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太平洋沿岸を飛ぶ (42) - 高知市・桂浜

2010-03-05 | 四国



砂浜が長く、白い。
長い渚のむこうに竜王岬が海にむかって伸び、岬の脚の岩に波が間断なくくだけているのがみえる。
(桂浜じゃな)
竜馬は一歩々々、足あとを印するのを楽しむようにして歩いた。歩くにつけ、こみあげてくる感傷に堪えきれなかった。この国にうまれた者にとって、この浜ほど故郷を象徴するものはないであろう。
月の名所は桂浜
と里謡にもあるように、高知城下の人は中秋の明月の夜にはこの浜に集い、月を肴に夜あかしの酒を飲むのが年中行事になっていた。
のち、この浜に竜馬の像が立つ。「スエズ以東最大の銅像」といわれるこの像の建設は、大正十五年、数人の青年によって運動がおこされた。当時早稲田大学の学生だった入交好保、京都大学在学中の信清浩男、土居清美、浅田盛の諸氏である。彼等は全国の青年組織からわずかずつの寄附をあつめ、途中、岩崎弥太郎がおこした岩崎男爵家から五千円の寄附申し出があったが、零細な寄附を集めてつくるという建前から、かれらはこれをことわり、ついに資金をつくり、彫刻家本山白雲氏に制作を依頼した。
銅像は、昭和三年の春にできた。その台座の背面に建設者の名を刻むのが普通だがかれらはいっさい名を出さず、
「高知県青年建立」とのみ刻んだ。五月二十七日の除幕式の日、当時の日本海軍は駆逐艦浜風を桂浜に派遣し、その礼砲とともに幕を切りおとした。
が、このときの竜馬は、まさか自分がこの浜で銅像になって残るとはゆめにも思わなかったであろう。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



桂浜は高知市の浦戸湾口、龍頭岬と龍王岬にはさまれた弓状の浜。
背後の山は、1591年(天正19年)長宋我部元親が浦戸城を築き拠点を置いた場所。一時この地が土佐の中心地になった時期もあったが、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。

土佐民謡「よさこい節」の一節にもなっているように、桂浜は月の名所としてもよく知られており、明治期の詩人・随筆家、大町桂月(「桂月」の名は桂浜月下漁郎の号を縮めたもの)は、
「みよや見よみな月のみの桂浜、海のおもよりいづる月かげ」 と詠んだ。


龍頭岬には、右腕を懐に、革靴を履いた坂本龍馬像が建ち、太平洋の彼方を見据えている。





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2 コメント

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Unknown (sogo)
2010-03-07 21:56:08

芋焼酎さま。

こんばんは。
おひさしぶりです。おげんきですか。
いつもご覧いただきありがとうございます。

今、ちょうど『龍馬伝』見ていました。
“加尾ちゃん”、かわいそうでした!

私も、司馬遼太郎の『竜馬・・・』を読んで、龍馬ファンになったものですから、
歴史上の坂本龍馬については全く知りません。
つまりは、司馬の創り出した「竜馬」の魅力に惹かれたというわけです。

実際、司馬の『竜馬・・・』が世に出て、龍馬は日本の歴史に名を残すヒーローになったそうです。
それまで、高知県でも、龍馬と中岡慎太郎の人気は二分していたといいます。


小説やドラマは魅力的な主人公を描かないと面白くないですから…
教科書では味わえない面白さを感じて夢中で読んだものでした。
(ちなみに哲学者の梅原猛さんだったか、
「司馬遼太郎が小説に取り上げる人物は、みな合理主義者だ」
というような意味のことを書いておられたのを記憶しています)

でも、実際の龍馬がどのような人物だったか調べるのもまた楽しいかもしれませんね。

ではまた。


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Unknown (芋焼酎)
2010-03-07 10:49:58
sogoさん

 おはようございます。お久しぶりです。
 毎日、ワクワクしながらsogoさんのcafeにお邪魔しておりましたが、コメントをと思っていたのですが、書き込むだけのエネルギーが不足していておりました。と言う事で、久しぶりのコメント書き込みとなります。

 四国シリーズ、秀逸ですね。四国と言うのは話題としてどのような方向にも広がって行くので、興味津々で毎日tenkuu cafeに入店させていただいております。

 NHK大河ドラマの影響で、書店では坂本龍馬関係の書物が氾濫しています。中でも、MOOKと呼ばれるジャンルの本が龍馬関連で結構頑張っているようですね。ビジュアル的にも凝っていて、楽しみながら読めるので私も2種類くらい買い求めました。

 読んでいて思うのは、「やっぱり歴史と言うのは難しい。」と言う事です。龍馬に関して言えば、私は司馬遼太郎から得た歴史観が身についていて、龍馬=幕末の主人公 から中々抜け入れません。

 本によっては、龍馬はそんなに「良い人物」でなかったという説を唱えているのもあります。司馬史観に浸かっている私が衝撃を受けたのは、何時頃読んだかか失念しましたが、「龍馬は英国商人(貿易商)グラバーの手先で、武器を各藩に売る「死の商人だった。」というものでした。

 司馬遼太郎も、坂本竜馬についての小説は、あくまでも小説・フィクションであり、それ故にあえて「龍馬」を「竜馬」として書き下ろしたと言われていますね。司馬が言う坂本「竜馬」は坂本「龍馬」とは違う人物として読んだ方がいいのかもしれませんね。

 歴史をどう見るかは、本当に難しいです。先日の金曜日の深夜に「BS FUJI」をボーっと観ていると歴史学者(本人は歴史探検家と言っている)の半村一利が、太平洋戦争の軍部指導者に対する取材を、昭和30年代から40年代に行った時の裏話をしていました。その内容たるや、時間を忘れるほど面白くて、つい夜更かしをしてしまいました。

 この話、もう少ししたいのですが違う方向に行ってしまうので止めておきます。ただ、半村一利の「歴史探検家」というスタンスにはちょっと惹かれてしまいました。

 話を龍馬に戻します。岩崎財閥が龍馬像へ献金を申し出たという話、初めて知りました。岩崎弥太郎と坂本龍馬との関係も、もう少し詳しく知りたいですね。NHKではあまりにも近い関係として描かれていますが、一説によれば土佐では全く接点がなかったとも言われています。実際の所どうだったんでしょうね?
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