エッセイ/読書 桜の思い出~笹部新太郎のこと(その2)
手元に『櫻男行状』(双流社、1991年)と題する風変わりな題名のついた分厚い一冊の本がある。一生を桜の保護・育成に捧げた男、笹部新太郎が、その生涯について語ったものである。灘五郷の一つ、西宮郷に白鹿酒造という酒造会社がある。その記念博物館の中に、記念館と笹部さくら資料室がある。毎年春になると「笹部さくらコレクション展」が開かれる。ある年の、春そこを訪れ、本記事の主人公笹部新太郎のことを知るに至った。笹部翁は、明治45年に東京帝国大学を卒業後、桜一途に打ちこみ、染井吉野以外の桜の保護に務めた。白州正子も、ふとしたことからこの本を手に入れ、読んでみた。
”「これは私が魂を預けた桜の研究と栽培にまつわる記録である」という言葉で始まる序文は、桜への愛情と悲しみにあふれており、自分は今までものを書くより、実地に木を育て、木を守ろうと努力してきた。が、今全国にわたる桜のうらぶれた、哀れな姿を見るにつけ、これ以上黙っているのは忍びない。何がそこまで桜を零落させるに至ったか、その原因と経緯を書きつづっておく責任があると思い、馴れぬ筆をとる。ー大体そういった意味のことである・・”
”専門の法科の方はそっちのけで、桜を生涯の仕事としてからの笹部さんは、ただファイトのかたまりだった。ソメイヨシノがはびこるのを憂え、学者や役所に任せておけぬと、父親から譲られた宝塚の武田尾というところに、演習林をつくり、勝れた品種の育成と保存に務める。が、そのうち戦争が始まり、用材に伐られ、ハイカーたちに荒らされ、土地の人に皮をはがれて、「私の体温につながるやっと一人前になったこれらの桜が、数百本にわたってむごたらしい被害を受けた有り様を、私はどうしても胸をはって仰ぎ見るに絶えない。」、とそれから桜のためのキャンペーンが始まる・・・”
”・・・笹部さんの憤懣(ふんまん)は無理もなのである。たとえば、徳川幕府は天海や林羅山のすすめによって、桜を江戸に植えさせた。三河武士の心を和らげるためにである。そして、千代田城内で苗を育て、墨田堤や荒川堤、飛鳥山や上野の山などに花の名所をつくり、大名たちもそれに傚って盛んに桜を奨励したという。現在かろうじて残っているのは、みなその頃の遺産なのに、近頃の役人は、伐ることはしても育てることはいっさいしない。何が建設ですか、文化を破壊するだけではありませんか・・・”
さて、笹部は桜そのものについてどう語っているのだろう。本書の桜談義~桜の品定めの節では、このように言っている。
”ある世なれた料亭の女将に、「桜のよしあしを一口でわかるようにいえば?」と訊かれて、ふと私はこんな答えをしたことがある。「山桜を本場結城とすれば、里桜はまずお召か縮緬(ちりめん)に当たろうか。ソメイヨシノとなると、さしずめ、スフというところだろう。」” 注)天然繊維が高価だったころに、使われたレーヨンなどの短繊維。ここでは、あまり上等のものではない、というほどの意味。
”そこでいったい、優秀な桜とはどんな桜を指していうのか、私はこうもあろうかと思っている。
1.苗木の成長の速いこと
2.風雪などの天災に耐えうること
3.喬木巨木となる可能性のあること
4.花季のおくれぬこと
5.花に気品のあるいこと
6.嫩葉(わかば)の色、葉の形のよきこと
注)写真は、「八重山桜図」三熊思孝(西宮 白鹿記念酒造博物館蔵)
さて最後の条件、気品のある花ということがなかなかむつかしいことである。東京の桜の会で、毎年決まって訊かれることは桜の優劣の基準である。中には「ソメイヨシノだとて等しく生をうけて花を見せているのに、そう悪しざまに排撃されるのは何だか可哀想になる。他の桜に比べてどこが悪いのですか」などと畳み掛けてくる人があるのに・・・”
これについて、笹部は、桜の会などに並べられる桜品種の活けてある青磁色の花生を例に、”これは東京都庁の出品でまことに申しにくいが、これでも青磁といえば青磁である。名家の入札などに出る天竜寺青磁も砧青磁も青磁である。等しく青磁であることにおいて何の変わりもないが、何千何万倍も価が違う・・”と言って、鑑識の問題とする。尤もソメイヨシノは冬季の枝条のみすぼらしさもある。さらに山桜でも貧弱見るに耐えぬものもあるとしてる。ついでに長寿の桜について、こう言っている。
”私がここに長寿のサクラというのは、大体ヒガンザクラのことである。現在わが国に残る老桜巨桜のほとんど全部は、枝が垂れているシダレザクラであろうと、立性のタチヒガンであろうと、等しくこのヒガンザクラである”
そして、ちなみにとして、樹齢から云って(長寿)その随一を山高神代桜(山梨県北巨摩郡新富村、実相寺内)としている。これは推定樹齢1800余年。日蓮聖人がこれを讃えたとある。今は、主幹すでに腐朽して表皮のみの空ろになっており、これら長寿の桜の保護について、天然記念物保護法の「老木に手を触るべからず」の一点張りの法律を批判している。
(桜の演習林)明治も終わりに近いころ、笹部は宝塚市武田温泉に近い山林に桜の演習林を造った。
”・・・ソメイは日に日にその数量を加え、その他の好もしい桜は年とともに姿を消してゆくのが追々に分かってきたので、ともかく私の土地にできるだけのなるべく勝れた品種と大体手に入るだけの里桜の品種の保存と、実生、接ぎ木、外科手術、薬剤散布や、桜とそのほかの木との混植の取り合わせ、土質や施肥の研究などが存分にできるような演習林を持つとともに、練達の園丁の養成などの目論見もした。苗木の数は多いほどいいのだが、・・・末はどうにかなろうと武田尾温泉に近い山林をまず演習林にした。”
日本本土の空襲被害が激しくなっていく中で、疎開を勧められたがこの演習林は守られた。それを蘇東坡の詩にちなんで亦楽山荘と名づけた。ここは今でも残っていて、福知山線の武田尾駅から廃線あとを辿り、トンネルを抜けると「さくらの園」がある。今頃はコバノミツバツツジの紅紫の美しいところである。
さてこの演習林で研究を重ね、また日本全国の桜を見て回った笹部は、机上の空論を振りかざす大学の研究者と違い、自ら手を汚して桜の保護・育成に邁進した。そんな笹部が管理・育成、指導、助言、移植、栽培などで係わった桜は数知れない。そ中から幾つかを上げてみれば、
・江若鉄道の要請を受け、琵琶湖畔の近江舞子に山桜500本余を植樹して桜の名所とした。
・紀州・権現平の桜を阪和線沿線に移植する相談をうけた。山桜の優良種のものは種子が大きい。ここの桜の種子が稀有の大きさであった。残念ながら、戦争ですべて伐採 されてしまった。このほか近鉄沿線の信貴山山麓に民営の桜苗圃をつく る相談も受けて総数40万に及ぶ苗が移設されたが、これも戦争騒ぎのなかで芋畑とされた。
・近鉄の湯の山に山桜の成木と苗木を植えつけた。
・造幣局の桜の管理指導と桜の会
・橋本関雪翁植翁碑
・根尾谷の薄墨桜
・祇園の枝垂れ桜・・・ここの桜については、笹部翁は思い入れがあるのか、かなりの ページを費やしている。
”桜の記録をつづける、間に、そのどこかで書いておかねばならぬものの一つは京都円山の祇園の桜である。今も見るものは、その植継で、世に謳われるほどのものではない。それと知りながら、あえてここに在りし日の桜の面影と、あわせてその枯死に導いた経過のあれこれを書くことは、直ちに全国にわたる桜の名所、名木などに、揃いも揃ってただ衰亡の一途をたどるに至らしめた、鑑賞植物保護のまずさや。学者・技術者の無知と関係官庁の怠慢とを、まざまと大写しに映し出すスクリーンにもなろうかと考えたからである。”
(写真は初代の枝垂れ桜。「さくら日和」というブログから転載させていただいた。)
そして祇園の桜は、品種、樹齢にこだわれば、元より取り立てて称すべきほどのものではない、と言いながらあえて「日本一の折り紙をつけよう」というのである。それは、なぜか? 笹部新太郎の語るところ耳を傾けて聴いてみよう。
”大きさや、樹齢では神代桜、大島桜株、滝桜、薄墨桜などなど、いずれもみな天然記念物指定のきびしい建石に肩を怒らせている。しかし《天然記念物》というような名前を並べ立てたところでそに所在に感興を持ちうる人が幾人あることであろう。その木に下に立つ機会を果たして何人が持つのか。
幸せにも、本当に幸せにもこの木は円山公園の玄関先にある。その上また運良くも盛り土の円座に座っている。玉葉和歌集の「わが宿の千本のさくら花さかば植えおく人の身も栄えなむ」の神歌は、いうまでもなく八坂神社の境内に昔あった数多くの桜を詠じたものにしても、この祇園の桜がその社殿のすぐ背後にあることはまたとない幸せである。そのほか古都に伝わる数数の文献や絵画に残る花の面影も、この木の存在を十分に力づける。・・・来る春ごとにこの一本の桜が、その朧夜のあで姿に幾十万の群衆を吸うてきたことか、京といはず日本の春はまことにただこの一本の木にとどめを差す。・・・与謝野晶子夫人の「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵会う人みなうつくしき」の歌詞もあってひとしおの精彩を覚える。”
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(御母衣(みほろ)の桜)
さてさて本記事の圧巻は何と言っても、ドラマチックな背景を持つ御母衣ダムの畔に立つ二本の荘川桜のことである。すこし長くなるが、ご容赦頂きたい。私自身も相当の思い入れがあるので・・・。
昭和27年のことである。戦後の産業振興のためにどうしても電力の確保が必要と考えた政府は豊富な水資源を活用することとし、岐阜県と富山県を結んで流れる庄川の上流に巨大なロックフィルダムを造ることに決めた。当然、猛烈な反対運動が起こったが国全体の進歩のためにやらねばならぬと、電源開発会社が設立されえた。その時の初代総裁が、高崎達之助である。
地元反対運動との交渉は何年もつづいたが、ようやく昭和34年(水をいれる一年前)ようやく双方合意に達した。そのおり、高崎達之助は水没予定地を見て回った。湖底に近い学校の隣にある光輪寺で、高崎は幹一周一丈数尺はあろうかという桜の古木(ヒガンザクラ)を見た。高崎の脳裏に、この巨木が水を満々と湛えた湖底にさみしく揺らいでいる姿がはっきり浮かんだ。この桜を救いたいという気持ちが高崎の胸に湧き上がってきた。以下、高崎自身の文を引用する。
”宝塚の山奥に住む日本唯一の桜博士、笹部新太郎氏のことを、私はすぐ思い出した。俗に『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という。桜というものは枝を切ると、すぐに弱ってしまうものだ。しかし、これだけの巨木を移植するとすれば、枝を切らなければならぬ。私は笹部氏にすぐ手紙を出した。 彼は、すぐに飛んできた。彼の説では、この桜は樹齢三百五十年から四百年、目方は四十トンを下らない、という。笹部氏は、下見をしている問に、もう一本の、やはり四百年近い桜の古木を発見し、身命を賭しても無事に移植してみせる、といい切った。その言葉を聞いては、こちらも意地にならざるを得ない。電源開発側でも、藤井総裁や檜垣部長が感激して資金はもとうということになった。
しかし、四十トンからの巨木を水没しない個所にまで引上げるわけであるから、ブルドーザーやクレーンがなければ不可能である。当時の工事担当者だった間組の人たちにも、熱血漢がそろっていた。必要な機械類はいくらでもお貸しいたしましょう、と申し出てくれた。話を聞き伝えた豊橋の造園家の丹羽氏もはせ参じて、知恵を貸してくれたが、理論家たる笹部氏と実際家たる丹羽氏とは、なかなか意見が合わず、二人でよく激論をたたかわせていたものである。
ダム工事が進んで、桜の根本に水がせまってきたクリスマスのころ、数えきれないくらいの人人の努力のお蔭で、二本の老桜は、千メートルばかり上の水のこない場所へ移された。
だが、はたして根がつくかどうかは、春がきてみなければわからない。関係者は、みな祈るような気持で、枝を払われた裸の巨木を仰ぎみた。
そして昭和36年の春のある朝、藁でかこった幹のすき間から、太い若芽が顔を出しているのを、通りがかりの人が発見したのである。笹部氏はその時、桜の精の伝説を改めて考え直した、という。桜の花は、今年(昭和37年)もまた咲いた。この6月12日、二本の巨木の下で水没記念碑の除幕式があり、招かれて、私も御母衣ダムを訪れた。
生れた家や、先祖の墓は湖底に沈んだが、子供のころ親しんだ寺の桜は今ここに緑の葉群をみせている。この老樹の下で桜桃を拾い恋を語った想い出が、ここに甦ったのだーと、旧死守会の人々は、焼けた頬に涙をこぼした。
”ふるさとは湖底となりつうつし来しこの老桜さけとこしへに”
私も、ともに涙しながら、この歌を詠んだのであった。やがて、この桜に愛称をつけ、記念碑を建てて湖畔を飾りたいものである。進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。だが、人力で救えるかぎりのものは、なんとかして残していきたい。古きものは、古きが故に尊い。二本の老桜は、来年の春も、きっと花開くであろう。”
(写真の左は移植前、右は移植後)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1995年の5月、私たちは新緑の飛騨高山からこの御母衣ダムへと車を走らせた。その折の旅のメモである。(写真は、その後の荘川桜)
”北上を続けると、御母衣ダムのほとりに湖底から移植したという樹齢450年の桜のこ古木が2本あった。(浄蓮寺からのものと光輪寺の桜である)時の電源開発総裁の高崎達之助が命じて移した由。この横にはもとの木から実生した若木が2本育っていた。風雨の中であったが感激の出会いであった。さらに走り五箇山トンネルを抜ける頃には快晴になった。”
手元に『櫻男行状』(双流社、1991年)と題する風変わりな題名のついた分厚い一冊の本がある。一生を桜の保護・育成に捧げた男、笹部新太郎が、その生涯について語ったものである。灘五郷の一つ、西宮郷に白鹿酒造という酒造会社がある。その記念博物館の中に、記念館と笹部さくら資料室がある。毎年春になると「笹部さくらコレクション展」が開かれる。ある年の、春そこを訪れ、本記事の主人公笹部新太郎のことを知るに至った。笹部翁は、明治45年に東京帝国大学を卒業後、桜一途に打ちこみ、染井吉野以外の桜の保護に務めた。白州正子も、ふとしたことからこの本を手に入れ、読んでみた。
”「これは私が魂を預けた桜の研究と栽培にまつわる記録である」という言葉で始まる序文は、桜への愛情と悲しみにあふれており、自分は今までものを書くより、実地に木を育て、木を守ろうと努力してきた。が、今全国にわたる桜のうらぶれた、哀れな姿を見るにつけ、これ以上黙っているのは忍びない。何がそこまで桜を零落させるに至ったか、その原因と経緯を書きつづっておく責任があると思い、馴れぬ筆をとる。ー大体そういった意味のことである・・”
”専門の法科の方はそっちのけで、桜を生涯の仕事としてからの笹部さんは、ただファイトのかたまりだった。ソメイヨシノがはびこるのを憂え、学者や役所に任せておけぬと、父親から譲られた宝塚の武田尾というところに、演習林をつくり、勝れた品種の育成と保存に務める。が、そのうち戦争が始まり、用材に伐られ、ハイカーたちに荒らされ、土地の人に皮をはがれて、「私の体温につながるやっと一人前になったこれらの桜が、数百本にわたってむごたらしい被害を受けた有り様を、私はどうしても胸をはって仰ぎ見るに絶えない。」、とそれから桜のためのキャンペーンが始まる・・・”
”・・・笹部さんの憤懣(ふんまん)は無理もなのである。たとえば、徳川幕府は天海や林羅山のすすめによって、桜を江戸に植えさせた。三河武士の心を和らげるためにである。そして、千代田城内で苗を育て、墨田堤や荒川堤、飛鳥山や上野の山などに花の名所をつくり、大名たちもそれに傚って盛んに桜を奨励したという。現在かろうじて残っているのは、みなその頃の遺産なのに、近頃の役人は、伐ることはしても育てることはいっさいしない。何が建設ですか、文化を破壊するだけではありませんか・・・”
さて、笹部は桜そのものについてどう語っているのだろう。本書の桜談義~桜の品定めの節では、このように言っている。
”ある世なれた料亭の女将に、「桜のよしあしを一口でわかるようにいえば?」と訊かれて、ふと私はこんな答えをしたことがある。「山桜を本場結城とすれば、里桜はまずお召か縮緬(ちりめん)に当たろうか。ソメイヨシノとなると、さしずめ、スフというところだろう。」” 注)天然繊維が高価だったころに、使われたレーヨンなどの短繊維。ここでは、あまり上等のものではない、というほどの意味。
”そこでいったい、優秀な桜とはどんな桜を指していうのか、私はこうもあろうかと思っている。
1.苗木の成長の速いこと
2.風雪などの天災に耐えうること
3.喬木巨木となる可能性のあること
4.花季のおくれぬこと
5.花に気品のあるいこと
6.嫩葉(わかば)の色、葉の形のよきこと
注)写真は、「八重山桜図」三熊思孝(西宮 白鹿記念酒造博物館蔵)
さて最後の条件、気品のある花ということがなかなかむつかしいことである。東京の桜の会で、毎年決まって訊かれることは桜の優劣の基準である。中には「ソメイヨシノだとて等しく生をうけて花を見せているのに、そう悪しざまに排撃されるのは何だか可哀想になる。他の桜に比べてどこが悪いのですか」などと畳み掛けてくる人があるのに・・・”
これについて、笹部は、桜の会などに並べられる桜品種の活けてある青磁色の花生を例に、”これは東京都庁の出品でまことに申しにくいが、これでも青磁といえば青磁である。名家の入札などに出る天竜寺青磁も砧青磁も青磁である。等しく青磁であることにおいて何の変わりもないが、何千何万倍も価が違う・・”と言って、鑑識の問題とする。尤もソメイヨシノは冬季の枝条のみすぼらしさもある。さらに山桜でも貧弱見るに耐えぬものもあるとしてる。ついでに長寿の桜について、こう言っている。
”私がここに長寿のサクラというのは、大体ヒガンザクラのことである。現在わが国に残る老桜巨桜のほとんど全部は、枝が垂れているシダレザクラであろうと、立性のタチヒガンであろうと、等しくこのヒガンザクラである”
そして、ちなみにとして、樹齢から云って(長寿)その随一を山高神代桜(山梨県北巨摩郡新富村、実相寺内)としている。これは推定樹齢1800余年。日蓮聖人がこれを讃えたとある。今は、主幹すでに腐朽して表皮のみの空ろになっており、これら長寿の桜の保護について、天然記念物保護法の「老木に手を触るべからず」の一点張りの法律を批判している。
(桜の演習林)明治も終わりに近いころ、笹部は宝塚市武田温泉に近い山林に桜の演習林を造った。
”・・・ソメイは日に日にその数量を加え、その他の好もしい桜は年とともに姿を消してゆくのが追々に分かってきたので、ともかく私の土地にできるだけのなるべく勝れた品種と大体手に入るだけの里桜の品種の保存と、実生、接ぎ木、外科手術、薬剤散布や、桜とそのほかの木との混植の取り合わせ、土質や施肥の研究などが存分にできるような演習林を持つとともに、練達の園丁の養成などの目論見もした。苗木の数は多いほどいいのだが、・・・末はどうにかなろうと武田尾温泉に近い山林をまず演習林にした。”
日本本土の空襲被害が激しくなっていく中で、疎開を勧められたがこの演習林は守られた。それを蘇東坡の詩にちなんで亦楽山荘と名づけた。ここは今でも残っていて、福知山線の武田尾駅から廃線あとを辿り、トンネルを抜けると「さくらの園」がある。今頃はコバノミツバツツジの紅紫の美しいところである。
さてこの演習林で研究を重ね、また日本全国の桜を見て回った笹部は、机上の空論を振りかざす大学の研究者と違い、自ら手を汚して桜の保護・育成に邁進した。そんな笹部が管理・育成、指導、助言、移植、栽培などで係わった桜は数知れない。そ中から幾つかを上げてみれば、
・江若鉄道の要請を受け、琵琶湖畔の近江舞子に山桜500本余を植樹して桜の名所とした。
・紀州・権現平の桜を阪和線沿線に移植する相談をうけた。山桜の優良種のものは種子が大きい。ここの桜の種子が稀有の大きさであった。残念ながら、戦争ですべて伐採 されてしまった。このほか近鉄沿線の信貴山山麓に民営の桜苗圃をつく る相談も受けて総数40万に及ぶ苗が移設されたが、これも戦争騒ぎのなかで芋畑とされた。
・近鉄の湯の山に山桜の成木と苗木を植えつけた。
・造幣局の桜の管理指導と桜の会
・橋本関雪翁植翁碑
・根尾谷の薄墨桜
・祇園の枝垂れ桜・・・ここの桜については、笹部翁は思い入れがあるのか、かなりの ページを費やしている。
”桜の記録をつづける、間に、そのどこかで書いておかねばならぬものの一つは京都円山の祇園の桜である。今も見るものは、その植継で、世に謳われるほどのものではない。それと知りながら、あえてここに在りし日の桜の面影と、あわせてその枯死に導いた経過のあれこれを書くことは、直ちに全国にわたる桜の名所、名木などに、揃いも揃ってただ衰亡の一途をたどるに至らしめた、鑑賞植物保護のまずさや。学者・技術者の無知と関係官庁の怠慢とを、まざまと大写しに映し出すスクリーンにもなろうかと考えたからである。”
(写真は初代の枝垂れ桜。「さくら日和」というブログから転載させていただいた。)
そして祇園の桜は、品種、樹齢にこだわれば、元より取り立てて称すべきほどのものではない、と言いながらあえて「日本一の折り紙をつけよう」というのである。それは、なぜか? 笹部新太郎の語るところ耳を傾けて聴いてみよう。
”大きさや、樹齢では神代桜、大島桜株、滝桜、薄墨桜などなど、いずれもみな天然記念物指定のきびしい建石に肩を怒らせている。しかし《天然記念物》というような名前を並べ立てたところでそに所在に感興を持ちうる人が幾人あることであろう。その木に下に立つ機会を果たして何人が持つのか。
幸せにも、本当に幸せにもこの木は円山公園の玄関先にある。その上また運良くも盛り土の円座に座っている。玉葉和歌集の「わが宿の千本のさくら花さかば植えおく人の身も栄えなむ」の神歌は、いうまでもなく八坂神社の境内に昔あった数多くの桜を詠じたものにしても、この祇園の桜がその社殿のすぐ背後にあることはまたとない幸せである。そのほか古都に伝わる数数の文献や絵画に残る花の面影も、この木の存在を十分に力づける。・・・来る春ごとにこの一本の桜が、その朧夜のあで姿に幾十万の群衆を吸うてきたことか、京といはず日本の春はまことにただこの一本の木にとどめを差す。・・・与謝野晶子夫人の「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵会う人みなうつくしき」の歌詞もあってひとしおの精彩を覚える。”
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(御母衣(みほろ)の桜)
さてさて本記事の圧巻は何と言っても、ドラマチックな背景を持つ御母衣ダムの畔に立つ二本の荘川桜のことである。すこし長くなるが、ご容赦頂きたい。私自身も相当の思い入れがあるので・・・。
昭和27年のことである。戦後の産業振興のためにどうしても電力の確保が必要と考えた政府は豊富な水資源を活用することとし、岐阜県と富山県を結んで流れる庄川の上流に巨大なロックフィルダムを造ることに決めた。当然、猛烈な反対運動が起こったが国全体の進歩のためにやらねばならぬと、電源開発会社が設立されえた。その時の初代総裁が、高崎達之助である。
地元反対運動との交渉は何年もつづいたが、ようやく昭和34年(水をいれる一年前)ようやく双方合意に達した。そのおり、高崎達之助は水没予定地を見て回った。湖底に近い学校の隣にある光輪寺で、高崎は幹一周一丈数尺はあろうかという桜の古木(ヒガンザクラ)を見た。高崎の脳裏に、この巨木が水を満々と湛えた湖底にさみしく揺らいでいる姿がはっきり浮かんだ。この桜を救いたいという気持ちが高崎の胸に湧き上がってきた。以下、高崎自身の文を引用する。
”宝塚の山奥に住む日本唯一の桜博士、笹部新太郎氏のことを、私はすぐ思い出した。俗に『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という。桜というものは枝を切ると、すぐに弱ってしまうものだ。しかし、これだけの巨木を移植するとすれば、枝を切らなければならぬ。私は笹部氏にすぐ手紙を出した。 彼は、すぐに飛んできた。彼の説では、この桜は樹齢三百五十年から四百年、目方は四十トンを下らない、という。笹部氏は、下見をしている問に、もう一本の、やはり四百年近い桜の古木を発見し、身命を賭しても無事に移植してみせる、といい切った。その言葉を聞いては、こちらも意地にならざるを得ない。電源開発側でも、藤井総裁や檜垣部長が感激して資金はもとうということになった。
しかし、四十トンからの巨木を水没しない個所にまで引上げるわけであるから、ブルドーザーやクレーンがなければ不可能である。当時の工事担当者だった間組の人たちにも、熱血漢がそろっていた。必要な機械類はいくらでもお貸しいたしましょう、と申し出てくれた。話を聞き伝えた豊橋の造園家の丹羽氏もはせ参じて、知恵を貸してくれたが、理論家たる笹部氏と実際家たる丹羽氏とは、なかなか意見が合わず、二人でよく激論をたたかわせていたものである。
ダム工事が進んで、桜の根本に水がせまってきたクリスマスのころ、数えきれないくらいの人人の努力のお蔭で、二本の老桜は、千メートルばかり上の水のこない場所へ移された。
だが、はたして根がつくかどうかは、春がきてみなければわからない。関係者は、みな祈るような気持で、枝を払われた裸の巨木を仰ぎみた。
そして昭和36年の春のある朝、藁でかこった幹のすき間から、太い若芽が顔を出しているのを、通りがかりの人が発見したのである。笹部氏はその時、桜の精の伝説を改めて考え直した、という。桜の花は、今年(昭和37年)もまた咲いた。この6月12日、二本の巨木の下で水没記念碑の除幕式があり、招かれて、私も御母衣ダムを訪れた。
生れた家や、先祖の墓は湖底に沈んだが、子供のころ親しんだ寺の桜は今ここに緑の葉群をみせている。この老樹の下で桜桃を拾い恋を語った想い出が、ここに甦ったのだーと、旧死守会の人々は、焼けた頬に涙をこぼした。
”ふるさとは湖底となりつうつし来しこの老桜さけとこしへに”
私も、ともに涙しながら、この歌を詠んだのであった。やがて、この桜に愛称をつけ、記念碑を建てて湖畔を飾りたいものである。進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。だが、人力で救えるかぎりのものは、なんとかして残していきたい。古きものは、古きが故に尊い。二本の老桜は、来年の春も、きっと花開くであろう。”
(写真の左は移植前、右は移植後)
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1995年の5月、私たちは新緑の飛騨高山からこの御母衣ダムへと車を走らせた。その折の旅のメモである。(写真は、その後の荘川桜)
”北上を続けると、御母衣ダムのほとりに湖底から移植したという樹齢450年の桜のこ古木が2本あった。(浄蓮寺からのものと光輪寺の桜である)時の電源開発総裁の高崎達之助が命じて移した由。この横にはもとの木から実生した若木が2本育っていた。風雨の中であったが感激の出会いであった。さらに走り五箇山トンネルを抜ける頃には快晴になった。”