小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

641 蘇我氏の登場 その7

2019年01月20日 01時57分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生641 ―蘇我氏の登場 その7―


 それではもうひとりの「石川」の地名を有する名を持つ人物、蘇我倉山田石川麻呂に
ついてはどうでしょうか。
 蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子らとともに乙巳の変で蘇我入鹿暗殺に加担した
ものの、後に謀反の嫌疑で自殺した悲劇の人物として語られます。しかし、蘇我倉山田
石川麻呂については分かっていないことが多く、その最たるものが名前ではないでしょうか。
 蘇我倉山田石川麻呂、この名前について、「蘇我」が氏族名で「倉山田石川麻呂」が
名と思っている人が少なくないように思います。蘇我倉山田石川麻呂の弟たちが、蘇我日向、
蘇我赤兄、蘇我果安など蘇我を氏族名にしているので、蘇我倉山田石川麻呂の場合もあく
までも蘇我が氏族名だと考えられていても何ら不思議はないかもしれません。
 しかし、直木孝次郎(『日本古代国家の構造』)は、「蘇我倉山田」までが氏族名、
「石川麻呂」が名、もしくは、「蘇我倉山田石川」までが氏族名で「麻呂」が名ではないか、
と提唱しており、志田諄一(『古代氏族の性格と伝承』)も、「蘇我倉山田石川」までが
氏族名で「麻呂」が名、としています。
 ちなみに両者がこのように考える理由なのですが、直木孝次郎は『日本書紀』に、蘇我倉麻呂、
蘇我倉山田麻呂、倉山田麻呂、蘇我石川麻呂、倉山田大臣、蘇我倉山田麻呂大臣などの呼称で
記されていること、志田諄一も、蘇我日向が蘇我倉山田石川麻呂のことを「異母兄麻呂」と
言っていることを挙げています。

 それでは蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏の出身なのか否か、という点が問題になるかと思い
ますが、蘇我倉山田石川麻呂とは、蘇我馬子の子、蘇我倉麻呂の子だとされています。
 もし志田諄一の説のとおりだとすれば、父子でともに蘇我倉麻呂という名になるわけですが、
『日本書紀』の「舒明天皇即位前紀」には、「蘇我倉麻呂またの名は雄当(おまさ)」とあり、
こちらの蘇我倉麻呂には雄当という別名があったことになります。
 『公卿補任』には、蘇我馬子の子、「雄正子臣」という人物が登場しますが、志田諄一は
この人物を雄当と同一人物とみています。
 つまり、馬子の子、雄当が蘇我倉氏の始祖ということになるわけです。

 そうすると、雄当の子の麻呂(蘇我倉山田石川麻呂)が氏族名を「蘇我倉山田石川」に変えた
ということになるのですが、その理由、そして、それ以前に雄当が「蘇我倉」を称した理由は
何でしょうか。
 直木孝次郎によれば、蘇我倉の「倉」とはすなわち「蔵」で、大化以前の朝廷には財政関係を
司る官司として「蔵」が置かれていた、といいます。
 その根拠となるのは、『古事記』や『日本書紀』には蔵に関する記事がいくつか見られることで、
そこら官職としての「蔵」の存在をうかがうことができる、というのです。
 たとえば、
 履中天皇が阿知直を蔵官に任じた記事。(『古事記』)
 履中天皇が蔵職と蔵部を置いた記事。(『日本書紀』)
 雄略天皇崩御の直後に星川皇子が大蔵の官を取った記事。(『日本書紀』)
 欽明天皇の時代に、秦大津父が大蔵省に拝したこと、秦伴造を大蔵掾としたこと。(『日本書紀』)

 また、諸記録に、蔵に関する氏族名が見られること。
 たとえば、蔵であれば、倉臣、倉連、椋連、倉首、蔵史。
 内蔵であれば、内蔵(氏)、内蔵宿禰、内蔵朝臣。
 大蔵であれば、大蔵直、大蔵忌寸、巨椋連、大蔵宿禰、大蔵朝臣。
 このように、蔵そのものを氏族名する氏の他に、忍海倉連、春日蔵首、当麻之倉首など、
複姓の氏族の名が見られます。

 以上のような記録などから、蘇我雄当が蔵の役職に就き、それによって「蘇我倉」という
氏族名を称するにようになった、というのです。
 そして、さらにその子である麻呂が「蘇我倉山田石川」を称したのは、山田と石川を領する
ようになったからではないか、と考察できるのです。
 このうち、「山田」は、蘇我倉山田石川麻呂が建立したという山田寺があった、奈良県桜井市の
山田で間違いないと思われます。そして「石川」は河内国の石川郡だと思ってよいでしょう。
 蘇我氏は後世に石川氏を称するようになりましたが、この「石川」も地名から採ったものと
考えるのが自然なので、こちらの石川も河内国石川郡であり、同じく蘇我倉山田石川の石川も
河内国石川郡と思われるわけです。

 ただ、蝦夷・入鹿という蘇我氏の本宗は乙巳の変で滅亡しているから、石川氏を称したのは
蘇我倉氏であり、かつ蘇我倉山田石川麻呂とその子たちは謀反の嫌疑で自刃しているので、
蘇我倉山田石川麻呂以外の誰かの子孫ということになります。(志田諄一は蘇我倉山田石川麻呂の
弟のひとり蘇我連の子孫と考察しています)

 以上考察が長くなってしまいましたが、河内国石川郡と蘇我氏本宗は関係がなく、おそらくは、
蘇我倉山田石川麻呂が新しく得た領地と思われるのです。
 もっとも、蘇我倉山田石川麻呂の系譜が途絶えた後に「蘇我氏の子孫」が石川氏を称している
ことから、石川郡を賜ったのは蘇我雄当なのかもしれません。あるいは、蘇我倉山田石川麻呂の
遺領を弟の連が受け継いだのかもしれませんが。

 いずれにせよ、結論として、河内国石川郡と物部氏との間につながりがあった可能性は十分に
ある、ということです。そして、時期的にはおそらく物部守屋滅亡後になると思えるのですが、
蘇我氏の一族である蘇我倉氏が進出していった、と考えられるのです。
 しかし、このような物部氏の勢力圏に蘇我氏が進出していったという事例は他の地域でも起こって
いたのかもしれません。もちろん、これについては文献に記されてはいないので「可能性がある」と
しか言えないのですが。
 ただ、石川郡の例ひとつとってみても、そこには領地争いとは異なるまた別の衝突が起こり得る、
そんな要素を含んでいるのです。もしかすると、物部氏と蘇我氏の抗争の本当の原因はこれにある
かもしれないのです。

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