(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ/読書 桜の思い出~笹部新太郎のこと(その2)

2014-04-18 | 読書
エッセイ/読書 桜の思い出~笹部新太郎のこと(その2)

手元に『櫻男行状』(双流社、1991年)と題する風変わりな題名のついた分厚い一冊の本がある。一生を桜の保護・育成に捧げた男、笹部新太郎が、その生涯について語ったものである。灘五郷の一つ、西宮郷に白鹿酒造という酒造会社がある。その記念博物館の中に、記念館と笹部さくら資料室がある。毎年春になると「笹部さくらコレクション展」が開かれる。ある年の、春そこを訪れ、本記事の主人公笹部新太郎のことを知るに至った。笹部翁は、明治45年に東京帝国大学を卒業後、桜一途に打ちこみ、染井吉野以外の桜の保護に務めた。白州正子も、ふとしたことからこの本を手に入れ、読んでみた。

 ”「これは私が魂を預けた桜の研究と栽培にまつわる記録である」という言葉で始まる序文は、桜への愛情と悲しみにあふれており、自分は今までものを書くより、実地に木を育て、木を守ろうと努力してきた。が、今全国にわたる桜のうらぶれた、哀れな姿を見るにつけ、これ以上黙っているのは忍びない。何がそこまで桜を零落させるに至ったか、その原因と経緯を書きつづっておく責任があると思い、馴れぬ筆をとる。ー大体そういった意味のことである・・”

 ”専門の法科の方はそっちのけで、桜を生涯の仕事としてからの笹部さんは、ただファイトのかたまりだった。ソメイヨシノがはびこるのを憂え、学者や役所に任せておけぬと、父親から譲られた宝塚の武田尾というところに、演習林をつくり、勝れた品種の育成と保存に務める。が、そのうち戦争が始まり、用材に伐られ、ハイカーたちに荒らされ、土地の人に皮をはがれて、「私の体温につながるやっと一人前になったこれらの桜が、数百本にわたってむごたらしい被害を受けた有り様を、私はどうしても胸をはって仰ぎ見るに絶えない。」、とそれから桜のためのキャンペーンが始まる・・・”

 ”・・・笹部さんの憤懣(ふんまん)は無理もなのである。たとえば、徳川幕府は天海や林羅山のすすめによって、桜を江戸に植えさせた。三河武士の心を和らげるためにである。そして、千代田城内で苗を育て、墨田堤や荒川堤、飛鳥山や上野の山などに花の名所をつくり、大名たちもそれに傚って盛んに桜を奨励したという。現在かろうじて残っているのは、みなその頃の遺産なのに、近頃の役人は、伐ることはしても育てることはいっさいしない。何が建設ですか、文化を破壊するだけではありませんか・・・”

 
 さて、笹部は桜そのものについてどう語っているのだろう。本書の桜談義~桜の品定めの節では、このように言っている。

     

 ”ある世なれた料亭の女将に、「桜のよしあしを一口でわかるようにいえば?」と訊かれて、ふと私はこんな答えをしたことがある。「山桜を本場結城とすれば、里桜はまずお召か縮緬(ちりめん)に当たろうか。ソメイヨシノとなると、さしずめ、スフというところだろう。」” 注)天然繊維が高価だったころに、使われたレーヨンなどの短繊維。ここでは、あまり上等のものではない、というほどの意味。

 ”そこでいったい、優秀な桜とはどんな桜を指していうのか、私はこうもあろうかと思っている。

  1.苗木の成長の速いこと
  2.風雪などの天災に耐えうること
  3.喬木巨木となる可能性のあること
  4.花季のおくれぬこと
  5.花に気品のあるいこと
  6.嫩葉(わかば)の色、葉の形のよきこと

     

     注)写真は、「八重山桜図」三熊思孝(西宮 白鹿記念酒造博物館蔵)


さて最後の条件、気品のある花ということがなかなかむつかしいことである。東京の桜の会で、毎年決まって訊かれることは桜の優劣の基準である。中には「ソメイヨシノだとて等しく生をうけて花を見せているのに、そう悪しざまに排撃されるのは何だか可哀想になる。他の桜に比べてどこが悪いのですか」などと畳み掛けてくる人があるのに・・・”

 これについて、笹部は、桜の会などに並べられる桜品種の活けてある青磁色の花生を例に、”これは東京都庁の出品でまことに申しにくいが、これでも青磁といえば青磁である。名家の入札などに出る天竜寺青磁も砧青磁も青磁である。等しく青磁であることにおいて何の変わりもないが、何千何万倍も価が違う・・”と言って、鑑識の問題とする。尤もソメイヨシノは冬季の枝条のみすぼらしさもある。さらに山桜でも貧弱見るに耐えぬものもあるとしてる。ついでに長寿の桜について、こう言っている。

 ”私がここに長寿のサクラというのは、大体ヒガンザクラのことである。現在わが国に残る老桜巨桜のほとんど全部は、枝が垂れているシダレザクラであろうと、立性のタチヒガンであろうと、等しくこのヒガンザクラである”

 そして、ちなみにとして、樹齢から云って(長寿)その随一を山高神代桜(山梨県北巨摩郡新富村、実相寺内)としている。これは推定樹齢1800余年。日蓮聖人がこれを讃えたとある。今は、主幹すでに腐朽して表皮のみの空ろになっており、これら長寿の桜の保護について、天然記念物保護法の「老木に手を触るべからず」の一点張りの法律を批判している。



(桜の演習林)明治も終わりに近いころ、笹部は宝塚市武田温泉に近い山林に桜の演習林を造った。

 ”・・・ソメイは日に日にその数量を加え、その他の好もしい桜は年とともに姿を消してゆくのが追々に分かってきたので、ともかく私の土地にできるだけのなるべく勝れた品種と大体手に入るだけの里桜の品種の保存と、実生、接ぎ木、外科手術、薬剤散布や、桜とそのほかの木との混植の取り合わせ、土質や施肥の研究などが存分にできるような演習林を持つとともに、練達の園丁の養成などの目論見もした。苗木の数は多いほどいいのだが、・・・末はどうにかなろうと武田尾温泉に近い山林をまず演習林にした。”

日本本土の空襲被害が激しくなっていく中で、疎開を勧められたがこの演習林は守られた。それを蘇東坡の詩にちなんで亦楽山荘と名づけた。ここは今でも残っていて、福知山線の武田尾駅から廃線あとを辿り、トンネルを抜けると「さくらの園」がある。今頃はコバノミツバツツジの紅紫の美しいところである。

  

 さてこの演習林で研究を重ね、また日本全国の桜を見て回った笹部は、机上の空論を振りかざす大学の研究者と違い、自ら手を汚して桜の保護・育成に邁進した。そんな笹部が管理・育成、指導、助言、移植、栽培などで係わった桜は数知れない。そ中から幾つかを上げてみれば、

 ・江若鉄道の要請を受け、琵琶湖畔の近江舞子に山桜500本余を植樹して桜の名所とした。
 ・紀州・権現平の桜を阪和線沿線に移植する相談をうけた。山桜の優良種のものは種子が大きい。ここの桜の種子が稀有の大きさであった。残念ながら、戦争ですべて伐採  されてしまった。このほか近鉄沿線の信貴山山麓に民営の桜苗圃をつく る相談も受けて総数40万に及ぶ苗が移設されたが、これも戦争騒ぎのなかで芋畑とされた。

 ・近鉄の湯の山に山桜の成木と苗木を植えつけた。
 ・造幣局の桜の管理指導と桜の会

 ・橋本関雪翁植翁碑
 ・根尾谷の薄墨桜

 ・祇園の枝垂れ桜・・・ここの桜については、笹部翁は思い入れがあるのか、かなりの  ページを費やしている。
 
  ”桜の記録をつづける、間に、そのどこかで書いておかねばならぬものの一つは京都円山の祇園の桜である。今も見るものは、その植継で、世に謳われるほどのものではない。それと知りながら、あえてここに在りし日の桜の面影と、あわせてその枯死に導いた経過のあれこれを書くことは、直ちに全国にわたる桜の名所、名木などに、揃いも揃ってただ衰亡の一途をたどるに至らしめた、鑑賞植物保護のまずさや。学者・技術者の無知と関係官庁の怠慢とを、まざまと大写しに映し出すスクリーンにもなろうかと考えたからである。”

    


 (写真は初代の枝垂れ桜。「さくら日和」というブログから転載させていただいた。)

 そして祇園の桜は、品種、樹齢にこだわれば、元より取り立てて称すべきほどのものではない、と言いながらあえて「日本一の折り紙をつけよう」というのである。それは、なぜか? 笹部新太郎の語るところ耳を傾けて聴いてみよう。
 
 ”大きさや、樹齢では神代桜、大島桜株、滝桜、薄墨桜などなど、いずれもみな天然記念物指定のきびしい建石に肩を怒らせている。しかし《天然記念物》というような名前を並べ立てたところでそに所在に感興を持ちうる人が幾人あることであろう。その木に下に立つ機会を果たして何人が持つのか。

 幸せにも、本当に幸せにもこの木は円山公園の玄関先にある。その上また運良くも盛り土の円座に座っている。玉葉和歌集の「わが宿の千本のさくら花さかば植えおく人の身も栄えなむ」の神歌は、いうまでもなく八坂神社の境内に昔あった数多くの桜を詠じたものにしても、この祇園の桜がその社殿のすぐ背後にあることはまたとない幸せである。そのほか古都に伝わる数数の文献や絵画に残る花の面影も、この木の存在を十分に力づける。・・・来る春ごとにこの一本の桜が、その朧夜のあで姿に幾十万の群衆を吸うてきたことか、京といはず日本の春はまことにただこの一本の木にとどめを差す。・・・与謝野晶子夫人の「清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵会う人みなうつくしき」の歌詞もあってひとしおの精彩を覚える。”


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(御母衣(みほろ)の桜)
 さてさて本記事の圧巻は何と言っても、ドラマチックな背景を持つ御母衣ダムの畔に立つ二本の荘川桜のことである。すこし長くなるが、ご容赦頂きたい。私自身も相当の思い入れがあるので・・・。

 昭和27年のことである。戦後の産業振興のためにどうしても電力の確保が必要と考えた政府は豊富な水資源を活用することとし、岐阜県と富山県を結んで流れる庄川の上流に巨大なロックフィルダムを造ることに決めた。当然、猛烈な反対運動が起こったが国全体の進歩のためにやらねばならぬと、電源開発会社が設立されえた。その時の初代総裁が、高崎達之助である。

 地元反対運動との交渉は何年もつづいたが、ようやく昭和34年(水をいれる一年前)ようやく双方合意に達した。そのおり、高崎達之助は水没予定地を見て回った。湖底に近い学校の隣にある光輪寺で、高崎は幹一周一丈数尺はあろうかという桜の古木(ヒガンザクラ)を見た。高崎の脳裏に、この巨木が水を満々と湛えた湖底にさみしく揺らいでいる姿がはっきり浮かんだ。この桜を救いたいという気持ちが高崎の胸に湧き上がってきた。以下、高崎自身の文を引用する。


 ”宝塚の山奥に住む日本唯一の桜博士、笹部新太郎氏のことを、私はすぐ思い出した。俗に『桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿』という。桜というものは枝を切ると、すぐに弱ってしまうものだ。しかし、これだけの巨木を移植するとすれば、枝を切らなければならぬ。私は笹部氏にすぐ手紙を出した。  彼は、すぐに飛んできた。彼の説では、この桜は樹齢三百五十年から四百年、目方は四十トンを下らない、という。笹部氏は、下見をしている問に、もう一本の、やはり四百年近い桜の古木を発見し、身命を賭しても無事に移植してみせる、といい切った。その言葉を聞いては、こちらも意地にならざるを得ない。電源開発側でも、藤井総裁や檜垣部長が感激して資金はもとうということになった。

 しかし、四十トンからの巨木を水没しない個所にまで引上げるわけであるから、ブルドーザーやクレーンがなければ不可能である。当時の工事担当者だった間組の人たちにも、熱血漢がそろっていた。必要な機械類はいくらでもお貸しいたしましょう、と申し出てくれた。話を聞き伝えた豊橋の造園家の丹羽氏もはせ参じて、知恵を貸してくれたが、理論家たる笹部氏と実際家たる丹羽氏とは、なかなか意見が合わず、二人でよく激論をたたかわせていたものである。

 ダム工事が進んで、桜の根本に水がせまってきたクリスマスのころ、数えきれないくらいの人人の努力のお蔭で、二本の老桜は、千メートルばかり上の水のこない場所へ移された。
 だが、はたして根がつくかどうかは、春がきてみなければわからない。関係者は、みな祈るような気持で、枝を払われた裸の巨木を仰ぎみた。

 そして昭和36年の春のある朝、藁でかこった幹のすき間から、太い若芽が顔を出しているのを、通りがかりの人が発見したのである。笹部氏はその時、桜の精の伝説を改めて考え直した、という。桜の花は、今年(昭和37年)もまた咲いた。この6月12日、二本の巨木の下で水没記念碑の除幕式があり、招かれて、私も御母衣ダムを訪れた。

 生れた家や、先祖の墓は湖底に沈んだが、子供のころ親しんだ寺の桜は今ここに緑の葉群をみせている。この老樹の下で桜桃を拾い恋を語った想い出が、ここに甦ったのだーと、旧死守会の人々は、焼けた頬に涙をこぼした。

  ”ふるさとは湖底となりつうつし来しこの老桜さけとこしへに”

 私も、ともに涙しながら、この歌を詠んだのであった。やがて、この桜に愛称をつけ、記念碑を建てて湖畔を飾りたいものである。進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。だが、人力で救えるかぎりのものは、なんとかして残していきたい。古きものは、古きが故に尊い。二本の老桜は、来年の春も、きっと花開くであろう。”

        

     (写真の左は移植前、右は移植後)

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 1995年の5月、私たちは新緑の飛騨高山からこの御母衣ダムへと車を走らせた。その折の旅のメモである。(写真は、その後の荘川桜)

     

 ”北上を続けると、御母衣ダムのほとりに湖底から移植したという樹齢450年の桜のこ古木が2本あった。(浄蓮寺からのものと光輪寺の桜である)時の電源開発総裁の高崎達之助が命じて移した由。この横にはもとの木から実生した若木が2本育っていた。風雨の中であったが感激の出会いであった。さらに走り五箇山トンネルを抜ける頃には快晴になった。”











 
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エッセイ/読書 桜の思い出~桜男笹部新太郎のこと(その1)

2014-04-13 | 読書
読書/エッセイ 桜の思い出~桜男笹部新太郎のこと(その1)
冒頭の写真は、奈良の桜井にある聖林寺の里桜。

     ”さまざまのこと思ひだす桜かな” (芭蕉)

 毎年桜の季節になると、様々な桜を求めてあちこち出歩いてり、旅をしたことがあった。その思い出を少し辿れば、まずは東京の郊外、中央線高尾駅からすぐのところにある森林科学園の桜保存林である。ここは丘陵地帯で何百種、1700本ほどの桜が集められ、実に色とりどりな花を咲かせている。桜栽培品種のわが国最大のコレクションである。ここに行ったお目当ては、緑色の桜「御衣黄」(ぎょいこう)である。それほど人も訪れず、切り株に腰をかけて弁当を使い、風の音を聞きながら、桜の花の色と香りを楽しんだ。

    

 規模の大きいところといえば、なんと云っても吉野山の桜であろう。

  ”だれかまた花をたずねて吉野山こけふみわくる岩つたふらん” (西行)

 吉野山は一面が桜で埋め尽くされている。私は、前々からちょうどいいタイミングを見計らって訪れた。好天にもめぐまれ、幸い上千本、中千本、下千本が一挙に花開いたまたとない日に恵まれた。見晴かす限り、桜、桜、桜・・・。 ここの桜は、白。花びらは小ぶりである。すべて山桜である。そこらでみる染井吉野とは、気品が違うのである。桜好きの本居宣長が生前、自分の墓には山桜を植えるように、と指定したのもうなずける。三万五千本の桜である。吉野の桜は、奈良時代に修験僧の役行者が、難行苦行の果てに現れた蔵王権現の像を桜の木に刻み蔵王堂に安置したところから、桜の木が神木となったことに端を発するようである。ここを訪れる人は、そのほとんどが日帰りで帰ってしまうようである。俳人芭蕉は、その紀行文「笈の小文」で春の吉野山を次のように描写している。

 ”よしのの花に三日とどまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀れなるさまなど、心にせまり胸にみちて、・・・・”

     

せめて一、二泊して朝の花、夕景の桜の風情を楽しみたいものである。幸い下、中、上あるいは奥千本あたりと、いい宿がいくつもある。余談になるが、吉野山がどうして全面の桜となったのか、また桜をどう保全するのかなどについて深い考察を行った『花をたずねて吉野山』(鳥越皓之、集英社新書)という好著がある。


京都郊外大原野にある善峰寺の枝垂れ桜も素晴らしい。長岡京から北西に車を走らせると30分ほどで着く。余談であるが、善峯寺に行く途中に大きな屋敷がある。萬屋錦之助が有馬稲子と結婚した頃に住んでいたとは、車の運転手談。寺の境内をだんだん登ってゆくと京都市街や比叡山を一望でき眺めの素晴らしいところである。あちこちに、滝桜とみまがうばかりの枝垂れが咲いている。とくに上の方にある経堂のそばにある桂昌院しだれ桜は樹齢300年以上の枯木である。JR東海の「そうだ京都、行こう」のCMで放映されm一段とその名が知られるようになった。桜だけでなく、紫陽花のころも全山を埋め尽くして素晴らしい眺めである。枝垂れ桜の名所としては、ナンバーワンと思っている。

     


 小さいところでは、大阪府の郊外にある西行終焉の地の弘川寺を忘れるわけにはいかない。葛城山西山山麓にあり、いささか交通不便なところにある。西行さんがどこで亡くなられたのか、有名な歌”願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃”が詠まれた地はどこにあるのかと探していたところ、1998年に朝日新聞のカメラ記者であった槙野尚一さんという方が、西行の旅の足跡を追い、その結果を『西行を歩く』(PHP)という素晴らしい本にまとめられた。これを手にして、西行ファンでもある私は、矢も盾もたまらず車を走らせた。迷いながらも辿りついたところは、規模の小さいお寺であるが、よく管理され手入れされた古刹であった。おそらくベストシーズンであったのであろう。桜の花が落花芬芬とし、庭に花びらが散り敷いて見事な眺めであった。西行のことを想って、しみじみとしたことであった。 (写真、弘川寺の桜)
          注)リンクを貼ってあるのは、西行忌について書いたブログ記事(2007年3月)です。

     

     ”花吹雪まるで西行包むごと”
     ”散る花も根に帰りゆく桜かな”

裏手の道を上がってゆくと、広場のようなところがあり、墓が二つ。道の突き当りは、似雲法師の墓。この方は、弘川寺で西行の墳墓を発見した。そして弘川寺に西行の堂を建てた。槙野さんの本によれば、弘川寺の法燈を守りつづけた住職がもう一人いる。弘川寺中興の祖といわれる高志浄観和上である。似雲法師の志を継承して西行上人の遺徳を守った。道がそれたが、先の広場に西行法師のお墓があった。その墓の近くに歌碑があり、一つはかの有名な歌。もう一つは、次の歌。

 ”仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば”

          

下へ降りて本坊に戻ると海棠の古木がある。樹齢350年の海棠である。四月半ばの頃が盛りである。 季節は異なるが、秋には記念館が開館になるので、もういちど足を運んでみたい。




 こう書いてきて、これから本命の荘川桜について書きだそうとしていたら桜の写真が手元に届いた。京都郊外、鷹ヶ峰のさらに北西の山あいにある原谷苑の桜である。枝垂れ桜が咲き乱れ、その美しさは極まりない。はっきりした記憶がないが、多分1990年代に見に行っていると思われる。当時の写真が手元見当たらなし。しかし最近写真がご縁で知りった京都のアマチュアカメラマンのKさんがこのほど撮ってこられたので、お目にかける。これは現地の方々が、荒れ果てた地を整備され、血のにじむような努力を積み重ねてでき上がった桜園である。現在、村岩農園というところが所有している。一度は訪れたいところである。

     


 この他宝塚郊外の武田尾というところに亦楽山荘(えきらく)という桜の演習林が残されている。すでに廃線となった福知山線の線路を歩き、トンネルに入ると、前方に明るい光がみえる。



 ”トンネルのむかうにみえる僕の春 かすかなれどもいつか我が手に”

これは平成14年の歌会始めで、最年少入選を果たした高校一年生、中迫克公君の歌であるが、まさにそんな感じがする光景である。トンネルを潜って歩き、そこから少し山にはいると「桜の園」という演習林がある。山桜、サトザクラで占められている。あとで触れるが、(その2)の主人公、桜男の笹部新太郎の創ったものである。実際に歩いて、桜男の苦労を偲んだもものである。


 いろいろ述べてきたが、何と言ってもドラマチックな背景をもつ桜は、御母衣ダム(みほろ)の畔に立つ二本の桜である。それは、水没するダムの湖底から引き上げられ、生き残って花を咲かせている荘川桜である。この桜の移植、再生に取り組んだ男こそ本編の主人公、神戸の桜男・笹部新太郎である。彼自らが語った『櫻男行状』(双流社 1991年)と、また笹部のことを書いた白州正子の『日月抄』(世界文化社 1995年)。この2冊の本を中心にして笹部新太郎のことを綴ってみる。次章(その2)をお楽しみに。


(続く)





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読書 『陰隲録(いんしつろく)』~運命を創る

2014-04-06 | 読書
読書 陰隲録(いんしつろく)のこと~運命を創る      (写真は、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」の冒頭(第一楽章)の楽譜です)

 またまた桜守のことは先に伸ばし、今日は「運命」ということについて考えてみたいと思います。よく、”それも運命である”とか”運命を甘受して・・・”ということを聞きます。いわゆる運命論者の云うところです。そういう受動的な考え方もあろうかと思いますが、以前にこのブログで「愁思」について書きました。


その中で、”運命を引きずり回して生きたい”といいました。そうです、ぼくは運命論者ではありません。運命は創るものというスタンスに立っております。そういうことにつながる一冊の書物についてご紹介します。それは、幕末から明治時代にかけて日本人のあいだで非常に普及した書物『陰隲録(いんしつろく)』です。実は、この本を直接読んだ訳ではありません。高名な東洋学者の安岡正篤の本『運命を創る~人間学講話』(プレジデント社、1985年12月)に紹介されていたものです。この安岡という人は、見方が分かれると思います。政財界の人の間で、人気が高く、また昭和天皇の終戦の詔勅に加筆して完成させました。国粋主義であり、第二次大戦中には大東亜省顧問もしていて、外交政策にも関わっていました。しかし東洋古典を研究すること深く、その人間学などについての言にも耳を傾けるべきところが少なくありません。良いものは良いという姿勢で、ご紹介する次第です。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 運命を創るという章の文を、できるだけそのまま引用します。(読みにくいところ、冗長なところは適宜、省略したり修正しています)

 ”われわれ人間というものは、いくら頭がいい。腕があるといっても、それは実に非力なものでありまして、決して自慢にもうぬぼれにもなるものではない。人生にはわれわれ個人の浅薄な思想や才力の及ばない大きな生命の流れ、大きな力の動きがありまして、それに我々がどう棹さすか、いかにそれに関与するかということによって、われわれの実質的な価値や成敗が決まるのです。・・・若いうちほど決して漫然と時間を空費するのでなく。また、どんなにつらい経験でもこれを回避するものではなくして、どこまでも身をもってあらゆる経験を尊く学び取らなければならぬということをしみじみと感ずるのであります。”

 ”私たちに一番大切なことは、我々がいかに無力であるように見えても、自然の一物でさえも実に神秘な素質・能力を持ち、これを科学にかけると限りなき応用があるように、いわんや人間にはどんな素質があり才能があって、われわれの学問・修養のいかんによっては、どんなに自己を変化させ、どんなに世の中の役に立ち、世界をも変えることができるものであるということを確信して、決して自分の生活というものを軽々しくしないことであります。”

(『陰隲録』(いんしつろく)~袁了凡の教え(えんりょうぼん)

 ”『陰隲録』、これは西洋でも特殊な倫理学者・哲学者の中に「偉大な人生のダイナミックな学問」として非常な注意を惹いています。日本でも広くさかのぼっては、九州の名高い広瀬淡窓、あるいは中江藤樹がある。みな立派な学者であり、実践家であります。

 世間では「袁了凡」(えんりょうぼん)の教えとしてよく知られています。”隲”とは、「定める」という意味の文字であります。冥々のあいだに定められているところのもの、すなわち大いなる天命の働きをいうのであります。これは『書経』のなかにある言葉であるが、この思想を自分の独特の思想とか体験とから民衆教化に応用して非常な業績を上げてのが袁了凡という人であります。(明の時代)
 この人は幼いときに早く父に別れて母の手一つで育てられた。シナの知識階級は、日本でいうなら昔の高等官の試験みたいなものですが、すなわち科挙を受けて進士になるのが本道であります。袁了凡少年も、まとより科挙を受けて進士になりたがったが、家が貧しくて勉強の余裕が無い、そこで母のいいつけで、一番手っ取り早くものになるのは医者であるというので、その勉強をしていた。

 ところが、あるとき孔(こう)なにがしという老人に会った。この人は人格・風貌ともに子供心にも立派に映ったが、この老人が袁(えん)少年をつくづく見て、「お前は何の勉強をしているか」と言う。「私はこういうわけで医者の勉強をしている」と答えると。「それは惜しい。お前は進士として立派に成功する人相を持っている。そういう運命の持ち主である。お前は何歳の時には予備試験で何番で及第し、第二次試験には何番で及第して、最後には何番で及第する、そうして進士になって何年何月に死ぬ、子はない」ということまで予言した。

 孔老人が袁少年の将来を予言したが、少年はすっかり感激いたしまして、孔老人を家へ連れ帰って大事にもてなし、それから発心して大勉強して科挙に応じたのであります。ところが、不思議にも、孔老人のいったとおり年月に、云った通りの成績で及第した。ますます面白くなって第二次試験を受けたら、やはりその通りになった。以来、何事もすべて的中して間違いがない。彼は、ひとりでに社会的には成功したが、不幸にして子どもがない。人間の運命はちゃんと決まっておって、どうにもなるものではない。我々は出世しようとか、金を儲けようとか、いりいろ虫のいいことを考えてじたばたするのだが、これくらい馬鹿げたことはない。自分は子どももないし、何年何月に死ぬという寿命も決まっているから、この決まりきった短い人生に何を好んでつまらないことにあくせくするか、ということを徹底的に彼は感じ入ってしまった。そうして、他人と競争して出世しようとか、金を儲けようとかいう気持ちが青年にしてすっかりなくなってしまった。

 あるとき、彼は仕事の関係で南京付近のあるお寺に滞在しておりましたところ、そのお寺に雲谷という禅師がおりました。ある日、雲谷禅師は袁青年を呼んで、「先日来あなたがここにいるのを密かに観察していると、お年に似合わずできておられる。どういう修行をしてそこまでの風格になられたか、参考のために承りたい」。こういうことを言われたので袁青年は驚いた。彼は、先にいったような一つのあきらめに到達して、もう普通の青年が持っているようなアンビションというものが抜けてしまったものですから、思うに人間が清く落ち着いてゆったりした風格になっていた。年があまり若い時にはそうはいかぬものですから、それで異様に雲谷禅師に映ったのでしょう。

 袁了凡青年は別に何もそうむずかしい学問や修行をしてそういう境地に到達したのでないので、ありのままに、語った。「実は私は奇妙な体験を持っております。少年の時に医者の勉強をしていたところが、こういう老人がはからずも見てくれて、お前は進士になれ、必ず何年何月には何番で及第して云々と言ってくれたので、面白くなって勉強して試験を受けてみたらその通りになりました。爾来、少しも老人の予言が外れたことがありません。そこで、つくづく人生というものはもう予め決まっている、いわゆる陰隲(いんしつ)である、もう冥々のあいだに決まっている、我々が妄動したところで何もならないとあきらめて悠々と自然に任せているのであります。それで多少ほかの者と違うように禅師の目に映ったのでしょうか」

 と言ったところが、雲谷禅師が急に態度を一変して「なんだ、そんなことか。それじゃお前はまことにつまらぬ人間である。これは大いに見損なった」と噛んで吐き捨てるように言われました。意外に思って袁青年が「それはまたどういうことでありますか」と尋ねたところ、雲谷禅師は容(かたち)を改めて、
 「お前のあきらめ、お前の悟りというものは、きわめて一面的であり低級幼稚なものである。なるほど、人間には運命というものがある。しかしながら、その運命というものがいかなるものであるかは、一生かかって探求しても分かるか分からぬものである。
 我々が一生学問修行して、自分の運命がいかなるものでるかということを調べてみて、初めて自分の運命というものがこういうものであるということが分かる。棺を覆うて後に定まるものである。そんな一老人の観察予言などで決まってしまうような無内容なものでは決してない。なるほど、われわれは運命というものを持っているけれども、運命というものは学問によって限りなく知らるべきものであり、修行によって限りなく創造せられるものである。運命は天のなすものであるとともに、また自らつくるものである。

 そう言われて、彼は満身冷汗三斗、がくぜんとして初めて目が覚めた。雲谷禅師は、言う。「絶えざる思索と実践によって日々に新しい創造的生活をする身となって学問修行をしてみたまえ。そうすれば君という人間がまたどうなってゆくか分からない。君の人生がどういうふうに変化してゆくか分からない。これを称して”立命”という。すなわち、今までは他律的な運命に支配され、宿命に支配されていたのであるが、今日より自由な身となって自己および人生を創造してみろ。そうしなければお前の運命なんか分かるものではない」

 こう言われて彼は翻然(ほんぜん)として、それから新たなる生涯に入った。ところが、不思議なことに、それまで外れたことがない孔老人の予言がことごとく外れだした。そうして子供もできれば、死ぬと言われた年もはるかに過ぎてまだ健康でいる。そこで、人間というものは安価な運命感に陥ってはならぬ、どこまでも探求し、どこまでも理想を追って実践に励まなければならぬ。

 それにはこういう哲学を持ってこういう修行をしろということを子供に書き残したのであります。それが四つの大きな章から成り立っているので、雲谷禅師によって初めて自分は世の常の人(凡)の心を悟った、了した、というので、了凡と号を変えたので「了凡四訓」という。

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 いささか長くなりましたが、こういう次第です。いわゆる運を天に任すのではなく。自ら道を切り開き、運命を創りあげる、そういう考え方でゆきたいと思います。最後になりますが、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」の第四楽章の楽譜を掲載します。ここでは、苦難から明るい未来へ続くような響きで始まります。厚い運命の壁を一つ一つ乗り越えて、いばらの道を前へ前と進む・・・。

     

     ”暗黒から光明へ”

     


 余談ながら、この「運命」の演奏は第二次大戦後の1947年、不世出の名指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが振ったウイーンフィルの演奏にとどめを差します。




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