(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

時評 日本の伝統文化とその発信者中田英寿

2015-06-30 | 読書
(時評)日本の伝統文化の発信者中田英寿

中田英寿は、みなさんよくご存じのように国際的な知名度を誇る元サッカー選手である。サッカー日本代表として活躍、FIFAワールドカップに三大会連続出場。1988年にはイタリアのペルージャに移籍した。その後の華々しい活躍は周知のとおりである。2006年に引退した。

 この中田が、最近富みに日本の伝統文化の発信者としての動きを見せている。今、イタリアンはミラノで行われている2015年国際博覧会のテーマは「地球に食料を、生命にエネルギーを」であり、サブテーマの中に「より良い生活様式のための食」Food for better lifestylesというのがある。ここで、”SAKENOMY”という日本の酒文化を発信するプロジェクトが行われ、6月2日から24日までの期間限定で”日本酒バー”が開店した。これを主導しているのが、中田英寿である。中田は日本国内の酒蔵を200個所以上探訪して回り、これぞという優れた日本酒を発掘してきた。

     

 では中田は日本酒だけに焦点をあてているのだろうか。そうではない。和食や染織また漆塗りなどむしろ日本の伝統文化全般に光をあて、それを海外に向けて発信しようと奮闘しているのである。私の友人や知人また日経紙あるいは中田自身のオフィシャルブログなどの情報ソースを通じて、その動きを知る機会があったので、ここに「心覚え」としてその全貌を記しておくことにした。 なを、途中で私の愛好する日本酒のことや志村ふくみさんの染織のことについては調子に乗って、あちこちと脱線するかもしれない。中田英寿論から離れて。そこは、ご愛嬌とお許しいただきたい。


(サッカーから日本の伝統文化の発信の担い手に)


(”人生は情熱優先”)
サッカーに抱いていた以上の情熱を探して、中田は海外をまわり、その結果日本のことや文化について何も知らないことを思い知らされた。そこで2009年頃から日本各地をまわって日本の伝統文化の事を学んだ。とくに日本の食文化/ものづくり/宿/神社仏閣などなど。そうやって日本の文化を再発見し、それを世界に発信することが中田の今の情熱の源泉となっていった。中田自身のオフィシャル・ブログなどである程度は知っていたが、たまたま今年のはじめに日テレの番組<未来シアター>で「中田英寿が選ぶ革新者スペシャル」という番組が放映された。これは失敗を恐れず、世の中を変えようとしている人々、革新者を紹介する番組である。志村ふくみという染織家の活動に強い関心をもっている知人が、その放送を録画していたのでDVDに複製して送ってくれた。志村ふくみさんは草木染めから染織の道を独力で切り拓き、90歳になった今も染織についてチャレンジし続けている。志村ふくみのことは、私自身かなり前から気になっていた。それは1980年代の半ばに戸井田道三氏の『色とつやの日本文化』を読んで、文化の基底にあるものとしての染と織りに興味をもっていたからである。15年まえに静岡の日本平で志村ふくみの個展があり、それを見て以来、ずうっと彼女の事をフォローしていた。つまりこの革新者という番組を見たきっかけは志村ふくみのことであった。

 さてこの番組では、中田英寿が三人の革新者を上げた。まず山形県の村山市にある日本酒メーカーの高木酒造である。そこの十四代当主の高木顕統(あきつね)氏は、これまでよりインパクトのあるお酒をつくろうと奮闘した。ブームであった端麗辛口から芳醇旨口に変えたのである。彼の信念は、

 ”味は革新する”

である。なかでも「十四代」と銘打った日本酒はサケコンペティションの純米大吟醸部門で2年連続第1位に輝いた。放送では「十四代 秘伝玉返し」が出されていたが、これを呑んだ中田英寿は”米の味がしっかりしている。サラリとしてべとつかない。フルーティ。湧き水をのんでいるような感じがする”と評した。旭酒造の「獺祭」、三重・木屋酒造の「而今」、秋田は福禄寿酒造の「一白水成」また福島は廣木酒造の「飛露喜」などなどがある中で、中田は十四代を選んだのである。

          

 この放送を見て、どうしても「十四代」が飲みたくなった私は、あちこち調べてみた。そうするうちに名古屋の小料理屋でこの酒を置いているところがいくつか見つかった。名古屋育ちの私には彼の地に友人が何人かいる。その一人に東山にある<わかばやし>という小料理屋へ案内してもらい、一夜「十四代」を楽しんだ。フルーティで切れ味がいい。しかし「十四代」にもいくつかの種類がある。再訪して味わってみたいものである。そうこうしているうちに山形では「十四代」はとても人気があるので、日本各地に出荷するのは抑え、山形県内で飲んでもらおうという声がでて、今はなかなか飲み屋では手に入らなくなった。幻になりつつある!

(ミラノ万博では・・・)中田は、引退後世界各地を旅して和食のすごさを感じ取った。そして和食についてこういうことを言っている。

 ”素材にも素晴らしいものが沢山ある。だが残念ながら市場で正当に評価されず、経済的にきびしい状態に陥っている農家もいる。きちんとしあtブランディングやマーケティングの戦略が実践されれてないからでないか。・・・ちょっとしたノウハウや知恵、ネットワークさえあればこれから有望なビジネスに育つ可能性を秘めた食文化が日本にはたくさんある。

 これまで日本人は自らの文化を世界に伝えることにあまり注力してこなかった。でも和食に合わせてワインやシャンパンを飲むように、海外のさまざまな料理にあう日本酒は想像以上にたくさんある。こうした料理との合わせ方がうまく世界に伝われば愛好家は飛躍的に伸びるはずだ。・・・・

 そこで食をテーマに開幕したミラノ万博にあわせて、ミラノ市内にバーを臨時開設し、日本各地の日本酒・焼酎33種を集めて販売するイベントを実施してみることにした。・・・少しでも日本の食文化の発展に貢献できたらうれしいこと。”

 ここに奥山清行という工業デザイナーが登場する。ポルシェやフェラーリなどの名車をデザイン。日本のものづくり振興にも取り組む。彼は、”和食には洗練された作り手と受け手が高め合い、文化に磨きをかけてきた長い歴史がある。味覚の繊細さ、緻密さは世界最高峰でしょう。でも、だからこそ本当の良さが外国人には正確に理解されにくい。つまり、ものづくりと同じように食文化でも「ガラパゴス現象」が起きている”、と云う。
その奥山は「食」をテーマにしたミラノ万博(5月開幕)で日本館の基本計画策定委員を引き受けた。みずから食文化の活性化に関わることにしたのである。つまるところ、彼は食文化に関するコンセプト・デザインを構築したのである。そのような考え方は官庁の役人には発想できないであろう。ここに民間人のかかわった意義は大きいと思う。



(志村ふくみのこと)
 (志村ふくみのこと)
 いまさら云うまでもないが、志村ふくみは自ら草木染めに長い間とりくみ独自の色合いをもつ染織の道を切り開いてきた。人間国宝にして現在90歳。その彼女が昨年秋、パリの日本文化会館で娘の志村洋子とともに海外で初めての個展を開き、講演の場も持った。中田はそこで志村ふくみと出会ったのである。上述の「革新者スペシャル」という番組で、その時の様子を報じている。

     

 衣桁にかけられている着物を見て回った中田は、”着物を見てすぐに感じた。現代的な感じだ。着物をつくるなら志村さんにお願いしたい”、と。着物は紅の着物、藍で染められたもの、さまざまな模様と色合いのものをつなぎあわせた小裂の着物などなど。染めるのは植物から、クチナシ/玉ねぎ/紅花/栗/などの自然の染料で染められもの。藍に至っては、月の満ち引きが染に微妙に影響するというので新月に染料をつくり、満月の染めるという。そんな染織の様を見て、中田は強く引きつけられ、「革新者」の一人に選んだ。そして志村に藍の着物と羽織の制作を依頼した。志村ふくみは、その著『一色一生』のなかで藍という色について、こんな事を言っている。

 ”今から十年ほど前、紺屋はいずれなくなるであろうという危惧と、自分で思うような  藍染めがしたいという二つの理由から、藍を建て始めたが、一の年間は失敗の連続で  何度やめようと思ったか知れなかったが、最近ようやく安定した自分なりの藍染めが できるようになってきた。藍甕の維持がどんなに苦労多いものか身にしみているだけに、この、世界に類を見ないわが国の藍染めの底深い美しさを守ってゆくため、数少ない紺屋こそみなで大事にしてゆきたいと思う。後継者の続くような仕事として国家がこれ を守るべきだと思う。

 実際日本人から藍染めの色を奪ってしまったら、どんなに寂しいことか。日本の女性の一番美しく見えるのは藍染めの着物を着たときだと言っても過言ではない。今の時代に なを、紺屋を継続している人々は、本当に藍を知り、藍の美しさに打ち込んでいるから だと思う。・・・”

  志村は若い人たちい染織のことを伝えたいと京都は嵯峨に工房を開いた。その名を”都機工房”と名づけた。この”都機”は道元禅師の『正法眼蔵』の都機の巻からきている。”あらゆる存在の一々の働きは、完全無欠の真理、仏心、衆生心、自体の現成であり、あたかも諸々の月の円満無欠の光のようである。・・・まるく完成している月は、過去のあらゆる時、また未来のあらゆる時を超越している。”

     

このような志村ふくみも凄いが、彼女の作品や生き方にに着目した中田の目も鋭敏である。中田は、まだ30歳代。こういう若い人が日本の伝統文化の保存・発展のために貢献してくれるのは嬉しいことである。お金を出すだけではない。自分で各地の工房や現場を歩きまわり、どのようにすればいいのか考えてそして実行に移す。言うは安く、行い難し。

 中田は、そのために今後どのようなことにかかわってゆくのか。漆塗りの塗師をミラノに招いたり、日本の酒蔵とイタリア高級ホテルとのコラボを企画したり・・。先々がとても楽しみである。



          ~~~~~~~~~~終わり~~~~~~~~~~






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日記 涼風雑感~「暑中見舞いの日」のことから「少しデザイン論」

2015-06-19 | 読書
日記 涼風雑感~「暑中見舞いの日」のことから「少しデザイン論」へ 
 今日6月21日は夏至にあたります。暗くなったらなったら電気の灯りを消して、蝋燭の火ともしながら夜をすごしてみるのもいいですね。(正確には22日の午前1時38分が夏至の瞬間だそうです)

先日の6月15日は「暑中見舞いの日」と呼ばれている。昭和25年に暑中見舞いの葉書がはじめて発売された。敗戦で住むところもなく焦土と化していた昭和20年から5年が経ち、人々の心にも少し余裕ができてきたのであろう。私も夏になると親しい友人たちに暑中見舞いの葉書を送るのを常としてきた。郵便局の出来合いのものではなく、いささかのデザインをして季節の花々などの画像を刷り込んだものである。そして友人から返信がきて彼らの消息を知ることができて喜んでいる。昨年の夏に届いたものの一つには素敵な花器に野の花(ふうせんかずらにトルコ桔梗)を活けた写真があり、そのセンスの良さに感じいったものである。時に詩歌の一片などを添えることもある。この夏はどんなデザインのものにしようかと、考えはじめている。

          

 ついでのことに手紙のこと。この20数年溜まっていた書簡類をすっぱり大整理した。9割方は捨て去ったが、残りの一割弱はは手元に残した。その中には、相手の伴侶が病をえてあの世へ旅だったり、、あるいは退職したりまた仕事の都合で遠隔の地に行ってしまったりなどして交信が途絶えてしまったのが何人かいる。その中のひとりに、思いおこして手紙を送って近況を伺ったところ、たまたまそれが「暑中見舞いの日」に先方に届いたのである。友人はとても喜んでくれ、それをきっかけに交遊が再開するに至った。ついでのことに手紙を書くときは書簡箋を選び、愛用の万年筆でしたためる。東京にいた時は、いつも日本橋の丸善でいろん書簡箋を揃えていた。最近は、封書で出すことは少なくなったが、気持ちが動いて想いを相手に伝えたいときは、何枚もの便箋に一字一字ゆっくり書いてゆく。生来の悪筆なので、急いで書くと読めない。”達筆ね・・”と冷やかされることは再々である。最近は万年筆のインクにも凝っている。パイロット(コーポレーション)から「色彩雫」(いろしずく)というインクがでている。なんと全24色。その名前を見るだけでも楽しくなる。露草/天色/深緑/色柿/月夜/あじさい/紫式部/秋桜・・・・。
ところが、このインク、非常に微細な粒子が入っているので、インクがどうしても漏れてきて、手が汚れやすい。万年筆との相性があるようだ。最近、たままたペリカンから出ているターコイズというインクを手に入れた。明るいブルーである。それを気に入ったのでモンブランに入れて使っている。余り漏れることはなくなった。しかし万年筆遍歴はやまない。ごく最近、日経新聞でパーカーが全面広告と打った。インジェニュイティという洒落たデザインのものである。欲しくなってしまう。デザインも洒落ているのだ。

   

 しかそうやって丁寧に書いた手紙を封書にして送っても、どのくらいの友人・知人がちゃんと返してくれるか心もとない。私より年上の人たちは手紙を書くという習慣があったが、そういう人たちはあの世に行ってしまった人が多く、いささかい寂しいところである。また脱線するが、「平信」という言葉がある。昔はこの言葉を封書の宛先の名前の左下に書いて、”これは大した手紙ではありません。日常の様子や感じていることをお伝えするに過ぎません。お気を使われるような大事な案件ではありません・・”としたそうである。


(少しデザイン論)
”ダイソン”といえば、吸引力の変わらないロボットタイプの円盤状の掃除機で知られている。イギリスの会社である。その製品の一つに空気清浄機があるが、画像で見るように斬新なデザインである。

          

残念ながら日本のメーカーのものは旧態依然たるもので、見た目のデザインはもちろんコンセプト・デザインでも遅れをとっている。オーディオ製品にしても昔からある箱型のアンプ、CDプレーヤーにみるごとく少しも進歩・変化がない。だからバング&オルフセンのようなユニークで手にとってみたくなるようなものは日本の製品には余り見られない。たしかに日本メーカーの製品の性能は優れたものがある。しかし、触ってみたくなるようなもの、眺めていて楽しくなるようなものはあまりない。

 どうしてそのような差が生じるのであろうか。それはデザイン面の教育の問題だけでなく、子どもたちに型にはめた、同じ考え方を強いるような学校教育の問題がある。”太陽は赤く丸く、樹々は緑と相場が決まっている。そこからそれようものなら、”よしなさい、みんなこうしているでしょう・・”と型にはめようとする。そういう教育を経て子どもたちは長じて大人になり、柔軟な発想があまり得意でなくなるのである。だから詩人の新川和江も次のような詩を詠んだ。

 ”(わたしをたばねないで)わたしを束ねないで。あらせいとうの花のように 白い葱のように 束ねないでください。わたしは稲穂。秋 大地が胸を焦がす。見渡すかぎりの金色の稲穂・・・”

 要するにみんな個性があるのだ、一視同仁にしないで欲しいという。個性賛歌である。そこからユニークなデザイン、コンセプト・デザインが生まれるのである。


  さてダイソン。ジェームス・ダイソンの長男であるジェイク・ダイソンがこの程来日した。彼はLEDライトについて研究をつづけ、ヒートパイプ・テクノロジーを採用した冷却機能を有するライト「Ariel」を持って市場に参入した。”40年後にも美しいデザイン”というコンセプトでデザインを重視したものである。


その彼に家電のスペシャリストがインタビューした(阿部夏子氏)。そのインタビューの中でダイソンは、次のように言っている。

”オフィスの照明は1960年代から進歩していない。技術的には、2014年ノーベル物理学賞受賞者の中村修二が創設したLED技術の世界的リーダー企業Soraa)の製品は光を太陽のように感じさせる。

そもそも、私は青い光が好きではない。 そもそもなぜオフィスの照明が青白くなければいけないのか。オフィスライティングというのは、1960年代からなんの進化もしていない。これだけ産業が進化して、長寿命のLEDというものが開発されたのに、オフィスの照明は、昔の蛍光灯と同じデザインで、同じ形をしている。

 あくまで商業的な照明器具であって、人間のことを考えていない。商業的なスキームばかりを優先している。それは悪い照明だ。このような事態になってしまったのは、照明器具を作ってきた私達の責任であり、LEDチップの開発者の責任だと考える。人間の1日のリズムや健康に配慮した照明がもっと出てきていいはず。植物だって、光を浴びて花を咲かせ、日が落ちれば花が落ちる。そのリズムは人間も一緒だ。”

          

新しい製品のアリエルでは独自のヒートパイプ・テクノロジーを搭載し、連続使用時間は16万時間となっている。ちなみに現在売りだされているLED電球は言われているほど長寿命ではない、

 ”私は、たくさんの光源を好まないし、欲しているものは1つしかない。それはコンバーチブル(屋根のない車体)に乗っているような感覚だ。太陽の光、あるいは星の光が気持ち良く照らしてくれる。そういう照明をみんな欲しているはずだ”

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 こういう物の考え方を日本のメーカーも追求して欲しい。それこそ奥深いコンセプト・デザインの領域である、ちなみに4月にダイソンの旗艦店が表参道にオープンした。一度行って、この目で見てみようと思っている。



(今、読んでいる本のこと)

 いつも手当たり次第、興味の赴くままに読み漁る。節度というようなものはない。(笑)ノンフィクションが圧倒的に多いが、海外のミステリーにも手をだす。文学作品は余り読まないが、詩歌(俳句・短歌・和歌などのアンソロジーには手がでる。と、いうことで只今、読んでいるものを並べてみる。大体5~6冊を同時並行で読む。

 『生きる哲学』(若松英輔 文春新書)・・・日経のコラムに毎週寄稿している。それに惹かれて読みだした。結構深いことを優しく語っているので、気に入っている。

 『ニューヨークのとけない魔法』(岡田光世 文春文庫)・・・ニューヨークでの人とのふれあいがユーモラスに描かれている。英語の言い回しの勉強にもなる。

 『日本経済を「見通す」力』(伊藤元重 光文社新書)・・・東大名誉教授の熱血セミナー。金融や経済問題を考える上での頭の整理のために。

 『憲法と平和を問いなおす』(長谷部恭男 ちくま新書)・・・憲法改正論議がかまびすしいが、きちんと全体像や本質的なことを理解しているかどうかとなると心もとない。立憲主義の視点から語る好著。同じ政治学者の杉田敦との        共著『これが憲法だ』(朝日新書)とあわせて読んでいる。8月15日の敗戦記念日には、今年も一文を書く積りなのでで、頭の整理のために。

 『本を肴に』(尾崎護 三月書房)・・・珍しい小型愛蔵本シリーズ。国民生活金融公庫総裁であった著者の、本に関する随想集。知らない本が一杯出てくる。

     

 
 『紺の記憶』(飯田龍太 角川書店)・・・飯田龍太は俳人として高みにある人だが、これがエッセイを書くと上手いのである。味わい深い文に惹かれ、寝る前に手に取るが、心が安らぐ思いがする。

 『雨滴抄』(白州正子 世界文化社)・・・能や日本の伝統文化に関する随想集。味わい深い文章で埋めつくされているこのハードカバーが、新刊本同様の状態で安価に手に入ったのであるからまことに幸せである。

          


 『米中衝突を避けるために~戦略的再保証と決意』(J・スタインバーグほか)・・・アメリカの国際安全保障や外交の専門家二人が、米国と中国はアジア太平洋における主導権を巡って衝突するのか、あるいは経済の相互依存関係から協調的関係 を築くのか、さまざまな観点から考察した。”100年の屈辱”を晴らそうとする強い決意を持った中国に対し、日本も避けては通れぬ問題である。私たちは一般市民だから、関係ないと言わずに、じっくり考え、理解をしたい。

 

(印象に残った新聞広告)
 新宿の伊勢丹はときどき洒落た広告を打つ。今朝(6月21日の日経朝刊)は「もてなしの教室」というタイトルのイメージ広告である。製品や会社の広告ではない。余談だが、この種の広告ではアメリカのユナイテッド・テクノロジーが1975年から’89年にかけてウオール・ストリート・ジャーナル紙に打った「グレイマター」というのがなんとも秀逸で、人々の心を打った。伊勢丹が以前に出した「流星夜話」という広告もまた印象に残った。(以前にこのブログで取り上げた)

 今回はさる五月にデザイナー/デザイン・エンジニアの渡邉康太郎さんを招いて話をしてもらったのを紹介したものである。記事の一部を掲載する。少し長くなりますがお許しください。

 「もてなす前に相手を知る。共感する、想像力の飛距離をのばす」
 ”僕が好きな言葉に、江戸時代の医者、三浦梅園の「枯れ木に花咲くより、生木に花咲くを驚け」というものがあります。人はつい奇跡のように思われる事に驚きや感動を見出しがちだけれど、生きている花が毎年春に花を咲かすという、足元の出来事に驚いたり感動したりできる方が豊かなのではないかということです。つまり驚きの余地とか共感や想像の種は多分ひとりひとりの中にあって、それをふくらませるようまかされているんです。日常のほんのわずかなヒントから広い視野や新たな視点を導きだすこと。それだけで「共感と想像の力」がどんどん増していき、今までにない「もてなし」に作用するのではなかと思います。人間は共感をゆるされた贅沢な動物で、脳科学的にはミラーニューロンが関係してるんじゃないかと思います。自分がその行為をしなくても他者をみると自分の脳も反応してしまうという”共感のエンジン”が備わっている。そういう、地球上の数少ない動物の一つとして人間がいる。これってすごく素敵なことなんじゃないかと思っています。数ヶ月前、徳島県神山町のグリーンバレーという自然がすごくきれいな場所で大人40人のキャンプをしました。大学生から60代くらいの方まで、いろいろな人が集まりました。

 僕は全員でキャンプファイヤーを囲んでいるときに何か話をするように言われたのですが、代わりにみんなに「今の自分に最も影響を与えたと思えるもの」、本でもいいし、演劇でもCDでもレコードでもいい、それについて二人一組になって語り合ってもらったんです。すると突然仲良くなっちゃうんですね。その人の一番深い部分を先に共有するから、関係性にちょっと魔法の橋ががかかるんです。パーソナルな部分を少し勇気を持って話してみることで、今までと違ったつながりができる。その本がなにかということより、まわりにあるストーリー、コンテキストが大事なんです。人は自らが体験、体感したものに愛着をもってしまうものなので、想像力によって辿り着いた共感は強力。そして楽しい。分かち合わずにはいられない。そのことを踏まえた上で改めてもてなしを考えると、やはり「もてなしは共感からはじまる」ということなんです。・・・”

     ~~~~~~~~~~

 この広告の記事を読んで、「今の自分に最も影響を与えたと思えるもの」は、なんだろうとあれこれ考えをめぐらしました。さあ、読んだ本のなかでは・・? 聴いた音楽、見た絵画ではどうか・・・? 両親をふくめて出会った人たち・・・? いや、感動した景色や情景・・・? 今日一日、このことをゆっくり考えてみます。みなさんにとっては如何ですか?

  
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 長くなってきましたので、当初予定していたMOOC(ムーク)のことは次回に譲ります。大学などがインターネット上で公開している講義のコースのことです。日本でもgaccoというプラットフォームがあり、昨年は早稲田大学の国際安全保障論をとりました。しかし本場のアメリカのものを見ているとエデックス(ハーバード大学とMITの共同のプラットフォーム)にはとても興味を掻き立てられるものがあります。最近のものでは「サイエンス&クッキング」というプログラムがあり、いきなりステーキを焼くシーンから始まります。早速、登録しました。どうなりますか・・・?


 長時間、支離滅裂の話題展開におつき合いいただき、ありがとうございました。









 
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(予告編)日記 涼風雑感~「暑中見舞いの日」のことなど

2015-06-16 | 読書
この頃感じていること。手紙を書くということ/書簡の整理/すこしデザイン論/今読んでいる本/酒器の収集のことなど、あれこれ書きつづります。
アップはこの週末くらいになろうかと思います。しばらくお待ち下さい。





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エッセイ 路地を歩く

2015-06-08 | 読書
                                     (写真は諏訪湖)
エッセイ 路地を歩く

 数日前の6月2日は「路地の日」と呼ばれる。と、いっても全国的な話ではなく、長野県の下諏訪町が路地のよさを見直そうと制定したちょっとローカルな日である。

 ”自分たちが住む町を、親子でゆっくり歩いてみましょう。
  車や自転車で通り過ぎたり、携帯を覗きながら、歩いてはもったいないですよ。

  道ばたの草や花、ご近所のお庭の花、ノラネコ、虫や鳥、お散歩中の人と犬にも出会  えます。お地蔵様にもご挨拶しましょう。
  さぁて、今から子どもと一緒に路地裏や家の周りの秘密をみつけにいきましょう!”

この路地のことからあれこれ連想が広がる。路地、小径、小路・・・。なにかしら懐かしさを感じる言葉である。今まで歩いたことがある路地、小路などが思い浮かんでくる。そして与謝蕪村の愛した小径のことも。


 まずは下諏訪の町のことから。諏訪市は諏訪湖を懐に抱くところである。その諏訪湖の北岸にあるのが下諏訪(しもすわ)であり、ここは甲州街道と中山道が合流する交通の要衝の地である。そして諏訪大社・秋宮の門前町にして温泉に恵まれ、中山道唯一の温泉宿場町である。

 そこに「みなとや」というわずか五室という小体な湯宿がある。浴衣を着て下駄をつっかけ、中庭に進むと小さな構えの門があり、四本柱の屋根をもつひのきの風呂がある。風呂の底には白い玉砂利が敷き詰められている。湯はきめ細かくやわらかな肌あたりである。この湯宿は白洲正子や岡本太郎など多くの文人墨客に愛されたが、なかでも小林秀雄はことのほか気に入って”綿の湯”と命名した。詳しいことは以前に書いた旅日記「信濃の秋」をご覧頂きたい。

     
 

 さて下諏訪に「路地を歩く会」というのがある。会長はこの「みなとや」の主人である。詳しいことはこんな具合である。

 ”「路地の日」の6月2日、下諏訪町の路地を歩く会(小口惣三郎会長)は、同町にゆかりの深い芸術家・岡本太郎が歩いた道をたどる散策と座談会を諏訪大社春宮一帯で開いた。岡本の生誕100年に合わせて「今、なぜ岡本太郎なのか? 岡本太郎の元気の本質に迫る」と題し、彼が絶賛した野仏・万治の石仏などを見学。座談会は岡本と親交があった吉沢清さん=同町矢木東=の解説で、万治の石仏の美を見いだした芸術的視点や人間性に理解を深めた。

 「歩く会」は1995年に発足。下諏訪の路地の風情を味わい歩く催しを定期的に開いており、「路地の日」も同会が日本記念日協会に申請して01年に認定された。

 29回目の路地歩きとなった今回は雨の中、町内外から約40人が参加した。一行は岡本が下諏訪の定宿にしていた、みなとや旅館主でもある小口会長の案内で、春宮境内や御柱、万治の石仏などを見学。石仏の前で小口会長は「岡本先生は石仏に近づくに連れてどんどん足早になり、『すごい、すごいね』を連発。汗だくで、レンズを交換する手も震えていた」と石仏と初対面した際の岡本の興奮、感動の様子を紹介した・・・・”


          

 地図にある秋宮大社から下る中山道の道は湯宿が立ちならぶ。人気もそれほどない静かな路である。暮れなずむころ、あるいは朝早く浴衣がけで歩いてみるのもいい。建物も木造のものがほとんどで植木鉢が並べられており気分が落ち着く。諏訪大社で打ち鳴らす太鼓の音が響いてくる。


 路地といってもいくつかのタイプがある。東京は深川、門前仲町には小路が何本もある。昔は花街というだけあって道の両側には飲み屋・料理屋が密集している。ここではそういうのは取り上げない。やはり両側に家々がたちならぶ小径、深川などでは近くに植木や花の専門店があり、大きな植木鉢が沢山おかれている。また常磐津・新内といった歌舞音曲を教えるお師匠さんの看板がかけられている。ひるまなら猫がのんびり寝そべっている。

 それから飲み屋ではないが、色んなお店がならぶ小路もある。また京都の石塀小路のように、石畳の道が屈折しながらつづき、ところどころに隠れ家のような宿や、また家を改装した料理屋がある。行灯のともる夜は、漫ろ歩けば風情が増す。

     

 京都では路地のことを、”ろうじ”と云うらしい。その一つに京阪清水五条駅から近いところにある「あじき路地」はユニークな存在である。路地裏の細い道は明治末期に建てられた町家がつづく。かなり空き家が多かったが大家さんたちが呼びかけて、そこに若い人たちが幾つもの店を出した。焼き菓子の店、はんこの店、織物の店などなど。かなりプライベートなスペースの感じもするが、そのこじんまりとしているが風趣あふれる佇まいに惹かれる若者たちもすくなくない。

     

飲み屋街ではないが、食事の店などまで広げれば新京極あたりの「柳小路」もいい雰囲気である。ここは夜に灯りがともると一段と情緒がある。


 さて今度は岐阜の郡上八幡に飛ぶことにしよう。岐阜から長良川沿いに北上したところにある小さな城下町である。清流と名水の町そして夏の郡上おどりで知られている。気に入った定宿のようなところあって何度も訪れている。この町については、2008年に訪れた時に「郡上八幡という町に」という旅の日記をかいているので、それをご覧頂きたい。


繁華街の新町から角を曲がると町中に路地がある。玉石を敷き詰めた道の横には水路があり、柳が繁り何件もの家屋敷がならぶ。このあたりは歴史的風致地区とかで国の重要伝統保存地区となっている。この路地の入り口あたりで、折りたたみの椅子をおき、腰をすえてスケッチをする。急ぐことはない、のんびりと鉛筆を走らせる。

          


 ところで路地裏を離れて、小径のことなどを語りたい。周囲に木々が立ち並び落ち葉が散り敷いいている。紅葉のころには深々と。せせらぎのある小径もふくめてそんなシーンを少し拾ってみた。はじめは湖東三山のひとつ百済寺にて。落葉の小径。ほとんど人影がなく、落ち葉を踏む音だけが聞こえる。この小径は気に入っている。次の2枚は、わが町の小径。緑濃く、せせらぎのある小径まである。こんな人口の島で高層建築の多いところなのに、このような落ち着いたプロムナードがある。プチ贅沢というべきか。


     


     

そうそう。そういえば京都洛西は嵯峨野にある大河内山荘を忘れることはできない。初夏の頃訪れるとまことに緑風がふく感がある。山荘のあるところから少し高みに登ると石畳の小径がある。あまり人も訪いこず静寂を極める。ゆっくり歩んで時の流れるのを忘れたくなる。隠しておきたいシークレットスポットである。

     



(蕪村の小さな世界)
 じつはこれは芳賀徹さんの与謝蕪村に関する名著(昭和61年 中央公論社)のタイトルである。この中に「桃源の路次」という一節がある。読んでいて堪らないくらいの名文であるが。その文を少し要約しつつ引用してみる。

 ”蕪村は東アジアの桃源郷の詩画史のなかに、よろこんで身をおいた者のひとりであった。桃源郷再発見の動きのなかのパイオニアの一人であった。

   ”桃源の路次の細さよ冬ごもり”

くねくねと曲がる細い路次の奥に潜んでいるであろう暖かい別天地。小径の詩画である蕪村の「十宣図」の小幅のほとんどすべてに細流が流れ、木蔭をたどって、あるいは岩山の岨つたいに細い小径がうねっている。画中の小径を辿ってゆけば、どこへ行きつくのか?それは云うまでもなく桃源郷であり、幼い日のふるさとではないか。まことに蕪村は「小径」の詩人である。”

  ”細道を埋(うづ)みもやらぬ落ち葉かな”
  ”これきりに径(こみち)つきたり芹の中”
  ”路たえて香にせまり咲くいばらかな”


そして帰れぬ世界へのかぎりない郷愁を私たちの心によびおこす。残念ながら、この蕪村のいう小径にふさわしいような写真は今は元にない。しかし、花祭の残る奥三河の山奥や奥会津の未だに残る原風景のなかには見られるかもしれない。その時は
あらためてご紹介したい。いやいや、私のプライベートな旅のデータバンクをチェックしてみると他にもある。青森は白神山地の十二湖をめぐる散歩道、また「日本一美しい村」と評される九州は大分県の安心村(あじむ)。ここは中世の荘園として名の知られたところ。うれしいことに「桃源郷こびら」という農家の宿があるそうだ。路地、小径を探す旅もわるくないなあ!

     


 ながながと書いてきました。みなさんのお好きな路地、小径はありましたでしょうか? いや、こんな素敵な路地がある、小路もある・・・。ぜひご紹介ください。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。















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(予告編) エッセイ 路地を歩く

2015-06-03 | 読書
知らなかったのですが、昨日の六月二日は「路地の日」だそうです。え? どんな日・・・・。そこから連想が湧いて路地や路地裏、小路のことを少し書くことにしました。しばらくお待ち下さい。まずは下諏訪の町のことから。





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