小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

わさびコンテスト

2017年09月28日 01時31分07秒 | 日記
2013年10月2日(水)(5歳6か月)
 
 
 唐突に春奈が言った。
 
 「わさびコンテストを思い出すわあ」
 
 なんやねん?わさびコンテストって?
 
 話を聞くと、前に保育所でそういうものをやったらしい。
 
 その内容は、と言うと、春奈の話を聞いただけでは
よくわからない。
 
 でも、まさか本当にわさびでコンテストをしたわけじゃ
ないだろう。
 
 これは、たぶん想像だけど、保育所のお友達の誰かが
そんな名称を勝手につけて言っていたのじゃないかな?
 
 もし、そうだとしたら、コンテストっても怪しい。
 
 幼児は横文字の言葉を違う意味でゲットしてしまう
ことが多々あるからだ。
 
 もっとも、大人だって、新しく使われるようになった
外来語は正しく理解していないことが少なくはない。
 
 今でこそ日常的に使うパフォーマンスという言葉。
 
 日本でよく使われるようになったのは、昭和の後半だと
思うけど、当時はこの言葉を大道芸のことだと思って
いた人も多かった。
 
 このように大人だって横文字の意味は大雑把にとらえる
ことが多いのだから、幼児が違う意味でとらえることも、
ある意味では自然なことなのかもしれん。

610八千矛の神 その15

2017年09月25日 00時51分29秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生610 ―八千矛の神 その15―
 
 
 安曇磯武良や安曇磯良、磯鹿海人名草の伝承が神功皇后と朝鮮出兵に関係しているのは、
志賀島や沖ノ島が位置する玄界灘が朝鮮半島への出発口となっていたからです。
 逆に朝鮮半島から見れば日本の玄関口になるわけですが、ここから日本海側へ、あるいは
瀬戸内海と分れます。
 阿曇氏が阿波や淡路、難波など瀬戸内海側に拠点を持つ一方で、日本海側の石川県羽咋郡に
拠点を持っていたのも、志賀島を中継していたとするならば不思議はないわけです。
 
 さらに言えば、出雲の大国主が、沖ノ島の多紀理毘売を妻にして大和国葛城のアヂシキタカ
ヒコネを生んだこと、越の国の沼河比売を妻にして阿波国名方郡の建御名方神を生んだことも
玄界灘を起点にして広がっていた賜物と考えれば納得のいくことなのです。
 
 阿曇氏ら海人が葛城と関係していると仮定した時に、見過ごすことのできない祭祀が存在します。
 そのひとつが、葛城市太田には、海積神社(わだつみ神社)で、祭神は海積豊玉彦命。豊玉彦命
というこの名は、綿津見神の別名とされているのですが、言うまでもなく、綿津見神は阿曇氏が
祭祀する神です。
 さらには、高鴨神社の鎮座する御所市にも、海神の大山祇神(おおやまつみ神)を祀る鴨山口
神社があります。もっとも祭神は大山祗命の他に大日霊貴命、御霊大神・天御中主神が祭神と
して祀られているのですが、注目すべきは鴨山口神社の鎮座する地が御所市の大字櫛羅字大湊で、
クジラだとか大湊だとか、海に関係した地名であることです。これは大和と同じく海のない信濃に
海に関係した地名が存在することと共通します。
 
 その一方で、『延喜式』の「神名帳」の葛上郡の条を見ると、高鴨神社に比定される高鴨阿治須岐
詫彦根命神社が「神名帳」に載る十三社の中で末尾に記されており、末尾から三番目に大穴持神社が
記されています。
 出雲系の神を祀る神社が末席にあることから、三谷栄一(『日本神話の基盤』)は、出雲系の神々が
葛城で祭祀されるようになったのが比較的に新しい時代のことだからであろう、と考察しています。
 
 では、それまで葛城で信仰されていた神はどのような神か、ということになりますが、それは反対に
『延喜式』の「神名帳」の上位に記されている神社ということになるでしょう。
 「神名帳」の筆頭に記されているのは鴨都波八重事代主命神社で、続いて葛木御歳神社、三番目に
葛木坐一言主神社となっています。
 鴨都波八重事代主命神社に比定されるのが鴨都波神社で葛木御歳神社に比定されるのが御歳
神社です。鴨都波神社は鴨下社とされ、御歳神社は鴨中社とされています。ちなみに鴨上社とされ
るのが高鴨神社なのですが、今言ったように高鴨神社は『延喜式』の「神名帳」では末尾に記されて
いるわけです。
 ともかく、このようなことから、本来葛城で信仰されていた神々の中で主要な神は八重事代主という
ことになります。
 
 『先代旧辞本紀』には、
 
「(大己貴が)辺津宮に坐す高降姫神を娶って生まれたのが、一男一女。その子は都味歯八重事代主神で、
倭国高市郡高市社に坐す。または甘南備飛鳥社に坐すという。妹は高照光姫大神命で、倭国葛上郡
御歳神社に坐す」
 
と、記されています。
 文中にある大己貴は言うまでもなく大国主のことで、高降姫神は「辺津宮に坐す」とあるから、多紀理
毘売のことと解釈することができます
 すると、大国主と多紀理毘売との間に生まれたのがアヂシキタカヒコネと下照比売とする『古事記』の
記述とは明らかに相違が生じるのです。
 しかし、このことは八重事代主が葛城の代表的な神であることを物語っているとも言えるでしょう。
 
 ただ、そうなると、ここにひとつの、偶然という言葉で片づけるわけにはいかないことが現れてくるのです。
 阿曇氏らとつながりがあると思われる鴨氏の地元では八重事代主が祭祀され、阿曇氏らが関係して
いると思われる難波の八十嶋祭では、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』)の考察によれば、ここで
祭祀されるのは大八洲之霊であるといいます。
 そして八千矛神。
 これらには「八」という言葉が共通して含まれているのです。
 これが偶然では片づけ難いと言うのは、いずれも国土と関係していることです。
 八重事代主は国譲りの際に大国主の代理を務めているのですが、そもそも国譲りとは、国土を天つ神に
譲るというものです。
 八十嶋祭における大八洲之霊とは、日本の国の国魂であると岡田精司は説いています。
 そして、八千矛神は『古事記』の神語の中で、「八千矛の神の命や吾が大国主」と歌われているのです。
 
 こういったようなことから、八千矛神が大国主と同神とされるようになったものと考えることができるのです。

堺市の土塔

2017年09月20日 01時54分36秒 | パワースポット
 塔って何?と尋ねられたなら、みなさんは何と答えますか?
 高い建物?英語で言うところのタワーですかね?
 日本語において塔とは高い建物、っていうのは、まあ間違いではないです。
 ただ高い建物なら何でも塔というわけじゃないんです。
 あ、今日本語において、と言ったのは、塔って言葉、実はサンスクリット語のストゥーパが語源だか
らです。つまり塔という言葉は外来語なわけですね。
 それでストゥーパ、塔とは何かと言うと、本来は仏舎利(お釈迦様の遺骨)を納めたものを指します。
日本のお寺によくある塔がなぜあんなに高いのかと言うと、遠くからでも仏舎利を拝むことができる
ように高い建物にしてあるからです。もっとも正確には、日本のお寺にある塔のスタイルは中国仏教の
塔の影響を大きく受けているわけですけどもね。
 
 
 で、今回取り上げるのは大阪府堺市中区土塔町にある土塔。
 土塔とは書いて字のとおり、土でできた塔。
 ここには現存する最古の土塔が存在しているのです。
 
 この土塔は大野寺の仏塔だったもので、今も土塔と道路を挟んで隣に大野寺があります。
 大野寺は、現在では小ぢんまりとしたお寺ですが、奈良時代の有名な高僧、行基(668~749年)に
よって建立された由緒あるお寺で、創建当時はかなりの大寺院だったと伝えられています。
 
 ↓ 現在の大野寺
 
 
 
 では、その土塔に行ってみましょう。
 土塔の周辺は、現在は整備されて公園になっています。
 
 
 
 
 
 門をくぐると・・・。
 
 
 なんだか日本の仏教建築らしからぬものが見えますが、これが土塔です。
 
 
 すぐ近くまで寄ってみます。
 一辺が53.1メートル 高さ8.6メートル 五重の塔なんぞをはるかに凌ぐ十三重の塔です。
 表面は6万枚の瓦が葺かれていたことがわかっています。
 
 
 今の姿は往時をおもわせるものに修復・復元されているけど、昭和の頃の状態はほとんど放置状態と
言ってもいいくらいでした。
 修復・復元と言っても、それは本来十三重だった土塔の十二層まで。
 十三層目は仏舎利を納めた建物があったと考えられていますが、とうの昔にそれが消失してしまって
残っているのは十二層までだからです。
 その代りかどうかわからないけども、土塔の前に復元模型が置いてありました。
 
 
 ちなみに、今言ったように十三層目は古い頃に消失してしまったために想像で、こんなんじゃないかな~、と
考えられて造られたようです。
 写真じゃわかりづらいかもしれませんが、仏舎利を納めた建物が八角形です。これは土塔のてっぺんに
土台と思われるものが残されていて、それが円形だったことから、八角形の建物だったんじゃないか、と推測
されたそうです。
 
 今でこそアレですが、昭和の頃までは表面も土と草で覆われて、ほんと、ピラミッド型をしたただの小高い丘
にしか見えませんでした。ありがたみも何もあったもんじゃない。
 門の反対側に廻ると、今もその当時の姿のまんまです。
 
 
 創建当時の姿と昭和の頃の姿の両方が見られるようにしてあるわけですね。
 横の廻ると、あしゅら男爵かよっ、ってカンジなんですが・・・。
 
 
 それにしても、ありがたい仏舎利は一体どこにいってしまったんでしょうね・・・。
 もっとも、日本だけでも数多くの塔があるので、世界中にある塔すべてに本物の仏舎利が納められている
わけではないんです。
 さっき言ったように、仏舎利とはお釈迦さまのお骨ですので、当然のことながら数がかぎられているわけです。
 だから、本物の仏舎利の代わりに経典などが納められていることが多いそうです。
 
・・・ しかし、この大野寺の土塔、もっと有名になってもいいような気がしないでもないです。
 

609八千矛の神 その14

2017年09月17日 02時14分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生609 ―八千矛の神 その14―
 
 
 三輪氏は大物主の子、あるいは子孫であるオオタタネコを始祖としますが、『古事記』と
『日本書紀』は鴨氏(鴨君)も同族だとしています。
 三輪氏は大神神社の祭祀を行い、鴨氏は高鴨神社の祭祀を行いました。
 その高鴨神社の祭神は阿遅志貴高日子根命(アヂシキタカヒコネノミコト)。これまでに
何度となく採り上げた、大国主のもの言わぬ御子神なのです。
 『古事記』は、アヂシキタカヒコネを、大国主と多紀理毘売命(タキリビメノミコト)との間に
生まれた神としています。多紀理毘売命は福岡県の宗像神社の祭神、宗像三女神の一柱
です。
 
 宗像大社は、沖津宮(おきつみや)、中津宮(なかつみや)、辺津宮(へつみや)から成り
ますが、沖津宮の祭神を宗像大社では、田心姫神(たごりひめ)としています。
 田心姫神は多紀理毘売命と同神とされていますが、『古事記』にも
 
 「多紀理毘売命、またの名を奥津島比売命は胸形(宗像)の奥津宮(沖津宮)に坐す」
 
と記されています。
 しかし、注目すべきことは祭祀遺跡です。
 奥津宮は沖ノ島にありますが、その沖ノ島に残る宗像大社沖津宮祭祀遺跡。
 ここで発見されたものは、鳥文縁方格規矩鏡に硬玉製の勾玉、滑石製の勾玉、そして
碧玉製の勾玉に、それから、滑石製の臼玉でした。これらの出土品は4世紀後半と推測
されています。
 そして、祭祀は岩の上で行ったと見られています。
 
 同じように、三輪山麓の三輪馬場山ノ神祭祀遺跡からも、碧玉勾玉と滑石製の臼玉が
発見されています。この遺跡からは、他にも素文鏡、土製模造品、石製模造品などが発見
されていますが、磐座(いわくら)と目される巨石露頭の基部から大量の祭祀遺物が発見
されています。
 また、これらの出土品は、やはり4世紀後半と見られるものでした。
 
 そして出雲です。
 出雲大社境内遺跡からも、祭祀の用いたと考えられる勾玉や臼玉が発見されており、
そしてこれらもまた4世紀後半のものと推測されているのですが、勾玉は松江市の花仙山産の
瑪瑙製。臼玉は滑石製でした。
 
 このように、宗像大社の宗像大社沖津宮祭祀遺跡、三輪山の三輪馬場山ノ神祭祀遺跡、
出雲大社の出雲大社境内遺跡には共通するものがあるのです。
 思えば、『日本書紀』に記された出雲振根の事件も、崇神天皇の使者がやって来た時に
振根が不在だったために、代わりに飯入根が神宝を差し出したことに始まりますが、振根の
不在の理由は宗像に出向いていたからでした。
 
 
 さて、ここに阿曇氏が関係してくるのです。
 沖ノ島は福岡県宗像市に属しますが、阿曇氏の本拠といわれる志賀島は福岡県福岡市に
属し、ともに福岡県の海上にあるのです。
 志賀島は安曇氏の本拠と考えられている理由は、志賀島に式内社である志賀海神社
(しかうみ神社)があり、これが全国の綿津見神社、海神社の総本社を称していることが
挙げられます。
 
 また、石川県羽咋市周辺には出雲系の神々を祀る神社が多く存在しますが、羽咋市の北に
位置するところには羽咋郡志賀町安津見があるのです。志賀町は志賀島に、安津見は阿曇に
通じることからも、志賀島が阿曇氏と深く結びつくと考えられ、つまりは志賀島が阿曇氏の
本拠である理由のひとつにも挙げられています。
 
 それから、後世になりますが、『蒙古襲来絵詞』には、志賀海神社は志賀大明神と記載され
ています。
 そして、この志賀大明神とは、『八幡愚童訓』が記すところでは安曇磯武良(あずみのいそたけら)の
ことだといいます。
 伝承では、神功皇后が三韓に出兵する時に、対馬の琴崎(きんざき)の海辺で軍船の碇が
沈んで上がらなくなったのを、安曇磯武良が潜って引き上げたといいます。
 一方、『日本書紀』には、神功皇后の新羅遠征に際して、磯鹿海人名草なる者が登場します。
 日本古典文学大系『日本書紀』は、「磯鹿の海人、名は草」と読み下していますが、「磯鹿の海
人、名草」と、名草という名前の海人と解釈されること多く見られます。いずれにせよ、この人物が
磯鹿の海人と読み下すことは共通しており、磯鹿(しか)とは志賀島のことだと解釈されもします。
 
 さて、志賀大明神とされる安曇磯武良は、志賀海神社だけでなく綿津見神社(わたつみ神社)
などでも祭神として祀られているのですが、安曇磯良(あずみのいそら)は安曇磯武良と同神だと
されています。
この安曇磯良を祀る神社のひとつが摂津国三島郡の磯良神社(現在の大阪府茨木市に鎮座)で、
ここでは磯良が磯良大神として祀られています。
 礒良神社は別名を疣水神社(いぼみず神社)といい、やはり神功皇后にまつわる伝承が残されて
います。
 神功皇后が三韓に出兵する時にこの神社から湧く「玉の井」で顔を洗うと、疣や吹き出物が
できて、醜く男のような顔になったが、無事に出兵を終えて再びここの玉の井で顔を洗うと元の
美しい顔に戻った、というものです。
なお、三島郡には日本三三島(3三島)の一社、三島鴨神社(現在の大阪府高槻市に鎮座)も存在し、
三島郡にも鴨氏がいたことをうかがわせます。
 
 少々、志賀島と阿曇氏との関係に時間を取ってしまいましたが、実はここでお話ししたいのは
何も沖ノ島と志賀島、阿曇氏とは関連がある、というようなことではないのです。
 もっとも重要なのは、沖ノ島と志賀島がともに福岡県の海にある、というところなのです。

犬派?猫派?

2017年09月12日 01時35分07秒 | 日記
2013年10月1日(火)(5歳6か月)
 
 
 今日は火曜日なのでみんた主催の北野田ファミリーの日。
 
 ファミリーが終わり、片づけを始めた時に、春奈がトイレに
行きたいと言い出した。
 
 ちなみに部屋からトイレまでは少し距離があり、まだ春奈は
ひとりでそのトイレに行く勇気がない。
 
 だからいつも誰かがついて行ってやるのだけど、この時は
僕が一緒について行ってやることにした。
 
 トイレの前で待っていると、用を足した春奈がすぐに出て
きたが、出てくるなり僕に向かって、
 
 「お父さんは犬派?猫派?」
 
 トイレから出てきての第一声がそれ?
 
 トイレの中で何があった?と、むしろそっちの方を考えて
しまった。
 
 もっとも、春奈の質問はただ単純に、犬の方が好きか猫の
方が好きか、を訊いているだけだった。
 
 それでも、やっぱり何でトイレから出てくるなりその質問や
ねん?という疑問は解消されないけど。
 
 でも後で考えると、春奈は「犬派」、「猫派」という言葉をゲット
したので使いたかったのかもしれない。
 
 こっちは「なんとか派」なんて言葉はとっくに知っているし
使っているものだから、つい質問の意図を考えてしまった
ど、真実はどうやら、5歳児が新しくゲットした言葉を使って
みたかっただけのようだ。