つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

C特急 東駅にて。

2023年06月14日 10時10分10秒 | 手すさびにて候。
                            
このカテゴリーの先回「コーヒー」に関して投稿した。
今回は、その続篇と言えなくもない。
もう一つの世界的な嗜好飲料「茶」についての雑文である。

僕が常日頃愛飲しているコーヒーが南蛮船に乗って日本に上陸したのは、江戸時代。
一般に受け入れられたのは明治末~大正時代頃。
それに対し、茶の歴史はよほど長い。
奈良・平安時代、遣唐使や留学僧によって大陸からもたらされたと推定され、
鎌倉末期から南北朝にかけ、寺院が所有する荘園で栽培が広まり、
武士階級の社交ツールとなり「茶道」が形作られてゆく。
また、早くから庶民にも身近な飲み物となっていた。

古い付き合いだから、茶は日本語表現の中に度々登場する。
「お茶を引く」。
昔、客のつかない遊女が臼で茶葉を挽いて抹茶を作り時間をつぶしたところから、
その日の仕事にあぶれることを指すようになった。
「茶番劇」。
江戸時代の劇場で、観客にお茶をだす仕事「茶番」を務める下っ端の役者が演じた、
他愛のない出し物の名称で、やがて見え透いた行為に対して使われた。

他にも枚挙に暇がない。
適当な言動でごまかすのは「お茶を濁す」。
まじめな話を冗談めかしてからかう「茶化す」。
無邪気な子供っぽい悪戯を「お茶目」。
ありふれたことを意味する「日常茶飯事」。
手軽な物事に引用される「お茶の子さいさい」。
そして尊敬や親愛を込め「御」を付加するのが定着していることからも、
その浸透度合いの深さが窺える。

何はともあれ、季節は高温多湿。
「梅雨」の盛りだ。
一服いただきながら涼感や爽快感を得たいものである。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百二十六弾「お茶 with 大和撫子」。



今投稿のタイトルを<C特急 東駅にて。>としたのは、ある書物に着想を得ている為。
「沢木耕太郎(さわき・こうたろう)」著『深夜特急』である。
著者が26歳の時、実際に旅した経験がベースになった紀行小説は、
シリーズ累計600万部超えのベストセラー。
ご存じの向きにはイマサラだろうが、簡単に概要を記してから引用へつなげたい。

1970年代当時、ルポライターとして活動していた「私」は、ある日仕事を全て放り出す。
インド・デリーから乗り合いバスを継いでロンドンまで。
ユーラシア大陸2万kmを横断する“酔狂な旅”に出た。
香港、マレー半島、インド、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、イラン、トルコ。
ひたすら西を目指しヨーロッパに到達した「私」は、気持ちが萎えたことを自覚する。
好奇心とエネルギーに満ちていた熱い時が、霧散してしまったのだ。
消失の理由に思い当たったのは、ギリシャの古都アテネの街角だった。

【 私はようやく3日目に理解した。何かが起きそうで起こらない。
  それはやはり私がこれまでとは違う土地へ来ていたからだ、と。

  そういえば、とイスタンブールのハナモチ氏が言っていたことを思い出した。
  カタコトの日本語だけでなく、英語も私などよりはるかにうまく話すハナモチ氏は、
  外見に似合わずなかなかのインテリで、大学卒だというのもまんざら嘘ではなさそうだった。
  その彼とチャイハネでチャイを飲んでいて「茶」の話になった。
  私が、これまで通ってきた国では、どこでも人々は「茶」を飲んでいたが、
  面白いことにどこでも「チャ」や「チャイ」と発音されてたという話をすると、
  ハナモチ氏はそうか、そうかというように深く頷き、
  トルコ人はチャイが大好きだが、ギリシャ人はチャイを飲まずにコーヒーを飲むのだと言う。
  そして、チャイの国はみんな仲間なのだ、と言い出した。 
  なるほど、「アジアはひとつ」などという言い方には
  どこからどこまでがアジアなのかわからないという曖昧さがあったが、
  茶を飲む国とコーヒーを飲む国に分ければ分かりやすい。
  もしそれを基準にすれば、トルコまでがアジアということになる。
  「万国のチャイ国よ団結せよ!」
  調子に乗ってはしゃぐハナモチ氏に、しかし、と私が水を差した。
  「イギリス人も紅茶が好きだよ」
  すると、ハナモチ氏は困ったようだったが、すぐにこう訊ねてきた。
  「英語でチャイは何という?」
  「ティー」
  「フランス語では?」
  「テ」
  「ドイツ語では?」
  「たぶん、テー」
  「ほら」
  「何が」
  「彼らはTで始まるチャイを飲んでいる。僕たちはCのチャイを飲んでいるのさ」
  その時は笑うだけだったが、あるいは一面の真理をついていたのかもしれなかった。
  いずれにしても、私はトルコからギリシャに入ることで、アジアからヨーロッパへ、
  イスラム教圏からキリスト教圏へ、茶の国からコーヒーの国へ、
  「C」の茶の国から「T」の茶の国へと、違う種類の国へ来てしまっていたのだ。 】


(※【  】内/1992年刊『深夜特急』第三便より抜粋引用、原文ママ)

僕が『深夜特急』で印象に残るシーンは幾つもある。
上記「亜欧分離CT理論」もその1つ。
ちなみに、提唱者イスタンブールのハナモチ氏とは、あるトルコ人男性のこと。
「鼻持ちならない」を『ハナモチ』と喋る様子から「私」が付けたニックネームだ。

さて、ハナモチ説に明確な確証はないだろうが、まんざら的外れでもない。

茶の樹の原産地として有力な中国南西部の高原地帯から、
シルクロードなどを通って伝播する内陸コースは、広東語由来の「Cの茶」。
チベット、インド、ロシア、ペルシャ、トルコ、アラブ、日本等がその系統。
東端の日本は「C特急の東駅」といえるかもしれない。
一方「Tの茶」は海運コース。
オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、イギリス等、
ヨーロッパ~アメリカがそれ。
当時の交易港・福建の方言が元になっている。

2つのルートを通り東と西へ旅をした茶は世界中で愛飲されるようになり、
アジアとヨーロッパで違う名前を冠した。
まるで二つの文化圏を分けるように。
しかし---。

再び『深夜特急』第三便から抜粋/引用する。
主人公「私」が大西洋を望むポルトガルの町、ヨーロッパの最西端に辿り着いたワンシーンである。

【「これが紅茶というポルトガル語ですか」
  私が「CH’A」という単語を指差して訊ねると、鬚の息子はそうだと頷いた。
  何ということだろう。私は、あのイスタンブールのハナモチ氏が言っていた通り、
  ユーラシアの果ての国から出発して、アジアからヨーロッパへ、
  仏教、イスラム教の国からキリスト教の国へ、
  チャイ、チャといった「C」の茶の国から
  ティー、テといった「T」の茶の国に入ったものだとばかり思っていた。
  事実、ギリシャもイタリアも、フランスもスペインもすべて「T」の茶の国だった。
  ところが、そこを通り過ぎ、ユーラシアのもう一方の端の国まで来てみると、
  茶はふたたび「C」で始まる単語になっていたのだ。】


「T」に囲まれたポルトガルで茶が「C」になったのは歴史が織り成す綾。
大航海時代、オランダ、スペインの向うを張るポルトガルでは、
自前の植民地・マカオから直接茶葉を運んでいた為、広東風が定着した。
差し詰めそこは「C特急 終着駅」になるだろうか。
                            
コメント (2)
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