小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

642 蘇我氏の登場 その8

2019年02月14日 01時45分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生642 ―蘇我氏の登場 その8―


 まず、最初にみていきたいのが石川郡です。
 石川郡に佐備郷があったことは注目すべきことです。
 と、言うのも『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事によれば、新羅が、日本に人質に
出されていた新羅王子の微叱許智伐旱(ミシコチホッカン、「新羅本紀」では未斯欣)を
策略でもって新羅に脱出させたことで、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)が新羅の早羅城
(さわらのさし)を攻撃し、これを落とすと、捕虜たちを日本につれ帰って、これが桑原、
佐穈(さび)、高宮、忍海(おしぬみ)に住む渡来人である、とあるからです。
 佐穈が現在のどこにあたるのかについては、この石川郡佐備郷とする説と大和国葛上郡
佐味郷とする説のふたつが有力ですが、どちらかと言えば佐味郷にやや軍配が上がるよう
です。それは、桑原が大和国葛上郡桑原、高宮が大和国葛上郡高宮、忍海が大和国忍海郡に
それぞれ比定されているからで、いずれもが葛城地方に比定されているわけです。そのため、
佐穈についても、桑原・高宮と同様に大和国葛上郡である、と考える方が自然だというわけ
です。
 ただし、高宮については河内国讃良郡の高宮とする説もあるので佐穈が河内国石川郡と
する説も安易に否定はできませんが。
 それでも、やはり『日本書紀』の神功皇后摂政五年の記事に登場する四邑は大和の葛城で
あったと思われ、その地から河内に移住したとする考えが主流です。

 ところが、移住したのが渡来人であったとは断定しづらい点もあるのです。佐備には
大和の忌部氏が大いに関係しているという説もあるのですが、このことについては後述する
ことにして、今はまず渡来人に焦点を絞っていきたいと思います。

 この地域一帯における渡来人の分布についての研究は、水野正好「河内飛鳥と漢・韓人の
墳墓」や山尾幸久「河内飛鳥と渡来氏族」(ともに門脇禎二・水野正好編『古代を考える 
河内飛鳥』に詳しいのですが、たとえば、石川郡山代郷(現在の南河内郡河南町山代)には、
漢人系の山城忌寸(やましろのいみき)がいたことが山代忌寸真作(まはぎ)の墓誌によって
確かめられています。
 昭和27年に奈良県五條市の阿太小学校に墓誌が保管されているものが発見されたのですが、
そこには「河内国石川郡山代郷従六位上山代忌寸真作」と記されていたのです。

 石川郡に近接する錦部郡(にしごり郡)には百済郷という百済の国名をそのまま用いた
地名が存在しましたが、この地には百済系の錦部連が居住していました。また、高向(現在の
河内長野市高向)には高向村主(たかむこのすぐり)がいました。

 『新撰姓氏録』の逸文には、阿智王が妻子と漢人の七氏族をつれて来朝したことが記されて
いますが、この阿智王と同一人物と見られるのが『日本書紀』の応神二十年九月の条にある
阿知使主(あちのおみ)です。こちらは、『日本書紀』の中で、

 「阿知使主(あちのおみ)、その子、都加使主(つかのおみ)、並びに党類十七県を率いて
帰朝した」

と、あります。
 『新撰姓氏録』にある七氏族は七姓漢人とも言われますが、この七氏族の中に高向氏がいる
のです。

 また、石川郡の北にあった安宿郡(あすか郡)では、上村主、上勝、上曰佐、下村主、下曰佐、
伯禰、飛鳥戸造、飛鳥部、田辺史といった渡来系氏族がいました。
 他にもこの周辺では、古市郡に西漢氏(かわちのあや氏)、武生氏、蔵氏がおり、丹比郡には
葛井氏(ふじい氏)、船氏、津氏などがいましたが、これらは渡来系氏族なのです。

 このように、南河内には多くの渡来系氏族が存在していたわけですが、ここで物部氏との関係が
関連付けられてくるのです。
 河南町の磐船神社が物部氏とゆかりのある神社であったとするなら、物部氏は南河内を掌握し、
かつ渡来系氏族を管轄していたものと思われるのです。
 そもそも物部氏の本拠は現在の東大阪市であったと言われているのですが、他にも大阪府下では、
先に紹介した八尾市の渋川に別業があり、『日本書紀』を見れば、物部目大連が雄略天皇から
餌香(えが)の長野邑を賜った、という記事があり、この餌香は大阪府羽曳野市恵我之荘に比定
されていますから、河内の広い地域に根を張っていたものと思われます。
 そこに蘇我氏の支流である蘇我倉氏が進出してきたわけですから、蘇我氏本宗が河内の渡来人系
氏族たちをその傘下に収め始めたということも十分に考えられ、その結果として物部氏と蘇我氏の
対立が生まれたのです。
 もちろん、蘇我倉氏の河内進出は物部氏滅亡後のことと考えることもできます。それに渡来系
氏族の帰属をめぐっての対立と結論づけるには仮説の上に仮説を立てる論法となる傾向にあるのも
確かです。
 しかし、近年言われているような蘇我氏と物部氏と対立が仏教を巡ってのものではなかったので
あれば、対立の原因は勢力争いと考えるべきであり、ではその勢力争いとは具体的にどのような
ものだったのか、と問われたなら、やはりそれは渡来系氏族を自分の傘下にしようとする争いで
あったと考えるべきではないでしょうか。

 それに、河内の渡来系氏族を影響下に置くにあたって、蘇我氏にはその下地があり、逆に物部氏の
方も完全に渡来系氏族を掌握するには至っていなかった事情があったのです。

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