小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

出雲大社25 タケミナカタ⑤

2014年02月28日 23時48分36秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社25 タケミナカタ⑤―


 前回では、八千矛神の唱歌と天語歌について、を書いてみたけれど、これらのことは、タケミナ
カタと無関係なものでは決してない。
 なぜなら、八千矛神こと大国主が高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)を口説いて、その結果、2神
の間に生まれた神こそがタケミナカタである、とされているからだ。

 八千矛神の歌物語は前回で考察したように、どうも出雲の伝承ではないようだ。
しかし、大国主の妻神のひとりに高志のヌナカワヒメという女神がいたことは、『出雲国風土記』
にも書かれている。
 嶋根郡美保の郷に、

 「天の下造りしし大神(註:大国主のこと)が、高志の国に坐す神意支都久辰為命(オキツクシイ
ノミコト)の御子俾都久辰為命(ヘツクシイノミコト)の御子奴名宜波比売命(ヌナガワヒメノミコ
ト)を妻問いして生まれた御穂須須美命(ミホススミノミコト)が坐すので美保という」

という記事があり、御子神はタケミナカタではないけど高志のヌナカワヒメの名が記されている。

 また、第10回で書いた、『播磨国風土記』の、大国主とホアカリの伝承には、大国主の妻として
弩都比売(ノトヒメ)という女神の名が登場するが、ノトというのは能登のことであろう。

 高志(こし)とは越のことであるが、当時の大和周辺の人々にとって、高志も能登も、北陸地方を
指す地名だったのだろう。

 『古事記』によればスサノオに退治されるヤマタノオロチは高志よりやって来る存在であったが、
石川県羽咋市にはオオナムチによる大蛇退治の物語を伝えている。

 石川県羽咋市にある能登国一の宮気多大社(けた大社)はオオナムチを祭神とするが、ここに大蛇
退治の物語が伝えられている。
 この気多大社のおいで祭(平国祭)について、松前健の『古代信仰と神話文学』に紹介されている
箇所を引用してみよう。

 「気多大社の祭神オオナムチは、同社の縁起によると、天下を巡行し、諸妖を平げ、能登に立寄った
が、当地は怪賊最も多く、殊に邑知潟に住む毒蛇は、その害甚しく、衆人を苦しめたので、大神は今の
社地に行宮を造り、諸神を率いて、その大蛇を射殺したといい(『能登国名跡志』)、その由来によっ
て、毎年四月三日の例祭に、蛇の目神事を行う。これに先立って、三月十八日より二十三日までの六日
間、平国祭ないしオイデ祭といって、神輿および神使のこの近郷一円の巡行がある。そのさまは、錦旗、
社号旗、四神矛、長柄鎌、生弓矢、平国広矛を列ね、神馬を供え、神使は騎馬に乗り、古くは能登一円
を巡行したが、現在は羽咋・鹿島の一部分だけに止まっている。
 この行列は、本社を出発後、滝屋神社もしくは大穴持像石神社に泊り、途中で、金丸村の宿那彦像石
神社で、神璽を神輿に移し、更に巡業を続け、七尾市所口の気多本宮、すなわち能登生国玉比古神社に
泊り、更に巡行を続け、さきの宿那彦神像石神社に立寄り、神璽を戻し、二十三日本社に還幸するので
ある。神輿は四月三日例祭まで拝殿に安置したままであり、これは古くは二月午日に出発し、三月三日
例祭(追澄祭)還幸した名残で、古くはこの平国祭のご神幸と例祭(追澄祭)とが一連の祭りであった
ことを表すのであるといわれる(『官国弊社特殊神事調』)。」

 文中には大穴持像石神社(おおなもちかたいし神社)だとか宿那彦神像石神社(すくなひこのかみが
たいし神社)といった神社が登場するが、大穴持とは大国主のことであるし、宿那彦神像石神社の祭神
はスクナビコナである。

 また羽咋市の隣七尾市飯川町にある久志伊奈太伎比神社の祭神は、スサノオの妻クシナダヒメだ。

 この一帯には出雲系の神々が信仰されていることになる。

 そもそも気多という地名も、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)の神話の舞台も因幡の気多の崎に共通
したものである。

 そして、羽咋市の北に位置するところに、羽咋郡志賀町安津見という地名が存在することに、安曇氏の
足跡を認めずにはいられない。
 志賀町という地名は安曇氏の本貫である志賀島と同名だし、安津見という地名は安曇そのものである。


 タケミナカタを追いかけてみると、このように安曇氏の存在が目立つのであるが、『古事記』の国譲り
神話にタケミナカタが組み込まれた理由は、もっと他の氏族たちによるものだったと思われる。
 なぜなら、『古事記』の国譲り神話には、同時にタケミカヅチも組み込まれているからだ。

 そのタケミカヅチが組み込まれた背景には、物部氏、中臣氏 、三輪氏、尾張氏、それに、太氏や常陸の
仲国造が見て取れた。

 タケミナカタにも、物部氏と、その同族の婇氏、それに尾張氏と同族の忌部氏や天語氏が関係している
とみられる。
 そして、太氏と、その同族の信濃国造金刺氏の存在である。

 諏訪大社の大祝は諏訪の外地には一歩も出てはいけないという。
 タケミカヅチに敗北したタケミナカタが、諏訪より外に出ない、と誓うのも、この制約を利用したものと
考えられる。
 タケミナカタの敗北も、伊勢より諏訪に敗走した伊勢津彦を移し替えたものだろう。
 本来は諏訪に先住していた神々を平定したタケミナカタは、このように不名誉な役割を担わされてしまっ
たわけだ。
 なによりも、太安万侶編纂の『古事記』にのみタケミカヅチとタケミナカタの力競べの伝承が載せられて
いるあたり、太氏と信濃国造金刺氏の影響を思わせる。


 さて、こういったところでタケミナカタの神話も終わりにしよう。
 アヂスキタカヒコネ、タケミカヅチ、タケミナカタときて、残るは事代主である。



多言語人間とは・・・???

2014年02月28日 00時35分40秒 | 日記
2011年4月21日(木)(3歳0か月)


 春奈が僕とみんたのところにクッキーの入って袋を持って
来て、

 「どっちか(お父さんかお母さんのどちらか)開けてー」

と、言うから、みんたが開けてあげようとすると、

 「食べるなよ!」

と、春奈が厳しい口調で言った。

 だから、何でそないにえらそうやねん?

 みんたも、

 「最近ほんま言い方キツイねん」

と、言うけど、開けてと頼んでおきながら、でも食べたらアカン
とは、どんだけ食い意地はっとんねん、しかし。

 

 多言語人間のことを英語で言うとマルチリンガルである。

 多言語活動のヒッポファミリークラブでもを英語で多言語人間
と言う時はマルチリンガルと言っている。

 でも、厳密には両者は一緒じゃない。

 マルチリンガルは複数の言葉が話せる人のことである。

 だから、自分の知らない言葉を話す人が目の前に現れたなら、
マルチリンガルであっもとたんに耳を閉ざしてしまう人もいる。

 多言語人間というのは、どんな国の人にもどんな国の言葉にも、
耳と心が開いている人のことである。

 それはどんな国の人にもどんな国の言葉にも自分と同じところ
を見つけるものでもある。


 春奈、135キロのエクトール(ハッキリ言ってメタボ)のとこ
ろに行き、いきなり自分のシャツをめくってそのキューピー人形
の様な大きなお腹を見せると、

 「いっしょ」

と、言った。

 多言語人間というのは、どんな国の人にもどんな国の言葉にも、
自分と同じところを見つけるものだけど・・・。

 そんなところに同じをみつけたか、春奈・・・。

出雲大社24 タケミナカタ④

2014年02月27日 00時48分15秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社24 タケミナカタ④―


 『古事記』は、伊勢の船木氏をカムヤイミミの子孫とするが、『住吉大社神代記』では
伊勢船木氏の祖を伊勢津彦命(イセツヒコノミコト)としている。
 イセツヒコについていえば前にも書いたけど、「伊勢国風土記逸文」には、次のように
記されている。

「天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)12世の子孫天日別命(アメノヒワケノミコト)
は神武天皇から「東の国を平定してまいれ」との命令を受け、伊勢に向かった。
 伊勢にはイセツヒコノミコトという神がおり、アメノヒワケは、
 「汝の国を天孫に献上せよ」
と、言うが、イセツヒコは、
 「吾は長きにわたってこの国に住んでおる。その命令をきくわけにはいかない」
と、拒否した。そこでアメノヒワケは武力でこれを制し、イセツヒコをまさに殺してしまお
うとした時に、イセツヒコは、
 「わが国は天孫に献上いたす。吾はこの国を出て行く」
と、誓った。
 アメノヒワケが、
 「汝がこの地を去っていくのは、どうやって知ることができる?」
と、訊くと、
 「吾は今夜、風を起こし、波を立てながら東に向かう。それが吾の去っていく験(しるし)
である」
 そこでアメノヒワケが軍を整えて見守っていると、夜中、大風が起こり波が荒れ、海が昼間
みたいに明るく光り輝いて、それが東へと去っていった。
 古語に、「神風の伊勢の国」、「常世に浪寄する国」というのは、この出来事が由来である。
 以来、イセツヒコは信濃国に住む。
 

 なお、『伊勢国風土記』の別の逸文によれば、この伊勢津彦は、

 「出雲の神の子、出雲建子命(イズモタケコノミコト)、またの名を伊勢津彦命(イセツヒ
コノミコト)、またの名を櫛玉命(クシタマノミコト)」

と、ある。

 出雲の神の子であるとか、以来信濃国に住むとか、タケミナカタと重なる記述である。

 この伊勢津彦と似た話が『日本書紀』に載せられている。伊勢津彦はここに登場する朝日郎と
も重なる。

 「雄略十八年に、物部莵代宿禰と物部目連を派遣して伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討た
せた。
 朝日郎は、伊賀の青墓まで来て官軍を待ち受けた。朝日郎の放つ矢は二重の鎧も貫くほどの威力
だったので、官軍は攻めることができず、2日間対峙したままだった。  
 そこで、物部目連が筑紫の聞物部大斧手とふたりで攻めこんで朝日郎を斬った」

 ここでは、討伐する方も、物部氏に変わっている。
 ただ、もうひとつ、注意しなければいけないことがある。
 伊勢朝日郎という名は、伊勢国朝明郡に関係するものと思われるのであるが、朝明郡は員弁郡の
隣に位置し、伊勢船木氏の本拠とされているところなのである。

 ところで、物部莵代宿禰と物部目連が伊勢の朝日郎を討つ話であるが、これは雄略天皇の時代の
こととなっている。
 同じ雄略天皇の時代のこととして、『古事記』には、伊勢国の三重の采女が雄略天皇に大盃を捧
げ奉った時に、その大盃に百枝槻の葉が落ちたことに気付かないまま采女が差し出したため、天皇
が激怒し、采女の首に刀を当て、今まさに切ろうとしたところ、采女が、壽ぎ(ことほぎ)の歌を
歌ったので、天皇はその罪を赦した、というエピソードが載せられている。

 ただ、この歌の最後の詞は、「事の語り言も是ば(事の語り言として、このことを申し上げます)」
となっている。
 これは、『古事記』で、八千矛神(大国主)が、高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)に贈った求婚の
歌の最後が、
 「海人駈使が、事の語り言も是ば」
と、なっていること、また、八千矛神(大国主)がこのことを知った正妻のスセリビメに贈った歌の
最後が、
 「事の語り言も是ば」
となっていることとまったく同じである。

 伊勢の三重の采女が歌った歌を、『古事記』は、「天語歌(あまがたりうた)」と呼んでいる。
 すると、天語氏がこれに関係しているのかもしれない。
そして、この天語氏も『新撰姓氏録』によれば、阿波忌部氏と同じくアメノヒワシを祖としているの
である。

 天語歌には天語氏の他に関係していると思われる氏族がいる。婇(うねめ)氏である。

 婇氏は采女を統括する氏族であったといわれているが、『古事記』は、ニギハヤヒの子宇摩志麻遅命
(ウマシマジノミコト)を、

 「物部連、穂積臣、婇臣の祖なり」

と、記しており、婇臣と物部氏は同族ということになる。

『日本書紀』の雄略元年3月の記事には、雄略天皇が童女君(おみなぎみ)という元采女に生ませた女
の子(後に仁賢天皇の皇后となる春日大娘皇女)をわが子と認めなかったものを、物部目大連が、認め
させた、とある。

 采女を統括する婇氏と物部氏の関係をうかがわせる伝承である。

 伊勢津彦と伊勢の朝日郎。八千矛神(大国主)と天語歌。
 物部氏は奇妙に大国主やタケミナカタの伝承に絡んでいる。

出雲大社23 タケミナカタ③

2014年02月26日 00時37分19秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社23 タケミナカタ③―


 倭氏の始祖は、『古事記』ではサオネツヒコ、『日本書紀』ではシイネツヒコとあるが、『日本書紀』
はシイネツヒコについて次のようなエピソードを載せている。

 「紀州から再び大和に入った神武天皇が、八十建(やそたける=日本書紀では八十梟帥と表記)を攻め
あぐねていた時、神武天皇の夢の中に天つ神が現れて、
 「天の香具山の社の土を取りて天の平瓫(あめのひらか)80枚を作り、同時に厳瓫(いつくへ=神酒
を入れる瓶)を神に供えよ。その上で厳呪詛(いつのかしり=呪術のひとつ)を行えば敵はおのずから伏
する」
と、お告げをくだした。
 そこに、オトウカシが天皇の元にやって来て、
 「天の香具山の社の土で天の平瓫を作り神々にお供えすれば必ず敵を打ち破ることができることでしょう」
と、夢のお告げと同じことを進言した。
 このことで、天皇は、これは間違いない、ということになり、オトウカシとサオネツヒコのふたりを天の
香具山に行かせようとしたが、香具山は敵のテリトリーであり、その道中にも敵の兵士が臨戦態勢を取って
いたので容易に近づくことができない。
 そこで、ふたりは身分の賤しい者が身にまとう衣服に着替え、サオネツヒコは老爺の姿に、オトウカシは
老婆の姿に変装して出かけて行った。敵の兵士たちは、ふたりを見て、
 「これまた汚らしい年寄りたちだなあ」
と、嘲笑して通してしまったのだった。結果、ふたりは香具山の土を採取して天皇の元に戻ってきた。その後、
神武天皇の軍はヤソタケルたちを討ち滅ぼした」

 天の香具山の社の土を採る、ということは、大和の国土を所有する、という意味合いを持つものと考えられ
る。
 倭氏の始祖がこのような伝承を持つことは、倭大国魂神の性格を考える上で非常に興味深い。


 トヨタマビメの名を冠した式内社は阿波の名方郡にのみありますが、トヨタマビメを祀る神社は全国にあり、
対馬にもある。対馬市豊玉町の式内社和多津美神社がそれである。
 対馬と言えば、安曇氏も関係している。
 安曇氏の祖安曇磯良を祀る大阪府茨木市の磯良神社は神功皇后の伝承を有するが、対馬にも安曇磯良と
神功皇后の伝承が存在する。
 神功皇后が三韓に出兵する時に、対馬の琴崎(きんざき)の海辺で軍船の碇が沈んで上がらなくなったのを、
安曇磯武良が潜って引き上げたという伝承が残されている。
 このように、対馬は安曇氏と縁の深い場所である。
それも当然で、安曇氏の本拠地は同じ玄界灘に面した志賀島だと言われており、と言うのも、志賀島には全国の
綿津見神社と海神社の総本山である志賀海神社があるからだ。

 そうすると、タケミナカタは元来大国主とは何の関係もない、むしろ安曇氏系の神ということになるわけであ
るが、それならなぜ大国主と結びついたのか、という謎が残ってしまう。

 実は、ここにこそ、伊勢神宮と出雲の関係が見え隠れする。

 『延喜式』に載る、トヨタマビメの名を冠した神社は、阿波の名方郡に和多津美豊玉比売神社と天石門別豊玉
比売神社の2社があるが、天石門別は忌部氏に関わる神名なので、天石門別豊玉比売神社は忌部氏が祭祀する
神社であったと考えられる。
 すると、忌部氏もまたトヨタマビメに関係している。
 阿波の忌部氏については、『続日本紀』の神護景雲二年七月の条に、

 「阿波国麻植郡の人、外従七位下忌部連方麻呂、従五位上忌部連須美等十一人に宿禰の姓を賜う」

という記事があり、麻植郡が本拠であったことがわかる。

 また、『延喜式』には、阿波国麻植郡の条に、忌部神社と天村雲神衣自波夜比売神社を載せている。
 忌部神社の祭神は天日鷲命(アメノヒワシノミコト)で、天村雲神衣自波夜比売神社の祭神は天村雲神(アメノ
ムラクモの神)と伊自波夜比売(イジハヤヒメ。伊志波夜比売とも)とされているが、アメノムラクモは、阿波忌
部氏の祖アメノヒワシの父神でもあり、同じアメノムラクモの御子神に、伊勢の度会神主の祖天日別命(アメノヒ
ワケノミコト)がいる。
 また、伊勢国造もアメノヒワシを始祖としている。
 アメノヒワシとアメノヒワケは、その名前が酷似していることから同神とする研究者もいるが、『先代旧辞本紀』
や『海部氏勘注系図』では、アメノムラクモをホアカリの孫とし、尾張氏の祖オキツヨソの父神としているので、
阿波忌部氏は尾張氏や度会神主と同族ということになる。

 阿波の忌部氏の本貫は阿波国麻植郡忌部郷であるが、伊勢の忌部氏の本貫は伊勢国員部郡(いんべ郡)で、信濃の
伊那郡も、忌部からきたものと思われる。伊那郡には伊那部(いなべ)という地名も存在する(現在の伊那市
伊那部)。
 信濃の伊那郡の大領は、諏訪大社の下社大祝の金刺氏で、金刺氏は信濃国造でもあった。
 伊勢の船木氏も金刺氏と同族である。このことは、『古事記』に、神武天皇の皇子神八井耳命(カムヤイミミノミコト)
の子孫たちを、

 「神八井耳命は、意富臣、小子辺連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、
都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等
の始祖」

と、記しており、これによれば太安万侶の太氏(意富臣)とも同族ということになる。
 そうすると、はじめ天照大御神の祭祀が宮中より太氏の本拠地である笠縫に遷されたのも無関係ではないだろう。
 

 ところで、タケミナカタの妃神である八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)を、『上宮御鎮座秘伝記』や『諏訪上宮神
名秘書巻』は、ワタツミの御子神ではなく、『先代旧辞本紀』に登場する八坂彦命の御子神としているが、『先代旧辞
本紀』ではこの八坂彦を「伊勢神麻績連らの祖」としている。

 『日本書紀』の崇神天皇5年の条に、疫病が流行し、多くの人が死んで国が乱れたので天皇が、オオタタネコに大物主
大神を、イチシノナガオチに倭大国魂神を祀る神主とした、とあるが(第5回を参照)、『日本書紀』によれば、この時、
天皇の夢の中に大物主の神が現れ、
 「天皇よ、憂うるではない。国が治まらないのは吾の意思である。わが子オオタタネコに吾の祭祀を行わせればたちど
ころに国は治まり、また海外の国もおのずと従うであろう」
と、告げ、さらに8月には、倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサヂハラマクワシヒメ)と、穂積臣の祖大水口
宿禰(オオミクチノスクネ)と、伊勢麻績君(イセノオミの君)の3人が共に同じ夢を見た、とある。
 『日本書紀』は、大物主神、倭大国魂神、天照大御神の祭祀伝承に、伊勢麻績君が関わっていたことを記しているので
ある。

 麻績という地名は、阿波忌部氏の本貫である阿波国麻植郡と、伊勢国多気郡に麻績郷、それに信濃国伊那郡と更級郡
の麻績郷が見られるが、阿波と伊勢と信濃にあることは偶然で片づけるわけにはいかない。

出雲大社22 タケミナカタ②

2014年02月25日 00時22分11秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社22 タケミナカタ②―


 トヨタマビメ祀る神社は全国に多く存在するが、式内社、すなわち『延喜式』神名帳に載る神社
で、豊玉姫の名を冠した神社は、阿波国名方郡の、和多津美豊玉比売神社と天石門別豊玉比売神社
の2社のみである。
 一方、式内社で、玉依毘売の名を冠した神社は、信濃国埴科郡の玉依比売神社である。

 このように、トヨタマビメとタマヨリビメ姉妹の名を冠した式内社が阿波の名方と信濃にだけあ
るわけであるが、建御名方神(タケミナカタの神)の名を冠した式内社も、阿波の名方と信濃にだ
けにある。

 式内社でタケミナカタの名を冠した神社とは、徳島県名西郡(旧名方郡)にある多祁御奈刀弥神社
と長野県の健御名方富命彦神別神社のことで、阿波の名方と信濃にのみ存在するのである。

 この、タケミナカタと、トヨタマビメ・タマヨリビメ姉妹の名を冠した式内社が阿波と信濃にのみ
存在するというのは決して偶然とは思えない。
 なぜなら、どちらも綿津見神(ワタツミの神)との関係が深いからだ。

 『古事記』にあるように、トヨタマビメ・タマヨリビメ姉妹はワタツミの御子神である。

 また、タケミナカタの妻で諏訪大社の下社に祀られている八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)もワタ
ツミの御子神といわれている。
『延喜式』神名帳には信濃国安曇郡に川会神社が載せられているが、川会神社の社伝には、

 「海神綿津見命を祀る。建御名方命の后は海神(註:ワタツミのこと)の娘なり」

と、ある。
 タケミナカタとワタツミは義理の父子の関係になるのである。

ワタツミの御子神には、これらの神の他にも穂高見命(ホダカミノミコト)がいる。
 『延喜式』神名帳には先の川会神社と同じ信濃国安曇郡に、穂高神社が載せられているがこれはホダ
カミを祭神とする神社である。
 なお穂高岳の名もホダカミと穂高神社から付けられたものである。

 第13回で書いた安曇氏は、このホダカミを始祖とする。
 安曇氏もまた阿波の名方と信濃に関係する。
 長野県には安曇野という地名が存在するけども、これは安曇氏から来たものとされているのだ。

 安曇氏は阿波の名方郡にもいた。
 このことは『日本三代実録』貞観六年八月八日の記事に、

 「阿波国名方郡の人安曇部正六位上安曇部粟麻呂、部の字を去りて宿禰を賜う。自ら言う、安曇百足
の苗裔なり」

と、ある。
 つまり名方郡の安曇部粟麻呂が安曇宿禰の姓を賜わった、という内容の記事である。
 ここには、安曇部粟麻呂が安曇百足の子孫を称していたと記されているが、安曇百足は『播磨国風土記』
揖保郡浦上の里の条に、

 「浦上と名づけられたのは、昔、安曇連百足らが、はじめ難波の浦上にいたものを、後にこの浦上に移っ
て来た時に、元いた土地の名を付けたものである」

と、書かれている。
 そして、この記事によれば、安曇氏の本宗である安曇連が難波(なにわ)の地にいたことになる。
 難波は言うまでもなく現在の大阪市のことではあるが、この当時の大阪市は、上町台地をのぞいて大阪湾
の海の下だった。
 大阪市の東横堀川沿いの旧地名に安曇江があり、それと、安曇寺が存在した。
 安曇寺の所在地については諸説あるが、そのひとつが高麗橋である。
 つまり、難波における安曇氏の拠点は大阪城の西に推定されることになる。
 そして、現在大阪城が位置するところにはかつて生國魂神社が鎮座していた。この神社は式内社の難波坐
生國咲國魂神社に比定されている。
 咲国魂は、咲魂(さきたま)のことだろう。すなわち、出雲の稲佐海岸で、大国主の前に海を照らしなが
らやって来た神が、
 「吾は汝の幸魂奇魂(さちみたまくしみたま)」
と、告げる、この幸魂と同義とみられる。
 なお、生國魂神社は豊臣秀吉によって大阪市天王寺区に移転され現在に至る。

 生國魂神社の祭神は、生島大神(いくしま大神)と足島大神(たるしま大神)で、この両神は日本国その
ものであるとされているが、長野県上田市には生島足島神社が鎮座する。
 『古語拾遺』には、生島神は大八洲の霊、つまり日本国の国魂とあるが、上田市の生島足島神社の本殿は
板壁で囲ってあり、床がない。つまり土間だけであり、この土間こそが御神体なのだという。
 これは国土そのものが御神体であるということを意味する。
 これらのことを総合すれば、生國魂神社と生島足島神社は同じものだろう。

 では、安曇氏が信濃に生島神と足島神を持ち込んだのだろうか?

 生國咲國魂とあり、国土そのものであるというからには、国魂神とも大いに関係する。
 すると、思い起こされるのは、これまでに何度となく取り上げた倭大國魂神を祭祀する倭氏の存在である。

 倭大國魂神の「倭」は日本を指すものではなく、大和国、つまり現在の奈良県のことと解釈される傾向に
あるが、しかし、その倭大国魂神社は、淡路島にも鎮座するのである。
 それに、『日本三代実録』には、

「阿波国名方郡の人従八位上海直豊宗、外少初位下海直千常ら同族七人に大和連の姓を賜わる」

という記事が載せられている。
 阿波の名方郡には安曇氏だけでなく倭氏もいたのである。