小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

キンキラ地方

2016年11月30日 01時25分06秒 | 日記
2013年7月1日(月)(5歳3か月)
 
 
 春奈、日本地図を眺めながら、
 
 「大阪ってキンキラ地方やんな」
 
 近畿地方な。キンキラって、そんな派手な
地域じゃないよ。
 
 幼児は言葉の中に、自分がすでに知って
いる言葉と似た音を見つけることで言葉を
自分の近くに引き寄せる。
 
 だから、どんどん新しい言葉を吸収していく
ことができるわけだけど、時々は今みたいに
知っている音に振り回されてしまうことも多々
ある。
 
 「関西地方って言い方もある」
 
と、僕が言うと、
 
 「関西、うん、言うな」
 
と、春奈が頷く。
 
 近畿地方というのは地方区分、関西というのは
地域区分であるが、関西人の僕にもよくわからん
のは、関西ではよく「近畿二府四県」という言葉が
よく使われることだ。
 
 近畿地方は二府五県なのに。
 
 つまりは京都府・大阪府・兵庫県・和歌山県・
奈良県・滋賀県・三重県である。
 
 ただし、地域区分では三重県は東海地方に
属される。
 
 だから「関西地方は二府四県」なわけだけど、
なんで「近畿二府四県」って言うんだ?
 
 この理由がよくわからない。
 
 謎なんである。

550 製鉄の人々の伝承と出雲の神 その5

2016年11月29日 01時39分27秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生550 ―製鉄の人々の伝承と出雲の神 その5―
 
 
 タケミナカタが大国主の御子神であることに疑問符がつきまとうのは、前に紹介した
ように、『日本書紀』には国譲り神話にタケミナカタが登場しないこと、『古事記』でも
国譲り神話では大国主の御子神とされているのにもかかわらず、大国主の系譜には
タケミナカタの名が記されていないこと、『出雲国風土記』にもタケミナカタが登場しない
ことなどによるものですが、その理由は、大国主とタケミナカタが親子であるとする
神話自体が新しいものであったと考えられるのです。
 
 大国主が大物主と同一神であった、とするのは、『日本書紀』の中で、大国主の別名の
ひとつに大物主という名が記されていることと、『出雲国造神賀詞』の中にも大国主が
自分の和魂を大物主として三輪山に鎮座させた、とあるためですが、太安万侶が編纂
した『古事記』には、大国主と大物主は別神として描かれています。
 これは、大国主大物主同一説もまた新しいものであったためと考えられます。
 
 はじめ、大物主の子孫を称する金刺氏や神氏が諏訪においてタケミナカタの祭祀を
確立し、その後出雲臣らの宗教活動によって大物主が大国主と同神である、という
考えが広まった結果、タケミナカタが大国主の御子神にされた、と考えられるわけです。
 
 では、タケミナカタが出雲化したのはいつ頃のことなのでしょうか。
 前出の松前健は、もしかすると、その時期は大祝神氏が先住守矢氏らを征服し、上社の
最高司祭になった時期と一致するのではあるまいか、と考えています。
 それなら、その時期とはいつなのか、という問いに対しては、これまでにも採り上げた、
諏訪大社の社地にある下諏訪青墓古墳をはじめとする諏訪地方の古墳がひとつの答えを
語ってくれます。
 下諏訪青塚古墳の築造は7世紀末から8世紀初頭と考えられています。この古墳の
埋葬施設は横穴式石室になっているのですが、これは古墳時代後期に造られた古墳に
見られるものです。(もっとも、九州ではもっと早い時代から造られていましたが)
 この横穴式石室という埋葬施設を持つ古墳が7世紀末から8世紀初頭になって諏訪で
造られた、ということは、この頃外部から諏訪に入った勢力が存在したことになります。
 つまりは、その勢力こそが神氏と考察されるのです。
 
 それとともに、この時期は龍田大社の神とタケミナカタの神を祀ったという持統天皇五年
(691年)と同じ頃になります。
 
 そして、ここで思い出していただきたいことがひとつあります。
 「出雲臣と青の人々」の中で、武蔵国には「青」の名を持つ神社が『延喜式』神名帳に
四社ある、と採り上げたことがあります。
 すなわち、
 
 多磨郡 青渭神社
 賀美郡 今城青八坂稲実神社
 賀美郡 今木青八坂稲実荒御魂神社
 賀美郡 今城青八坂稲実池上神社
 
の四社です。
 出雲信仰の伝播を考える上で武蔵国は絶対に無視することができない国です。

お泊り保育終了

2016年11月27日 02時01分11秒 | 日記
2013年6月30日(日)(5歳3か月)
 
 
 春奈はきのうから保育所のお泊り保育だ。
 
 お泊り保育そのものは今日の午前中をもって終了で、
園児は保護者が迎えに行かねばならない。
 それでもって僕が春奈を迎えに行くことになった。
 春奈に、
 「夜は寝れたか?」
と、訊くと、
 「9時から寝て6時からには起きた」
 からには?
 その日本語ちょっとおかしい。
 
 しかし、幼児の言葉というものは、僕たちが普段
ふつうに使っている言葉について考えさせられる
ことが多い。
 
 「から」という言葉もそうだ。
 
 ふつうは「6時から起きている」あるいは「6時には
起きている」である。
 
 「から」と「には」をくっつけてしまっている。
 
 あと、「から」という言葉は「起きている状態が今も
続いている」という意味になる。
 
 だけども、「9時から寝て6時に起きた」という場合
だと「寝ている状態」は続いていない。
 
 言葉って意識してしまうと難しいものだ。
 
ふだん当たり前のように使っている言葉でも意味や
使い方を教えて、と言われると説明に窮してしまう。
 逆に考えてしまうと日本語でさえ話すことが難しく
なる。
 
 そういう点では、なんか日本の英語教育って、英語の
意味や使い方を覚えさせようとしている傾向が強い
ような気がするなあ。
 
 だから英語が話せるようにならないんじゃないのか???

549 製鉄の人々の伝承と出雲の神 その4

2016年11月25日 01時32分32秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生549 ―製鉄の人々の伝承と出雲の神 その4―
 
 
 大和岩雄はその著『神社と古代王権祭祀』の中で、諏訪大社に伝わる薙鎌の神事に
ついて記しています。
 それによれば、諏訪大社では、春秋の遷座祭の行列の先頭に薙鎌を持つ者がふたり
立ち、六年に一度の御柱祭の時には御柱用材(神木)に薙鎌を打ち込む儀式があること。
 また、古くは御柱祭の前年に、信濃国中の末社に鉄製の薙鎌を贈る神事があった、と
いいます。
 この神事は何も諏訪大社にかぎったことではなく、諏訪地方ではかつて民間の間でも
木に薙鎌を打ち込む風習があったといいます。
 この薙鎌(金属)を木に打ち込むことは、「金剋木」であり、風を鎮める意味があったと
大和岩雄は考察します。
 
 ひとつ言い忘れていましたが、『日本書紀』持統天皇五年の、「竜田風神、信濃の須波
(諏訪)、水内等の神を祭らしむ」という記事で、竜田風神が奈良県生駒郡三郷町の龍田
大社のことであることは説明しましたが、諏訪と水内の神については説明を忘れておりま
した。
 諏訪の神は言うまでもなく諏訪大社のことですが、水内の神とは、信濃国水内郡に鎮座
する健御名方富命彦神別神社のことと考えて間違いないでしょう。つまり、この記事は、
竜田の風神とタケミナカタをともに祀った、ということになるわけです。
 
 タケミナカタと重なる伊勢津彦も、伊勢国を立ち去る際に大風を吹かせて波を立てた、
とあり風神を思わせる性格を持ちます。
 タケミナカタと伊勢津彦はともに外来の神に国譲りをして信濃に遷ったわけですが、ところが、
『諏訪大明神画詞』やその他諏訪地方に伝わる民間伝承などでは、タケミナカタが他所から
やって来て、洩矢神(モリヤ神)など諏訪の土着神を打ち負かし、その結果土着神から
この地を献上された、とあるのです。
 諏訪に伝わるタケミナカタの姿は、『古事記』や伊勢津彦とは真逆なのです。
 
 洩矢神は諏訪大社の神長官である守矢氏が奉斎する神ですが、御左口神(ミシャグチ神)の
こととも言われています。
 また、その他の土着神というのは、手長神社や足長神社の神のこととされています。
 両社はともに諏訪市に鎮座する神社なのですが、手長神社の祭神が手名椎(テナヅチ)
またの名を手長彦、足長神社の祭神が足名椎(アシナヅチ)またの名を足長彦といいます。
 この名は『古事記』に登場する櫛名田比売(クシナダヒメ)の父母の名と同じです。
 高天の原を追放されたスサノオが出雲に降り立った時、老人と老女と童女が泣いていました。
スサノオが、汝らは何者でどうして泣いているのか、と尋ねると、
 「僕(あ)は大山津見神の子、足名椎といい、妻の名は手名椎、娘の名は櫛名田比売といい
ます。高志のヤマタノオロチがやって来てその生贄にこの娘を差し出さねばならないので
泣いていたのでございます・
と、答えます。
 この後スサノオはヤマタノオロチを討ち、クシナダヒメを妻にするというのがこの神話の骨子
ですが、諏訪における手名椎と足名椎の場合は、スサノオがタケミナカタと入れ替わったような
形になっています。
 
 しかし、諏訪の手長神社と足長神社の祭神は、スサノオ神話における手名椎、足名椎とは
本来別の神であったようです。
 両社の祭神はやはり土着神であり、大和岩雄(『神社と古代民間祭祀』)は古代中国の地理書
『山海経』の中に、長臂国には手長人、長股国には足長人が住む、とあることにそのルーツを
求めています。
 さらに『山海経』には、長臂の国の民(手長人)は魚を捕らえる、とも記されており、京都御所
所蔵の内裏の手長足長図には、足長が手長を担いで海に入り、手長が長い腕で魚を捕らえ
ようとしている光景が描かれています。
 これらの伝承により、諏訪湖の漁民の神として手長彦が祀られ、そのペアとして足長彦も祀られ
るようになった、それがさらに変化してスサノオ神話に登場する手名椎、足名椎に変化した、と
考えられるわけです。
 
 しかし、問題となるのは、征服者であったタケミナカタがどうして『古事記』では被征服者に逆転
してしまった、ということです。
 そこには太氏の一族と出雲臣一族の影響が考えられるのです。
 
 諏訪大社の下社の大祝は太氏と同族の金刺氏ですが、上社の大祝は神氏(じん氏)です。
 神氏は『神氏系譜』によると、建御名方富神(タケミナカタ)直系の子孫を称しています。
 しかし、オオタタネコの子孫で、大物主を祀る大神神社の祭祀氏族である三輪氏が神氏(みわ氏)
とも表記されることから、諏訪の神氏を三輪氏の同族と見る研究者も少なくはありません。
 ただ、もしも神氏が三輪氏の同族であったとするならば、上社の大祝はオオタタネコ系の氏族、
下社の大祝は神八井耳系の氏族で、ともに大物主の子孫ということになります。

二文字表記の音はまだ・・・

2016年11月23日 02時27分35秒 | 日記
2013年6月27日(木)(5歳2か月)
 
 
 春奈の保育所では6月末に年長組さんには
お泊り保育という行事がある。
 
 名前のとおり、年長組の園児たちみんなで
保育所にお泊りする行事だ。
 
 いよいよ今週土曜日にそのお泊り保育が
迫った春奈。明日は9時に集合するそうだ。
 
 「9時に集合して何かやるのか?」
 
と、僕がみんたに訊くと、
 
 「お泊り保育の準備やらいろいろやるみたい。
買い物にも行くって」
 
と、教えてくれた。
 
 「買い物ねえ」
 
 そう、僕がつぶやくと、春奈が、
 
 「すうごう(集合)は9時やけど、買い物に出発
するのは9時ちゃうで」
 
 そりゃ、そうやろう。
 
 それより、「出発」は「しゅっぱつ」と言えるのに
「集合」は「すうごう」かよ。「しゅ」の発音がまだ
完全ではないようだ。
 
 「お泊りの用意はきのう先生がチャックしてくれた」
 
 「チェックか?」
 
 「そう、チェック」
 
 シュとかチェとか二文字で表記する音はまだ
苦手なようだ。