小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

446 連合体からの変化

2015年10月31日 02時15分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生446 ―連合体からの変化―
 
 
 5世紀前半くらいまでの大和政権は、大王を中心とした有力豪族による連合国家
だったと考えられています。
 その中心となる大王も、『古事記』や『日本書紀』が伝えるような神武天皇から続く
一統ではなく、連合政権を形成する有力豪族の間で交代が行われていた、とする
研究者も少なくはありません。
 もちろん、これらの説は推測であり、事実はなかなかに知る手立てもないわけ
ですが。
 しかし、やがて大王は天皇と称されるようになり、その系統は皇室によって代々
続くことになります。
 
 連合国家ということは、大王と言えども他の有力豪族と対等な立場ということに
なります。
 室町幕府や江戸幕府にしても、将軍は武家の棟梁ではあっても、厳密には大名
たちの主君ではなかったのですが、それに似ているのかもしれません。
 有力豪族たちの方でも自分は天皇と対等だとする意識が少なからずあったのかも
しれません。
 
 『古事記』には、雄略天皇が日下にいる若日下部王を訪ねようと生駒山の南方に
ある直越(ただごえ)道を通っていた時に、山上から見ると、天皇の宮と同じような
宅が見えて、それが志幾大県主(しきのおおあがたぬし)の邸宅であった、という話が
登場します。
 『日本書紀』には、根使主の子、小根使主が、人に、
 「天皇の城は堅固にあらず。わが父の城は堅固なり」
と、語ったので、雄略天皇が家臣に根使主の邸宅を見に行かせたところ、本当に
立派過ぎる邸宅であったという話が登場します。
 
 同じ『日本書紀』に登場する話ですが、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちの
おみのさきつや)が、小女を天皇に見立て、大女を自分に見立てて相撲を取らせ、
小女が勝つと、刀を抜いてその小女を斬ってしまいます。
 また、小柄な鶏の毛を抜き、翼を切って天皇に見立て、大柄な鶏を自分に見立てて
闘わせて、それで小柄な鶏の方が勝つと、また刀を抜いてその鶏を切ってしまった、と
あります。
 
 女相撲や闘鶏で、それぞれを自分と天皇に置き換えることは、前津屋には、天皇と
自分は同等だという意識があったのだと解釈できるのです。
 
 
 これらのことに雄略天皇は、志幾大県主に対してはその邸宅を焼き払おうとします。
もっとも、この時は志幾大県主が天皇に謝罪し贈物を差し出したので許しますが。
 しかし、小根使主と吉備下道臣前津屋の場合には、この両者を殺してしまいます。
とりわけ前津屋の場合では前津屋だけでなくの一族70名も一緒に殺してしまった、と
『日本書紀』は記します。
 
 このように、有力豪族たちによる連合体であったと考えられる大和政権にとって、冠を
与えることはその体制を大きく変えることになったのです。
 天皇から位を意味する冠を与える、ということは、天皇が他の豪族たちより一段上の
立場にいることを意味するからです。
 思えば『万葉集』の最初の歌が雄略天皇の詠んだ歌であることは、雄略天皇が日本に
おける事実上最初の天皇だと見られていたのかもしれません。

余計なひと言はレベルが高い

2015年10月30日 02時06分18秒 | 日記
2012年11月28日(水)(4歳7か月)


 春奈を風呂に入れてやっている時に、今日の
できごとを話してくれた。

 「今日な、保育園で家族ごっこしてな、先生が
パパの役してん」

 「ふうん」

 ちなみに春奈の担任の先生は男性である。

 「先生のパパが会社にお仕事行ってな、これ
ママゴトやで、でもな、子供たちが心配やからって
早くお仕事から帰ってきてん。ええパパやろ?」

 じゃあ、俺はいいパパとちゃうな。

 波平さんやマスオさんみたいに家族と一緒に
夕飯を食べることなどないからな。

 余計なひと言を付け加えなくていいよ。

 そう思いながらも、ふと、春奈が今みたいに
余計なひと言を言うようになったのはいつ頃だ
ろうと思いだしてみる。

 でも思い出せん。気づけないうちに言える
ようになっていたみたいだ。

 僕らにしてみても、日本語以外の言葉で今日の
できごとを話すことはできても、余計なひと言と
いうヤツまで付け加えるのはそうそうできるもの
じゃない。

 意識してならともかく今の春奈みたいに自然に
言えるっては難しい。

 そう考えたら春奈の言葉も格段に育っているって
ことだよな。

445 雄略天皇と冠

2015年10月28日 01時25分37秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生445 ―雄略天皇と冠―


 ところで葛城氏が強大な力を持った背景は、何も天皇の外戚となっただけでは
ないのです。むしろ、帰化人たちを掌握し、大陸からの技術を得たことがその
要因と言えます。
 これは雄略天皇にも引き継がれました。
 『日本書紀』は次のように記します。

 天皇はすべて独断で事を行う。誤って人を殺すことが多い。人々は天皇を
誹謗して、「大悪天皇なり」と言う。天皇が寵愛したのは身狭村主青と檜隈民使
博徳らのみである。

 身狭村主青は先に採り上げた人物ですが、青も檜隈民使博徳もともに帰化人
です。雄略天皇が唯一信頼していたのが帰化人であるのが興味深い。

 5世紀のはじめ頃、天皇に対して「高光る日の御子」という呼称を用いるよう
になったのは、「恐らく、応神・仁徳の河内王朝時代に、朝廷では、彼らと交渉の
多い朝鮮半島の諸王国がいずれも『日の御子』を王祖に戴き、物々しい国家的
祭典で、まつっているのを見、それとの対等性の必要から『日の御子』の神裔が、
天皇家であるとする主張を打ち出すようになった」とする松前健(「日本古代の
太陽信仰と大和国家」)の指摘がありますが、このように、大陸の思想や形式
などが取り入れられるようになったようです。

 雄略天皇の時代、すなわち5世紀中頃から5世紀後半にかけて導入されたものの
ひとつに冠があります。
 冠は古代中国や古代朝鮮で、その政治的地位を表すものとして使用されていました。
その人の地位や位によって用いる冠も異なるわけです。
 日本の古墳からも冠は出土しており、それらの中で築造された年代が最も古いのが、
二本松山古墳(福井県吉田郡)、桜ヶ丘古墳(長野県松本市)、三昧塚古墳(茨城県
行方市)、関行丸古墳(佐賀県佐賀市)、江田船山古墳(熊本県和水市)で、これらは

 いずれも5世紀末頃に造られたと見られています。と、言うことは、冠の使用は
これらの古墳の被葬者が存命だった頃、つまり5世紀中頃くらいからと推測される
わけです。

 ただし、一口に冠と言っても多種あります。
 今採り上げた5基の古墳では、二本松山古墳から出土した冠は額飾式冠と呼ばれる
もので、桜ヶ丘古墳から出土した冠は狭帯式冠と呼ばれるものです。
 残る三昧塚古墳、関行丸古墳、江田船山古墳らから出土した冠は広帯二山式冠と呼ば
れるものです。

 5世紀から6世紀にかけての時代の古墳から出土した冠と王権のつながりについて
採り上げたものの書のひとつに、水谷千秋の『継体天皇と朝鮮半島の謎』があります。
 この中で水谷千秋も書いていますが、考古学の研究では、二本松山古墳、桜ヶ丘古墳、
江田船山古墳らから出土した冠は朝鮮半島で作られたものと見られています。
 また、広帯二山式冠はその後に造られた古墳からも多く出土しているので、当時の
日本では広帯二山式冠が主流になったようです。
 そして考古学の分野では、それらの広帯二山式冠は江田船山古墳から出土したものを
モデルにして製作されたと考えられており、これは多くの研究者たちの一致した意見です。

 ここで議論されるのは、日本における初期の冠が朝鮮半島製であったと言っても、それが
朝鮮半島から海を越えてもたらされたものなのか、日本に来た朝鮮半島の技術者たちに
よって国内で生産されたものなのか、ということです。
 次にこれらの冠は天皇から地方の豪族に与えられたものなのか、あるいは各豪族が各自の
ルートで入手したものなのか、ということです。

 初期の冠が、朝鮮半島で入手したものであるなら、『日本書紀』に多くの豪族が軍事的、
あるいは外交的に海を渡っていることが記されているので、その時に入手したと推測され
ます。
 また、日本海側の豪族であれば、独自の交流ルートも持っていたとも考えられます。
 冠が独自で入手したものなのか、という問題も同じものです。

 一体これの何が問題なのか。
 大和政権から派遣された豪族が海を渡った際に入手したものでなく、独自ルートで入手
した、あるいは独自に帰化人に作らせた、というのであれば、その豪族は大和政権に対して
半独立国として存在していたことになるからです。
 反対に、大和政権が冠を入手して豪族に与えていたのであれば、大和政権と豪族とには
服属関係があることになるのです。

 結論的に言えば、雄略朝時代こそ、大和政権と地方豪族たちとの関係に変化が訪れた
時期だったからです。

失礼な言葉というもの

2015年10月26日 01時39分23秒 | 日記
2012年11月27日(火)(4歳7か月)
 
 
 風呂の中で春奈が、
 
 「肉慢 あん慢 中華慢♪」
 
と、保育園で習った歌を歌っている。
 
 「肉慢」と歌う時に、脇腹の肉をつまむらしいの
だけど、今も春奈がそれをした時に、りえが、
 
 「春奈お肉いっぱいあるもんな」
 
と、言った。
 
すると、とたんに春奈の表情が変わり、
 
 「そんなん言わんとってや!」
 
と、マジで怒り出した。
 
 どうやら「失礼な言葉」というものが春奈の中にも
できているようだ。

444 允恭系と大阪府

2015年10月25日 02時39分44秒 | 多言語
大国主の誕生444 ―允恭系と大阪府―
 
 
 しかしながら、允恭系の皇統が大日下王の皇統と姻戚関係を結ぼうとした理由は
何なのでしょうか。
 これについては3つの理由が考えられます。
 
 1つ目は、允恭系の皇統が皇位を継いでいくために、大日下王と敵対するのでは
なく取り込もうと考えたとみることです。
 ただし、安康天皇は大日下王を討ち滅ぼしてしまいました。
 この事件を、『古事記』も『日本書紀』もともに根使主が虚偽の讒言をしたために
起こったと記しますが、疑うなら、初めから安康天皇によって仕組まれたことだと疑う
こともできるものです。
 
 では、2つ目の理由。これは3つ目の理由と関連するのですが、大日下王やその
妹の若日下王は太陽祭祀にたずさわっていたと思われることです。
 つまり、允恭系の皇統にとっては太陽祭祀を独占したかった、だから巫女的存在
であった若日下王を雄略天皇の后に迎えたかった、というわけです。
 この時代に、皇祖神を太陽神にもとめる「高光る日の御子」の思想ができたことが
影響しているものと思われます。
 
 そして3つ目の理由。その若日下王が河内に坐したことです。
 このことは、『古事記』に、若日下王を訪ねるために雄略天皇が生駒山を越えていく
場面が登場することや、『日本書紀』に、根使主が討たれた後、雄略天皇はその一族を
2つに分け、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)として皇后に与え、もう一方を
負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えた、とあることからうかがえます。
 根使主が天皇の軍勢に対抗するために籠城したのが日根であり、これが現在の
大阪府泉佐野市周辺に比定されているからです。
 
 一方で葛城氏も大阪府に進出していたとされていますので、允恭系にとって、大阪府を
押さえる必要があったのです。
 と、言うのも、允恭系の宮があった場所を見てみますと、
 
 19代允恭天皇 遠飛鳥宮
 20代安康天皇 石上穴穂宮
21代雄略天皇 泊瀬朝倉宮
 
と、いずれもが大和に宮を置いているのです。
 允恭系は大和に比重を置いた皇統だと言えるでしょう。そのために、隣国であり、瀬戸
内海の玄関口である大阪府を押さえたかったのでしょう。
 
 さて、そんな允恭系ですが、陵墓について言えば允恭天皇も雄略天皇も河内にその
陵墓があります。
 これまでにも何度かお話ししたことですが、天皇陵というものは、『古事記』や『日本
書紀』に記された歴代天皇の陵墓の場所に当てはまる古墳をその天皇の陵墓と指定
しているだけで、近年の技術でおこなった調査結果によりその古墳が造られた年代と
その天皇が治世していたとされる年代が一致しないケースが多くあります。
 反対に、河内大塚山古墳(大阪府松原市と羽曳野市にまたがる)、丸山古墳(奈良県
橿原市)、土師ニサンザイ古墳(大阪府堺市)などは、その大きさで全国5位、6位、7位
であるにも関わらず天皇陵には指定されていません。(ただし陵墓参考地にはいずれも
指定)これは、記紀に載っていないためです。
 
 それで允恭天皇陵ですが、これは大阪府藤井寺市国府1丁目の市野山古墳が指定
されています。調査によりこの古墳が造られたのは5世紀中頃であることが判明しました
ので允恭天皇の治世と一致します。
 注目したいのは市野山古墳が築かれた場所です。
 ちょうど長尾街道が通る場所にあるのです。長尾街道は葛城と旧堺港を結ぶ古代道で、
葛城氏が大いに関係していたと見られます。
 しかも、この辺りは太陽祭祀にも関わっていたと考えられる土師氏の拠点でもあるの
です。
 
 雄略天皇陵に指定されている島泉丸山古墳は大阪府羽曳野市にあります。
 島泉丸山古墳は円墳で、濠で囲まれ全長が76メートルありますが、巨大古墳が多く
存在する古市古墳群にあっては小ぶりです。そのため雄略天皇の陵墓にしては小さすぎ
るという理由で被葬者が雄略天皇なのか疑問視する声も少なくありません。
 では、それならば本当の雄略天皇陵はどこにあるのか、と言うと、候補に挙がっている
のが藤井寺市藤井寺4丁目にある岡ミサンザイ古墳や、先に登場した、大阪府松原市と
羽曳野市の境にある河内大塚山古墳などです。
 岡ミサンザイ古墳は14代仲哀天皇陵に指定されていますが、造られたのは5世紀後半
と見られ、雄略天皇の治世と一致するのです。
 これに対して河内大塚山古墳は造られた時期が6世紀後半と見られるのでその点で
雄略天皇陵とは見做しにくいという面があります。
 
 ただ、允恭・雄略天皇にかぎらず多くの天皇の陵墓が河内平野に造られた理由につい
てはよくわかっていません。
 以前には、大和政権は河内で誕生し大和に遷ったので(河内王朝説)、古代天皇家に
とって河内は古代天皇家誕生の聖地であった、と考えられていましたが、河内王朝説が
否定される傾向にある今日においては、河内平野に天皇陵が造られた理由は謎のまま
です。
 
 それでも、大和に宮を置いていた天皇たちもが河内平野に眠るのには河内平野を
重要視する何らかの理由があったのでしょう。
 だからこそ允恭系には大阪府を押さえようとしていたものと思われます。