いついてきた。

 「ふつう、自分で自転車こいで登園してくる園児なんておらんやろ。みんな
保護者の自転車につけたシートに乗せられて保育園に来るやろ」

と、返すと、

 「あー、そっかあ」

と、納得していた。

 なんか、あの時とまったく同じやり取りだ。


 大人でも、ほんの冗談のつもりで言った言葉を真に受けられてしまうことが
あるけど、言葉っていろんな作用を起こす。

 人を傷つけることもできれば人を騙すことだってできる。

 でも、それも言葉がいっぱい話せてこそ、のことである。

 母国語以外の言葉でそれができるのはなかなかに難しいことだ。

 生まれた時は純粋無垢だったはずの人間が成長にするにつれて悪い行いを
するのは言葉の成長と何らかの関係があるのかな?

 なんてことを、何気に少し考えてみた。

641 蘇我氏の登場 その7

2019年01月20日 01時57分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生641 ―蘇我氏の登場 その7―


 それではもうひとりの「石川」の地名を有する名を持つ人物、蘇我倉山田石川麻呂に
ついてはどうでしょうか。
 蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子らとともに乙巳の変で蘇我入鹿暗殺に加担した
ものの、後に謀反の嫌疑で自殺した悲劇の人物として語られます。しかし、蘇我倉山田
石川麻呂については分かっていないことが多く、その最たるものが名前ではないでしょうか。
 蘇我倉山田石川麻呂、この名前について、「蘇我」が氏族名で「倉山田石川麻呂」が
名と思っている人が少なくないように思います。蘇我倉山田石川麻呂の弟たちが、蘇我日向、
蘇我赤兄、蘇我果安など蘇我を氏族名にしているので、蘇我倉山田石川麻呂の場合もあく
までも蘇我が氏族名だと考えられていても何ら不思議はないかもしれません。
 しかし、直木孝次郎(『日本古代国家の構造』)は、「蘇我倉山田」までが氏族名、
「石川麻呂」が名、もしくは、「蘇我倉山田石川」までが氏族名で「麻呂」が名ではないか、
と提唱しており、志田諄一(『古代氏族の性格と伝承』)も、「蘇我倉山田石川」までが
氏族名で「麻呂」が名、としています。
 ちなみに両者がこのように考える理由なのですが、直木孝次郎は『日本書紀』に、蘇我倉麻呂、
蘇我倉山田麻呂、倉山田麻呂、蘇我石川麻呂、倉山田大臣、蘇我倉山田麻呂大臣などの呼称で
記されていること、志田諄一も、蘇我日向が蘇我倉山田石川麻呂のことを「異母兄麻呂」と
言っていることを挙げています。

 それでは蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の出身なのか否か、という点が問題になるかと思い
ますが、蘇我倉山田石川麻呂とは、蘇我馬子の子、蘇我倉麻呂の子だとされています。
 もし志田諄一の説のとおりだとすれば、父子でともに蘇我倉麻呂という名になるわけですが、
『日本書紀』の「舒明天皇即位前紀」には、「蘇我倉麻呂またの名は雄当(おまさ)」とあり、
こちらの蘇我倉麻呂には雄当という別名があったことになります。
 『公卿補任』には、蘇我馬子の子、「雄正子臣」という人物が登場しますが、志田諄一は
この人物を雄当と同一人物とみています。
 つまり、馬子の子、雄当が蘇我倉氏の始祖ということになるわけです。

 そうすると、雄当の子の麻呂(蘇我倉山田石川麻呂)が氏族名を「蘇我倉山田石川」に変えた
ということになるのですが、その理由、そして、それ以前に雄当が「蘇我倉」を称した理由は
何でしょうか。
 直木孝次郎によれば、蘇我倉の「倉」とはすなわち「蔵」で、大化以前の朝廷には財政関係を
司る官司として「蔵」が置かれていた、といいます。
 その根拠となるのは、『古事記』や『日本書紀』には蔵に関する記事がいくつか見られることで、
そこら官職としての「蔵」の存在をうかがうことができる、というのです。
 たとえば、
 履中天皇が阿知直を蔵官に任じた記事。(『古事記』)
 履中天皇が蔵職と蔵部を置いた記事。(『日本書紀』)
 雄略天皇崩御の直後に星川皇子が大蔵の官を取った記事。(『日本書紀』)
 欽明天皇の時代に、秦大津父が大蔵省に拝したこと、秦伴造を大蔵掾としたこと。(『日本書紀』)

 また、諸記録に、蔵に関する氏族名が見られること。
 たとえば、蔵であれば、倉臣、倉連、椋連、倉首、蔵史。
 内蔵であれば、内蔵(氏)、内蔵宿禰、内蔵朝臣。
 大蔵であれば、大蔵直、大蔵忌寸、巨椋連、大蔵宿禰、大蔵朝臣。
 このように、蔵そのものを氏族名する氏の他に、忍海倉連、春日蔵首、当麻之倉首など、
複姓の氏族の名が見られます。

 以上のような記録などから、蘇我雄当が蔵の役職に就き、それによって「蘇我倉」という
氏族名を称するにようになった、というのです。
 そして、さらにその子である麻呂が「蘇我倉山田石川」を称したのは、山田と石川を領する
ようになったからではないか、と考察できるのです。
 このうち、「山田」は、蘇我倉山田石川麻呂が建立したという山田寺があった、奈良県桜井市の
山田で間違いないと思われます。そして「石川」は河内国の石川郡だと思ってよいでしょう。
 蘇我氏は後世に石川氏を称するようになりましたが、この「石川」も地名から採ったものと
考えるのが自然なので、こちらの石川も河内国石川郡であり、同じく蘇我倉山田石川の石川も
河内国石川郡と思われるわけです。

 ただ、蝦夷・入鹿という蘇我氏の本宗は乙巳の変で滅亡しているから、石川氏を称したのは
蘇我倉氏であり、かつ蘇我倉山田石川麻呂とその子たちは謀反の嫌疑で自刃しているので、
蘇我倉山田石川麻呂以外の誰かの子孫ということになります。(志田諄一は蘇我倉山田石川麻呂の
弟のひとり蘇我連の子孫と考察しています)

 以上考察が長くなってしまいましたが、河内国石川郡と蘇我氏本宗は関係がなく、おそらくは、
蘇我倉山田石川麻呂が新しく得た領地と思われるのです。
 もっとも、蘇我倉山田石川麻呂の系譜が途絶えた後に「蘇我氏の子孫」が石川氏を称している
ことから、石川郡を賜ったのは蘇我雄当なのかもしれません。あるいは、蘇我倉山田石川麻呂の
遺領を弟の連が受け継いだのかもしれませんが。

 いずれにせよ、結論として、河内国石川郡と物部氏との間につながりがあった可能性は十分に
ある、ということです。そして、時期的にはおそらく物部守屋滅亡後になると思えるのですが、
蘇我氏の一族である蘇我倉氏が進出していった、と考えられるのです。
 しかし、このような物部氏の勢力圏に蘇我氏が進出していったという事例は他の地域でも起こって
いたのかもしれません。もちろん、これについては文献に記されてはいないので「可能性がある」と
しか言えないのですが。
 ただ、石川郡の例ひとつとってみても、そこには領地争いとは異なるまた別の衝突が起こり得る、
そんな要素を含んでいるのです。もしかすると、物部氏と蘇我氏の抗争の本当の原因はこれにある
かもしれないのです。

イタズラ坊

2019年01月13日 23時36分29秒 | 日記
2013年11月30日(日)(5歳8か月)


 春奈がおやつにサッポロポテトを食べていると、ゆうきが、
「少しちょうだい」、と言ってきた。

 一応、ゆうきに分けてあげることを了承した春奈だったけど、
ゆうきがガバッと取るや、

 「取りすぎや。ゆうきのイタズラ坊!」

と、非難する。

 それを言うなら食いしん坊。

 ゆうきも、

 「は?意味わからんし」

と、言っているけど、たぶん、今言ったように「食いしん坊」と
「イタズラ坊主」を間違えているのだろう。

 これも、似た音だからゴチャ混ぜになってしまう現象か?

 あ、そう言えばヒッポのストーリーCDのひとつに、「この
イタズラ坊主め」と言うセリフがあったっけ。

 もしかすると、春奈の中にその音が刷り込まれていて、それで
「食いしん坊」より「イタズラ坊主」が勝ってしまったのかも
しれない。それで「イタズラ坊」なのかも。

 言葉って言い間違いひとつとってみても、そこにはいろんな
不思議が隠されている。

640 蘇我氏の登場 その6

2019年01月07日 00時36分39秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生640 ―蘇我氏の登場 その6―


 もっとも、近年では蘇我氏渡来人説はやや劣勢と言えるでしょう。そもそも蘇我氏が渡来人と
考える根拠は何か、近年ではあまり支持されない傾向にあるのはなぜか、といったことはここ
では割愛させていただきます。

 反対に、もっとも有力視されているのが奈良県橿原市曽我町を発祥の地とする説です。
 理由は、蘇我氏と同じ臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族の多くが地名を氏族名としている
ことと、曽我町に鎮座する宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこ神社)が別名を入鹿宮と
呼ばれているからです。

 それでは問題となる河内国石川発祥とする説についてなのですが。
 これは、次の2点が主な根拠と言ってもよいと思います。
 すなわち、1つ目として飛鳥の地名が存在すること。
 2つ目には、蘇我石河宿禰や蘇我倉山田石川麻呂など、名前に石川という言葉を含む人物が
蘇我氏にいること、そして蘇我氏が後に氏族名を石川氏に改称していることです。

 そもそもの話なのですが、河内の石川とは、大阪の南河内地域を流れる石川流域のことで、
具体的には富田林市、南河内郡河南町、南河内郡太子町あたりを指します。
 河内の飛鳥は河南町や羽曳野市周辺を指しますが(羽曳野市に飛鳥という地名が現存します)、
この河内の飛鳥は古くより「近つ飛鳥」と呼ばれているのです。一方、奈良県の飛鳥(明日香)は
「遠つ飛鳥」と呼ばれるのです。
 奈良県の飛鳥は言うまでもなく蘇我氏と関わりの深い土地です。だから、河内の飛鳥も、
蘇我氏に石川という地名を含んだ人物がいることも絡めてきっと蘇我氏と縁のある地であろう、と。
その上で、奈良の飛鳥が「遠つ飛鳥」で河内の飛鳥が「近つ飛鳥」と呼ばれているのだから
蘇我氏は河内が発祥で後に大和の飛鳥に遷っていったのだ、というのが、河内の石川発祥説の
第1に挙げた理由です。

 しかし、「近つ飛鳥」の呼称を根拠とするには、あくまでもこれが蘇我氏によって呼称された
ものでなくてはなりません。残念ながら河内の飛鳥が蘇我氏によって「近つ飛鳥」と呼称される
ようになった、とする記録はないのです。
 そこで蘇我氏は河内発祥と考えるには、2つ目の「石川の地名と人物名」に求めることとなり
ます。

 まずは石川の地名を含む名前を持つ蘇我氏の人物ですが、一人目は蘇我氏の始祖である蘇賀(蘇我)
石河宿禰です。
 蘇賀石河宿禰の系譜は8代孝元天皇から始まり、その子孫である武内宿禰の子が石河宿禰とされて
います。ただ『古事記』と『日本書紀』とでは少し異なる系譜を載せています。
 『古事記』では、孝元天皇の御子である比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)が、
木(紀伊)国造祖先宇豆比古(ウヅヒコ)の妹山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って生まれた
のが建内宿禰となっています。早い話しがヒコフツオシノマコトの子であるとしているわけです。

 これに対して『日本書紀』は、武内宿禰は彦太忍信命比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノ
ミコト)の孫となっており、かつ屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケヲゴコロノミコト)と紀直の
遠祖菟道彦(ウヂヒコ)の娘影媛との子としています(つまり屋主忍男武雄心命は彦太忍信命比古布
都押之信命の子ということになるのでしょうか)。

 ところで、『日本書紀』にある屋主忍男武雄心命は、『古事記』にある少名日子建猪心命(スクナ
ヒコタケイココロノミコト)と同一人物だと考えられています。
 『古事記』にある少名日子建猪心命は孝元天皇の御子なので、孝元天皇の孫とされる『日本書紀』の
屋主忍男武雄心命との違いがまず見られますが、この差異よりもその生母の方に注目したいと思います。

 ヒコフツオシノマコトの生母は記紀ともに伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)となっています。
イカガシコメはその後、孝元天皇の御子で第9代天皇となった開化天皇の皇后となり(つまり再婚)崇神
天皇を生んでいます。
 『古事記』では孝元天皇の御子となっている少名日子建猪心命の生母は内色許売命(ウツシシコメノ
ミコト)となっています。
 イカガシコメとウツシシコメ、実はこのふたりは叔母と姪の関係なのです。
 イカガシコメは内色許男命(ウツシシコオノミコト)の娘で、ウツシシコメはウツシシコオの妹なの
ですが、問題はこのウツシシコオが「穂積臣等の祖」と記されていることです。
 穂積氏はニギハヤヒの御子ウマシマヂの子孫なので物部氏と同族となります。
 このことはすなわち、蘇我氏の始祖を辿っていくと物部氏の始祖に行き着くということになるのです。
 このことは、つい見逃されがちになっていますが、蘇我氏と物部氏の関係を考える上で非常に興味深い
ものとなります。

 さて、石川の名を持つ蘇我氏の人物として一人目に紹介した石河宿禰ですが、実在性を問われると
大いに疑問を抱かざるを得ないのです。
 しかも、石河宿禰から稲目に至る系譜を見ると次のような名前が並ぶことになるのです。

 石河宿禰 ― 満智 ― 韓子 ― 高麗 ― 稲目

 特徴として朝鮮半島を連想させる名前が連なっています。韓子(からこ)や高麗(こま)は言うまでも
なく、満智(まち)という名も、朝鮮半島の人物を連想させるものです。『日本書紀』の応神天皇二十五年の
記事には、幼少の百済王、久爾辛王に代わって執政を行った、木満致(モクマンチ)という人物が登場します。

 実を言えば朝鮮半島を連想させる名前の人物が続くことが、蘇我氏渡来人説の根拠のひとつとなっている
わけなのですが、その一方で、韓とか高麗などストレートすぎる名前がむしろ実在を疑わせるという指摘も
あり、それで言えば石河宿禰という名も後から付けられた可能性も否定できないのです。

2019年が明けましたね

2019年01月07日 00時19分50秒 | 日記
2019年1月6日

 少し遅くなりましたが明けましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いいたします。

 今年最初の投稿は元旦に撮った写真のアップから。

 家から歩いて10秒ほどの所で撮った初日の出です。
 元日の朝って雲の多いが多くてこの場所から初日の出を拝むのは
難しいんですよ。
 山の上とかから臨む日の出と違って平地から臨むわけですしね。
 実際のところ去年もダメで初日の出を拝むのは2年ぶりです。

 

 この写真で朝日が昇っているのは大和葛城山です。その右側に低く
なっている箇所がありますが、これが水越峠でその右が金剛山です。

 歴史好きの人ならご存知でしょうけども、楠正成が鎌倉幕府軍と
戦った千早城や赤阪城があったところです。

 ともかく。

 重ねて申し上げますが本年もどうぞよろしくお願いいたします。