(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

詩歌 私の愛誦歌

2019-03-14 | 詩歌・俳句
詩歌 私の愛誦歌

 本棚にならんでいる歌集は、圧倒的に俳句の本が多い。しかし、それは俳句を詠むために参考とするもので、楽しむという観点からは短歌のほうが私の書棚では重要な位置を占めている。歌集といっても色々ある。和歌にも好きなものがある。たとえば、建礼門院右京大夫の歌

 ”ながむれば心もつきて星あひの空にみちぬる我がおもひかな” 

や、また光厳院の、

 ”ともし火に我もむかはず燈火もわれにむかはず己がまにまに

古くは清少納言と藤原公任の、

 ”空寒み花にまがへてちる雪に すこし春ある心ちこそすれ”

などは時に及んで口ずさむことがある。これらの歌は、古い和歌のように形式にとらわれず、自由に己の心情を吐露しているからである。

 そして近代短歌になると佐々木信綱のリズム感に富んだ、

 ”ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲”

や会津八一の歌など好きな歌が目白押しとなる。


 今回は私の好きな歌人の一人である高野公彦が選んだ歌を集めたアンソロジーの中から、私自身がとくに気に入った歌をいくつかご紹介することにしたい。高野公彦は、ほぼ同年代の昭和16年、愛媛県生まれ。コスモス短歌会で宮柊二(しゅうじ)に師事していた。彼の歌集の中で、『天平の水煙』というのがあって、そこでは”日本の懐かしい言葉を意識しながら歌を詠んだ”という。たとえば、

 ”命日にあらねど歌人小野茂樹のソフトさ言ひて噂供養す”
                注)噂供養・・・故人の噂をして供養すること。

 ”上階の人の足音やみしのち日の辻休み我は楽しむ”
                注)日の辻休み・・・日の辻は、真昼のこと。休みが、つくと午睡(昼寝)になる。

というのがある。現代的でありながら、いわゆる現代美術のようなとっつきにくいところがない。その彼が『わが秀歌鑑賞』と題して数多くの歌集から、気に入った歌を選びぬいた。高野は、それらの歌の読み方(鑑賞のしかた)について、次のように云っている。


 ”一人の歌人の作品を読む時、歌集が何冊もあり、歌数が何千首もあって、すべてを通読するのが困難なケースがある。すると、誰かが選んだ秀歌選というものを読んで済ませることが多い。とりあえずはそれでいいのであるが、しかし秀歌一首を深く理解するには、元の歌集の中に戻して読み直すことが大切である。歌集の中に戻してそれらの歌を読むと、いろいろなことがわかってくる。”

秀歌鑑賞にあたっての、このような真摯な姿勢にも心を打たれ、高野の秀歌選を手にするのである。


 では、そのいくつかを拾い上げてみよう。


 ”筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我を愛できと” (与謝野晶子 最終歌集「白桜集」より)
                                『白桜集』より)
  ~昭和10年3月、与謝野鉄幹が亡くなった。その没後三十五日(五七日)に鉄幹の友人である漢学者吉田学軒が、追悼の漢詩を作り、晶子に送った。七言律詩で56個の漢字から成る。晶子はこれらの漢字を一字ずつ歌に詠みこんで56首の弔歌を詠んだ。それくらい晶子は鉄幹を愛していた。故人の愛したものを棺にいれるなら、彼の愛した私自身も棺に入れてほしい、と。歌手ちあきなおみは、夫がなくなって棺を焼く時に、”私も焼いて!”と絶叫したという。高野公彦は、晶子は「みだれ髪」だけでなく、この「白桜集」によっても高く評価さるべき歌人であろうと、云っている。




  ”しら珠の珠数屋町とはいづかたぞ中京(なかぎょう)こえて人に問はまし”(山川登美子)

  ~山川登美子は、晶子と与謝野鉄幹を争ってやぶれた薄命の歌人。”美しい数珠を売る店の並ぶ数珠屋町とはいったいどこなのか、中京を越えて人に尋ねてみましょう、と空想の中で京都の町をさまよっているのである。病を得て静養中の彼女が町を歩くのは無理なので、あくまで想念のなかでのこと。この歌については、以前このブログで「京都うた紀行~近現代の歌枕を訪ねて」と題して取り上げたことがある。その中で河野裕子は、次のよう描写している。

「しら珠」とは真珠のことであるが、この歌ではむしろ枕詞のように不思議な美しさと調べのよさとして働いていて、絶妙なことば選びだと思う。「数珠屋町」、「中京」といういかにも京都らしいしっとりととした音感が醸し出すこの風情・・・。そして次の歌を付け加えている。

  ”珠数屋町じゅずやまちとぞ声に出し登美子の後につきゆくここち”(河野裕子)




”電車にて酒店加六に行きしかどそれより後は泥のごとしも” (佐藤佐太郎)

  ~佐藤佐太郎は好きな歌人の一人であるが、あの端正な歌を詠む人がこんな歌を読むのだから、人間分からぬものだ。高野公彦の解説文に行く前に、一言。

  この歌を日常の散文にしてみると、「昨日の晩は電車に乗って加六という飲み屋に行ってきましてん。そしたらなあ、へべれけになってしもてん。その後のことは、なーんも分からしまへん」・・・これが韻文になると、高野が秀歌として鑑賞することになる。韻文の力は大したものだと思う。

  高野の解説するところによれば、「佐太郎は、漢語をたくみに使いこなす歌人だった。「酒店加六」にはきびきびしたよい響きがある。加六はよく知られた飲み屋らしく、獅子文六の『私の食べ歩き』の中に、「東京に酒のみが好んで出かける店は銀座の加六であった」と書かれている。この頃佐太郎は神田神保町の岩波書店に勤め、九段下のアパートに住んでいた」。当時は地下鉄もなく、市電に乗っていっている。行きは電車に乗ったのに帰りは泥酔状態なのである。なんということもない歌なのであるが、なんとなく面白い。


 ”幼きは幼きどちのものがたり葡萄のかげに月かたぶきぬ。(佐々木信綱)

 説明は要しないであろう。高野いわく、「周りにいるはずの大人たちを消して幼子たちを中心におき、背景に葡萄畑と月を配した、楽しい童話風な歌である。涼しい夜風に出会ったような、さわやかな読後感がある。」

 佐々木信綱は、天衣無縫という口に出せば、そのまま思いが歌となる、という感がある 。この人の孫が佐々木幸綱であるが、彼も歌のアンソロジー『うた歳彩』の中で祖父の 歌をいくつかとりあげている。

  ”春ここに生るる朝に日をうけて山河草木みな光あり”



 ”天心の眞澄に月のかくるとき四方におびただしき星輝りはじむ” (上田三四二)
                  注)”かくる”は、月が月食で欠けることを指す。漢字が出て来ないので平仮名にした。

 上田三四二も、私の好きな歌人である。内科医として病院に勤務のかたわら,短歌,文芸評論,小説などを発表。癌(がん)とのながい闘いのなかで命をみつめ,澄んだ境地の作品を生んだ。その著作の一つ、『私の人生手帖」は、私の愛読書である。 
                                
 高野の解説。「真夜中頃、満月は天心にさしかかる。その月面に地球の影が現れ、徐々に月を冒してゆく。すると、次第に月の明るさが減少し、天地が暗くなってゆく。代わりに全天の星々が光を増し、まだ見えなかった星も輝き始める。そういう神秘的な天の光景の変化を簡潔に描き出した作品である」 そのように言われれば、そうだが、実際その光景を目の当たりにすると、人は感動で打ち震えるような思いがするであろう。本当に巧みな表現だと思う。ついでにもう一つ、私の好きな上田三四二の歌を。

  ”死はそこに抗いがたく立つゆえに生きている一日(ひとひ)一日はいずみ”

 「いずみ」と言うところがいい。こんこんと湧きい出てくる命のエネルギーを感じさせる。



 ”ただ中は、蓮華にかふる 牡丹の座 仏しれりや 晶子曼陀羅” (森 鴎外)

 これは説明がないとちょっ理解できないであろう。そもそも森鴎外は小説家で有名だが、同時に詩歌の愛好家であり優れた詩歌の作者でもあった。

 高野の解説するところによれば、「この一首、歌人与謝野晶子を讃えた歌である。曼荼羅は、ここでは胎蔵界曼荼羅を指す。仏教の悟りの世界を図像化したものといわれる胎蔵界曼荼羅図は、中心に大きな蓮華があり、蓮華の中央に大日如来が座し、その周りにある蓮華の八つの花弁にはそれぞれ四仏、四菩薩が座している。つまり、鴎外は、晶子曼陀羅の中心には牡丹の花がひらき、その上に晶子が座している・・・と絢爛たる晶子短歌の美しさを褒めたたえたのである。晶子の『みだれ髪』『舞姫」などの奔放華麗な短歌を思い浮かべての感想である・・・」仏さまが知っているのであろうか、とは鴎外もユーモラスなところがある。



 ”もう十分にあなたのことを思ったから今日のわたしは曼珠沙華” (宮英子)

 宮英子は、宮柊二の夫人である。柊二が74歳で没したあと98歳までいきている。女性は強い!二人は相思相愛であったが、英子は夫が没したあと、この歌のように奔放に生きたのではないか。 高野の解説、「たっぷり夫を思ったあと、なぜ曼珠沙華が出てくるのであろうか? この歌を詠むすぐ前に、英子は上越線で柊二の故郷越後をを訪ねて墓まいりを済ませ、そのあと茱萸を食べたというような歌がある。だからこの歌も季節は秋、場所は越後という推測がなりたつ。すると曼珠沙華は、越後平野のそこここに咲いていた花と考えてもいい。墓前で長く夫を思い。気分が晴れたので、あとは野に咲く曼珠沙華の群れに紛れ込んでしまいましょう~そんな軽妙洒脱な歌ではないか、と想像する。」
そして言う、「曼珠沙華は華麗な花であると同時に、有毒植物である。そのせいか、私はこの歌から何となく悪女っぽい色気が漂いでているような気がする。」

ちなみに、この曼珠沙華の花言葉は「情熱」「独立」「再会」・・・、
「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」、ということを意味するらしい。



 ”わが家の持統天皇 旅を終え帰りてみればすでに寝(い)ねたり” (小高賢)

 持統天皇というのは、女帝である。天智天皇の子である。夫に従って吉野に入り、その後、壬申の乱で夫の大海人皇子が勝利し、天武(大海人皇子)の没後は自ら天下を治めた。強くてたくましい女帝というイメージがある。それにしても古代の皇位継承には生臭い事件がつきまとっている。高野の解説するところによれば、「作者は妻を恐れているのではないか、という疑問もあるが、必ずしもそうではない。実際、夫人の鷲尾三枝子さんは優しい奥様である・・・」、と。「作者は吉野を訪ねて大海人皇子の苦難の道を辿り、その旅から帰ると、もう我が家にお持統天皇は寝ていた、と拍子抜けした気持ちを詠んだのであろう。ユーモラスな味わいがる」

 私も、”わが家の官房長官とか、大蔵大臣とか云って奉るときがある。そのほう無難である。(笑)

余談であるが、小高賢は講談社の編集長であり、評論家でもありまた歌人である。この人は、その相貌や語り口からして好漢である。たまたま、手にとった『句会で遊ぼう』という本のことを以前にこのブログで紹介したことがあるが、発酵学の大家である小泉武夫先生を囲んで下手な俳句の会、醸句会を立ち上げた。まことに残念ながら、2014年2月、69才で早世された。日を改めて、彼の短歌論や自作の短歌などを紹介してみたいと思っている。



 ”退屈の亀を背負て亀眠る ころころせんだりまとうぎそわか” (永田和宏)

おんころころ・・・というのは薬師如来の真言である。”おん”は省略されている。詠み手の永田和宏は歌人にして、京都大学名誉教授。細胞生物学者である。こんな歌を詠んで、遊んでいる人とは思わなかった。私も、俳句で時たま、真言をいれることがある。要は、お遊びである。地蔵菩薩の真言は、「おんかか かびさん まえいそわか」
高野、評していわく「何時間でもじっとして動かない亀が、無言でコロコロセンダギソワカ・・・と唱えている図は、まことにのんびりしてユーモラスな感じ。、亀と真言を組み合わせたのが作者の手腕であろう」 それに、なぜか奈良などのお寺に行くと、池で亀が日向ぼこをしている。中宮寺の如意輪観音像をまつっている本堂の前の池に亀が遊んでいる。お寺と亀という構図は、なぜか合うような気がする。




 ”置賜は国のまほろば菜種咲き若葉茂りて雪山も見ゆ” (結城哀草果)

 山形県の南部・米沢市の一帯は昔、「置賜」(おきたま、あるいはおいたま))と呼ばれた。この歌を読むと、明治16年6月から9月にかけて東京から北海道まで単身旅行を試みた英国人女性のイザベラ・バードのことが思いだされる。彼女が記した旅行記録『日本奥地紀行』には、この置賜盆地のことを地上の楽園(アルカディア)のごとくとして、その美しさを激賞している。

  ”数多くの石畳を登ったり降りたりして高い宇津峠を越えたが、これが交通をふさいでいる一大山系の数多くの峠の最後のものであった。日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて、嬉しかった。米沢平野(置賜盆地)は、長さ30マイル、10ないし18マイルの幅があり、日本の花園の一つである。木立も多く、灌漑がよくなされ、豊かな町や村が多い。・・・”(詳しくは、以前のエッセイ「米沢へ(その2)」を参照頂きたい)


高野公彦の解説するところによれば、「置賜は羽前の国の最高の場所と讃えた歌であろう。高橋光義著『哀草果秀歌200首』によれば、これは南陽市赤湯駅から長井市に向かう途中の車窓風景ではないかという。第4句の若葉は里山、結句の雪山はつまり残雪の飯豊連峰という構図である。そんな若葉季(どき)の大きな美しい景である。終戦直後、貧窮の中で自分たちはこんな素晴らしい地域に住んでいるのだから、じっと耐えて生きてゆこうよ、と自他を励ます気持ちで詠まれた歌ではなかろうか」 昭和21年の作なので、そういう受け止め方もできる。

 私にとっては、米沢はかつて訪れた地であり、また県境を接して南に位置する会津の喜多方も訪れている。いつか会津から車を走らせて「国のまほろば」という置賜の地の美しさを味わってみたいと思っている。



 以下は、(ユーモア短歌の章)に出てくる歌の数々。


 ”下京(しもぎょう)や紅屋が門(かど)をくぐりたる男かはゆし春の夜の月”与謝野晶子 『みだれ髪』)

高野の解説、「京都下京の賑やかな町並み。若い男が、あたりをはばかりながら紅屋の門を潜る。紅屋とは、いまでいふ化粧品店であろう。恋人に贈る口紅を買いにきたのだ。男かはゆし、というところに、作者のユーモアがあり、男の初々しさが浮かび上がってくる」 脱線するが、口紅には、いい句がある。

   ”沈みゆくおもひ寒紅きつく刷く” (吉野義子)



 ”箒に乗って一飛びに仏蘭西へ行こう悉皆迷ふな老いたる魔女よ” 宮 英子)

 この歌を見た時は、宮崎駿のアニメ「魔女の宅急便」を思い出した。おそらく彼女はその映画をみた記憶があって、こんな歌を詠んだのではないだろうか。

高野の解説、「シルクロードが好きで、仏蘭西も大好き。シルクロードは何度も行ったから、今度は仏蘭西。どうせ私は老いた魔女よ、行きたいところへ行こう。意気軒昂たる歌である。夫を介護し、看取ったあと、自由な人生を楽しもうとしている人。お酒が強い。仏蘭西で彼女を待っているのは、美味しいワインと、パリの華麗と、田舎の素朴な静寂」



 ”春宵の酒場にひとり酒すする誰か来んかなあ誰あれも来るな” 石田比呂志)

 これは粋で好きな歌だ。説明は必要としないであろうが、念のため高野の解説を紹介する。

 「春宵一刻値千金といふ。そん時間、酒場でひとり酒盃を傾ける贅沢。だがこの贅沢はいささか寂しくもある。朋ありて遠方より来たら嬉しいが、だれでもいいわけではない。希はくば心を許した友か、あるいは美女か」

このシーンは私にとっても実体験である。京都の行きつけの小料理屋へふらりと思い立って出かけることが再々である。いつまで経っても、だれも来ないのは寂しい。しかし放歌高吟するような酒飲みは御免こうむりたい。じっくりと互いの話に耳を傾けあう仲間が来れば大歓迎。たまに美女到来ということもある。どんな話をするかって・・・? たまには、会津八一のことや源氏物語のことを語りあったりする。いつか、本屋で買った鷲田清一さんの『京都の平熱ー哲学者の都市案内』という本を店のカウンターに置いていた。そうしたら、しばらくして店に入ってきた妙齢の美女が、”あ、この本、京都の若い人にも人気がありますよ”と言ったった。それがきっかけで話が弾んだことはいうまでもない。やはり、独りよりは相手がいたほうが楽しい。

     



 ”きみがうたうクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとす” (寺山修司)

 横浜に神奈川近代文学館というのがある。今は、「巨匠 松本清張展」が開かれている。

     

いつぞや、ここを訪れた時は「寺山修司 ひとりぼっちのあなたに」という展示を見る機会があった。青森が生んだ天才詩人であり、劇作家の寺山修司の全容がわかる興味深いものであった。寺山修司といっても、ご存じないかもしれない。私自身、かれの短歌、

  ”マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや”を知っているくらいである。しかし、この歌はあまりにも衝撃的であった。

寺山が「身捨つるほどの祖国」と詠う背景には、太平洋戦争において、大日本帝国のため、天皇のためと信じて、戦い死んでいった上の世代の姿がある。寺山の父は、太平洋戦争の末期にインドネシアのセレベス島で死んだ。

 この作品が発表された当時の日本は敗戦から立ち直り、復興に向けて走りはじめていた。そうした戦後の復興の中にあって、人々は国家の軛から解放されて自由を謳歌しているはずだった。一方で、高度経済成長期に突入した明るさのなかで、信じるべき理念を失った不安や虚しさが、人々の内側からじわじわと精神を蝕みはじめていた。一部の敏感な精神の持ち主は、多くの人が希望に満ちた未来像を語るのを横目で見ながら、足元から忍び寄る虚無の影を確かに見ていたに違いない。そして霧に閉ざされた海のイメージは、当時の社会に広がり始めていた不安や虚しさを象徴している。「身捨つるほどの祖国はありや」という切迫した問いかけに、国家ばかりか、命をかけて信じるほどのものは、自分には何も無い、という不安定な気分を感じるのである。

 というわけで、その寺山がクロッカスというような明るい歌を詠んでいたとは知らなかったので、ある意味驚いた。 高野公彦の解説、「新婚の二人が新しいアパートに引っ越してきて、荷物の整理をしている。クロッカス、クロッカスきれい、そんな唄を新妻が可愛い声で口ずさむ。この歌も家具のひとつに数えようと男は幸福な気持ちで聞いている。寺山修司の作品にしては、毒がなく、清潔でさわやかな一首である。妻のうたう唄を「家具」の一つに数えるというのは優しいユーモであり、斬新な発想である。」 ・・・まったく、同感。



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 と、いうような次第ですが、皆さんにもお好きな短歌がありましたでしょうか?

 俳句の仲間に、”あなたは俳句よりも短歌のほうが向いているのではないか?”と言われたことがあります。しかし、自分で短歌を詠むということはありません。。試してみたいとは、思っていますが。余談になりますが、今京都の高島屋で開かれている横山大観展を見たときに、そこの中に大観の”絵を描くには、人間を作らなくては・・・”という言葉がありました。短歌でも、そうかなあと考え込んでいます。。

 今回は、限られた紙面でもあり、歌人高野公彦選の歌に限りましたが、芳賀徹さんの『詩歌の森へ』のページを繰ると、詩や詩歌に口ずさみたくなるものが数多くあります。もう少し幅広い視野で、日本の詩歌の美しい森へ分け入ってみたいものです。。


 ご清聴ありがとうございました。


      ~~~~~終わり~~~~~




コメント (4)
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