小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

599 八千矛の神 その4

2017年06月29日 01時31分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生599 ―八千矛の神 その4―
 
 
 ただし、淡路の海人たちは天皇直属ではなく、凡海直(おおしあまのあたい)が統括していた、
と井上辰夫(『古代王権と語り部』)は言います。
 凡海氏は大海氏(おおあま氏)と記されることもあり、大海人皇子、つまり天武天皇は大海人氏に
養育されたと考えられています。
 淡路の凡海氏は、践祚大嘗祭の儀式にも役目を担っていたことが『延喜式』にも記されて
いますが、『続日本紀』延暦十二年十二月の記事には、
 
 「阿波国正六位上粟凡直豊穂(あわのおおしのあたいとよほ)を国造に任ず」
 
と、あるので、阿波にも凡海氏がおり、粟凡(阿波凡)を称していたことがわかります。
 
 凡海氏と同じなのが倭氏です。
 淡路には、倭氏が祭祀する大和大国魂神を勧請したという大和大国魂神社があり、阿波
にも、倭氏のいたことが『日本三代実録』に記されています。
 その記事は、阿波国名方郡の海直豊宗や海直千常ら海直氏7人に大和連の姓を賜った、
というものですが、阿波の倭氏がこの時まで海氏(あま氏)を称していたことは興味深く思え
ます。
 
 『日本三代実録』には、同じく阿波国名方郡の安曇部粟麻呂(あずみべのあわまろ)が、
安曇宿禰を賜ったとする記事がありますが、安曇粟麻呂は安曇百足の子孫を称していたと
記されているので、阿曇(安曇)氏の本宗である阿曇連から派生した氏族ということになり
ます。
 阿曇氏も、『日本書紀』の応神天皇三年十月の記事で、
 
 「処処(ところどころ)の海人が命に従わったので、阿曇連の祖、大浜宿禰を遣わして
これを平定した。よって海人の宰(みこともち)とした」
 
と、あるので、阿曇氏もまた海人を統括する立場にありました。
 それに、阿曇氏も践祚大嘗祭にあたっては、天皇に食事を奉る役目を担っていました。
 
 なお、『日本三代実録』にある、安曇宿禰粟麻呂が祖だという阿曇連百足については、
『播磨国風土記』揖保郡浦上の里の条に、
 
 「浦上と名づけられたのは、昔、安曇連百足らが、はじめ難波の浦上にいたものを、後に
この浦上に移って来た時に、元いた土地の名を付けたものである」
 
と、記されていることから、かつては難波にいたことがうかがえます。
 他にも、大阪市の東横堀川沿いの旧地名に安曇江があり、また、かつて安曇寺という
寺が存在していたことら、難波にも阿曇氏がいたようです。
 
 そうすると、難波、淡路、阿波と、大阪湾をまたがって、倭氏、阿曇氏、凡海氏がいた
ことになり、この三氏は海人という共通点で互いに結びついていたと考えられるわけです。
 
 さて、阿曇氏と混同しやすいのが安曇犬養氏です。
 阿曇氏も安曇犬養氏もともに綿津見命(綿積命とも)を祖とする氏族で同族です。
 同じように混同しやすいのが犬養氏です。
事実、『新撰姓氏録』でも、摂津の氏族の中に安曇連と安曇宿禰の名は見えず、代わりに
安曇犬飼連が載っているのです。
 
 犬養氏には、この安曇犬養氏の他にも、海犬養氏、阿多御手犬養氏、県犬養氏、若
犬養氏(稚犬養とも)などがいるのです。
 このうち、
 安曇犬養氏と海犬養氏は、綿津見命の裔、
 阿多御手犬養氏は、火遠理命の兄、火照命の裔、
 県犬養氏は、神魂命の裔、
 若犬養氏は、火明命の裔、
 辛犬養氏は、渡来人の裔、
を称していました。都合、五流の犬養氏が存在していたわけです。
 そのうち、綿津見命を祖とする犬養氏と火明命を祖とする犬養氏がいるわけですが、
大海氏(凡海氏)にも、綿津見命を祖とする大海氏と火明命を祖とする大海氏の二流が
あったのです。
 
 倭氏と阿曇氏も同じ構図になります。
 倭氏は『古事記』では槁根津日子、『日本書紀』では椎根津彦が始祖となっていますが、
『海部氏勘注系図』では、天火明命の曾孫にあたる倭宿禰命が始祖となっています。
 阿曇氏の方は綿津見命が始祖なので、やはり火明命と綿津見命という組み合わせに
なるのです。
 天火明命を始祖とする氏族は製鉄に関わる人々が多く、それが大国主と結びついた、
と考えられるのですが、海人もまた大国主と結びついたようなのです。
 
 それが、大国主の別名のひとつ、八千矛神なのです。

お姉ちゃんと呼ぶこと

2017年06月27日 01時42分45秒 | 日記
2013年9月13日(金)(5歳5か月)
 
 
 みんたは今晩保育園の会合があるので留守をしている。
 僕が仕事の後、用事で寄り道をしてから帰宅すると、春奈が
ちょうど風呂から出てきたところだった。
 
 いつも僕と一緒に入るから、帰宅前に先に入っているとは
珍しいことだ。
 
 「先に風呂入ったのか」
 
と、僕が話しかけると、
 
 「りえ姉ちゃんと入った」
 
 基本、春奈はゆうきとりえのことを呼び捨てである。
 
 だけど、たまに「お姉ちゃん」と呼ぶことがある。
 
 それが先日、ヒッポの人から言われて気づいたことがある。
 
りえのことは「お姉ちゃん」とよぶことがあっても、ゆうきのことを
「お姉ちゃん」とは呼ばない、と。
 
 「そう言えば、誰かがりえのことは『お姉ちゃん』って呼ぶって
言ってたな」
 
 僕が言うと、
 
 「りえって呼ぶの面倒くさいから」
 
 それを聞いて横にいたゆうきが、
 
 「りえねえちゃん、って言う方が長いやん。ま、どっちにしても、
うちのことは『ゆうき姉ちゃん』って呼べへんねんやろ」
 
と、言う。
 
 すると、春奈が、
 
 「ゆうき姉ちゃんって呼んだろか?」
 
と、答えた。
 
 まさに上から目線だ、って言うか、素でこんなことを答えるから怖い。
 
 春奈にとって、「お姉ちゃん」は単なる呼称ではなく、何か別の意
味を持った言葉なのだろうか?

598 八千矛の神 その3

2017年06月25日 02時31分01秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生598 ―八千矛の神 その3―
 
 
 その前に、あと2つ、採り上げておきたい説話があります。
 
 ひとつは、『播磨国風土記』の賀古郡の項にある、12代景行天皇が印南の別嬢(いなみの
わきいらつめ)を妻問した話です。
 印南の別嬢は、『古事記』にある、吉備臣らの祖、若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能
大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)と同一人物とされています。ちなみにヤマトタケルの
生母です。
 一方の印南の別嬢は、『播磨国風土記』では、丸部臣(わにべのおみ)らの祖、比古汝茅
(ヒコナムチ)と、吉備比古の娘(もしくは妹か?)、吉備比売との間に生まれた、となっています。
 
 それで、その印南の別嬢の伝承ですが、印南の別嬢への求婚に、景行天皇は播磨国
賀毛郡の山直(やまのあたい)等の祖、息長命(オキナガノミコト)を仲介役にしますが、別嬢は
畏れかしこみ、南毗都麻嶋(ナビツマ島)に隠れてしまいます。そこで天皇も島に渡り、妻問
することができるのですが、別嬢には、床掃え(とこはらえ=寝所の清掃や設備などの奉祀
する侍女)として、出雲臣比須良比売(ヒスラヒメ)という女性が仕えており、天皇はこの出雲臣
比須良比売を息長命の妻にした、というものです。
 
 もうひとつは、『日本書紀』の、応神天皇二十二年の記事です。
 応神天皇の妃の兄媛(えひめ)は吉備臣の祖御友別(みともわけ)の娘ですが
この兄媛が天皇に、
 「もう長い間父母にあっておりません。しばらく故郷に帰って父母によくしたいと思います」
と、願い出ます。
 応神天皇は承諾し、淡路島の御原の海人80人を水夫にして兄媛を海路送り出してやります。
 その年の秋、天皇は淡路島で狩りをおこない、それから吉備を訪問したのでした。
 この時、兄媛の父、御友別が御饗(みあえ=食事を奉ることで、同時に服属することを意味
します)を天皇におこないます。
 これに対して、天皇は大変満足し、吉備を分割して御友別の子どもたちに与えます。
 『日本書紀』は、
 
 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に
与える。これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは
三野臣の始祖なり。また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。
それから兄の浦凝別に苑縣を与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」
 
と、記しています。
 
 以上の説話を比べてみると、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)の伝承には、水取司に仕える
吉備国の児島の仕丁が登場し、印南の別嬢(いなみのわきいらつめ)や兄媛(えひめ)は
吉備の氏族の出身と、吉備が絡んでいることにまず気づかれるかと思います。
 しかし、吉備よりもむしろ関係しているのは海人なのです、
 
 桑田の玖賀媛(くがひめ)はおそらく丹波国桑田郡の人だったのでしょうが、桑田郡には
氷室が置かれていました。
 南丹市八木町氷所には氷室の郷という農村環境公園がありますが、八木町氷所はこの
氷室が置かれていた地に比定されているところなのです。
 吉備国の児島の仕丁は水取部に仕えていた、とありますが、氷室の管理を行っていたのが
水取部なのです。
 水取部の名称は、天皇に水を奉るという職務からきたものだと言われていますが、『古事記』
には枯野という船の話があります。
 枯野とは、大阪府高石市と堺市西区とが隣接する辺りに生えていた巨木を切り倒して作ら
れた船で大変速い船だった、とあります。そして、この枯野で毎朝夕、淡路島の冷水を酌んで
それを天皇に奉った、と『古事記』は記します。
 
 それで、『日本書紀』の兄媛の伝承を見てみると、応神天皇は淡路島の御原の海人80人を
水夫にして兄媛を海路送り出してやったことが記されています。
 額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と屯倉を接収しようとして、
倭直吾籠子によって阻止された事件では、はじめ大雀命は倭直麻呂に、
「大和の屯田は山守のものというのはどういうことであろう?」
と、尋ねます。これに対して麻呂は、
 「私はよく存じておりません。弟の吾籠子だけが知っております」
と、答えたのですが、その時吾籠子は韓国に派遣されていました。
 そこで大雀命は淤宇宿禰に、淡路の80人を水夫として付けて吾籠子を召喚させるのです。
 
 ともに淡路島の海人が80人とあり、このことから、淡路島の海人が航海を担うものとして
天皇に仕えていたことが推測できます。

ラーメン体操

2017年06月23日 01時25分07秒 | 日記
2013年9月12日(木)(5歳5か月)
 
 
 りえが、春奈に訊く。
 
 「春奈たち、保育所からM幼稚園に行った?」
 
 「行ったよ」
 
 「やっぱりな。そこでラーメン体操やった?」
 
 「あー、やったやった」
 
 「最近M幼稚園からラーメン体操の歌が聞こえてくるねん。
こないだも小テストの時間中に、『ラーメン大好き♪ラーメン
食べたい♪』って聞こえてくるし」
 (M幼稚園はりえの通う中学校のすぐ近くにある)
 
 『ラーメン体操』は幼稚園や保育園でよくやっているリズム
体操のひとつだ。
 
 ちなみに去年の春奈の保育園でやっていたのは『パワフル
キットちゃん』。
 
 春奈の通う保育所では交流の一環として、近隣の幼稚園や
保育所を訪問する機会を設けているわけだけど、りえは春奈
たちがM幼稚園を訪れてラーメン体操をしたからM幼稚園でも
やるようになった、と考えているようだけどどうだろう?
 初めからM幼稚園でもやっていたのかもしれないけども、
春奈たちが訪問した後からラーメン体操の歌が聞こえてくる
ようになった、というからもしかすると本当にそうなのかもしれ
ない。
 
 しかし、僕たちが園児の頃にはお遊戯はあってもリズム体操は
なかったなあ。
 
 リズム体操は幼児の発育にはいいと思う。
 
 何しろ幼児は歌が好きだからね。
 
 いや、逆だ。
 
 
 歌の嫌いな幼児がいないのである。
 
 大人なら、人前で歌を歌うことに抵抗を感じる人が少ないけど、
幼児はその抵抗がない。
 
 それは、きっと幼児には言葉と歌が一緒のものだから。
 
 大人が言葉を聴く時は、言わば単語や文章を聴いているような
ものだ。
 
 しかし、赤ん坊は言葉のリズムや波、あと、日本語の「らしさ」を
聴いている。
 
 だから言葉と歌の間に垣根はないだろう。
 
 大人だって赤ん坊みたいに、言葉の意味など考えずに音楽として
言葉を聴くなら、きっとどんな国の言葉でも話せるようになるのだろう
けどね。

597 八千矛の神 その2

2017年06月20日 01時08分56秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生597 ―八千矛の神 その2―
 
 
 仁徳天皇に関する伝承の中には出雲神話に共通するものがあります。
 
 『古事記』には、応神天皇が御子たちの中から、大山守命、大雀命(仁徳天皇)、宇遅能和紀
郎子(ウジノワキイラツコ)の3名を呼び、
 「大山守命は山海の政をせよ。大雀命は食国(おすくに)の政を執れ。宇遅能和紀郎子は天皇の
位につけ」
と、言う場面があります。これは、イザナキが御子神たちの中から天照大御神、月読命、須佐之男命
(スサノオノミコト)の3神に、
に対して、
 「天照大御神は高天の原を治めよ。月読命は夜の食国を治めよ。須佐之男命は海原を治めよ」
と、言ったことと共通しています。
 一見すると、応神天皇の説話は神話から採ったように思われますが、しかし天照大御神という神の
成立が7世紀頃と考えられること、天照大御神とスサノオが姉弟とされるようになったのもこの頃だと
考えられることなどを考慮すると、むしろ応神天皇の説話の方が古い可能性もあるのです。
 
 次に、『日本書紀』には次のような話が載せられています。
 
 十六年の秋、天皇(仁徳天皇)は、女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を舎人たちがいる中に
呼ぶと、舎人たちに、
 「朕はこの玖賀媛を后にしたいと願っていたが皇后の嫉妬がひどくてそれが叶わない。だからと
言ってこのまま歳をとらせるのも忍びない」
と、話し、
 
 水底(みなそこ)ふ 臣の少女を 誰養はむ
 
と、歌を詠んで問いかけた。
 ここに、播磨国造の祖速待(はやまち)が進み出て、
 
 みかしほ 播磨速待 岩くだす 畏(かしこ)くとも 吾養わむ
 
と、詠んだので、天皇は玖賀媛を速待に賜った。
 しかし、玖賀媛は、
 「大君のおそばにいることが叶わないのであれば、私は一生独り身でいたいと思います」
と、言って速待の妻になることを拒んだので、天皇は玖賀媛を桑田に送り返すことにした。
 ところで天皇は、速待が玖賀媛を妻にしてくれることを望んでいたから、速待を桑田まで送らせる
ことにした。
 しかし、玖賀媛は病にかかり、その道中で亡くなってしまった。
 
 ここに登場する桑田とは、丹波国桑田郡のことだと思われます。
 『古事記』の「崇神記」には、日子坐王が丹波の玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺した、とあり
ますが、ともに玖賀の名を持つのは偶然でしょうか。
 
 ところで、これと似た話が『古事記』にもあります。
 こちらは、吉備の海部直(あまべのあたい)の娘の黒日売(くろひめ)が美人であると聞いた仁徳
天皇が宮中に召しますが、黒日売は皇后の石之日売命(イワノヒメノミコト)の嫉妬を恐れて故郷に
帰ってしまうというものです。
 
 この2つの話と共通したものが神話にもあるのです。
 いわゆる稲羽の素菟(しろうさぎ)伝承で、大国主と結婚の約束をした八上比売です。
 スサノオの試練を終え須世理比売を妻に迎えた大国主は、あらためて八上比売を妻として出雲に
つれて来ますが、八上比売は正妻である須世理比売を恐れて、自身が生んだ木俣神を置いて
因幡に帰ってしまうのです。
 
 仁徳天皇にはもうひとつ、次のような伝承が『古事記』にあります。
 
 仁徳天皇は皇后が紀州に御綱柏(みつなかしわ)を採りに行幸している間に、異母妹の八田若郎女
(ヤタノワキイラツメ)を後宮に入れてしまいます。
 皇后が天皇の難波宮に戻る途中、帰郷の途中であった、水取司に仕える吉備国の児島の仕丁が、
皇后に仕える倉人女に、こう話しかけたのでした。
 「天皇は近頃八田若郎女を後宮に迎えられ、昼も夜も問わずたまむれ遊ばされていることを皇后は
ご存じないのでは?あのようにのんびりと旅を楽しまれておられるのだから」
 倉人女がこの話を皇后に伝えると、皇后は激怒し、難波宮には帰らずに、山城国綴喜郡に住む
渡来人、奴理能美(ぬりのみ)の家に入ってしまったのでした。
 
 なお、ここに登場する児島の仕丁ですが、仕丁とはいわゆる人足のことなので、身分の低い無名の
者です。
 
 さて、仁徳天皇にまつわる3つの伝承を紹介したわけですが、これらが天皇の恋話、あるいは皇后の
嫉妬という共通点だけでとらえてよいのでしょうか。
 これらの説話には他にも共通している点があるのです。