中村市は高知県の西南部、幡多郡の中央を流れる「四万十川」とその支流、後川及び中筋川の流域に発達し、県西南地域の文化、経済、交通の中心地である。
今から約500年前、前関白一条教房公が、応仁の乱を避けてこの地に下向し、京都に擬して造られた町で、街並みも碁盤の目状に広がり、祇園、京町、鴨川、東山、などの地名があり、「土佐の小京都」と呼ばれている。また「大文字送り火」など、小京都にふさわしい行事が連綿と今日に続いている。
一条家は教房のあと房家、房冬、房基、兼定とつづき、兼定が天正2年(1574)長宗我部元親によって豊後に追われるまで106年間栄えた。
中村市の中心部を流れる四万十川は、高知県東津野村不入山(標高1336m)に源を発し、蛇行しながら梼原川、広見川等の支流を合わせ、太平洋に注ぐ流域面積2,270㎞2(四国第2位、全国第27位)流路延長196㎞(四国第1位、全国第11位)の四国西南地域の母なる川である。
平成17年4月10日より中村市と幡多郡西土佐村が合併し「四万十市」となった。
芋焼酎さま。
こんばんは。
連日のコメントありがとうございます。
日本を代表する自動車会社、“トヨタ”と“ホンダ”の違いがわかり面白く読ませていただきました。
会社が大きくなればなるほど、利益や合理化を優先するあまり、
創業者の理念とか哲学?みたいなものがどんどん失われていくように思います。
ホンダも初期の自動車は、とても個性的なデザインのものが多く、見ただけで“ホンダ”とわかりました。
ヨーロッパの自動車会社などは今も、比較的個性を大切にしているようにみえますが...
企業も、その国の文化を守り、創出するような存在であってほしいものですね。
こんばんは。
今朝の私のコメント、早速upしていただきありがとうございました。読み直してみたら、やっぱり酷い文脈になっていました。先ほど、赤面しながら読みかえしました。
私は、今まで四万十市という市名は知りませんでした。昨今の平成の市町村大合併で出来たものなんですね。四万十市という名前は、四万十川のおかげからか、そんなに違和感がないのですが、それでも中村市というような知っている市の名前が消え去るのはとても寂しいものですね。
市の名前と言うのは、そんなに簡単に変えるのはどうかと思います。平成の大合併で南アルプス市というのが出来ましたが、この名前にしようとした人の神経を疑ってしまいます。また、実現しなかったものの愛知県の知多半島の市町がも一時、セントレア市にしようとい動きもあったと聞いています。
私の住んでいる神奈川県の某市も合併して「湘南市」という名前にしようという策動もありました。これは寸前のところで頓挫してしてしまいました。私を含め、多くの住民が安堵したものでした。
ところで、今トヨタのリコール問題が新聞紙面を連日飾っていますが、この騒動を政治評論家の佐高信(さたか まこと)氏がサンデー毎日の2月28日号で次のように批判していました。
(全てを引用すると長くなるので要約します)*豊田市は昭和34年に挙母市(ころもし)から名前を変えた。 *挙母市(ころもし)は古事記にも登場する由緒ある名前である。 *当時市民から激しい反対運動がおこった。 *反対理由は「どうして数百年も続いた挙母という地名を一企業に合わせて変えなくてはならないのか」というようなものだった。 *トヨタのリコール問題は、地名まで変えるようなおごった企業体質に原因があると思う。 *因みにホンダの創業者の本田宗一郎氏は三重県鈴鹿市が、市の名前を鈴鹿市から本田市に変えてはと言ってきた時、それを断った。
余談ですが、南アルプス市を略称で「南ア」と書いた週刊誌がありました。「南ア」というとアフリカの国を連想しますよね。
ついでに、もう一つ余談を。本田宗一郎はある本で、車やオートバイに「ホンダ」の名前を付けた事を大変後悔しているというような内容を見た事がります。何となくですが、次の車は「ホンダ」にしようかなと思いました。
おはようございます。
四万十川は私にとって「まだ見ぬ憧れの川」として、何十年と気になる存在でした。それは日本に残された最後の清流ということは、もちろんですが、「ダムがない1級河川(小さなダムはあるらしいですが)」と言う事でとても気になっていました。
私の専門が「土木・建設」関係なので、特に「ダム」については建設技術・ダム行政について勉強していた時期があり、その過程で「ダムがない大きな河川」として四万十川を初めて知りました。
その辺の内容を書き記すと、限がないので止めておきますが、四万十川は今でもとても気になる河川です。一度も見ていない川ですが、以前色々調べたおかげなのか、知識だけはまだ頭の片隅に残っています。
(また、NHKですみませんが・・)以前、NHKで四万十川のドキュメント番組がありましたがとても感動して観ました。確か、川漁師に焦点をあてた内容だったと記憶しています。川漁業が成立している事に感動を覚えたものでした。
さて、長宗我部についてですが、司馬遼太郎(またまた司馬遼太郎でごめんなさい)の「戦雲の雲」で詳しく知りました。司馬から歴史を学ぶのはちょっとという声もありますが、司馬が描く歴史小説の中で「戦雲の雲」はかなり史実を曲げずにしっかりと長宗我部について書いているというのを何かの本で読んだ事があります。
私はおそらく長宗我部関連について他に読んだ記憶がありません。司馬遼太郎から得た知識が全てだと言ってもいいと思います。その事を以前、歴史好きの友人に話したら「長宗我部についてはそれで十分(本当かな?)」と言われました。その後、「長宗我部」という姓の人と出会った事がありましたが、「ひょっとしたら長宗我部家の末裔かな?」と思いましたが、聞けませんでした。今までの人生の中で「長宗我部」姓の人に出会ったのはこの1回きりだったので、聞けばよかったと今でも後悔しています(多分その人は至る所で聞かれていてうんざりしていると思いますが・・)。
もう少し書きたいのですが、そろそろ出勤の時間です。時間がないので、内容を見直さないで投稿ボタンを押します。誤字脱字、文法的なおかしさ等、あると思います。お許しを!!
P.S
それにしても、司馬遼太郎ってどうして「土佐」関連の小説が多いのですかね?私の気のせいなのですかね?最近ふと、そう思いました。