大国主の誕生599 ―八千矛の神 その4―
ただし、淡路の海人たちは天皇直属ではなく、凡海直(おおしあまのあたい)が統括していた、
と井上辰夫(『古代王権と語り部』)は言います。
凡海氏は大海氏(おおあま氏)と記されることもあり、大海人皇子、つまり天武天皇は大海人氏に
養育されたと考えられています。
淡路の凡海氏は、践祚大嘗祭の儀式にも役目を担っていたことが『延喜式』にも記されて
いますが、『続日本紀』延暦十二年十二月の記事には、
「阿波国正六位上粟凡直豊穂(あわのおおしのあたいとよほ)を国造に任ず」
と、あるので、阿波にも凡海氏がおり、粟凡(阿波凡)を称していたことがわかります。
凡海氏と同じなのが倭氏です。
淡路には、倭氏が祭祀する大和大国魂神を勧請したという大和大国魂神社があり、阿波
にも、倭氏のいたことが『日本三代実録』に記されています。
その記事は、阿波国名方郡の海直豊宗や海直千常ら海直氏7人に大和連の姓を賜った、
というものですが、阿波の倭氏がこの時まで海氏(あま氏)を称していたことは興味深く思え
ます。
『日本三代実録』には、同じく阿波国名方郡の安曇部粟麻呂(あずみべのあわまろ)が、
安曇宿禰を賜ったとする記事がありますが、安曇粟麻呂は安曇百足の子孫を称していたと
記されているので、阿曇(安曇)氏の本宗である阿曇連から派生した氏族ということになり
ます。
阿曇氏も、『日本書紀』の応神天皇三年十月の記事で、
「処処(ところどころ)の海人が命に従わったので、阿曇連の祖、大浜宿禰を遣わして
これを平定した。よって海人の宰(みこともち)とした」
と、あるので、阿曇氏もまた海人を統括する立場にありました。
それに、阿曇氏も践祚大嘗祭にあたっては、天皇に食事を奉る役目を担っていました。
なお、『日本三代実録』にある、安曇宿禰粟麻呂が祖だという阿曇連百足については、
『播磨国風土記』揖保郡浦上の里の条に、
「浦上と名づけられたのは、昔、安曇連百足らが、はじめ難波の浦上にいたものを、後に
この浦上に移って来た時に、元いた土地の名を付けたものである」
と、記されていることから、かつては難波にいたことがうかがえます。
他にも、大阪市の東横堀川沿いの旧地名に安曇江があり、また、かつて安曇寺という
寺が存在していたことら、難波にも阿曇氏がいたようです。
そうすると、難波、淡路、阿波と、大阪湾をまたがって、倭氏、阿曇氏、凡海氏がいた
ことになり、この三氏は海人という共通点で互いに結びついていたと考えられるわけです。
さて、阿曇氏と混同しやすいのが安曇犬養氏です。
阿曇氏も安曇犬養氏もともに綿津見命(綿積命とも)を祖とする氏族で同族です。
同じように混同しやすいのが犬養氏です。
事実、『新撰姓氏録』でも、摂津の氏族の中に安曇連と安曇宿禰の名は見えず、代わりに
安曇犬飼連が載っているのです。
犬養氏には、この安曇犬養氏の他にも、海犬養氏、阿多御手犬養氏、県犬養氏、若
犬養氏(稚犬養とも)などがいるのです。
このうち、
安曇犬養氏と海犬養氏は、綿津見命の裔、
阿多御手犬養氏は、火遠理命の兄、火照命の裔、
県犬養氏は、神魂命の裔、
若犬養氏は、火明命の裔、
辛犬養氏は、渡来人の裔、
を称していました。都合、五流の犬養氏が存在していたわけです。
そのうち、綿津見命を祖とする犬養氏と火明命を祖とする犬養氏がいるわけですが、
大海氏(凡海氏)にも、綿津見命を祖とする大海氏と火明命を祖とする大海氏の二流が
あったのです。
倭氏と阿曇氏も同じ構図になります。
倭氏は『古事記』では槁根津日子、『日本書紀』では椎根津彦が始祖となっていますが、
『海部氏勘注系図』では、天火明命の曾孫にあたる倭宿禰命が始祖となっています。
阿曇氏の方は綿津見命が始祖なので、やはり火明命と綿津見命という組み合わせに
なるのです。
天火明命を始祖とする氏族は製鉄に関わる人々が多く、それが大国主と結びついた、
と考えられるのですが、海人もまた大国主と結びついたようなのです。
それが、大国主の別名のひとつ、八千矛神なのです。