(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

(予告編)エッセイ 旅に憧れる

2019-09-28 | コラム
以前「旅にでかけよう」と題して森本哲郎の『ぼくの日本十六景』をご紹介しつつ、いくつかの町への旅について書きました。今回は、嵐山光三郎の『芭蕉紀行』や藤沢周平の町、鶴岡への旅などにについて書きました。「居酒屋を求めて」、という駄文も書いています。アップは、10月の第一週かと。しばらくお待ちください。


















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コラム 風の音~原発処理水

2019-09-22 | コラム
コラム 風の音~原発処理水
                       (写真は、千葉県の停電の状況を示すマップ)


 このところ新聞はあまり読まない。単にあった事を報道するだけで、その背景や意味、問題点などについて掘り下げて報じられることはあまりない。では、国際政治や時事問題、金融や経済などなどは何によって知るのかというと、そのほとんどはSNS(フェイスブック、ツイッター、それらにつながるブログもふくめて)それから有料配信ニュース(NewsPick,WSJ・・・)によっている。

 最近、福島第一原発の処理水(マスコミはなぜか汚染水と書く)のことは前環境大臣の原田さんの発言からはじまった。”処理水は海洋放出しかない”、と。これは何の問題もないのであるが、後任の環境大臣に就任した小泉進次郎氏は、それを否定して福島漁連に陳謝した。余談になるが、この人の話しを聞いていると、なるほどとうなずくこともあるが、紙に書いてみるとほとんど中身がない。

 そもそも処理水は、原子炉を冷却する時に使用される水は、その時点では汚染されるが適切な化学処理(ALPS)によってトリチウム(三重水素)以外はすべて除去される。トリチウムは現在の技術では除去できないが、自然界にも存在するもので、一定の基準値であれば排出(放出)はもちろんのこと、飲料水としての利用も問題ない。 現在、福島の原発内のタンクに貯められている100万トンの水は、(一部は再処理してから)希釈すれば人体・環境に無害な水として対応(=海洋放出)できるのである。

それから処理水は、原発事故を起こした福島特有の問題ではない。
日本を含むあらゆる原子力発電所でこの冷却水は発生しているわけであり、充分な化学処理をした後に海洋放出が行われている。(下記の図を参照、経産省の資料から)


    
     




 では、なぜ経産省の小委員会で、まだえんえんと議論が続いているのか、それは福島での風評被害を恐れているからである。 

ことは、簡単だ。小泉環境相が、率先して福島の海で取れた魚を食し、議員会館の食堂で福島の魚を料理した食事を議員みんなで楽しめばいいのだ。風評被害など、どこかへ飛んでしまう!


 せっかくなので、千葉県での停電問題について。未だに停電は続いている。風速50メートルを越す未曾有の強風が吹いたからである。停電があるため、配水ポンプも作動せず、水のきていないところもある。千葉県市長の熊谷俊人氏は、毎日の状況をツイッターを含むSNSで毎日活動状況を発信し続けている。頭の下がる思いである。それに対し、千葉県知事の某氏は初動も遅れ、”電力関係者は不眠不休でやってほしい”、というばかり。ついでの思い出したが、太平洋戦争中の米軍では、あまりに激しい戦闘なので、定期的に交代で「休暇」をとったとか。

東電の復旧現場では作業員たちが真摯に働き続けている。その裏にはこの停電復旧の根本的な原因が隠されているとの指摘がある。電柱の立て直し、撤去、寸断された電線の引き直し、変圧器の交換など現場工事のスキルは社員はもはや持ち合わせていない。協力会社、あるいはプロジェクトごとに集められたスキルをもった熟練職人であった。それが、昭和60年代から平成に入る頃から、現場の作業を避け、技能労働を軽んじる風潮が生まれ始めた。3Kを避け、ホワイトな机の上での仕事につくことが人生の勝ちパターンという物語を皆が共有するようになった。

ある人が指摘するように、みんなが管理する側に回って、現場の熟練ノウハウが減衰すれば、工事の品質は落ち、作業が遅れていくのである。この問題を如何に解決するか?
熟練労働者の評価のあり方を考え直さなければならない。






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読書 最近読んだ本~『別れの挨拶』など

2019-09-04 | 読書
読書 最近読んだ本

最近手にとった本のうち、丸谷才一はともかくとして田部重治、竹山道雄、成毛眞と列挙するとほとんど諸兄姉はご存じないのではないか? それらの本の一節を取り上げ、ご紹介するとともに、私が何をそこから感じたのかを綴ることにした。


(1)『別れの挨拶』(丸谷才一、集英社、2013年10月)
 
 丸谷才一は、山形県鶴岡の生まれ。作家であるが、小説というものはあまりない。源氏物語について題材を取った『輝く日の宮』を知るくらいである。しかし、文学評論やエッセイの分野においてはとにかくユニーク、また題材の目のつけどころがユニークである。それらを長年読み続けてきたが、どの中でも、この『別れの挨拶』は、文字通り彼の別れの挨拶となった。その中から、二点ほどを取り上げる。

(十九世紀と文学と遊び心)
 ”廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、明け暮れなしの車の往来にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前とは名は仏くさけれど、・・・・” ~樋口一葉の名作『たけくらべ』の書き出し。

 ”四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田んぼにはげんげが咲き豪家の垣根から八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。”~田山花袋の『田舎教師」の書き出し。

この二つの作品の冒頭の書き方を較べながら、丸谷才一は、次のように云う。

 ”この二つの作品の冒頭が、わずか三年の差があるだけなのに、まったく書き方が違うこと注目してください。一葉は文語体で、それも七五調によりかかった・・・まるで義太夫を語るみたいな・・・節がついていて三味線がところどころ入るみたいな文体で華やかに書く。花袋は無愛想な散文で、ばさばさと叙述する。縁語、掛け詞なんて洒落っ気はみじもない。一体に文章の芸という意識がまったく見られない。”

そして、このような変化は日本文学に日露戦争の頃、大仕掛けな文学革命が勃発したせいだという。写実主義文学、自然主義小説であったと。宮廷的な美感がすっかり失われたあとのヨーロッパ文学の文明主義が、これまでは江戸文芸の趣味におおはれていた日本文学に突如、大幅に押し寄せていたのだと。

そして丸谷は名著『ホモ・ルーデンス』の中の言葉を引いて、人間のあらゆる文化には遊戯性があるが、その遊戯性をヨーロッパ19世紀文学は衰退させてたし、日本近代文学はその遊び心の薄れた19世紀文学を師匠筋にして出発したから、大真面目で厳粛な、面白みのないものになった、指摘している。

その一例としてアララギ派の歌人伊藤左千夫の与謝野晶子攻撃をあげている。

 ”晶子が「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と詠んで人気を博したのを妬み、大仏様を見てああいい男なんだと騒ぐのは、まるで花柳界の女のようであるなんてくさした。しかもうんと巨大な仏像を美男として鑑賞する、その機知の面白さが全然わかっていない。これは儒教的禁忌と武士道精神と仏教的抑圧が三つ重なったような暴言ですね。美男をみて、ああ素敵だと思うのがいけないのでは、『源氏物語』の光源氏への敬愛なんか、不道徳の極地じゃやありませんか。これは、アララギ派の党派的感情の発露なんでしょうが、実に下等で無茶苦茶な文芸批評でありました”

 ”文学だけでなく、近代日本の芸術はみな、ヨーロッパ十九世紀の影響を受けて、遊戯性を欠いた大真面目なものになりました。その最大の被害者が歌舞伎だったかもしれない。明治初年から20年代のかけてさまざまな演劇改良運動がおこなはれ、歌舞伎を高尚な演劇に作り直そうとしました。・・・歌舞伎という遊び心のかたまりのようなものさへ、こういう目に遭うのですから、建築のような、もともと遊び心と関係が薄いと思われがちなものが、どうなったかは、云うまでもない。面白みのない建築の連続でしょう。このことは国会議事堂をみても、新宿の都庁をみてもわかります”~同感!



 いかがですか? 丸谷才一の切り口は、鋭く、思考が柔軟で面白いでしょう。私は、ふと最近読んだ建築家隈研吾氏の『建築家、走る』のなかで、著者が歌舞伎座の改築を引き受けた時のエピソードを思いだしました。

隈研吾氏は、渋谷にある根津美術館、サントリー美術館、そして最近では来年のオリンピックに向けての国立競技場を設計した建築家です。とても好きな建築家です。その彼が第五代の歌舞伎座の設計を引き受けました。現在、ご存知のような歌舞伎座になった次第が『建築家、走る』には綿密に書かれています。触りだけをご紹介します。以下は、彼の言葉です。

     


 ”歌舞伎座は、モダニズム建築にしてはいけないと、ぼくは直感的に思っていました。モダニズム建築というのは、20世紀の工業化社会が生み出した建築スタイルで、かんたんに言えば艶っぽくないのです。瓦屋根のような「前近代的なデザイン」をモダニズム建築ではきびしく禁じていました。・・・ましてや歌舞伎座のシンボルである、そり返った唐破風の屋根などを使ったらどんな制裁が待ち受けているやら”

”日本には明治以来、国の大事な建築は役所の中で設計するという、富国強兵・後進国家型の暗い伝統があって、今の国会議事堂のその伝統の中で設計されています。・・・世界を見渡しても、国の大事な建築を役所の中で設計している例などは北朝鮮以外にはないのです。丹下先生はそれこそ死闘ともいえるような激しい戦いを役所と繰り広げ、最後に設計のしごとを手にしたのです。

歌舞伎座のプロジェクトでは、お上のとの齟齬があり、唐破風の屋根を外して、わかりやすいハコにしなさい、といった思わぬ提案をぶつけられました。・・・ぼくは祝祭空間としての歌舞伎座を再生させたかったのです。”

 なんとも丸谷才一氏の主張するところと似通っていますね。


(幸福の文学)
 料理の美味しさを描写した本はいくつもある。辻嘉一の『味覚三昧』、師岡幸夫の『神田鶴八 鮨ばなし』、また大竹聡のそこへ行って食べてみたいと思わせるような『こだま酒場紀行』などなど。しかし、それが幸福論につながるようなエッセイはあまり見たことがない。

 おそらく吉田健一というひとの名前は、みなさんもよくご存知のことと思う。吉田茂首相を父に持ち、英国ケンブリッジ大学で学んだ。文芸評論家にしてエッセイイストであり、小説も書いている。

丸谷才一は、彼の作品『酒肴酒』(光文社文庫 1974年)を取り上げ、その文章の魅力について語っている。

 ”吉田健一さんの『酒肴酒』という本は、どうのこうのと論ずるには不向きな本である。こういう本はただ読んで面白がればそれでいい。そして実に面白くて楽しい。それを分析したり解釈したり比較したり論評したり、つまりゴタクを並べるのは野暮な話である。”
”この本にはうまい料理を食べたりうまい酒を飲んだりするのが幸福なことだということが書いてある。これは日本の文学史で始めての事件だった。大げさなと怒られるかもしれませんが本当なので、紫式部だって芭蕉だって、こういう幸福なことは書いていないのである。そんなことは書くに値しないから彼らは書かなかったのだ、と考えるのは間違っている。彼らは口腹の喜びをもたらす幸福感にきがついていなかったし、それを言い表すだけの言葉を持っていなかった。吉田さんははっきりと気がついていたし、表現するだけの言葉を十分に持っていた。”


”たとえば吉田さんは、ニューヨークの朝飯屋について、「卵の匂いのする卵や、バタの匂いのするバタの朝の食事を出す」、と書く。われわれはもうそれだけでニューヨークの朝飯屋にいてその卵とバタを味わうような気になり、嬉しくもなる。「それから、たらば蟹というのか、割に大きな甲羅に美しい緑色の臓物が入った蟹が出た。これはうまい。蓴菜を動物質に変えたような味がする」この比喩は完璧で、早速この蟹を食べたくなる。さらに、「ボルドーの葡萄酒の上等なのはどこか、清水に日光が射している感じがして、ブルゴーニュを飲むと、同じ日光が山腹を這う葡萄の葉にあたっているところが目に浮かぶ」、と書く。これを読んでボルドー及びブルゴーニュの葡萄酒をたちまち飲みたくなるのはごく自然なことである。”

”酒と食べ物についての吉田さんの表現は、こんなふうにごく簡潔で、くどくど書かないのに我々を強く刺激する。それから大事なのは、たとえば葡萄酒、卵、バタ、たらば蟹によって得られた幸福感を描くことに吉田さんの文章が成功しているという事情である。文章によって一人の幸福な人間が出現するから、われわれはその人に会うついでに、彼の口にしたものを信じてしまうのですね。・・・彼は人生が生きるの値するものであり、その人生には喜びや悲しみや幸福感があることを主張した”


 丸谷才一氏は、最後にこう結んでいる。”表紙で確かに『酒肴酒」とわかれば、あとはただもうゆっくり、大事に読めばいい。あまり面白いので、大笑いをしながら一気に読んでしまうかもしれませんが、それはまあやむをえないでしょう”、と。

 と、読んできて思い出したのが、『梅安料理ごよみ』(佐藤隆介&筒井ガンコ堂 講談社1984年)である。池波正太郎の『仕掛人 藤枝梅安』の中に出てくる梅安と彦次郎が食べるもの飲むものについて語っているシーンを中心に梅安好き、料理好きの専門家二人が解説したもの。これを読んでいると、藤枝梅安と彦次郎のささやかな幸福感が伝わってくようだ。私には、こちらの方が好ましい読み物である。なぜでしょう? 登場人物が二人だからですよ。独りでうまいものを食べてもねえ・・・!


 ”火鉢に小鍋がかけられる。昆布をしいた湯のなかへ、厚めに切った大根が、もう煮えかかっていた。これを小皿にとり、醤油をたらして食べる。何の手数もかけぬものだが、大根さえよろしければ、こうして食べるのが梅安は大好物であった。

    ”「梅安さん。酒を買ってきたよ。」「それはすまねえ。もうじきに終わる、そこの炬燵へ入っていてくれぬか」「いや、酒の支度をしよう」「そうかえ、ではやってもらおうかね。ついでに、そうだ。彦さんなら大丈夫だろうから、ひとつね、うす味の出汁をたっぷりと、とってくれぬか。」「何をするんだね」「大根を煮ながら食おう。そのつもりでね」
 
 台所へ入ってきた彦次郎が、「こいつは豪勢な。昆布から味醂まである」台所で器用に働く出した彦次郎へ、梅安が居間から、「今日はどこへ行って来たね?」「女房・子の墓参りに、ね・・・」・・・・

 とっぷり暮れてから、梅安と彦次郎は、居間の長火鉢へ土鍋をかけ、これに出汁を張った。ざるに、大根を千六本に刻んだのを山盛りにし、別のざるには浅蜊のむき身が入って
いる。出汁が煮えてくると、梅安は大根の千六本をてづかみで入れ、浅蜊もいれた。きざんだ大根はすぐ煮えあがる。それを浅蜊とともに引きあげて小皿に取り、七色とうがらしを振って、二人とも、汁と一緒にふうふう云いながら口に運んだ。

 「うめえね。梅安さん。「冬が来ると、こいつ、いいものだよ」酒は茶碗でのむ。
「ああ、ずいぶんと飲んだ」「飯にするかえ?」「ああ、そうしよう」「今夜は泊まっておゆき」「そうさせてもらってえね」

 それから二人は、炊きたての飯へ、大根と浅蜊の汁をたっぷりかけ、さらさらと掻き込むようにして食べた。香の物も大根である。・・・箸をとめて、藤枝梅安が、「とうとう、白いものが落ちてきたようだね」と云った。”




(2)『山と渓谷』(田部重治選集 山と渓谷社 初版1938年)

  田部重治(たべじゅうじ)は東大英文科を卒業した英文学者であると同時に登山家の草分けのひとりでもあった。日本の山岳美にいちはやく着目し、日本アルプスや秩父山脈についての山行の記録を『山と渓谷』として出版した。日本アルプスと名ずけたのは、かのウオルター・ウエストンであるが、山歩きの美しさ、楽しさを流麗な文章で伝えたのは田部重治であった。山行についての尾崎喜八の詩文も読んで楽しいものであるが、その対象はあまり高い山ではない。

 ふとしたことから、この『山と渓谷』を手にした時、そこに現れる文章の流麗なることに感嘆をおぼえた。

(山に入る心)

 ”山を歩く時、とくに無人の境に漂白する時、思いがけないほど美しい自然のうるわしい姿が、世にならびない景色と讃えられきたったものよりも、遥かに美しい粧いをもって、幽隠のっつましい渓谷から、あるいは幽林の奥ゆかしい彼方から、見る人の心の落ち着くいとまもあらせぬよう、あらわれて来るのに接して、私はいいしらぬ喜びを感ずるとともに、顧みてともに喜びを分けることのできる友をそういう時に欲する。・・・

私は友と共にかくのごとき光景を味わったことがかなり多くある。私は、しばしば、信州島々谷の渓谷を遡って徳本峠に攀じ(よじ)、峠の上から穂高の秀峰が、ほんの只今大地の底から湧いたかのように清浄な白雪を頂きながら、新しく立っている荘厳なる光景に接した。私は、この秀麗な山容によって、今まで私の考えてきたことの如何に価値少なくて、私のしてきた行為の如何にいやしいものであったかを感じせしめられた時、この秀麗なる姿は、人生の美しい気高い象徴として、私の憧憬の対象となり、私の感情のうちに深く織り込まれるようになった。・・・

 しかしかくのごときは、私にとっては、むしろ月並みな旅であったかもしれない。残雪の傍らに焚き火しながら、晴れゆく雲の間から月を眺めたこと、奇硝なる渓谷の間に滝の音を耳にしながら、一夜を明かした記憶などを辿ることはやめるとして、私の最も忘るることの出来ないのは、多くの高原に一夜を明かしてきらめく星を眺めたこと、幽林を静かに通う嵐を聞きながら暮らしたことなどである。私の多く泊まった高原は八千尺以上の高位にあるものであったが、とくに私にとって印象的な泊まりは、信濃と飛騨との国境にある双六の池のほとりのそれと越中五色ヶ原の泊まりであった。私はここにそれらの夜の記憶を写実的に述べようとは思はない。ただ私は人里を二三日以上も離れた幽山の間に介在するこれらの雄大なる高原の一角に友と共に佇みながら、白雪を頂く雄偉な四囲の山々、そこを刻む無数の渓谷、絶えず浮動して秀峰を包んではまた開く白雲の運動、見回すあたりの美しく咲き乱れた高山植物、その間を流れる氷のように冷たい小川などを見て、茫然としてただ見惚れるばかりであった。”


 
 私は、若い頃学生時代を通じて山歩きを楽しんだ。日本アルプスのうち、とくに北アルプスへの山行であった。当時は、山小屋に宿泊の葉書を送り、当日は五合ほどのお米を携行していた。燕岳から蝶ヶ岳へ縦走してきて、ヒュッテの少し手前から槍・穂高連峰が夕日を浴びて輝いているのをみて陶然としたことがある。また立山から剣岳への縦走も忘れることができない思い出である。しかし、その山行記を文章で残そうとしたことは思いつかなかった。今度、田部重治の『山と渓谷』を読んだときには、こんな美しい紀行文が書けるのか、まるで詩人か哲学者のように思えてきた。

     


もう今は、このような高山に登ることは叶わない。当時の仲間も、もう山歩きはできない。そこで、ふと頭をよぎったのは徳本峠へヘリコプターをチャーターして行き、そこから懐かしい槍ヶ岳や穂高連峰をみることは出来ないものであろうかと。なにせ、私たち悪童なかまで、屋久島へ行った時、台風に見舞われ、船も運行を停止、そんな時近くの鬼界ヶ島からチャーター機を呼び寄せ鹿児島まで戻ったことがあったから。お金もないのに!

 (写真 徳本峠から見た北アルプス)

今では上高地に入るのにバスやタクシーで島々から入り、トンネルを抜けるとすぐである。しかし、昔は島々宿から徳本峠(標高2135メートル)を越えて入らなければならなかった。その労苦の末に峠の頂きに達したときには、槍・穂高連峰の眺めがその姿を現し、圧倒的な感動をもって迫ってきた。

 田部さんには、『旅への憧れ』や『忘れ得ぬ山々』など数多くの著書があるので、それらを眺めて過ごすのも悪くないと思う昨今である。



(3)『京都の一級品~東山遍歴』(竹山道雄 新潮社 1965年6月)

 学生時代から続いている京都通いであるが、1960年代といえば、まだ京都に関するガイドブックもあまりなく、インターネット情報もない。そのころ京都へ行く時に手がかりにしたのが、まず随筆家岡部伊都子の本であった。当時、芸新潮誌に彼女の京都や奈良案内がでていた。ちなみに1963年には『古都ひとり』と題する単行本がでた。どこのお寺へ行ったら、どんな仏さまがみられるというような案内ではない。その寺にまつわる話や。たとえば嵯峨にある清凉寺は釈迦堂のそばの豆腐をつくっているお店から豆腐にまつわる話までがあれこれ書かれている。しばらくして1965年の半ば頃、掲題の竹山道雄の本が出された。東山遍歴と副題にあるように、東福寺/三十三間堂/智積院/清水寺/
高台寺/南禅寺/御所・修学院などなどが紹介されている。いわゆる京都案内と称するガイドブックのようなものではなく、それぞれのお寺の背景・歴史から文学論や芸術論のようなものが展開されていて、とても味わいが深い。50年以上前の本ではあるが、今読み返してみても、その魅力や価値は失われていない。

その中で、永観堂についての一文がある。あの有名な「見返り阿弥陀如来」についての一文である。

     

 ”本堂は広く、丸い柱がならんでいる。高い厨子に、案内者が念仏を唱えながらあかりをつけると、厨子の横から、中に金色の阿弥陀が光を浴びて立っているのが見える。首を横にむけている変わった姿である。全体が簡素で素朴だが、胸をうつものがある。この寺を中興した永観律師が、栄保二年(1082)二月十五日の夜半に、念仏を唱えながら行道(ぎょうどう 仏を念じて経文を称えたりしながら右回りに回ること)していると、この本尊が台座から下りて、ともに行道した。永観が恐れためらっていると、左手の二本目の柱のところで、阿弥陀がふりかえって「永観おそいぞ」といわれた。その姿を現したものであるーという説明であった。

この説明は少し腑に落ちなかった。この仏の姿はふりかえって人を呼んでいるものではなく、むしろ足下の後を見ている姿に思われる。生きとし生けるものを救おうと願っている仏だから、ふとよるべのない小さな生命が路傍にあるのを見て、それを気にかけて振り返った。いかなる小さなものにも慈悲の心を配っている姿である、と解したほうがより自然に思われる。挙げている右手も、「おや」という表情をつよめている。

この阿弥陀は平等院のそれのように崇高な姿で瞑想にふけっているのではなく、むしろよほど人間に近い。まだ菩薩になるまえの法蔵比丘ででもあるようだ。そのふとした瞬間の動作のうちに、「もし自分が仏となったとき、十方世界の無数の衆生がわが光明を蒙って救われるのでなければ私は仏とはなるまい」という誓いの気持ちがあらわれた、と解したく思った。ただし、これは私の主観的な解釈に過ぎない。

 仏は、ゴッドのように自分の命に従う者のみを救って、自分に従わない者には凄まじい呪いを浴びせて、ゲヘナ(地獄?)の火で焼くというのではない。あのような創造者と非創造者の分裂と契約、汝と我の対立、そ仲介者としてのキリストといったようなことは、われわれにはどうも考えにくい。・・・創造その他の奇跡を行うのではなくて、ただつねに一切の生あるものを救おうとして心を砕いている慈悲の主体があるという方が分かりやすい。この「見返り阿弥陀」はそういう人間の念願を、じつに機微なところであらわしていると思う。”


     
(『京都の一級品』に掲載された画像)



 永観堂の説明は、伝説である。誰が、その伝説となる伝えを現したのか、定かではない。この像を作った仏師なのか。単に、「永観、遅し」と阿弥陀さまが言われたと云うだけでは、心にすんなりと落ちてはこない。ここは、やはり衆生にあたたかい眼差しを注ぐ、思いやりの姿勢をあらわしていると見るのが、妥当ではないか。だとすれば、ここで竹山道雄が云うような解釈が心に染み入ってくる。

そういえば竹山道雄は『ビルマの竪琴』の作家であった。”ビルマの戦線で英軍の捕虜になった日本軍の兵隊たちにもやがて帰る日がきた。が、ただひとり帰らぬ兵士があった。なぜか彼は、ただ無言のうちに思い出の竪琴をとりあげ、戦友たちがが合唱している“はにゅうの宿”の伴奏をはげしくかき鳴らすのであった。戦場を流れる兵隊たちの歌声に、国境を越えた人類愛への願いを込めた本書は、戦後の荒廃した人々の心の糧となった。”、とこの小説は言われている。

そんな人間愛ともいうべき思いを抱いた竹山道雄の見方には、肯けるものがある。

ちなみに実際、永観堂へ行ってみると、この見返り阿弥陀像は、本堂からどんどん右手の方に上がっていった最後のお堂に安置されている。しかし、お厨子は高いところの奥の方にあり、また小さいのでいくら目を凝らしても定かには見えない。奈良の唐招提寺にある鑑真和上坐像のように、もう一体複製の、できれば少し大きめの像を作って誰でもが眺め、拝めることができるようにしてほしい。必要ならクラウドファンディングで募金を募り、像の背後に篤志家の名前をきざんではどうか。できれば、英文の説明も添えて。



(4)『最高の遊び方』(成毛眞 宝島社 2019年8月)

 マイクロソフトというIT企業がある。ウィンドウズを開発したことで知られる。最近ではクラウドサービス(Azure)で再び成長軌道に乗っている。ここの日本法人の二代目社長をつとめた成毛眞(なるけ まこと)は頭が柔らかく、また歯に衣着せぬものいいで、今でも自分の思いを発信し続けている。現在は、書評サイトHONZ1の代表。ほかにも様々なベンチャー企業の取締役をつとめている。

 たまたま、この人とはFacebook を通じて知りあったが、とにかく発想がユニークである。その彼が、この八月に「人生は遊び」と題して趣味の先にあるクリエイティヴな遊びを楽しもうと提案した本を出した。

そこに書かれている”遊び”なるものよりも、むしろ彼の生き方や考えかたにに興味を抱いたので、ここにご紹介する。


 ”この頃は仕事(ソフトウエアの営業)が面白くて仕事が遊びのようだった。あまりにも面白いから24時間働いているよう状況で、周囲からはものすごく頑張っているように見えたかもしれない。

それでも時間が取れるとスキューバダイビングや乗馬など、学生時代にやってみたかったことに挑戦した。また、どんなに忙しくても、毎年夏休みは2週間取り、家族と過ごした。子育ては面白く、仕事で犠牲にするのはもったいないと思っていた。娘には寂しい思いをさせていたので、夏休みは娘のリクエストに全力で応えた。動物園に行きたいと言われれば、ケニアの国立公園に連れていった。バッファロー、ゾウ、ライオン、ヒョウ、サイは一生分見たことだろう。山登りをしたいと言われれば、エベレストのベースキャンプへ行った。ヘリコプターで降り立ったので、今考えると山登りはしていないのだが、彼女は気にしていないだろう。乗馬をしたいと言われれば、ネパールの密林へ行った。馬には日本でも乗れる、ゾウに乗ったほうが喜ぶと思ったからだ。”


 うーん! これには、まいったなあと言わざるを得ない。私は、いわゆるサラリーマン人間だったので、そんな長い休暇をとったことがない。可愛い子供ができて、二人をつれて1~2泊の国内の旅をしたことはあったが、成毛さんのような海外へでも、というような発想はなかった。もちろん、お金もなかった。この成毛さんのエピソードを知って、子どもたちにはもっと色んな遊びの体験をさせてやりたかった。そうする事によって、彼らは新しい興味を覚えたり、やりたいことを見つける機会があったかもしれない。こういう、型にはめない考え方は、いいなあと思う。

もう一つ、

 ”仕事ばかりで、子育ての時間が取れないのは、もったいないと言った。娘のためにと思ってやったのだが、娘以上に自分が楽しんでしまった自宅遊びを紹介しよう。娘が小学3年生くらいの時に外国人と交流をさせようと思った。当時はマイクロソフトに勤務していたから、同僚がアメリカ人ばかりだったこともある。海外へのハードルを下げたかったのだ。

20年前だからウエブ検索もままならない頃だ。あすか財団というのを電話帳かなにかで探しだした。主にアジアからの留学生のお世話をしていた団体だった。留学生たちを自宅の夕飯に招待するという、たったそれだけのことを提案したら、数カ月後のある日、5人の男女留学生が現れた。メニューはアジのフライやコロッケなど、いわゆる日本の家庭料理を家内が作ってくれた。要するに日本の普通の家庭を味わって欲しかっただけだから、テレビもつけっぱなしだ。留学生たちは「日本に来て2年にもなるのに、日本の家庭にお邪魔するのは初めてだ」とものすごく感激してくれ、それぞれのお国料理を一皿持参した上で、さらに食後には民族衣装に着替えてくれた。アオザイもチョゴリもきれいだった。
それにかかったコストは恐らく1万円くらいだろうか。工夫次第で子供に国際体験をさせるなんてカンタンだ。今でも絶対に有効だと思うし、しょぼい海外旅行よりよっぽどいい。”


 この本の最後に、六角精児との対談がおさめられている。テレビドラマ「相棒」で20年近くにわたり鑑識の仕事をしている人気キャラクターである。あのひょうひょうとした語り口が好きだ。その彼に、NHKのBSプレミアムで「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」という番組があり、自分の好きな鉄道とお酒をあわせたものである。年に4回しか放映されないが、2015年から続いている。過去のものは、オンデマンドで見られる。楽しい番組だ。

その彼が、”自分の場合、すごい俳優だとも思っていないですしね。だからちょっとずついろんなところに足を突っ込んで、その中で楽しい思いができればいいかなと思っているんです。僕は今57歳ですからそうやって12~13年は体が動く限り、わりと好きなことができればそれでいいんじゃないかと思っています。”、と言っている。

それに対して、成毛も、”それこそ好きなことができる体でいられるのが、70歳くらいまでだとしたら、あと13年(今 57歳)、割と長い”、といっている。

 ふたりとも70歳くらいまでが実人生だと思う、と言っている。そうなんだ。じゃあ、今や八十路に達した、ぼくたちはどうすべきなのだろうか。まだ、遊ぶか、いやおとなしく余生を楽しむことにするか。 That is the question !


     ~~~~~おしまい~~~~~

余滴)

 成毛眞が本の中で言っている”遊び”の一例として、こんな例を紹介していた。
リタイア後に陶芸を始めた知人がいる。元々は彼の奥さんが、例のNHKの文化センターで陶芸をやっていたのだが、彼も一緒にやるようになった。熱心に続けているなと思っていたら、ある時ルーブル美術館で個展を開いた。「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」など誰もが知る美術品を収蔵するルーブルだが、実は貸館スペースがある。そんなことを知らない人に対し、「ルーブル美術館で個展を開いた「アーティスト」の作品となれば箔がつく。彼はルーブルでの個展のあと、制作を続け、生徒を集めて教室も開いていたらしい。贔屓目なし彼の作品は素晴らしい。自分をどうプロデュースするかは、アーティストにとって最重要事項だ。
 



 
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