小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

あっぷに入ろう

2012年10月31日 01時14分55秒 | 日記
2009年12月17日(木)(1歳8か月)


 今日は木曜日だから和泉中央のファミリーの日だ。

 だけど、僕は仕事が忙しくファミリーには行けなかった。

 そうして僕が帰宅すると、同時にみんたたちがファミリー
から帰って来た。

 家に入ると、春奈が僕に、

 「あっぷ」

と、言う。

 どうやら「お風呂」と言っているらしい。

 いつもファミリーから帰るとすぐに風呂、というのが
パターンだから、春奈もそれがわかっているようだ。

 何しろ僕がいつも春奈を風呂に入れる役目だから僕に
お風呂と言ってくるに違いない。

 きっと、おふろ、が「おっぷ(ろ)」になるのだろう。

 そして、春奈はまだそれが「あっぷ」としか言えないようだ。

 だけど、「あ」と「お」は似た音なのだ。

 日本語の「あいうえお」の母音の中で「う」の音が一番
低くて、「あ」と「お」が1番高い。

 文字はなく音だけで言葉を捉えている春奈には「あ」と
「お」の使い分けがまだできないだけなんだろうと思う。

39 2つの尾張一の宮と出雲の勾玉

2012年10月31日 01時02分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生39 ―2つの尾張一の宮と出雲の勾玉―


 前回は、三輪氏・物部氏・中臣氏・尾張氏が建御雷を介して結びつ
いている、というところまでお話ししました。
 つまり、「

 三輪氏 ― タケミカヅチの子オオタタネコを始祖とする
 物部氏 ― タケミカヅチの分身である剣を保管する
 中臣氏 ― タケミカヅチを祭祀する
 尾張氏 ― タケミカヅチの子アメノカゴヤマを始祖とする

と、いった関係です。

 しかし、それではなぜこの4氏が結びついたのでしょうか?
 前出の志田諄一は、尾張氏を除く3氏の結合とみなし、その理由を
欽明天皇以降の仏教排斥運動にあると唱えます。
 三輪氏、物部氏、中臣氏は、祭祀に関係の深い氏族であるのがその
特徴ですが、仏教を認めるか否かで強硬な態度を取った氏族でもあり
ました。
 『日本書紀』を読む限りでは、欽明天皇が仏教の礼拝の可否につい
て群臣に問うたところ、物部尾輿と中臣鎌子が反対したとあり、敏達
天皇の時代には、疫病が流行し、物部守屋と中臣勝海が、疫病流行は
仏教を取り入れたことが原因だとして仏像や寺院を焼いたとあります。
また異伝として、三輪逆と中臣磐余も物部守屋にともに仏教を滅ぼそ
うと諮ったとあります。
 用明天皇の時代には、天皇みずからが仏教の信者になろうとしたこ
とに、物部守屋と中臣勝海が反対を唱えた、とあります。

 しかし、ここに尾張氏も絡んでいるのはどうしてでしょうか?
 それに、物部・三輪・中臣の3氏が結合するにしても、その理由が
仏教排斥にあるなら、タケミカヅチを持ち出して結びついたのはどう
してなのでしょう?

 タケミカヅチは国譲りの功労者とされますが、『日本書紀』では、
フツヌシの神(経津主神)を正使に、タケミカヅチを副えて、とし
ているのです。
 また、出雲側では、出雲国造の「神賀詞」は、高天の原の使者は
アメノヒナドリノミコト(天夷鳥命)とフツヌシノミコト(布都怒
志命)の2神としているのです。
 このように、タケミカヅチを国譲りの時の正使としているのは
『古事記』だけになるのですが、その理由として、藤原不比等の権力
を挙げる研究者は少なくありません。
 藤原不比等は、記紀が編纂された時期に絶大な権力を手にしてい
ました。
 と、同時に、不比等は中臣鎌足(藤原鎌足)の子ですから、中臣氏
の祀るタケミカヅチを国譲りの最大の功労者にしたというのです。
 それでも、物部稲目の時代にはまだタケミカヅチが正使だったとす
る伝承は出来上がっていなかったことになりますから、やはり、なぜ
タケミカヅチ?という疑問が解けたわけではありません。


 それから、尾張氏も絡んでいることについてですが、尾張国一の宮
の問題があります。
 神社は、国ごとに一の宮、二の宮、三の宮・・・・とあり、それが
各地の地名になっている場合も少なくないのですが、さて、尾張国の
一の宮は?と、尋ねられて、愛知県一宮市真清田にある真清田神社
(ますみだ神社)と答える人が多いのではないでしょうか。
 ところが、愛知県にはもう1つ、尾張国一の宮と称する神社があるの
です。
 それが、愛知県一宮市花池にある大神神社(おおみわ神社)です。
 真清田神社の祭神はホアカリで、大神神社の祭神は大和の大神神社
同様オオモノヌシです。
 もっとも大神神社の祭神については、ホアカリの子孫である大美和
都禰宜命とする説もあるようですが、一般に言われるようにオオモノ
ヌシが祭神であるならば、三輪氏がここ尾張において大きな影響力を
持っていたことになります。

 愛知県犬山市にある東の宮古墳。ここから、大和の鏡作坐天照御魂
神社の神宝である鏡と同じ鏡が発見されましたが、この古墳からは他
にも出雲産と思われる合子(ごうす)が発見されているのです。科学
的分析が行われていないので、もしもそれを行った場合、出雲以外が
産地であった、と言うことも起こり得るのですが。

 また、奈良県橿原市の新沢千塚323号古墳からは、出雲産と考えられ
る瑪瑙の勾玉が発見されましたが、陶邑に隣接した大阪府和泉市北部
にある和泉黄金塚古墳からも、画文帯神獣鏡と出雲産の勾玉が発見さ
れているのです。

 これらのことは、三輪氏が、尾張や出雲と深い関係を持っていたこ
とを語っているのではないでしょうか?

・・・つづく

使い分けがよくわからん

2012年10月30日 00時25分22秒 | 日記
2009年12月16日(水)(1歳8か月)


 晩ごはんを食べながら、春奈が、

 「おいしいわ」

と、言う。

 僕の死んだおばあちゃんがよく何かを食べながら「おいしいわ」
と、言っていたのを思い出した。

 春奈のその口調までが死んだおばあちゃんのそれによく似ている。

 さらにお茶を一口飲んで春奈が一言。

 「うめえ」

 おっさんか!

 それにしても、さっきは「おいしい」で、何で今は「うめえ」
やねん?

 春奈の「おいしい」と「うまい」の使い分けはよくわからんけ
ど、それでも、使い分けをしているということ自体が面白い。

 たしか、もっと小さい頃も「おいし」と言ったり「うんまい」
と言ったりしてたっけな。

 言葉の仕分けだけはわからない部分が多い。

38 タケミカヅチの神話

2012年10月30日 00時18分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生38 ―タケミカヅチの神話―


 高天の原はオオクニヌシに国を譲るよう2度の使者を送りますがいずれも
葦原中国に降りたまま戻って来ませんでした。3度目の使者として選ばれた
のが、アメノトリフネの神(天鳥船神)とタケミカヅチの神(建御雷神)で
した。
 2神は出雲の伊那佐(いなさ)の小浜に降り立ち、オオクニヌシに国譲り
を迫りますが、この時にオオクニヌシは、

 「吾は答えず。わが子コトシロヌシが代わりに答える」

と、答えます。
 そのヤエコトシロヌシの神(八重事代主神)は、

 「かしこし。この国は天つ神の御子に献じましょう」

と、答えて身を隠しました。さらに2神が、

 「汝の子コトシロヌシはこう申したが、他に尋ねておくべき子はいるか?」

と、オオクニヌシに尋ねましたので、

 「もう1人、タケミナカタという者だけです」

と、答えますと、ちょうどそこにタケミナカタの神(建御名方神)がやって
来て、

 「わが国に来て何をコソコソと話しておるのだ。ここはひとつ力比べをし
ようではないか。よし、まずはその手を組もうではないか」

と、言うと、タケミカヅチの腕を掴みました。
 すると、掴んだその腕が氷と化し、次に剣に変わりました。これに驚いた
タケミナカタが手を離すと、今度はタケミカヅチがタケミナカタの両腕を掴
むと引きちぎって投げ捨ててしまいましたから、タケミナカタは逃げ出して
しまいました。
 タケミカヅチはそれを追いかけ、ついに長野県の諏訪湖に追い詰めます。
 タケミナカタは、

 「かしこし。我はこの地に住まい、一歩も他の地には行かない。わが父
オオクニヌシとコトシロヌシの考えに従います。この葦原中国を天つ神の
御子に献じます」

と、誓ったのでした。
 ここにオオクニヌシは、

「吾の坐す宮を、天の神のように立派なものに築いてくれるなら国を譲り
ましょう」
と、言って、国譲りを約束したのでした。

 以上が『古事記』上巻に登場するタケミカヅチですが、この神は中巻にも
登場します。
 「神武記」の中で、トミビコに敗れたイワレヒコ(後の神武天皇)は、紀
伊半島を廻り、熊野に上陸します。そこから大和を目指しますが、この時、
危機が起こります。
『古事記』には次のように書かれています。

カムヤマトイワレビコの命が、紀伊半島を回られて熊野村まで来られた時、
大熊が現れてすぐに姿を消しました。すると、イワレヒコの命は急に病にか
かられ、また兵士たちも病になって倒れてしまいました。
 その時、熊野のタカクラジ(高倉下)という者がひと振りの横刀(たち)
を持ってイワレヒコの命の伏せられた処に来て、横刀を献じると、イワレヒ
コの命はたちまちに起きられ、

 「長く寝てしまった」

と、おっしゃられました。
 そして、その横刀を受け取られると、その熊野の荒らぶる神を自ら斬り倒
されました。すると、病に伏した兵士たちもたちまち目覚め立ち上がりました。
 天つ神の御子が、その横刀を所有したいきさつをお尋ねになられると、タ
カクラジが答えて言うには、

 「夢の中に、天照大神と高木の神が現れ、タケミカヅチ(建御雷)の神を
呼んでおっしゃるには、『葦原中国は、今騒がしい。わが子孫たちも病に倒
れてしまった。葦原中国はわが子孫が治める国である。ゆえに、タケミカヅ
チよ、地上に下りなさい』と。すると、タケミカヅチの神が、『私が降らず
とも、この横刀を降しましょう。タカクラジという者の家の倉にこの刀を降
しますので、タカクラジよ、明日の朝お前は横刀を天つ神の御子に献上せよ』
と、おっしゃられました。それで、朝起きまして倉を見に行ってみると、本
当に横刀があったのです。そういったわけで、この横刀をお届けに上がった
次第でございます」

と、いうことでした。
 また、

 「高木の神がおっしゃるには、『天つ神の御子がこれより行く道には荒ら
ぶる神がたくさんおる。今、天より八咫烏(ヤタガラス)を遣わさん。八咫
烏が案内するゆえ、その後をついてゆくがよい』とのことです」
と、報告しました。

 『古事記』では、この時の刀は、今は石上神社にある、と記しています。
つまり、物部氏が管理する石上神社の宝庫に保管されていたことになるわけ
です。
 また、『先代旧辞本紀』は、タカクラジを、ホアカリの子のアメノカゴヤ
マノミコト(天香語山命)で尾張氏の始祖としています。

 それから、「崇神記」には同じくタケミカヅチという名の神が登場します。
崇神天皇から素性を問われたオオタタネコは次のように答えます。

「私は、大物主が、スエツミミノミコト(陶津耳命)の娘イクタマヨリビメ
(活玉依毘売)を娶られて生まれたクシミカタノミコト(櫛御方命)の子の
イイカタスミノミコト(飯肩巣見命)の子のタケミカヅチノミコト(建甕槌
命)の子オオタタネコにございます」

 『日本書紀』では、オオタタネコはオオモノヌシの子となっていますが、
『古事記』では、オオモノヌシから数えて5世の孫になっているのです。
 そして、オオタタネコの父としてタカミカヅチの名が出てくるのです。
 ただし、国譲り神話のタケミカヅチが建御雷なのに対してこちらは建甕槌
です。それで、天つ神の建御雷と国つ神であるオオモノヌシ系の建甕槌は同
名の別の神とされてきました。
 ところが、『日本書紀』だと、オオタタネコはオオモノヌシの子になって
いるから国つ神の建甕槌命は登場しません。その代わりに、国譲り神話の天
つ神のタケミカヅチが、建甕槌と書かれているのです。
 実際、志田諄一(『古代氏族の性格と伝承』)や大和岩雄(『神社と古代
王権祭祀』)らは、建御雷と「崇神記」の建甕槌を同一神としています。そ
の理由は、物部氏と三輪氏と中臣氏と尾張氏を結びつけるためだった、とし
ているのです。

 そもそもタケミカヅチはどのように生まれた神なのでしょう。
 『古事記』の中で、イザナミは火の神ヒノカグツチの神(火之迦具土神)
を生んだ時に下腹部を焼かれ、それが原因で亡くなってしまいます。
 イザナギは、
「愛しい妻の命をこどもひとりの命と引き換えにしてしまった」
と、嘆き、十拳剣(とつかのつるぎ)を抜くと、カグツチの首を斬ってしま
います。
 この時、8柱の神が誕生します。剣の先から血が石の上に落ち、そこから 
イワサクの神(石析神)、ネサクの神(根析神)、イワツツオの神(石筒男神)
の3神が誕生します。
 刀身についた血もまた石の上に落ち、そこから ミカハヤヒの神(甕速日神)
と、ヒハヤヒの神(樋速日神)、タケミカヅチノオの神(建御雷之男神)また
の名をトヨフツの神(豊布都神)が誕生します。
 刀身の血は柄にも流れてきて、その柄を握った手にもさらに流れてきて、そこ
からクラオカミの神(闇淤加美神)と、クラミツハの神(闇御津羽神)の2神が
生れます。

 
 このように、タカミカヅチはカグツチを斬った刀から誕生しているのです。

 そして、『古事記』ではカグツチを斬った十拳剣の名前を、アメノオハバリ
(天之尾羽張)といい、またの名をイツノオハバリ(伊都之尾羽張)と記しま
す。

 高天の原がタケミカヅチを葦原中国に派遣する場面でも、誰を使者にすれば
よいか、とアマテラスが訪ねた時にオモイカネの神(思金神)が、
 「天の安河の河上の天の石屋に坐すイツノオハバリ(伊都之尾羽張)を遣わ
すべし、もしこの神でなければ、その子のタケミカヅチを遣わすべし」
と、答えたので、タケミカヅチの派遣が決定した、といういきさつが記されて
います。
 ここでもやはりタケミカヅチは剣から生まれた神である、としているのです。

 タケミカヅチを祀る神社は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮が有名ですが、先述の
大和岩雄の説によると、ここの祭神は、元は甕を御神体とする鹿島神であった
ものが、中臣氏が祭祀するようになってからタケミカヅチに代わったといいま
す。

 そうすると、

 三輪氏 ― タケミカヅチの子オオタタネコを始祖とする
 物部氏 ― タケミカヅチの分身である剣を保管する
 中臣氏 ― タケミカヅチを祭祀する
 尾張氏 ― タケミカヅチの子アメノカゴヤマを始祖とする

と、いったようにタケミカヅチをして4氏が結びつくのです。

・・・つづく

いえイコールお姉ちゃん?

2012年10月29日 01時03分24秒 | 日記
2009年12月14日(月)(1歳8か月)


 春奈がいつもりえに、

 「いえー」

と、話しかけるので、「いえ」はりえのことだと、家族の
みんなは思っている。

 じゃあ、ゆうきのことは?と、言うと、春奈はゆうきに
話しかける時に、ゆうきの名前は言わない。

 それで、ゆうきが半分すねて、それでも自分の名前も言
わせようと、

 「これ誰?」

と、自分の顔を指して春奈に訊くと、

 「いえ」

と、春奈が答えた。

 「えー?じゃあ、こっちは?」

と、りえを指さして訊くと、

 「いえ」

 「両方イエなん?」

と、訊くと、春奈はそのとおりとばかりに頷いた。

 もしかして、「いえ」とは、りえのことじゃなくて、
「おねえちゃん」という意味なのか?

 だけど、「いえ」はあくまでもりえのことで、「お姉
ちゃん」を指す代わりの言葉としても使用しているだけ
のことのように思える。