つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

さらば母校よ。~旧・津幡小学校校舎その14~

2011年07月31日 13時37分32秒 | さらば、母校よ。
“シリーズ母校への惜別”。
「今日の一枚」は、津幡小学校の旧校舎前に張られた「横断幕」。
撮影したのは1年前である。
津幡町では、小学校の校庭に隣接した常設相撲場で、
毎年、夏祭りの時期に合わせ、
社会人アマチュア相撲の全国大会が行われてきた。
その起源は400年余り昔に始まったとされる
「八朔大相撲」である…云々…というのも、
やはり1年前…2010年8月1日の投稿にも書いたとおりである。

この度、昭和49年に発刊された「津幡町史」を読む機会があり、
そこに「全国社会人相撲大会」について、こう書かれていたのを発見した。

『津幡町では古くから旧暦八月一日に八朔大相撲をする行事があった。
 これを昭和四十二年から新暦八月一日に変更し、この伝統をついできた。
 津幡町ではこれを昭和四十五年に第一回「全校選抜社会人相撲大会」に
 発展させ、津幡小学校の特設相撲場で、同じく八月一日に開催した。
 出場選手は、地元や北陸・中部のほか、遠く福岡・鳥取から東京・岩手の
 都県にわたる二十二チームが参加した。
 これを津幡名物にしようと努力し、商店街は協賛大売り出しを展開している。
 同昭和四十七年の第三回大会には沖縄本土復帰を記念して、
 沖縄チームが初参加をした。 ただし、日は八月一日に限定されず、
 八月上旬の日曜日が選ばれている。』 (※津幡町史より抜粋、原文ママ)

今から40年近く前に編纂されただけあって、文面からは「昭和」が偲ばれる。

@「津幡小学校の特設相撲場」。
⇒当時から土俵のある場所は変わらないが、
 今は「町所有の常設相撲場」となっているし、
 津幡小学校も移設されてしまっている。
@「商店街は協賛大売り出しを展開」
⇒現在は、シャッターを閉めてしまった店舗も多い津幡中央銀座商店街だが、
  周辺に大型店舗もなく、買い物カゴ片手に専門店を廻るのが
  一般的な買い物スタイルだった当時の活気を想像してしまう。
@「沖縄本土復帰を記念して、沖縄チームが初参加」
⇒日中戦争から始まる戦争の半世紀において、
 国内最大規模の地上戦の舞台であり、
 戦後はアメリカ領土になっていた沖縄。
 その復帰は、日本近代史の節目。
 そして、現在も続く政治・軍事面での問題が芽吹いた瞬間でもある。
 沖縄チームの参加は、激動の時代を思い起こさせるエピソードだ。
 
 
大会を見守る津幡小学校・旧校舎は既にないが、
オレンジ色の大きなサンシェードを備えた夏仕様は、今も変わらない。
選手はここで戦い、観客はここで声援を送る。
42年目の夏相撲だ。
 

さて、僕もまわしを締めて、この土俵に上った事がある。
それが何月頃だったのか、クラス対抗だったのか、
個人戦だったのか団体戦だったのか、記憶は定かでない。
クラスの中から何人かが選抜され、白羽の矢が立った。
僕は自ら志願したのではない。
また、相撲が強かったから選出されたのではない。
何となく選ばれてしまったのだと思う。
釈然としない気持ちを抱え、練習はした。
四股、すり足、テッポウ、ハズ押しなど、どれも付け焼刃ではあるが。

そして、迎えた本番。
僕は、あっけなく土俵に這った。
最初で最後の力士体験である。
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