大国主の誕生446 ―連合体からの変化―
5世紀前半くらいまでの大和政権は、大王を中心とした有力豪族による連合国家
だったと考えられています。
その中心となる大王も、『古事記』や『日本書紀』が伝えるような神武天皇から続く
一統ではなく、連合政権を形成する有力豪族の間で交代が行われていた、とする
研究者も少なくはありません。
もちろん、これらの説は推測であり、事実はなかなかに知る手立てもないわけ
ですが。
しかし、やがて大王は天皇と称されるようになり、その系統は皇室によって代々
続くことになります。
連合国家ということは、大王と言えども他の有力豪族と対等な立場ということに
なります。
室町幕府や江戸幕府にしても、将軍は武家の棟梁ではあっても、厳密には大名
たちの主君ではなかったのですが、それに似ているのかもしれません。
有力豪族たちの方でも自分は天皇と対等だとする意識が少なからずあったのかも
しれません。
『古事記』には、雄略天皇が日下にいる若日下部王を訪ねようと生駒山の南方に
ある直越(ただごえ)道を通っていた時に、山上から見ると、天皇の宮と同じような
宅が見えて、それが志幾大県主(しきのおおあがたぬし)の邸宅であった、という話が
登場します。
『日本書紀』には、根使主の子、小根使主が、人に、
「天皇の城は堅固にあらず。わが父の城は堅固なり」
と、語ったので、雄略天皇が家臣に根使主の邸宅を見に行かせたところ、本当に
立派過ぎる邸宅であったという話が登場します。
同じ『日本書紀』に登場する話ですが、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちの
おみのさきつや)が、小女を天皇に見立て、大女を自分に見立てて相撲を取らせ、
小女が勝つと、刀を抜いてその小女を斬ってしまいます。
また、小柄な鶏の毛を抜き、翼を切って天皇に見立て、大柄な鶏を自分に見立てて
闘わせて、それで小柄な鶏の方が勝つと、また刀を抜いてその鶏を切ってしまった、と
あります。
女相撲や闘鶏で、それぞれを自分と天皇に置き換えることは、前津屋には、天皇と
自分は同等だという意識があったのだと解釈できるのです。
これらのことに雄略天皇は、志幾大県主に対してはその邸宅を焼き払おうとします。
もっとも、この時は志幾大県主が天皇に謝罪し贈物を差し出したので許しますが。
しかし、小根使主と吉備下道臣前津屋の場合には、この両者を殺してしまいます。
とりわけ前津屋の場合では前津屋だけでなくの一族70名も一緒に殺してしまった、と
『日本書紀』は記します。
このように、有力豪族たちによる連合体であったと考えられる大和政権にとって、冠を
与えることはその体制を大きく変えることになったのです。
天皇から位を意味する冠を与える、ということは、天皇が他の豪族たちより一段上の
立場にいることを意味するからです。
思えば『万葉集』の最初の歌が雄略天皇の詠んだ歌であることは、雄略天皇が日本に
おける事実上最初の天皇だと見られていたのかもしれません。