本日・5月4日は、ある女優の誕生日。
鬼籍に入って四半世紀以上が経つが、ここ日本で彼女の人気は取り分け高い。
今回は、その生誕と時を合わせ一筆啓上してみようという趣向である。
長文になったが、時間と都合が許せばお付き合いくださいませ。
では--- 。
ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第百七十一弾は「オードリー・ヘップバーン」。
「オードリー・ヘップバーン」は、
1929年の5月4日、ベルギーの首都・ブリュッセルで誕生。
オランダ貴族の血を引く母親と、粋人でコスモポリタンの父親は、彼女が9歳の時に離婚。
間もなく第二次世界大戦が始まる。
生まれ故郷のベルギーからイギリスへ。
母のつてを頼り、ナチス占領下のオランダへと辿り着いた頃には、赤貧洗うが如し。
また、多感な心を「ホロコースト(ユダヤ絶滅作戦)」が打ちのめした。
彼女が目撃した強制収容所へ連行されて行くユダヤ人は、あまりの絶望からか、皆、無表情。
能面のようなポーカーフェイスは、悪夢となって、夜毎、少女を苦しめたという。
唯一の慰めは、バレエ。
踊っている時だけは何もかも忘れられた。
その後、何とか戦争を生き延びた「オードリー」は、ロンドンに渡り、
本格的にバレリーナを目指すものの、夢は叶わなかった。
それは、彼女の身長が、当時の平均を大きく上回っていたためといわれる。
周囲より頭一つ抜け出た長身では、バランスを重んじる舞台に居場所がなかった。
ならばと、ショービジネスの世界へ飛び込む。
ミュ-ジカルの端役(はやく)としてステージに上りながら、
生活費を稼ぐ為、カメラの前にも立つ様になった。
どんな小さな役であっても手を抜かず、持ち前のねばり強さで、真正面から向き合ううち、
その誠実さが 認められる時がやって来る。
アメリカ・ハリウッド、パラマウント映画社の試写室で、
イギリスから運ばれてきたフィルムに目を通していた男が、立ち上がって叫んだ。
『あの太陽の様に輝いている子は、誰だ!?』
--- 男の名は「ウィリアム・ワイラー」。
運命の歯車が回り始めた瞬間だった。
1952年の夏。
記録的な猛暑に見舞われたローマから、1人の〝妖精〟が誕生した。
お忍びで宮殿を脱け出したある国の王女と、
アメリカ人の新聞記者がローマの街を舞台に繰り広げる、甘く切ない恋のおとぎ話。
「オードリー・ヘップバーン」のアメリカ映画初主演作
「ローマの休日」が完成したのである。
スペイン広場で美味しそうにジェラートを頬張るアップ。
ベスパに乗ってのタンデムデート。
コロッセオやパンテオン、真実の口などローマの名所巡り。
どれも絵になった。
主人公「アン王女」が、生まれて始めての冒険で感じた開放感は、
未知の領域に挑む女優の心境そのもの。
全てを新鮮に感じながら演じたフィルムは、主演女優賞を筆頭に3つのオスカーを獲得。
映画史に残る傑作になった。
また、作品の中で彼女が披露したショートカットは、世界中で大流行。
スレンダーでチャーミングな笑顔で魅せる新しいスターの登場は、女性の美意識を変え、
ヨーロッパ、ローマへの観光旅行ブームも巻き起こす。
こうした数々のエピソードは、
「ローマの休日」を、映画の枠を越えた「1つのブランド」にも似た存在にする。
そして「オードリー・ヘップバーン」といえば、
実在の有名ブランドを思い浮かべるファンも多いだろう。
1961年に公開された主演9作目「ティファニーで朝食を」のファーストシーン。
人気のない早朝のニューヨーク五番街。
イエローキャブで、宝石店「ティファニー」の前に乗り付けた彼女が身に着けていたのは、
ピッタリと体に張り付く「ジバンシィ」の黒いドレスだった。
当時、まだ新進気鋭のブランドにとって「オードリー」は最も効果的なモデル。
一方、スレンダーな体に女性らしさを補ってくれるドレスは、
彼女にとって願ってもないアイテム。
いわば、相思相愛の関係だったようだ。
およそ40年に亘る女優生活の中で、2度の結婚を経験した「オードリー・ヘップバーン」。
温かな家庭に恵まれず、家族を思う気持ちが人一倍強かった彼女は、
残された2人の息子の為、スクリーンから身を引き、平凡で平和な日々を過ごしていた。
充分に満足していた。
ある日、アフリカから送られて来たニュース映像を見るまでは。
内戦で家を焼かれ、人々が身を寄せる難民キャンプ。
痩せ細り、顔にたかるハエを追い払う気力もなく、虚ろな目をした子供たち。
それは、幼い頃に目撃したあの顔。
絶望という名のポーカーフェイスだった。
忌まわしい記憶と再会し、居ても立ってもいられなくなった彼女は、
1988年、ユニセフの特別親善大使に就任する。
『一番の問題は戦争です。
現在、発展途上国は、何億ドルもの大金を兵器の購入にあてていますが、
世界の兵器の90%を売っているのは、国連の安全保障理事国です。
地球上には、胸を張って平和を語れる国はありません。』
世界中の紛争地帯へ足を運び、時に激しい言葉で訴え、時に優しく語りかけた。
アフリカ東海岸のソマリアからの帰国便の中で胃の痛みを覚えるも、
そのまま欧米各地を廻り、救済キャンペーンを続行。
ようやく、ロサンゼルスの病院で診察を受けた時は、既に、手遅れ。
体内各所に転移したガンは、最早、手の施しようがなかった。
1993年・1月20日、「オードリー・ヘップバーン」は、
息子たちに看取られ、スイスの自宅で64年の生涯を閉じた。
もしも存命なら、92歳。
亡くなって28年が経つ。
決して短くない時間が流れた。
しかし、時の隔たりさえ朧気(おぼろげ)に思えるほど存在感を保っているのは、
やはり、彼女が〝銀幕の妖精〟だからかもしれない。