パワースポット編 ―出雲大社25 タケミナカタ⑤―
前回では、八千矛神の唱歌と天語歌について、を書いてみたけれど、これらのことは、タケミナ
カタと無関係なものでは決してない。
なぜなら、八千矛神こと大国主が高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)を口説いて、その結果、2神
の間に生まれた神こそがタケミナカタである、とされているからだ。
八千矛神の歌物語は前回で考察したように、どうも出雲の伝承ではないようだ。
しかし、大国主の妻神のひとりに高志のヌナカワヒメという女神がいたことは、『出雲国風土記』
にも書かれている。
嶋根郡美保の郷に、
「天の下造りしし大神(註:大国主のこと)が、高志の国に坐す神意支都久辰為命(オキツクシイ
ノミコト)の御子俾都久辰為命(ヘツクシイノミコト)の御子奴名宜波比売命(ヌナガワヒメノミコ
ト)を妻問いして生まれた御穂須須美命(ミホススミノミコト)が坐すので美保という」
という記事があり、御子神はタケミナカタではないけど高志のヌナカワヒメの名が記されている。
また、第10回で書いた、『播磨国風土記』の、大国主とホアカリの伝承には、大国主の妻として
弩都比売(ノトヒメ)という女神の名が登場するが、ノトというのは能登のことであろう。
高志(こし)とは越のことであるが、当時の大和周辺の人々にとって、高志も能登も、北陸地方を
指す地名だったのだろう。
『古事記』によればスサノオに退治されるヤマタノオロチは高志よりやって来る存在であったが、
石川県羽咋市にはオオナムチによる大蛇退治の物語を伝えている。
石川県羽咋市にある能登国一の宮気多大社(けた大社)はオオナムチを祭神とするが、ここに大蛇
退治の物語が伝えられている。
この気多大社のおいで祭(平国祭)について、松前健の『古代信仰と神話文学』に紹介されている
箇所を引用してみよう。
「気多大社の祭神オオナムチは、同社の縁起によると、天下を巡行し、諸妖を平げ、能登に立寄った
が、当地は怪賊最も多く、殊に邑知潟に住む毒蛇は、その害甚しく、衆人を苦しめたので、大神は今の
社地に行宮を造り、諸神を率いて、その大蛇を射殺したといい(『能登国名跡志』)、その由来によっ
て、毎年四月三日の例祭に、蛇の目神事を行う。これに先立って、三月十八日より二十三日までの六日
間、平国祭ないしオイデ祭といって、神輿および神使のこの近郷一円の巡行がある。そのさまは、錦旗、
社号旗、四神矛、長柄鎌、生弓矢、平国広矛を列ね、神馬を供え、神使は騎馬に乗り、古くは能登一円
を巡行したが、現在は羽咋・鹿島の一部分だけに止まっている。
この行列は、本社を出発後、滝屋神社もしくは大穴持像石神社に泊り、途中で、金丸村の宿那彦像石
神社で、神璽を神輿に移し、更に巡業を続け、七尾市所口の気多本宮、すなわち能登生国玉比古神社に
泊り、更に巡行を続け、さきの宿那彦神像石神社に立寄り、神璽を戻し、二十三日本社に還幸するので
ある。神輿は四月三日例祭まで拝殿に安置したままであり、これは古くは二月午日に出発し、三月三日
例祭(追澄祭)還幸した名残で、古くはこの平国祭のご神幸と例祭(追澄祭)とが一連の祭りであった
ことを表すのであるといわれる(『官国弊社特殊神事調』)。」
文中には大穴持像石神社(おおなもちかたいし神社)だとか宿那彦神像石神社(すくなひこのかみが
たいし神社)といった神社が登場するが、大穴持とは大国主のことであるし、宿那彦神像石神社の祭神
はスクナビコナである。
また羽咋市の隣七尾市飯川町にある久志伊奈太伎比神社の祭神は、スサノオの妻クシナダヒメだ。
この一帯には出雲系の神々が信仰されていることになる。
そもそも気多という地名も、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)の神話の舞台も因幡の気多の崎に共通
したものである。
そして、羽咋市の北に位置するところに、羽咋郡志賀町安津見という地名が存在することに、安曇氏の
足跡を認めずにはいられない。
志賀町という地名は安曇氏の本貫である志賀島と同名だし、安津見という地名は安曇そのものである。
タケミナカタを追いかけてみると、このように安曇氏の存在が目立つのであるが、『古事記』の国譲り
神話にタケミナカタが組み込まれた理由は、もっと他の氏族たちによるものだったと思われる。
なぜなら、『古事記』の国譲り神話には、同時にタケミカヅチも組み込まれているからだ。
そのタケミカヅチが組み込まれた背景には、物部氏、中臣氏 、三輪氏、尾張氏、それに、太氏や常陸の
仲国造が見て取れた。
タケミナカタにも、物部氏と、その同族の婇氏、それに尾張氏と同族の忌部氏や天語氏が関係している
とみられる。
そして、太氏と、その同族の信濃国造金刺氏の存在である。
諏訪大社の大祝は諏訪の外地には一歩も出てはいけないという。
タケミカヅチに敗北したタケミナカタが、諏訪より外に出ない、と誓うのも、この制約を利用したものと
考えられる。
タケミナカタの敗北も、伊勢より諏訪に敗走した伊勢津彦を移し替えたものだろう。
本来は諏訪に先住していた神々を平定したタケミナカタは、このように不名誉な役割を担わされてしまっ
たわけだ。
なによりも、太安万侶編纂の『古事記』にのみタケミカヅチとタケミナカタの力競べの伝承が載せられて
いるあたり、太氏と信濃国造金刺氏の影響を思わせる。
さて、こういったところでタケミナカタの神話も終わりにしよう。
アヂスキタカヒコネ、タケミカヅチ、タケミナカタときて、残るは事代主である。
前回では、八千矛神の唱歌と天語歌について、を書いてみたけれど、これらのことは、タケミナ
カタと無関係なものでは決してない。
なぜなら、八千矛神こと大国主が高志の沼河比売(ヌナカワヒメ)を口説いて、その結果、2神
の間に生まれた神こそがタケミナカタである、とされているからだ。
八千矛神の歌物語は前回で考察したように、どうも出雲の伝承ではないようだ。
しかし、大国主の妻神のひとりに高志のヌナカワヒメという女神がいたことは、『出雲国風土記』
にも書かれている。
嶋根郡美保の郷に、
「天の下造りしし大神(註:大国主のこと)が、高志の国に坐す神意支都久辰為命(オキツクシイ
ノミコト)の御子俾都久辰為命(ヘツクシイノミコト)の御子奴名宜波比売命(ヌナガワヒメノミコ
ト)を妻問いして生まれた御穂須須美命(ミホススミノミコト)が坐すので美保という」
という記事があり、御子神はタケミナカタではないけど高志のヌナカワヒメの名が記されている。
また、第10回で書いた、『播磨国風土記』の、大国主とホアカリの伝承には、大国主の妻として
弩都比売(ノトヒメ)という女神の名が登場するが、ノトというのは能登のことであろう。
高志(こし)とは越のことであるが、当時の大和周辺の人々にとって、高志も能登も、北陸地方を
指す地名だったのだろう。
『古事記』によればスサノオに退治されるヤマタノオロチは高志よりやって来る存在であったが、
石川県羽咋市にはオオナムチによる大蛇退治の物語を伝えている。
石川県羽咋市にある能登国一の宮気多大社(けた大社)はオオナムチを祭神とするが、ここに大蛇
退治の物語が伝えられている。
この気多大社のおいで祭(平国祭)について、松前健の『古代信仰と神話文学』に紹介されている
箇所を引用してみよう。
「気多大社の祭神オオナムチは、同社の縁起によると、天下を巡行し、諸妖を平げ、能登に立寄った
が、当地は怪賊最も多く、殊に邑知潟に住む毒蛇は、その害甚しく、衆人を苦しめたので、大神は今の
社地に行宮を造り、諸神を率いて、その大蛇を射殺したといい(『能登国名跡志』)、その由来によっ
て、毎年四月三日の例祭に、蛇の目神事を行う。これに先立って、三月十八日より二十三日までの六日
間、平国祭ないしオイデ祭といって、神輿および神使のこの近郷一円の巡行がある。そのさまは、錦旗、
社号旗、四神矛、長柄鎌、生弓矢、平国広矛を列ね、神馬を供え、神使は騎馬に乗り、古くは能登一円
を巡行したが、現在は羽咋・鹿島の一部分だけに止まっている。
この行列は、本社を出発後、滝屋神社もしくは大穴持像石神社に泊り、途中で、金丸村の宿那彦像石
神社で、神璽を神輿に移し、更に巡業を続け、七尾市所口の気多本宮、すなわち能登生国玉比古神社に
泊り、更に巡行を続け、さきの宿那彦神像石神社に立寄り、神璽を戻し、二十三日本社に還幸するので
ある。神輿は四月三日例祭まで拝殿に安置したままであり、これは古くは二月午日に出発し、三月三日
例祭(追澄祭)還幸した名残で、古くはこの平国祭のご神幸と例祭(追澄祭)とが一連の祭りであった
ことを表すのであるといわれる(『官国弊社特殊神事調』)。」
文中には大穴持像石神社(おおなもちかたいし神社)だとか宿那彦神像石神社(すくなひこのかみが
たいし神社)といった神社が登場するが、大穴持とは大国主のことであるし、宿那彦神像石神社の祭神
はスクナビコナである。
また羽咋市の隣七尾市飯川町にある久志伊奈太伎比神社の祭神は、スサノオの妻クシナダヒメだ。
この一帯には出雲系の神々が信仰されていることになる。
そもそも気多という地名も、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)の神話の舞台も因幡の気多の崎に共通
したものである。
そして、羽咋市の北に位置するところに、羽咋郡志賀町安津見という地名が存在することに、安曇氏の
足跡を認めずにはいられない。
志賀町という地名は安曇氏の本貫である志賀島と同名だし、安津見という地名は安曇そのものである。
タケミナカタを追いかけてみると、このように安曇氏の存在が目立つのであるが、『古事記』の国譲り
神話にタケミナカタが組み込まれた理由は、もっと他の氏族たちによるものだったと思われる。
なぜなら、『古事記』の国譲り神話には、同時にタケミカヅチも組み込まれているからだ。
そのタケミカヅチが組み込まれた背景には、物部氏、中臣氏 、三輪氏、尾張氏、それに、太氏や常陸の
仲国造が見て取れた。
タケミナカタにも、物部氏と、その同族の婇氏、それに尾張氏と同族の忌部氏や天語氏が関係している
とみられる。
そして、太氏と、その同族の信濃国造金刺氏の存在である。
諏訪大社の大祝は諏訪の外地には一歩も出てはいけないという。
タケミカヅチに敗北したタケミナカタが、諏訪より外に出ない、と誓うのも、この制約を利用したものと
考えられる。
タケミナカタの敗北も、伊勢より諏訪に敗走した伊勢津彦を移し替えたものだろう。
本来は諏訪に先住していた神々を平定したタケミナカタは、このように不名誉な役割を担わされてしまっ
たわけだ。
なによりも、太安万侶編纂の『古事記』にのみタケミカヅチとタケミナカタの力競べの伝承が載せられて
いるあたり、太氏と信濃国造金刺氏の影響を思わせる。
さて、こういったところでタケミナカタの神話も終わりにしよう。
アヂスキタカヒコネ、タケミカヅチ、タケミナカタときて、残るは事代主である。