(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『方丈記私記』

2008-03-07 | 時評
『方丈記私記』(堀田善衛 ちくま文庫 1999年9月第5刷)


「定家名月記私抄」の前に書かれた、著者はじめての長編エッセイ。鴨長明の方丈記に題材を採り、終戦前後の状況と中世乱世の間を自在に往来して、鋭い社会観察と世相批判を投げかけている。原著は、1971年刊行のものであるが、今の世相にも通用するところがあって古さを感じさせない。

 終戦の年の3月の東京大空襲の体験から話がはじまる。そして方丈記に書かれている安元元年の京都の大火災の描写とオーバーラップしてゆく。さらに 平安末期の乱世の様子を高級官僚である右大臣藤原兼実の日記『玉葉』、また『増鏡』、『明月記』などを引用しつつ描写している。

 しかし、ただの引用ではない。日本中世の乱世ぶりは、戦乱はいうにおよばず、群盗横行、飢饉悪疫、地震洪水、大火、僧兵の狼藉、御所炎上、寺社滅尽などなどすさまじいものであった。これに関して云う。

 ”増鏡の老婆ならずとも「これより日本国は衰えにけり」と言いたくも なる筈であり・・・・・兼実が「言語の及ぶところにあらず、日本国の有無ただ今春にあるか」というのもまた無理はない。しかし私は、兼実の言う「日本国」といううものが、兼実の心持ちとしては 彼らの貴族エスタブリッシュメントに限られたものであったろうと註しておきたい。一般人民のことなどは彼らの「日本国」には入りはしない・・”

 ”「日本国の有無ただ今春にあるか」などど、かくなったことについて自ら歴史に責任のある、京都貴族代表としての兼実自身が、ぬけぬけと無責任なことを言い出す始末である・・・”

 そして終戦一年前の1944年に公爵近衛文麿から天皇にだされた上奏文に言及して 、「一般国民というものの無視、あるいは敵視」を感じ取っている。貴族や朝廷の視点から庶民のことが抜け落ちていることについて、きびしい批判の目で見ている。

 ”近衛氏は、共産革命を防止し、国体と称するものを守るためにのみ、戦争終結を急いだ。そしてこの国体と称するものも、要するに自分たちと天皇ということにほかならぬちょ思われる。・・・国体、国体とお題目のようにかつぎまわる右翼も、近衛氏によれば「国体の衣をつけた共産主義」なのである。この上奏文全体を何度読んでみても、99パーセントの国民の苦難など痛快な程に無視されている。”

注)この辺の事情は、『昭和二十年』(鳥居民)に詳しい。国民の各階層、軍需工場で劣悪な条件下で働かされる女学生、意味のない松根油堀にかり出される農民、無差別な大空襲で焼かれ溺れ死ぬ一般市民などなど、そんなものは、近衛の回想にはこれっぽちも出てこない。

 方丈記が、現代にもつ意義に関して、堀田はこう受け止めている。

 ”3月10日の東京大空襲から、同月24日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んで過ごしたものであった。しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読み返させたものであったか。それは、やはり戦争そのものであり、また戦火に遭遇してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方のついての考察に、なにか根源的に資してくれるものがここにはある、またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、と感じたからであった。また現実の戦禍にあってみて、ここに方丈記に記述されてある、台風、火災、飢え、地震などの災禍の描写が、じつに読み方として凄然とさせられるほどの的確さをそなえていることに深く打たれたからであった。またさらにもう一つ、この戦禍の先の方にあるはずのもの、新たなる日本についての期待の感およびそのようなものは多分ありえないのではないかという絶望の感、そのようないわば政治的、社会的転変についても示唆してくれるものがあるように思ったからであった。

 ”古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。ありとしある人は皆浮き雲の思いをなせり。”(方丈記より)

 ところでこの時代の和歌には素晴らしいものがあるが、それについて現実の世界にはなんの関わりも関係もないと、年来感じていることを冷たい眼で述べている。

  ”というのは、この和歌なるもの、たとえば千載和歌集などから以後のとりわけて新古今集などになると、歌集の全体としては、よくもまあ、あの動乱、権力闘争、朝廷一家の底の浅い陰謀、腐敗、堕落、関東武士の野蛮、残虐、ほんお少数の例外を除いての僧侶たちの厚顔、狼藉暴行、それに全体的飢餓、火事、地震、悪疫、戦乱と窮乏などのことを越えて、あるいは全く無視して、よくもあれだけのことをなしえたものだとつくづくと、ほとんど呆れるほどの心持でもって感銘するのではあるが、しかし、その歌一つ一つについて子細に考えてゆくという作業をはじめると、これはもう途端に、と言いたいくらいに、ほんの短時間で飽きてしまうのである。凝りに凝ったことばの技巧のほどなども、所詮は技巧であってそれ以上のものではない、という気がしてきてしまう・・・・”

 結びの日野の方丈での生活に関連して、方丈記は「それ三界は、ただ心一つ なり」という華厳経の一節を記している。堀田はそれについて、このように云っている。注)私には、この言葉が鴨長明の「やせ我慢」のように映るのであるが・・。

 ”この宣言にも、私はおおいにこだわった。三界は決して個人の内的な「心ひとつ」に懸かっていたり、実朝のいう「中道観」、大乗の教えにいう三観のうちの、有に偏せず、空にも偏しない中道観、「観」などという鏡などに依拠しうるものではない。しかしこれが、巨大な暴力が降りかかってきたときの、われわれの唯一の逃げ口、退路であることもまた事実でなけれなならないであろう。それを果たして、われわれは戦後の「自由」の概念によって克服しえたか”

 ”歴史と社会、本歌取り主義の伝統、仏教までが、全否定をされたときに、彼にははじめて「歴史」がみえてきた。皇族貴族集団、朝廷一家のやらかしていることと災難にあえぐ人民のこととが等価のものとして、双方がくっきり見えてきた。そこに方丈記がある。すなはち彼自身が歴史と化したのである”

 どうしたらこんなに深い読み方ができるのかと感嘆を覚える。ただ読み流すのでなく、背景を考え、広い視野で受け止め、今日的な意義にも思いをいたして読まねば、こん読み方はできない。天皇制と結びつけての記述など大いに刺激をうけた。


 なお巻末に堀田と五木寛之との対談が載っている。鴨長明の人となり、政治の反映としての『方丈記』の読み、長明の遁世と現代風市井の隠者の比較論などに触れて、興味深い。 

 最近辻邦生・大岡信そしてこの堀田善衛の著作を再三手にとることが多いが、いずれも知的興奮を覚える事が少なからずある。ちなみに堀田善衛の著書にふれるようになったきっかけは、畏友川本卓史氏に「名月記私抄」をご紹介頂いてからである。その縁なかりぜば、とあらためて感謝する次第である。



コメント (5)
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