小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

刺身と造り

2017年02月27日 00時38分22秒 | 日本語
2013年8月6日(火)(5歳4か月)
 
 
 毎週火曜日のヒッポファミリー。
 
ファミリーの時間で、いつも春奈が多言語で自己紹介をする時に、
好きな食べ物はイチゴと言う。
 
 「イチゴ以外にもないの?」
 
と、チャチャが入る。
 
 「はるは、食べず嫌いが多いから」
 
と、みんたも困ったように言う。
 
 たしかに春奈は食べず嫌いが多い。
 
 もっとも、僕はこれに関しては楽観的である。
 
 と、言うのも、僕も幼いころは嫌いなものがメチャクチャ多かったけど、
成長するにつれ何でも食べられるようになったからだ。
 
 あと、春奈の好きな食べ物(もちろんイチゴ以外のも好きな食べ物は
ある)は、僕が幼い頃に好きだったものと共通しているものが多いし、
味の好みもよく似ている。
 
 ただし、僕が幼いころから大好きだった刺身は、春奈は食べない。
 
 違う部分も当然ながら、やっぱりある。
 
 
 ところで、僕は刺身のことを「造り」と言うことの方が多い。
 
 だけど、うちの家族の中で「造り」もしくは「お造り」と言うのは僕だけ
である。
 
 みんたもゆうきもりえも「お刺身」と言う。
 
 お店などに行くと、メニューによく「お造り盛り合わせ」とか書かれて
いるのにね。
 
 さてさて、その刺身と造りという言葉は今では同じものを指すけど
昔は違ったらしい。
 
 もともとの刺身とは膾(なます)料理の一種で生の魚の身に調味料を
つけて食べるものだったとか。それが、いつの頃からかお造りのことを
刺身と言うようになったそうだ。(諸説あり)
 
 何か風呂に似ているな。
 
 風呂というものも、もともとは蒸し風呂、つまりはサウナのことだったと
いう。
 
 だから「風呂屋」は蒸し風呂に入らせてくれる所で、お湯に体を浸から
せてくれる所は「湯屋」と言った。
 
 これもいつの間にか、現在のようにお湯に浸かる所を風呂と言うように
なった。
 
 
 言葉は常に変化していくものだし、意味も変化していくものだ。
 
 だけど、本来の「造り」や「湯屋」がマイナーな位置に押しやられるのは
何だかなあ、と思わせるところではある。

574 大国主と垂仁天皇 その11

2017年02月25日 01時36分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生574 ―大国主と垂仁天皇 その11―
 
 
 日置氏は各地に分布しており、丹波にも日置氏が存在していました。
 丹波の日置氏の本拠は丹波国多紀郡(現在の篠山市)だったとされていますが、それは
「丹波国多紀郡司案」に、
 
 「国老 日置公
  検校 日置公 権大領日置公」
 
とあるからです。
 それから、与謝郡にも拠点があったようです。
 与謝郡が位置する辺りは後の丹後国として分国されますが、ここにも日置氏の拠点が
あったとされる理由は、日置の里という地名が存在したからです。
 
 『釈日本紀』に収録された、『丹後国風土記』には浦島太郎の原型と言われる伝承が
載せられていますが、その文中に、
 
 「與謝郡日置の里(よさ郡ひおきの里)。この里に筒川の村あり。この村に日下部首
(くさかべのおびと)らの祖で名を筒川の嶼子(しまこ)なる者がいた。容姿流麗で風流
なる事類を見ない。この者はいわゆる水の江の浦嶼(うらしま)の子という者であった」
 
と、日置の里の地名が登場するのです。
 
 その伝承は簡潔にまとめると次のようになります。
 
 雄略天皇の時代、浦嶼子が五色の亀を得ましたが、この亀の正体は亀比売(かめひめ)
という神女だったのです。
 神女は嶼子に求婚し嶼子を海中の島、蓬莱山につれていきます。
 嶼子は蓬莱山で3年の月日をすごしたが、故郷の両親のことが気がかりで、ついには
村に帰ることにしました。
 この時、神女は、玉手箱を嶼子に渡し、
 「もし私のことを忘れず、また戻ってこようとお思いならばこの玉手箱をお持ち続けて
下さい。でも絶対に開いてはなりません」
と、告げます
 こうして嶼子が筒川の里に戻ってみると、陸ではすでに300年の月日が経っていました。
 嶼子は、十日間自分が知る人たちを探して回りますが、ついにひとりも見つけることが
できず、途方に暮れ、神女のことを思い出して恋しく思っているうちに、つい神女の言い
つけを忘れて玉手箱を開けてしまいます。
 すると、たちまち嶼子は老人へと変わり、また蓬莱山にも戻れなくなってしまったのでした。
 
 「丹後国風土記逸文」はこの主人公を、
 
「日下部首(くさかべのおびと)らの祖で名を筒川の嶼子(しまこ)」
 
と、しますが、与謝郡には日下部連も関係していたようです。
 日下部連は、『古事記』によれば日子坐王(ヒコイマスの王)の子、沙本毘古王(サホビコ王)
を始祖とします。
 サホビコは垂仁天皇の皇后サホビメの同母兄であり、ここにも日子坐王の系譜と垂仁天皇が
絡んできます。
 
 それで、日下部連が与謝郡に関係するというのは、『日本書紀』にそのような記述がある
からです。
 
 市辺之忍歯王が近江の蚊屋野にて大長谷皇子(雄略天皇)に殺害された後、市辺之忍歯王の
ふたりの皇子は難が及ぶのを恐れて逃走しますが、この時に二皇子の逃走を手伝ったのが、
日下部連使主(くさかべのむらじおみ)とその子吾田彦(あたひこ)の親子です。
 そして、日下部連使主が二皇子を連れて行った先が丹波国余社郡(後に丹後国与謝郡)だった
のです。
 しかし、なおも追手が来るのを恐れて与謝郡を脱すると、最終的に二皇子と吾田彦は播磨の
忍海部造細目に仕え、吾田彦は二皇子に離れることなく従った、といいます。
 なお、使主は逃亡の途中で自決してしまいます。
 二皇子が忍海部造細目のもとに身を隠した、というのは、二皇子の叔母が忍海飯豊青尊(オシ
ヌミノイイトヨノアオノミコト)と称したこと、また、日子坐王の異母兄弟、建豊波豆羅和気命の子孫に、
忍海部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別らがいることと無関係ではないのかもしれません。
 
 この水の江の浦嶼の子は雄略天皇の時代のできごとと「丹後国風土記逸文」は記しています。
 『止由来宮儀式帳』によれば、丹波国の比沼の真奈井にいる等由気大神(豊受大神)を伊勢神宮の
外宮に遷したのは雄略天皇の時代のこと。
 そして、市辺之忍歯王の二皇子が丹後に逃れたのも雄略天皇の時代のこと。
 これら3つの説話はすべて雄略天皇の時代の出来事とされているわけです。
 その理由として、おそらく雄略天皇の時代に、丹後に何らかの影響が大和政権によってもたら
された、ということがあったのかもしれません。
 丹後地方では、4世紀から5世紀のはじめにかけて、全長が190メートルの神明山古墳や
全長198メートルの網野銚子塚古墳、全長145メートルの蛭子山古墳といった巨大古墳が造られて
おり、強大な勢力が存在していたと考えられるのですが、しかし、5世紀後半になると巨大古墳は
築造されなくなっているのです。
 5世紀後半と言えばちょうど雄略天皇の時代が丁度その頃だと推測される次期でもあります。
 日下部連使主が追っ手を恐れて自害したとか、二皇子が丹後を出て播磨に逃れたというのも、
大和政権の軍事力が実際に丹後に及んできたのかもしれません。

春奈に叱られた

2017年02月23日 02時18分25秒 | 日記
2013年8月5日(月) (5歳4か月)
 
 
 7月の終わりにりえがアメリカへ出発して10日近くなる。
 
 ほぼ1か月間のホームステイである。
 
 出発して以来、ついつい、「早く帰ってけえへんかな」と、
呟いてしまう。
 
 何しろ帰国日は8月26日の月曜日だから、ちょうど
3週間先になる。
 
 「まだ3週間かあ。りえ早く帰ってけえへんかな」
 
と、呟くと、後ろから春奈が、
 
 「行ったばっかりやん」
 
と、突っ込んできた。
 
 あ、また春奈に聞かれてしまった。
 
 「りえがおらんかったら寂しいやん。思えへん?」
 
と、僕が言うと、
 
 「思うけど・・。けど、それがどないしてん」
 
 なんでそんなにクールなんだよ、お前は?
 
 クールと言うよりは、時々ドライな奴だと感じることも
あるほどに春奈は冷静な面を見せることがある。
 
 今もそうだけど、いやいや、それより、「それがどない
してん」って・・・。
 
 あたかも、厳しめに諭すかのような口調で言われても・・・。
 
 5歳児に言われて少しショックを受けた。

573 大国主と垂仁天皇 その10

2017年02月21日 01時45分54秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生573 ―大国主と垂仁天皇 その10―
 
 
 船木氏と同じく、丹波と伊勢に拠点を持つ氏族が日置氏です。日置氏や日置部については、以前にも
何度か取り上げたことがあるので、ここでは簡単にその特性だけを挙げてみたいと思います。
 
 日置氏の本拠は大和国葛城の朝妻現在の御所市朝妻)と言われています。
 それから、現在の大阪府堺市に日置里という地がありました(現在の日置荘と呼ばれる地域)。
 朝妻と三輪山と堺市の日置里を線で結べば、40°×40°×100°の二等辺三角形が出来上がります。
 
 伊勢における日置氏の拠点は、伊勢国壱志郡には日置郷だとされています。日置郷は現在の三重県
久居市の戸木(へき)に比定されていますが、これは、日置氏が「ひき氏」の他に「へき氏」とも呼ばれて
いることが理由です(「へき」の呼称の方が古いと考えられています)。
 さて、伊勢神宮の斎宮跡から真北に線を伸ばすと、その線上に大国主を祀る久留真神社が鎮座して
います。
 次に久居市と斎宮跡と久留真神社を線で結べば、35°×35°×110°の二等辺三角形が出来上がる
のです。
 
伊勢の斎宮跡から真西に進むと、淡路島の津名郡来馬郷(現在津名郡淡路町久留麻)に至ります。この地
には式内社の伊勢久留麻神社(伊勢の久留真神社を勧請したものと伝えられている神社)が鎮座している
のですが、斎宮跡と伊勢久留麻神社を結んだ線上に三輪山やヒモモソヒメの墓と伝えられる箸墓古墳、
それに笠縫邑比定地が位置するのです。
 
 伊勢国奄芸郡の久留真神社が斎宮跡の真北にあり、淡路の伊勢久留麻神社が斎宮跡の真西にあると
いうことは、久留真神社と斎宮跡と伊勢久留麻神社を結べば直角三角形ができあがります。
 
 このような日置氏の方位による配置にこだわりは、日置氏が伊勢神宮の祭祀に何らかの形が関与していた
ことを思わせます。
 さらには、日置氏の伊勢における拠点が久居市だけでなく多気郡多気町にもあったと考えられるところにも
それはうかがえます。多気町に日置氏の拠点があったと考えられる理由はこの地に四疋田、三疋田などの
地名が存在するからで、疋田(ひきた)が日置田に通じるからなのです。
 しかもこの地は櫛田川の中流域に属し、そこからやや下流のところで祓川(はらい川)に分流し、その祓川の
下流にあるのが、斎宮跡なのです。
 多気郡はまた斎宮寮の置かれた地でもあります。(現在の多気郡明和町に比定)
 
 また、日置氏は因幡国にも拠点があったようです。
 井上辰夫の「古代太陽祭祀と氏族」(松前健/白川静ほか『古代日本人の信仰と祭祀』に収録)によれば、
東大寺の因幡国高庭荘の文書に、因幡国高草郡の郡司が日置氏であることいいます。
 因幡国造である伊福部氏の出自について、『国造本紀』が、日子坐王の子、彦多都彦命(ヒコタツヒコノミコト)を
始祖としており、この人物がヒバスヒメの父ミチノウシ王(旦波比古多多須美知宇斯王=タニワノヒコタタスミチノ
ウシ王)と同一人物ではないかとも言われていることを考えると、無視できないことです。
 
 それに、『群書類従』には、孝徳天皇の時代に、竹村に屯倉が置かれたとする記事が載せられていますが、
この竹村は多気郡多気郷のことであるといいます。
 開化天皇妃の竹野比売が、『古事記』に、旦波(丹波)の大縣主、由碁理(ユゴリ)の娘、とありますが、縣主は
縣(あがた)の管理を担う役目を負います。縣も屯倉もともに、大和政権もしくは天皇の直轄地ですから、ここにも
見過ごすことのできない共通性が存在するのです。
 
 ところで、因幡の日置氏が因幡国高草郡の郡司であったといいますが、高草郡には土師氏の始祖、野見宿禰を
祀る式内社大野見神社があり、その大野見宿禰神社の鎮座する高草郡能美郷は土師氏発祥の地とも言われて
います。
 いささかくどくなりますが、野見宿禰は、『日本書紀』に、垂仁天皇によって大和に連れて来られて当麻の地を与え
られ、また垂仁天皇の皇后ヒバスヒメが薨去した際に、それまでの殉死の風習を廃して埴輪を備えるよう提言した
ことが記されている、垂仁天皇とゆかりの深い人物です。
 
 そして、土師氏に関連することとしては、『日本書紀』の雄略天皇十七年の記事、
 
 「土師連らに詔(みことのり)して、
 『朝夕の御膳を盛るべき清器をたてまつらしめよ』
とのたまえり。
 ここに土師連の祖吾笥(あけ)、よりて摂津国の来狭狭村(くささ村)、山背国の内村、俯見村(伏見村)、伊勢国の
藤形村、および丹波、但馬、因幡の私の民部(かきべ)をたてまつる。
 名づけて贄土師部という」
 
というものがあります。
 これによれば、土師氏は葬礼に用いる埴輪や土器だけでなく、天皇の食事に用いる食器も製作する役目を担って
いたことになるのですが、伊勢神宮外宮の豊受大神が食物の神であるといわれることと関係があるような気がして
なりません。

パン系がいいな

2017年02月20日 01時32分18秒 | 日記
(2013年8月4日のつづき)
 
 
 結局この日は夕方までバーベキュー。
 
 家に帰って来て、子供たちはまずみんなでプリンを食べる。
 
それから、みんたがごはんの準備をしていると、春奈が、
 
 「プリンもう1コほしいな」
 
 「ごはんを食べろ」
 
 「ガーン。パン系がいいな。スナックパン食べる」
 
 だから、ごはんを食べろ。
 
 それと、パン系って何?
 
 今時の園児は「ナントカ系」とか使うの?
 
 たぶん、これもお姉ちゃんの影響だろうな。
 
 
 学校で習う英単語は学年によってこの単語を教えると、
ある程度決まっている。
 
 だけど、自然に育つ母国語は年齢に関係がない。
 
 周りで聞こえる言葉かどうかだ。