小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

出雲大社16 アヂスキタカヒコネ②―

2014年02月16日 23時40分14秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社16 アヂスキタカヒコネ②―


 『出雲国風土記』の仁多郡には次の話がある。

 大神オオナモチノミコト(大穴持命)の御子アジスキタカヒコの命はひげが八握
(やつか)に生える年齢になっても夜昼泣いてばかりで言葉を話すことはなかった。
 父神が、御子を船に乗せて島々を廻って楽しませたが泣きやむことはなかった。
 そこで父神である大神が、
 「御子の泣く理由を教えたまえ」
と、夢占いをしてみたところ、御子が言葉を発する夢を見た。
 翌朝、御子の前に立つと、
 ※「御津(みつ)」
と、御子が言ったので、
 「それはどこのことか?」
と、大神が問いかけると、御子は外に行き、石川を渡り、坂の上に登ると、
 「ここぞ」
と、申された。その時、沢より流れ出た水で沐浴をされた。
 国造が神吉事奏上のために朝廷に上がる時にはこの水で身を清めるのは、この故事
によるものである。
 御津は今、三澤という。

※岩波古典文学大系『風土記』(秋本吉郎校注)では、「御澤」となっているが原文は
「御津」である。秋本吉郎は、原文が誤記と解釈しただろうか???

 驚くべきことは、第4回で紹介した『古事記』のホムチワケ伝承に似通っていること
である。
 アジスキタカヒコネもホムチワケもともに大人の年齢になっても言葉を発しなかった、
とある。

 ホムチワケは、『古事記』に、

 「八握ひげ胸の先に至るまでま言とわず(言葉を発しなかった)」

と、書かれ、『出雲国風土記』のアジスキタカヒコの神は、

 「御ひげ八握に生えるまで、夜昼泣きまして御言かよわざりき」

と、記されている。


 「尾張国風土記逸文」には、ホムチワケ伝承の原型かと思わせる話がある。

 「垂仁天皇の御子品津別(ホムツワケ)は7歳になっても言葉を話すことはなかった。
 ある時皇后の夢に神が現れ、
 『吾は多具の国の神、名を阿麻乃弥加都比女(アマノミカツヒメ)という。吾を祀れば
皇子の口はきけるようになり、長寿を得るであろう』
と、お告げがあったので、日置部の始祖建岡(たけおか)の君に占わせ、阿豆良の里にこ
の神を祀ることになった』

 なお、このアマノミカツヒメを祀った神社は、尾張一宮市にある阿豆良神社(あづら神社)
である。


 『出雲国風土記』には、天御梶日女命(アマノミカジヒメノミコト)という神が登場する
が、おそらくはアマノミカツヒメと同じ神で、しかもこの神はアジスキタカヒコの后とされ
ている。
 『出雲国風土記』の楯縫郡の条に、

 「阿遅須枳高日子命(アヂスキタカヒコノミコト)の后天御梶日女命、多久の村に来まして
多伎都比古命(タギツヒコノミコト)を産みたまいき」

と、記されている。
 この記事には多久の村とあるが、「尾張国風土記逸文」のアマノミカツヒメは「多具の国の
神」と記されている。多久と多具は重なる。

 それに、愛知県にホムチワケ伝承が存在するのはなぜだろう、と考えた時に、意外にもホム
チワケ伝承はこの地方と結びついているのだ。

 『古事記』の中に、父垂仁天皇がホムチワケのために尾張の相津の二俣杉で船を作るとある。
(しかもこのエピソードは『出雲国風土記』の、オオナムチがアジスキタカヒコのために、
「御子を船に乗せて島々を廻って楽しませた」と、あるのに共通している)

 そして、ホムチワケと一緒に出雲に向かった曙立王(アケタツの王)と莵上王(ウナカミの王)
が、愛知県の隣りの三重県に関係している。
 アケタツの王を祭神とする佐那神社が三重県多気郡多気町にあり、ウナカミの王を祭神とする
莬上神社が三重県いなべ市大安町(旧員弁郡)に、莬上耳利神社が三重県四日市市にあるので
ある。

 三重県四日市市水沢町(すいさわ町)に足見田神社(あしみだ神社)が鎮座する。
 『古事記』には、伊吹山の神に敗れたヤマトタケルが尾津を経由して三重村にたどり着いた
時に、足が三重に折れ曲がってしまっていた、とある。
 三重村が現在のどこに当たるのかについては諸説あるが、四日市市水沢町もその比定地の
ひとつである。

 足見田神社は『神名帳考証』には、ヤマトタケルを祭神とする、とあるが、現在ここで祀られ
ているのは、志那都比古命(シナツヒコノミコト)・志那都比売命(シナツヒメノミコト)・
瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)の3神とその他15神となっている。

 なお、瀬織津比売命は出雲大社の祓社(はらいのやしろ)の、四柱の神の人柱でもある。

 

 ただし、谷川健一はその著作『青銅の神々の足跡』の中で、宮司から聞いた話として、かつ
てはシナツヒコ・シナツヒメのかわりに伊勢津彦命(イセツヒコノミコト)が祭神であった、
と記している。

 イセツヒコは、かつて伊勢国に鎮座していた神として、「伊勢国風土記逸文」に登場するが、
『播磨国風土記』では、伊和大神の御子神とされている。
伊和大神は大国主と同神ともいわれているが、イセツヒコも「伊勢国風土記逸文」に、「出雲
の神の子」と記され、別名が出雲建子命(イズモタケコノミコト)とある。


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