小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

まだまだ幼い

2015年11月30日 00時33分06秒 | 日記
2012年12月15日(土)(4歳8か月)
 
 
 春奈をつれて少しお出かけをした。
 
 水たまりがある。
 
 「水たまりにはまらんようにしいや」
 
と、僕が言うと、春奈が言葉を返してきた。
 
 「なんで春奈にそんなん注意されなあかん?」
 
 ずいぶんと生意気なことを言うようになったものだ。
 
 だけど、言葉が少しおかしいよ。
 
 今のケースだと、
 
 「なんで春奈が」
 
と、言うか、もしくは、
 
 「なんで春奈に注意するの?」
 
と、言わないと。
 
 言い返す、という行為は自分が一人前であると
いう自負があるからなのだろうけど、言葉はまだまだ
幼いな。
 
 まだまだ成長中やね。

458 顕宗朝時代の朝鮮問題③

2015年11月28日 01時29分49秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生458 ―顕宗朝時代の朝鮮問題③―
 
 
 田狭の造反の際に登場するのは吉備上道臣弟君の妻の樟媛(くすひめ)です。
 夫の弟君がその父田狭から日本を裏切るように呼びかけられたことで、樟媛は
夫の弟君を殺してしまいます。
 『日本書紀』は樟媛のことを
 
 「国家の情深く、君臣の義たしかなり。忠なること向日を踰え、節なること青松に
すぎたり」
 
と、いささか大げさとも言える称賛をしており、夫殺しについても、夫の弟君が国を
裏切ることが許せなかったため、としています。
 
 一方、紀生磐宿禰の造反に登場する女性は吉備上道采女大海です。正確には
紀生磐宿禰の父、紀小弓宿禰(おゆみのすくね)のエピソードに登場します。
 雄略天皇が、紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰(からこのすくね)、大伴談連(かたりの
むらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)の4人を新羅征討の将軍に指名した時、
紀小弓宿禰は、大伴室屋大連(むろやのおおむらじ)に、
 「謹んで勅命をお受けします。ですが、先だって妻をなくしたばかりであり、私の
身の回りの世話をする者がおりません。願わくばその辺りの事情を天皇にお伝え
頂けないでしょうか」
と、答えます。
 大伴室屋からこの話を伝えられた天皇が大いに同情し、紀小弓に与えた妻が
吉備上道采女大海だったのです。
 海を渡った小弓は奮戦し活躍しますが病にかかって死んでしまいます。その後に、
小弓宿禰の子、紀大磐宿禰(紀生磐宿禰)が代わりに派遣されてくるのですが、
日本軍は内部分裂を起こし、韓兒宿禰は殺され、小鹿火宿禰は日本に一時帰国
した後、再び朝鮮半島に渡ることを拒否したのでした。
 揚句、紀生磐宿禰も朝鮮から撤退せねばならない事態になってしまいました。
 
 吉備上道采女大海については、『日本書紀』に詳細が記されていないのでその
素性がよくわからないのですが、その名前から推測して、吉備上道臣の女性で、
宮中に采女として仕えていた人物ではないか、とも言われています。
 また采女大海はただ小弓宿禰の妻としてともに海を渡っただけにとどまらず、従軍も
していたようです。
 采女大海は、日本に帰国しますと、大伴室屋大連に、韓奴室、兄麻呂、弟麻呂、
御倉、小倉、針の奴六口を大伴室屋に献上しています。
 「吉備上道の蚊嶋田邑の家人らは是なり」
と、『日本書紀』は記しますが、妻の采女大海が朝鮮半島からつれて来た人々を献上
していることから、小弓宿禰の代行者としての役割も担っていたと思われるのです。
 
 樟姫が吉備上道臣弟君を殺したことも、夫とは言え将軍を殺してしまっては軍の
統率に大きな影響を及ぼすことになってしまうはずですが、『日本書紀』が樟媛を称えて
いることころをみると、樟媛は弟君の代行者を務めた可能性も考えられるのです。
 
 ところで、『日本書紀』が伝えるところでは、弟君が新羅を討つために百済を発った時、
国神が老女に化けて弟君の前に現れて、新羅への道のりが遠い、と言ったので弟君は
新羅遠征をいったん中止して百済の本営に帰ったとあります。
 軍人にとって神は武運と無事を願う存在ですが、弟君の場合、武功を挙げるどころか
神に帰らされてしまったことになるわけです。このことは将軍として失格を意味します。
 さらには父の田狭の誘いに乗って日本を裏切ろうとしたことは明らかに将軍失格で
あり、そのために樟媛は弟君を殺した、とも読み解くことができるのです。
 
 紀小弓宿禰の活躍も吉備上道采女大海がいたからこそのもので、采女大海が帰国
すると日本軍が内部分裂を起こしたというのも、采女大海が神の代行者、もしくは巫女の
役割を担っていたためではなかったでしょうか。

使う、と利用する

2015年11月27日 00時06分24秒 | 日記
2012年12月15日(土)(4歳8か月)
 
 
 今日は土曜日だけど仕事に行った。
 
 夕方、家に帰ると春奈が今日の出来事を
僕に話してくれた。
 
 「してぃぷらじゃ(シティプラザ)行って、
整骨院行って、その後でコノミヤ使って、
スギ薬局使って、丸栄使って、サンプラザ
使ってん」
 
 同じ「プラザ」でも、シティプラザの場合は
「プラジャ」となって、サンプラザは「プラザ」と
言えるのかよ。
 
 それよりも、コノミヤ、丸栄、サンプラザ、と
近所のスーパーを3つもハシゴしたのか。
 さらにドラッグストアまで。
 
 しかし、「使った」ってのは何だよ?
 
 よく買い物する時に、「スーパーを利用する」
などと言ったりもするけど、「使う」という表現は
初めて聞いたぞ。
 
 でも、あらためて考えてみたら、なんで「利用」
するとは言うけど「使う」とは言わないんだろうね。

457 顕宗朝時代の朝鮮問題②

2015年11月26日 00時37分50秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生457 ―顕宗朝時代の朝鮮問題2
 
 
 しかしながら、『日本書紀』にある紀生磐宿禰(紀大磐宿禰)の記事をそのまま
信じてよいかどうかという疑問もあります。
 この記事には任那や百済の人物名が複数登場することから、百済側の史料を
基にしている可能性が指摘されるのです。
 百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を高句麗の爾林(ニリン)で殺した、とあるのも、
由来はおそらく爾林が当時百済によって占拠されていたのを高句麗に奪還され、
それを再度攻め取った話ではないか、とも言われています。
 
 紀生磐宿禰のエピソードと似た話が『日本書紀』の神功皇后六十二年の記事に
登場します。
 これは、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣して新羅を討たせた、とする
記事なのですが、これに百済の史料が書き加えられているのです。それは以下の
ようなものです。
 
 「百済記」にいわく、壬午年に、新羅、貴国(日本)に奉らず。貴国、沙至比跪(さち
ひこ)を遣わして新羅を討たしむ。新羅人、美女ふたりで沙至比跪を歓待させた。
美女の歓待を受けた沙至比跪は変心し、逆に加羅国を攻めた。
 加羅の国王巳本旱岐(コホカンキ)と兒百久至、阿首至、国沙利、伊羅麻酒、爾汶至ら、
人民を連れて百済に逃げた。百済は彼らを厚く遇した。
 加羅国王の妹は大和に行き、天皇に、
 「天皇は沙至比跪を遣わして新羅を討とうとされましたが、しかるに沙至比跪は新羅の
美女に籠絡されて新羅を討たず、逆にわが国を滅ぼしました。兄弟、人民みな流浪の
身となり、憂える気持ちは忍び難いものがあります」
と、訴えた。
 天皇は大いに怒り、木羅斤資(もくらこんし)を将軍に軍隊を任那に送り、その国土を回復させたという。
 一書にいわく、沙至比跪、天皇の怒りを知り、あえて公には帰国せず身を潜ませて帰国した。妹が皇居に仕えていたので密かに使者をこの妹のもとに送って、天皇の怒りが解けるか否かを尋ねた。
 妹が天皇に、
 「夢の中に沙至比跪が出てまいりました」
と、言うと、天皇は大いに怒り、
 「沙至比跪はなぜにあえて夢の中にやって来たのか!」
と、申された。
 妹はその言葉を沙至比跪に伝えた。
 沙至比跪は、許されることはないと悟ると、洞穴に入って自殺した。
 
 『日本書紀』は、沙至比跪とは襲津彦である、とは明記していませんが、あたかもふたりが同一人物であるかのような書き方をしているのです。
 それは、SATIHIKOとSOTUHIKOの音が似ているから、といった単純なものではなさそうです。
 
 また、沙至比跪の記事は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)の造反とも共通しています。
 沙至比跪は新羅を討つはずが、新羅の美女に籠絡されて新羅に寝返ってしまいます。
 田狭も対新羅問題で任那に派遣されながら、雄略天皇に妻を奪われたことで新羅に寝返ってしまいました。
 新羅に寝返った理由は、どちらかと言えば両社は正反対のような印象を受けますが、どちらも女性が絡んでいる、という点では一致します。
 そういったことから、もしかすると吉備上道臣田狭の伝承もまた、沙至比跪や紀生磐宿禰と同じ話を基にしているのかもしれません。
 面白いのは、『日本書紀』が、沙至比跪が葛城襲津彦のことであるかのように記していることです。これは、葛城氏と吉備氏との関係を考えると、非常に興味深いことでもあります。それに、一説には、雄略天皇に奪われた田狭の妻は葛城玉田宿禰の娘毛媛であるともいいます。
 
 ところで、前に、雄略天皇が諸豪族に冠を与えることで天皇と諸豪族の間に君臣の関係を築いた、しかし吉備の古墳からは冠が出土していない、とお話しましたが、実は紀伊の古墳からも冠は出土していないのです。(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』より)
 これは吉備氏と紀氏の朝鮮半島における問題ゆえのことだと考えることもできます。

年相応の言葉に変わる時

2015年11月25日 00時35分29秒 | 日記
2012年12月12日(水)(4歳8か月)
 
 
 今度、春奈の保育所でまた参観日がある
らしい。
 
 「おばあちゃん行く、って言うてたで」
 
と、春奈。続いて、
 
 「おじいちゃんも来るのかね?」
 
 「来るんちゃう?」
 
と、答えながら、そう言えば最近の春奈、よく
「~かね」という言い方をよくするなあ、と思った。
 
 ま、耳にした言葉をすぐに使いたがるのは
今に始まったことじゃないし、また、春奈に
かぎらず他の子もみんなそうだ。
 
 春奈の場合は、年配の人に接する機会が
多かったので、お年寄りくさい言葉を使うことが
よくあった。
 
 それと、ゆうきやりえが言っている言葉も同じ
ように使っていたけど、お姉ちゃんとは8歳離れ
ているから幼児が使うか?と思うような言葉も
マネしていた。(今もだけど)
 
 それでも、そういった言葉はいつの間にか
使わないようになっていた。
 
 やっぱり年相応の言葉しか使わないように
なっていたのである。
 
 これって、やっぱり自分自身で、「自分の年代が
使う言葉じゃない」と気づくのだろう。
 
 でも、どういうキッカケでそれを気づくのだろう
ね???