(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『知の休日~退屈な時間をどう遊ぶか』(五木寛之)

2014-06-22 | 読書
読書 『知の休日』(五木寛之 集英社新書 1992年12月)

 五木寛之という作家の本は、今まで読んでこなかった。吉川英治賞をとった『青春の門』も『朱鷺の墓』・・・も。この本も、読み流して捨ててしまった。ところが最近になって今一度目を通してみると共感するところがいくつかあり、メモしておこうという気になった・・・。 念のため言っておくが、この本自体はたいした本ではない。しかし、どんな人間でもいいところがあるように、この本の中にもきらり光るものが二三点ある。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「読書をしても人は美しくならない」という一節がある。

 ”私は本を読むのが好きだが、人はなにも本など読まなくても生きていけるし、人間らしい生き方もできると思っている。本を読むというのは、やはりその人の趣味、たのしみ、という風に考えたい。本を読むことで人格が向上したり、知性が顔に漂ったり「する、などとは考えないほうがいいだろう。”

 ~同感である。本を読んだからといって、行動力や意思決定力がつくわけではない、また音楽や絵画など芸術作品に感動する力がつくわけでもない。第二次大戦中のことである。日本海軍の駆逐艦が、アメリカ軍の艦船と激しい戦闘を繰り広げていた。苦戦しており、沈没の危機にも瀕していた。その時、艦長は慌てず騒がず、船内の居室で本を開いて読書を続けていた。自己修養に努めていたわけである。甲板に出て行って、戦闘員を激励するわけでもなく、また的確な指示命令をくだして戦闘に参加するわけでもなく・・・。笑い話に近いが、実話である。読書は、やはり五木がいうように、楽しみでよむものである。それにより、古今東西の人と対話もできるのであるから。ましてや、本を読んで美人になるわけではなかろう。

 「本は精神の道具である」という一節では、こうも言っている。

 ”本を読むのはいい。読むのはいいが、その本をわざわざ保存しておく必要はない。最近、そう思うようになった。十冊の本を読んで、いやでも頭に残る一行があれば、それで充分なのだ・・・!
 
 ”本そのものが好きなら、読まなくてもいい。それを枕元において、その質感や装幀や、何ともいえぬ本の香りを楽しむというのも悪くない趣味である。それにしても私たちは、あまりにも多くの本に囲まれすぎて生きてはいないか。本を読む前に捨てる。捨てる前に選ぶ。それは知的な胸躍る冒険である。三冊の本を選んでみることお、一つの遊びとして、休日の午後、ひとりで楽しんでみるのはどうだろう。!「

 ~このこの究極の三冊を選ぶということは、結構大変なことである。私自身が思いつくままに選んでみると、芳賀徹さんの『詩歌の森へ』、辻邦生の『西行花伝』、それに、うーん! 困ったなあ。繰り返し手に取る、という意味で、中村宗一の現代語訳のついた『正法眼蔵』(全四巻)というとこであろうか? みなさんは、如何でしょう?


 (アートと遊ぶ)という章では、絵画鑑賞について、”なるほど”と思うことをつぶやく。

 ”(ルーブルという広大な美術館のことに触れてからあ・・) いわゆる名画というやつは、立て続けに何点も見れば見るだけ感銘が薄くなっていく。本当は一点でいいのだ。<一期一画>というのは私の勝手な造語である。むかし、福岡で<一点だけの展覧会>という催しがあった。こじんまりしたホールの正面の壁に、名画を一点だけかけてその前にベンチや椅子を並べておく。人々は、その椅子に座って、眺めては考え、考えては眺め、気をとりなおしてはまた眺める。三十分あまりもそんなふうにして、一点の絵だけを眺めていると、絵画の良さというものがしみじみこちらにも伝わってくるような気がした。こういう展覧会も悪くない。

 人間が絵を鑑賞するさいに、発揮できるエネルギーの量というものは一定である。十点の名画を見れば、それぞれの作品に対する感動が十分の一になってしまう。まして五十点、百点と眺めてしまえば、ただ見た、というだけに終ってしまいかねない”

 
 ~その通り、と頷くのだ。そして、その一点の絵を選びだすアプローチについて、五木は次にように語っている。

 ”人気のない画廊や美術館の中で一日を過ごすというのは、なかなかいい休日の使い方というべきだろう。ニューヨークの近代美術館は、カフェやレストランがとても気分がいい。街なかにあって足の便もよく、庭にも風情がある。おおむね美術館のなかの食堂は、安くて実質的だ。大きなバッグを抱えた若い画学生たちが、三々五々、陽気なおしゃべりをしているのを横目で見ながら珈琲を呑み、アップルパイをかじる。そしてまた気をとりなおして絵を見にゆく。
 外国の美術館で絵を見るなら、すくなくとも一日たっぷりかけたほうがいい。そして自分の心に触れた一点を探し出し、その一点と徹底的につきあう。どういうふうにしてその一点を探すのか、というのが実は問題だ。

          

 ~そう言って五木寛之は、自分が国際的な美術品泥棒になったつもりで、絵をみることがある・・・とか、あるいはその美術館のオーナーが画家自身で、自分の無二の親友と想像し、「せっかく来てくれたのだから、記念にこの中で一点をあげよう、どれでも欲しいものを指さしたまえ、と言われたという仮定で絵を選び出す、というようなことを言っている。

 ~これはには共感を覚える。今年の早春、京都郊外にある大山崎山荘美術館で「光と灯り展」(クロード・モネほか)を見た時は、じっくり半日かけて鑑賞し、その一点を心にきめたことがあった。また昨年12月に福岡県立美術館で弧高の画家、高島野十郎の作品を鑑賞したが、それは名作「蝋燭」の絵を見るだけのために足を運んだのであった。やはり、絵を鑑賞する時は、1~2点に集中するのが、”いい”と思う。

     



 (活字は声に出して読んでみる)という一節では、詩の朗読などの大切さに触れる。このところが、この本の中で最も印象に残ったところであるので、すこし丁寧に説明させていただく。

 ”私は大学では、ほとんど授業に出なかったが、ブブノワ先生というもと白系ロシアの亡命貴族という噂のある先生から、ロシア語の授業を受けたことだけは今でも忘れることができない。

 ブブノワ先生は徹底的に口うつしで、詩の数々を私達に暗記させた。農村の古い民謡とか、子供の歌とかあるいはプーシキンやレールモントフの詩などいろいろだった。・・私達は必死で覚えたものだった。指名されると立ち上がって、たどたどしく暗記した詩を朗誦する。”

 
 ”一度、サンクト・ペテルブルグで、ある家庭を訪問中、アンナ・アフマートワの葬儀の場面を、テレビで記録として放映するのを見たことがあった。その映像にかぶって、アフマートワの詩が流れだすと家族たちはいっせいに「オオ、アニョータ!」と叫ぶ、全員でそのアナウンサーの声に唱和して、アフマートワの詩を朗誦したものだった。

 私たちは文章を目でよむことを頭から疑わずに、その習慣の中で暮らしているが、時には声にだして文章を読んでみることで意外な感興をおぼえることがあるものだ。”

 ”詩でも、和歌でも、そうである。『源氏物語』や『徒然草』も声に出して読むほうが、はるかに趣がありはしないか。中国の古典もそうである。日本式の読み下し文であっても、何かしら伝わってくるものがある。漱石や鴎外の作品などは、声を出して読むに限る。そうすると、これまで感じられなかったことが体で感じられて、思いがけない部分に感動したりするものだ。”

 ”休日の一日、大声でいろんな文章を読んでみる。声に出して読むことは、人前では気恥ずかしいが、ひとりなら平気だ。声に出して読むことで、見えてくるものがある。思いがけず伝わってくるものもある。最近では、わが国でも詩人の朗読や歌の朗読の会などが、かなり活発に催されるようになった。それは素晴らしいことだ。しかし、これまで長く声に出して読むことをやめていたために、私たちが書く作品自体が声に出された時の美しさというものを持ちえな場合も、しばしばある。声に出して読まれる文章は、書くときにも声をだして書かれる必要があるかもしれない。
 ~たしかに、万葉集でもそうだ。また法華経や道元の正法眼蔵は声に出したよむべきだ。紀野一義も、はっきりそう言い切っておられた。蓮如の「ご文章」もそうであろう。

 ”詩は読むべからず。うたうべし”

 ロシアの19世紀の歌、ロマンスを集めた詩集の扉にある言葉である。

 最後に、五木はこんなエピソードを紹介している。

 ”何年か前に、イスタンブールでヒクメットの詩を有名な俳優が朗読する場面に出くわした。ヒクメットはトルコの国民的詩人といっていい反体制派の詩人だが、彼が異国にあってイスタンブールを懐かしむ詩を、その俳優が深い感情のこもった声で朗読すると、会場の聴衆のあいだからはすすり泣きの声が洩れ、みんなが目頭を抑えて肩をふるわせるのだった。トルコ人が涙もろい、というのは有名な話だが、それだけではあるまい。私たちは批評の詩、思想としての詩に慣れ親しんできたが、肉体的な共感や感情を鼓舞する肉声の詩を作り出す必要がありそうだ。そのためにも、声に出して読むことをもう一度とり戻してみたいと思う。”


         


 ~いい話を聞きました。できれば灯りも照度を絞り、たまには蝋燭の灯りの下で詩を朗読するのを聴いてみたい。








 
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読書 『知の休日』(五木寛之)

2014-06-15 | 読書
五木寛之という作家の本は、今まで読んでこなかった。吉川英治賞をとった『青春の門』も『朱鷺の墓』・・・も。この本も、読み流して捨ててしまった。ところが最近になって今一度目を通してみると共感するところがいくつかあり、メモしておこうという気になった・・・





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エッセイ 薔薇と月の日々(続き)

2014-06-06 | 日記・エッセイ
エッセイ 薔薇と月の日々(続き)
          (写真は、蝋燭の絵で知られた弧高の画家、高島野十郎の作品「月」です。

(月の日)やがて秋が来る。二人だけで、静かに中秋の名月を愛でる「月の日」である。今度の舞台は、岐阜県赤坂町に住むもう一人の女性の住まいである。江戸から数えて57番目の赤坂宿と呼ばれた中山道の町である。文久元年(1861年)公武合体の一環として皇女和宮(明治天皇は甥にあたる)が将軍家茂のもとへ降嫁。7800名の大行列は11月中山道を通り、赤坂宿で一泊している。今も、それを記念した行列が町を華やかに練り歩き、さながら時代絵巻である。しかしいつもは静かな、それでいて街道筋の魅力の残った町である。

          


「月の日」の時期は、おおむね9月中秋のころ、今年は9月9日であるが、多事多忙な二人の都合がつかない。それで晩秋10月の居待ち月、十八日のすこし月の出が遅くなるころになった。無月の夜もいい。雨月でさえも、いい。また雲遮月であってさえも。しかし望むらくは、月が煌々と輝やく夜がいい。江戸時代の連歌師、谷宗牧の『四道九品』にこういう名文がある。

 ”秋立つ日より涼しくおぼえ、・・・やうやく秋風涼しく吹きて、たえだえに虫の音添ひ、野辺の萩薄露に乱れ、遠山の鹿の音も夜な夜な枕近くなりゆくころ、月の光身にしみわたりおぼゆるを、初の後といふなり”

 そういえば鎌倉時代の僧明恵上人の歌を思い出す。

 ”あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月”

 まだ冷たい夜風の吹く季節ではない。二人縁側に並んで座り、用意した手料理を楽しむのである。栗おこわ、松茸のおすまし汁、黄菊の梅肉あえ。秋鮭(あきあじ)の味噌漬け、秋ナスの漬物などが膳に並ぶ。あまり酒を嗜むことのない二人ではあるが、今宵は少々。ワインクーラーに冷やしたシャンパンの栓を抜き、金色に輝くブーヴ・クリコをグラスに注いで乾杯をする。さわやかな泡が口中ではじけ、フルーティな液体が喉を落ちてゆく。これまで乗り越えてきたことを思い起こし、乾杯!

          

 唐の詩人、于武陵に「勧酒」と題する有名な詩がある。これに井伏鱒二は、絶妙な日本語訳をつけた。

 ”君に勧む金屈卮(きんくつし)
  満酌 辞するをもちいざれ
  花発ひらいて風雨多し
  人生別離足る

  コノサカヅキヲ受ケテクレ
  ドウゾナミナミツガシテオクレ
  ハナニアラシノタトヘモアルゾ
  サヨナラダケガ人生ダ

人生に別れはつきもの。常にそこある。何時、そうなるか分からない。だからこそ今のこの時を大事にしよう。 映画「今を生きる」を思い出す。ホラティウスの詩”カーペディエム”である。 おそらく、今夜二人は、そんな気持ちも持ちつつ月を眺めたのでなないか。

時に月光、あくまで透明に光り輝き、静かな時が流れていった。二人とも口は開かない。開かなくても思いは友に通ずる。今宵の月光の美しさは、たとえようもなく、胸中に湧き上がる詩(うた)を書き留めることすら忘れてしまう。灯りを消し、ただひたすら月を愛でるのである。

 ”燭を消しただ曳白の居待ち月”

そこに低く、静かに流れるのは名機タンノイから流れる楽の音。ウイーンの詩人マテウス・フォン・コリンの詩にシューベルトが作曲した歌曲「夜と夢」が、ふさわしい。

 ”Heil'ge Nacht, du sinkest nieder;
Nieder wallen auch die Traume
Wie dein Mondlicht durch die Raume,
Durch der Menschen stille Brust.
Die belauschen sie mit Lust;
Rufen, wenn der Tag erwacht:
Kehre wieder, heil'ge Nacht!
Holde Traume, kehret wieder! ”

 神聖な夜よ、おまえは沈み下りてくる、
 すると夢もまた静かに歩み下りてくるのだ、
 おまえの月の光が空中に差し込むように、
 人々の静かな胸の中へと・・・・


 
 よき友がいて、共に月を愛でる。これこそ、ささやかではあるが最高の”贅沢”と言わずしてなんと言えよう。











 
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