小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

510 継体王朝と蘇我氏の登場 その3

2016年06月27日 01時04分11秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生510 ―継体王朝と蘇我氏の登場 その3―
 
 
 『日本書紀』のこの記述に対して『古事記』の、「オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の
皇女の手白髪命と結婚させて天皇の位を授けた」、という記述は対照的とも言えるでしょう。
 
 『日本書紀』が、オオド王(継体天皇)が帝王になるべくしてなった偉大な人物という描写なのに対し
、『古事記』の方は、大和の側からの立場で、「(皇統が途切れたので)オオド王をつれてきて天皇に
就かせた」としているのです。
 
 しかし『古事記』のこの記述は継体天皇を入り婿という形でとらえている、とも言えます。
 これと同じことが顕宗天皇と仁賢天皇にも見られるのです。
 顕宗天皇の皇后は雄略天皇の孫とされる難波王で、仁賢天皇の皇后は雄略天皇の皇女の春日
大郎女です。
 顕宗天皇と仁賢天皇は履中天皇の孫ですから、応神天皇五世の孫である継体天皇よりも天皇に
近い血筋なのですが、允恭系の血筋が允恭天皇を含めて三代四名続いた後の皇位継承であり、
先代の清寧天皇とはまたいとこの関係になるので、允恭系と一体化する必要があったものと思われ
るわけです。
 継体天皇の皇后の手白髪命は仁賢天皇と春日大郎女との間に生まれた皇女なのですが、実は
継体天皇の御子である安閑天皇と宣化天皇も、ともに仁賢天皇の皇女を皇后にしています。
 
 いずれも前の皇統と婚姻関係を結んでいるわけです。これは政略結婚といったレベルではなく、
「女王」を妻に迎えなければ天皇としての正統性を認められなかった、と解釈するべきなのかもしれ
ません。
 
 ここで想像力を膨らませてみると、允恭系から履中系に替わる時にワンクッションを置く形で摂政を
行った忍海飯豊青尊と手白髪皇女の名にもメッセージが隠されていると見ることもできるのです。
 
 忍海飯豊青尊には「青」が、手白髪皇女には「白」と、その名に色が含まれているのです。
 
 もっとも手白髪皇女という名ですが。
 雄略天皇の後を受けた22代清寧天皇の和風諡号が、『古事記』は白髪大倭根子命、『日本書紀』は
白髪武広国押稚日本根子天皇としていますが、清寧天皇は自身の名代として白髪部を定めた、と
『古事記』にあり、『日本書紀』には白髪部舎人・白髪部膳夫・白髪部靫負を設置した、とあります。
 手白髪皇女はこの白髪部に養育されたのでこの名があるのかもしれません。
 
 応神天皇以降、朝鮮半島からさかんに知識人や技術者を帰化させ、また大陸の文化を取り込んで
きましたが、こうした渡来人が朝廷のブレーンとして活躍もしていました。『日本書紀』には、雄略皇が
寵愛したのは(渡来人の)身狭村主青と檜隈民使博徳らのみであった、と書かれているほどです。
 『古事記』には、和邇吉師(『日本書紀』でが王仁と表記)が百済から召されて応神天皇に『論語』
十巻と『千字文』一巻を献上としたとあり、このように日本に伝わったもののひとつに易があると言わ
れています。
 
 『古事記』にも易の影響がある、とする研究者もいますが、「想像力を膨らませてみると」と、言うのは、
忍海飯豊青尊の「青」と手白髪皇女の「白」を易に当てはめてみるとどうなるか、ということです。
 
 易で青は少陰。二陰の下に陽が発生し、万物を奮い立たせる、新しいことの始まり、賑やかな様を
あらわします。五行では木。五色では青。五方では東。五時では春です。
 太陽が昇り新しい1日の始まりを告げる方角であり、新しい1年の始まりをイメージさせる季節です。
 長く続いた允恭系が終わり、履中系の新しい時代の到来をイメージすることができます。
 
 一方、易で白は老陽。旺盛な陽気を陰気が和らげ、穏やかにする様をあらわします。五行では金。
五色では白。五方では西。五時では秋です。
 盛んな太陽が穏やかな夕陽に替わる方角であり、暑さ盛んな夏から穏やかな気候に替わる季節で、
実りの季節でもあります。
 履中系の時代から「女王」たちによる允恭系の時代の再到来を意味するとも、継体王朝の誕生に
よって激動の時代が落ち着いたともイメージすることができます。
 
 さらに「青」が五行で「木」、「白」が五行で「金」ということは、易では「金剋木」になります。「金が木に
打ち勝つ」あるいは「金が木を制御する」関係性になるのです。
 まさに履中系から新時代の変化を意味するものになり得るわけです。
 
 実際のところはそのような意図が隠されていたのかどうか、あくまでも「想像」ではありますが。
 
 しかし、実際のところ継体王朝の誕生は簡単にはいかなかったようです。
 大和王権側からの要請を受け越前(もしくは近江か?)を出立したオオド王でしたが、大和を目前に
意外とも思える行動を取るのです。

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