ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

敗北宣言、かな

2013-05-01 00:06:53 | Weblog
そろそろ負けを認める時が来たかな。

久しぶりだ、こんな休みの日。
昨日、最低限の洗濯と掃除をして、読書と決め込んだ。

それから、これまでに読んだ本は4冊。
『フィレンツェに消えた女』からイタリア繋がりで、
『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦』。しばし睡眠。
今朝起きて、『神去なあなあ日常』。しばし日本に滞在。
母の故郷である高野山の山と森の深さに思いを馳せ、
ミステリー『警視の愛人』でイギリスに飛んだ。

あさって、中国人の同僚はきっと「労働節の休み、何してた?」と聞いてくるだろう。
私は「家でずっと読書。最高の休日」と答える。
「えー何を読んだの?」と聞かれ、
「いろいろ読んだよ、日本のとか外国の翻訳書とか。没頭した」と答える。
「え、でも、家で1人? さびいしいじゃん」と言われる。
「そんなことないよ。地球を旅してたからね」と答える。
こんな話は無駄という顔をして中国人の同僚は去って行く。

20歳で北京に留学していた時、韓国人の友人に言われた。
「ほんとに、中国人とわかり合えるなんて思ってる? 彼らは中国人だよ」と。
韓国政府は日本政府に対する批判を強めているようだけど、
彼はいま、どんなふうにいまの日韓関係を眺めているだろう。
もう連絡をとらなくなって15年が過ぎたから、連絡の取りようがなくて、
実際に、話はできないけど。

あの頃、他国から来た留学生は、日本人よりもずっと大人びていた。
「君は、その理想主義が、ほんとに可愛いね! 日本人らしくていいよ!」
そう、よく言われた。年下からも「うぶ」と扱われた。
初めて欧米人とも話すようになって、早く大人になりたいと思った。
成熟した人間になりたいと。
麻薬をやるかどうか、どのくらいお酒を飲むか、
法に従うんじゃなくて、自分で決める人間に。

一生懸命に背伸びしてきたのに、これまで。
20年経って来た中国は、上海の中国人は、当時の中国人よりももっと、子どもだった。
北京大学の人と比べちゃいけないと思う。
いまでも、北京大学の人たちはすごいんだろう。

でも、私は背伸びをしたわりには、いま北京大学クラスの人たちと
肩を並べて働くレベルには達しなかった。
私の周りにいるのは、私が見てないと仕事をしないような、
私が幼稚園の保母さんにならないとダメなような、子どもみたいな中国人ばかり。

自分が足りなかったのが一番の原因だとはわかっている。
でも、あまりにも幼い彼らを見ていて、
付き合って行くには、もう限界に近いんだなあと感じるようになった。

おそらく、大半の中国人は、私が付き合っている中国人たち。
ほんの一握りのエリートは、私には見えないところにいる。

私は言葉を扱う仕事の、端っこのほうの仕事をしているけど、
言葉とは、人生観そのものだと思う。

中国の日本語科卒業の子たちは、論理性がまったくない。
暗記力はある。日本のあいまいな文化に憧れももっている。
でも、生き物である言葉と仲良くして行くという感覚に乏しい。
最後まで、擬態語なんて使えないだろう。彼らには。
そこには、日本の神がいるから。言葉と言う神がいるから。
それは、自然の神で、風のそよぎで、小川のせせらぎだから。
そして、舞い散る桜の狂乱と静けさだから。

日本語は文法が難しい。
それを一生懸命に学んだ中国人の大学生は、
「これは連体修飾語だから、この言葉は活用が間違ってる」等と言う。
でも、日本語は主語があいまいなんだよ。
私たちは自然や他人と自分を同化するから、動詞なんて、いかようにも活用するんだよ。
そもそも、私に、日本語の文法なんて聞かないで。わかんないよ。
私にわかったような気がしてるのは、そのとき、その場にあった雰囲気だけだよ。

あなたは、月光をおそれる狂犬病の犬の気持ちを考えたことがある?
私が中学校1年生のときに考えていたのは、
そんな染み込むような、奥底から私を変えていくような月の光のおそろしさだよ。

そして、私には、あなたたちの乾いた大地を走る風の匂いがわからない。
だから、日本的な意味での技術は説明できても、
それを中国に落とし込むことは無理なんだ。私には。

言葉は、人の魂で、自然の魂だから。