日記・エッセイ 理論物理学者佐治晴夫先生のこと
“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める。理論物理学者・佐治晴夫さんとのインタビュー。インタビューの経緯や詳しいことはあとにして、まずインタビューに書かれていることをご覧ください。
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あなたは、惑星探査機「ボイジャー」を知っていますか?ボイジャー2号は、1977年に打ち上げられて様々な惑星・衛星を観測し、昨年9月には太陽圏を脱出したことで大きな話題となりました。空の彼方で、人がつくったものがそんなに遠くへと旅をしているなんて、なんだか不思議ですね。
このボイジャーには、55の言語による挨拶や、地球上の様々な音を収録したレコードが搭載されています。そのうちのひとつ、バッハの「プレリュード」は、理論物理学者の佐治晴夫先生の提案によって搭載されました。
今回は、理論物理学者でありながら、数学や音楽、詩などにも造詣が深く、物理学や宇宙論などの難しい話をわかりやすく教えてくれることで有名な佐治先生のストーリーを聞かせていただきました。
音楽家、数学者を諦めて、物理の世界へ
佐治先生は、東京大学大学院で物理学を専攻した後、東京大学物性研究所へ進み、研究のかたわら松下電器東京研究所で「1/fゆらぎ扇風機」や「VHS3倍速モード」といった製品を開発。数々の大学で教授を務め、2004年から2013年までは鈴鹿短期大学の学長として短大の経営危機を乗り切る仕事に取り組みました。
その一方、NASAの客員研究員として学んだ宇宙研究の成果を“平和教育へのリベラルアーツ”と位置づけ、全国の学校への授業行脚も行っています。
…と、こう書くとその経歴に圧倒されてしまいますね。先生にも、将来に悩んだ時期なんてあったのでしょうか。
”かたわらから見ると順風満帆に見えるかもしれませんが、人間ですから、色々なことがありました。そもそも、私は物理学者になりたいと思っていたわけではありません。もともとは、音楽家になりたかったんです。
昭和18年、佐治先生が小学3年生のとき、父親からこう言われたそうです。「まもなく連合軍による日本本土空襲が始まるだろう。そうすると、日本に数台しかない貴重なパイプオルガンが焼けてしまうかもしれない。学校を休んでもいいから、聴いてきなさい」。”
”そこで、兄に連れられ、日本橋三越本店へオルガンの演奏を聴きに行ったんです。当時はいつ空襲がはじまるかわからない状況でしたので、オルガニストも戦闘服を着ていました。演奏する曲も軍歌ばかりです。でも、演奏の合間に、ふしぎな美しい曲が入るのです。兄が、「これがバッハだよ」と耳元で教えてくれました。”
佐治先生はこのとき、なぜかとても心を打たれたといいます。兄の一人が東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)の出身だったこともあり、「ぼくも芸術家になりたい」と夢見るようになりました。
”しかし、東京藝術大学にはそう簡単には入れるものではありません。それなりの基礎的能力のない私にはとても無理な話で、高校生のとき、その事実に直面して落胆し、打ちひしがれていました。しかし、なんとか気をとりなおし、「それではどうするか」を考えたのです。
なぜ私は藝大に入れないのか。演奏も基礎学力もまったく不足しているからです。だとすれば、自分には何ができるのか。自分にできるもので、音楽に感覚的に近いものは何か。私にとっては、それが数学でした。”
そうして大学の数学科に進んだ佐治先生でしたが、ここでも挫折を味わうことになります。
”入学直後は、「自分でも、それなりに頑張れば、いま授業を教えている助教授くらいにはなれるだろう」などと生意気なことを考えていたのです。ところが、周りは本当に優秀な学生ばかり。よく、小説や映画に「一風変わった天才」が出てきますね。本当に、社会生活には馴染めないけれどずば抜けて頭がいい天才たちがたくさんいました。
しかも、学年がすすむにつれて、いつかは追いつけるだろうと思っていた助教授との距離はせばまるどころか、広がっていくばかりです。自分のふがいなさに自信をなくしていきました。焦りましたし、「数学者などという職種には、とうていつけないだろう」と途方に暮れました。
しかし、再び佐治先生は「自分にできること」を考えました。数学に取り組んできた経験を活かせば、物理の研究者にはなれるかもしれない。少し背伸びをして、理論物理の世界へ進みました。”
そうした紆余曲折の末に辿り着いた理論物理でしたが、ここで、その後活躍する活躍する基礎が築かれたのだそうです。
”人に希望を語ることが、生きている人間の役目だと気づいた”
大学院を卒業してからも研究を重ねた佐治先生は、なにもないところからの宇宙創生に深くかかわる「ゆらぎ理論」の第一人者となります。NASAの客員研究員としてボイジャー計画に携わり、ボイジャーが宇宙で知的生命体に出会ったときを想定したメッセージとして、バッハの「プレリュード」を搭載することを提案しました。
なぜバッハだったのでしょう?ひとつの理由は、子どもの頃に聞いたパイプオルガンの思い出がずっと印象に残っていたから。もうひとつは、バッハの曲は、その構成がきわめて数学的で美しいからです。数学の論理こそが、宇宙の普遍的言語であると考えられることから、ETとの交信に役立つだろうと考えたそうです。
音楽や数学を学んだ後、理論物理の世界に入った佐治先生だからこそ、この提案ができたのでしょうね。
”ボイジャーは何千年も何万年も飛び続け、いつか本当にETに出会うかもしれません。ボイジャーに搭載したレコードには、半減期が40億年以上のウラニウム238が塗ってありますが、これは、今から40億年以内にETに遭遇したとき、いつ、どこからやってきたメッセージなのかがわかるように、時計として塗られているのです。そのころ、地球人類はもういないかもしれませんけれどね。
人の一生は百年足らずですが、自分の生涯の長さ、いえ、ひょっとしたら人類の時間をはるかに超えて残る仕事ができたのは、とても幸せなことだったと思っています。もし、私が最初の希望通り音楽家になっていたら、こんなことはできなかったでしょう。そう思うと、人生って不思議ですよね。”
佐治先生はその後、研究やプロジェクトを通して学んだことを若者に伝えるため、さまざまな大学で教鞭を執ることになります。その際、大事にしていたのは「希望を語ること」でした。
”はじめてウィーン大学に行ったとき、敬愛するシューベルトのお墓を訪れました。当時の私は、言葉の壁や、周囲にいるたくさんの秀才たちとの違いに悩んでいました。しかし、その墓碑に書いてあった言葉に、強烈な印象を受けたのです。グリルパルツァーという詩人の言葉で、日本語に訳すと、こういう内容です。
「ここに、ひとつの豊かな宝物を埋葬した。
しかし、それだけではない。たくさんの美しい希望をも埋葬した。
フランツ・シューベルト、ここに眠る」
2行目は、もしシューベルトが生きていたら、我々に与えてくれたであろうたくさんの美しい希望も埋めてしまった、ということです。私はここに胸を打たれたのです。つまり、人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。”
教えるとは「希望を語る」ことであり、授業とは「相手の心に火をつける」営みのこと。しかし、二酸化炭素しかなかったら、火はつきません。まずは酸素のある環境を整えること。そこにそっと火を灯すと、心はひとりでに燃えはじめる。それが先生の持論です。
佐治先生の授業は、ピアノやオルガンの演奏から始まり、金子みすゞさんやまど・みちおさんの詩、時には聖書や仏教の教典なども引用しながら、私たちが生きる世界の不思議を紐解いていくというユニークな内容で、学生から大きな評判を呼びました。
学生時代に周囲の「圧倒的な天才たち」に引け目を感じたという佐治先生ですが、たくさんのひとにわかりやすく世界の仕組みを教え、希望を与えることが先生の役割だったのかもしれませんね。
”昨日の自分はもういない”
~佐治先生のアトリエのある美瑛の風景
いま、レイブル期にある人の中には、過去の失敗から自信を失っていたり、やりたいことがあっても「自分にできるわけがない」と思ったりしている方がいるかもしれません。
でも、佐治先生によると、自分の体を構成している60兆の細胞のうち、約1%、つまり6千億が一晩のうちに入れ替わるそうです。昨日と同じ自分はもうどこにもいないし、数ヶ月後には別人と言ってもいいでしょう。そう考えると、何回でも生まれ変わって、新しい自分になれる気がしませんか。
”よく、「過去・現在・未来」といいますね。この時間の流れから考えると、「これまで」が「これから」を決めると思うかもしれません。でも、いまみなさんが思い浮かべている過去は、脳の中にメモリとして残っているものに過ぎず、実在しているものではありません。とすると、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられることになります。未来が過去を決める、「これから」が「これまで」を決めるのです。
人生というのは、編集作業に似ています。素敵な物語を、美しい暦としてつくっていきたいですね。”
佐治先生は68歳のとき、子どもの頃にはじめて聞いて感動した日本橋三越のパイプオルガンを弾く機会を得ました。知り合いになった三越の社員に思い出を話すと、閉店後に演奏できるよう取りはからってくれたのです。
”半世紀以上も昔、パイプオルガンをはじめて聞いた小学3年生の男の子が年老いて、いまこうしてその同じオルガンにふれている。そう考えると、とても不思議な気持ちがしました。夢なのか、現実なのか・・と。”
佐治先生はそのときのことを、愛おしそうに目を輝かせながら話してくれました。
”人生の半分くらいは予測できても、あとの半分はわからない。これが”ゆらぎ“です。真っ直ぐ一直線に歩こうとすると、莫大なエネルギーを必要とします。ゆらぐことによって、エネルギー消費量を少なくして余裕がでてくるものです。考えてみれば、私の人生って、ゆらぎっぱなしでしたね。
「明日何が起こるかわからない」ことに対して、「怖い」と思う方もいるかもしれません。確かに、怪我をするかもしれないし、失敗をするかもしれない。でも、素晴らしいことが起こるかもしれません。80年生きてきた私が若い人に伝えたいのは、「生きるって、悪いものじゃないよ。しかも、そのすばらしさは生きてみないとわからない」ということ。それが結論です。”
いくつものたとえ話を出し、さまざまな方向から熱心に語る佐治先生からは、「人生のすばらしさを伝えたい」という気持ちがひしひしと伝わってきました。
”もし、人生が灰色に思えたり、未来に不安を感じたときは、一呼吸してから空を見上げてみましょう。途方もなく長い時間と希望を乗せたボイジャーが、いつかETに出会うことを夢見て、いまこの瞬間も広い宇宙をひとりで旅しています。あなたも、この広大無辺な宇宙の中で、たったひとりだけの存在です。力む必要はないけれど、ちょっとだけ未来に向けて踏み出してみませんか。かけがえのないあなた自身の物語をつくるために。”
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みなさんは、このインタビューの記事をお読みになってどんな感想をもたれたでしょう?私の感想をお話するまえに、このインタビューの背景や経緯について、すこし触れておきます。
(佐治晴夫さんのプロフィール)立教大学の物理学科を卒業し、東大の大学院で物理を専攻。東大物性研やNASAの客員研究員などを経て、現在は鈴鹿短大名誉教授。現在は、北海道の美瑛に新設された「美宙(みそら)」天文台の台長。朝起きたらスタインウエイのピアノでバッハを弾き、日中は天体望遠鏡で真昼の星を見るとか。
余談ですが、佐治さんからある人に届いたメールの一部をご紹介します。"美瑛にいらしたら、ぜひ真昼の星を見ていただきたいです。”とあり、そこには金子みすゞの詩が引用されていました。
”昼のお星は目にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えないものでもあるんだよ” そして、”昼間の星を見る体験は、目に見えるものがすべてではないことを気づかせて
くれます”と結ばれていました。
(インタビューの経緯とこれを書いたライターについて)大阪府に「大阪一丸」という「レイブル」応援プロジェクトがあります>。”レイブル”とは、late bloomer ”遅咲きのことを言います。大阪府には約4万3000人といわれるニート状態の若者、その中でも働く意志を持ち行動している若者は”レイブル”と呼ばれ、就労から自立までを応援するプロジェクトです。企業と行政、それに府民が一緒に、まさに「大阪一丸」となってすべての若者がいきいきと働く、また働き続けることができる社会環境を育てようというものです。
この活動の一環として、「STORY OF MY DOTS」と題して様々な記事がそのウエブサイトに取り上げられています。今回、佐治先生にインタビューをして記事を書いたのはヒダエミコさん、東京在住のライターで、地域/自然/生き方働き方をテーマにしています。
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さて今回のインタビュー記事を知ったのはレオスキャピタルワークスの藤野英人CIOに紹介されたのがきっかけでした。”“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める”というタイトルに心を惹かれました。しかし、読んでいくうちに、それもふくめ次から次へと興味が湧いてきました。それをどうしても、みんなに紹介したいと思い、このブログで取り上げることにしました。
最初にでてくる惑星探査機ボイジャーのことはあまり知りませんでした。ボイジャープログラムというのはアメリカのNASAによる太陽系の外惑星および太陽系外の星の探査をする計画です。1977年8月に1号機が打ち上げられ、199月に2号機が打ち上げられています。なぜこの時期かというと、1970年代から80年代にかけて、木星/土星/天王星などが同じような方向にならび、より遠くまで到達するのに最適な時期だったからです。こんな遠大な計画を考えて、実行に移すアメリカという国は凄い国ですね。
このボイジャーには「地球の音」というタイトルメッキが施された銅版製のレコードが積まれ、地球上の様々な音が収録されました。その音の一つが、佐治先生の提案でバッハのプレリュード(平均律クラヴィーア曲集の第一番)が収録されています。
”バッハの曲は、その構成がきわめて数学的で美しいから”と佐治先生は言われています。この曲は、私も大変好きな曲です。ウラジミール・アシュケナージの演奏のものが、とくに気に入っています。それから、ジャズ・ピアノストのジョン・ルイスの弾いたものが好きです。彼はMJQのリーダーとして活躍しました。天から星が降ってくるように、音が降ってきます。それはともかく、数学的で美しいというのは、どういうことでしょう?
少し調べてみたら、そのことを語る女性ジャズ・ピアニストにして数学教育者の中島さち子さんという人がいました。彼女の語ることを聞いても数学音痴の私にとっては、よく理解できませんが、バッハの音楽の対称性ということを云っています。楽譜の左右が対称であるとか上下線が対称とか・・・。よく分かりません。リンクを張りましたので、それを見てください。これは数理女子を相手にしたトークです。ジャズと数学なんて凄い人がいるものですね。
なんだかよくわかりませんが、佐治先生はこの音楽なら、ETは理解してくれるのではないかと思われたのでしょう。
この次に興味を惹かれたのは、佐治先生の次の言葉です。
”人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。”
たしかに、前途に希望があればこそ、光明があればこそ、どんな暗い状況であっても人間は生きていけるのですね。ここで、ちょっと脱線して瀬島龍三氏のことをお話しします。
瀬島は、元大本営参謀で、終戦後シベリアに抑留された。帰国後、伊藤忠商事に招かれのちに会長となって活躍した。この人物については様々な評価があります。山崎豊子の『不毛地帯』は、瀬島をモデルとして好意的に描かれていますが、半藤一利の『ノモンハンの夏』では、違う実像で描かれています。それはともかく、11年の長きにわたるシベリアでの抑留生活をどうやって生き延びたのでしょうか。
彼は、シベリアで人間として見てはならぬもの、してはならぬことをやらねばならない地獄の生活を体験しています。とくに極寒の地シベリアでの七ヶ月間の独房生活では極限状態に突き放されました。瀬島は独房の壁に観音像を刻みつけ、独房での寂寥に耐えられなくなると一心不乱に観音経を唱えたのです。
”世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音”
彼は幼いときから母親に、”苦しくて苦しくて仕様がなくなった時、観世音菩薩の御名を一生懸命唱えると観音様はそれをききわけて、その苦しみから救ってくださるのです”ろ繰り返し聞かされてきました。彼が観音経を唱えているうちに、真っ暗だった心の闇に小さな一点の光明が灯った。瀬島は、そのかすかな光明に向かって突進しました。観音経を誦すれば誦するほど、だんだん光明が大きくなり、不安が消え去っていったのです。
というエピソードがあるのですが、何か人に希望を語ることができればいいですね。
最後にとりあげるのは、冒頭でご紹介した“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める”、という言葉です。佐治先生は、「これまで」が「これから」を決めるのではなく、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられる、つまり未来が過去を決めると云っておられます。
佐治先生は、何事にも肯定的な考え方をされるようですね。私自身も、いくつかの分野で様々な失敗を繰り返してきました。人間関係もあれば、仕事の上でのこともあれば、投資の関連のことなどもあります。だからといって、それらの失敗から自信を失ったりはしていません。むしろ、そこから反省をし、新しいフェーズに進んでゆきます。また過去の失敗体験から、こんなことは自分にできるわけはないと思ったりはしていません。過去の失敗を将来の糧としてそれを生かしてゆくことができれば、その失敗も生かされてくると考えます。
”これから”が”これまで”を決めると言うようなことではなく、柔軟に考えればいいのではないでしょうか? 佐治先生の言葉は、これまでの失敗を今後どのように生かしてゆくかを考える、一つのきっかけとはなりました。
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みなさまが、どのようにこインタビュー記事を受け止めれられるか。お話を伺うのが楽しみです。
“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める。理論物理学者・佐治晴夫さんとのインタビュー。インタビューの経緯や詳しいことはあとにして、まずインタビューに書かれていることをご覧ください。
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あなたは、惑星探査機「ボイジャー」を知っていますか?ボイジャー2号は、1977年に打ち上げられて様々な惑星・衛星を観測し、昨年9月には太陽圏を脱出したことで大きな話題となりました。空の彼方で、人がつくったものがそんなに遠くへと旅をしているなんて、なんだか不思議ですね。
このボイジャーには、55の言語による挨拶や、地球上の様々な音を収録したレコードが搭載されています。そのうちのひとつ、バッハの「プレリュード」は、理論物理学者の佐治晴夫先生の提案によって搭載されました。
今回は、理論物理学者でありながら、数学や音楽、詩などにも造詣が深く、物理学や宇宙論などの難しい話をわかりやすく教えてくれることで有名な佐治先生のストーリーを聞かせていただきました。
音楽家、数学者を諦めて、物理の世界へ
佐治先生は、東京大学大学院で物理学を専攻した後、東京大学物性研究所へ進み、研究のかたわら松下電器東京研究所で「1/fゆらぎ扇風機」や「VHS3倍速モード」といった製品を開発。数々の大学で教授を務め、2004年から2013年までは鈴鹿短期大学の学長として短大の経営危機を乗り切る仕事に取り組みました。
その一方、NASAの客員研究員として学んだ宇宙研究の成果を“平和教育へのリベラルアーツ”と位置づけ、全国の学校への授業行脚も行っています。
…と、こう書くとその経歴に圧倒されてしまいますね。先生にも、将来に悩んだ時期なんてあったのでしょうか。
”かたわらから見ると順風満帆に見えるかもしれませんが、人間ですから、色々なことがありました。そもそも、私は物理学者になりたいと思っていたわけではありません。もともとは、音楽家になりたかったんです。
昭和18年、佐治先生が小学3年生のとき、父親からこう言われたそうです。「まもなく連合軍による日本本土空襲が始まるだろう。そうすると、日本に数台しかない貴重なパイプオルガンが焼けてしまうかもしれない。学校を休んでもいいから、聴いてきなさい」。”
”そこで、兄に連れられ、日本橋三越本店へオルガンの演奏を聴きに行ったんです。当時はいつ空襲がはじまるかわからない状況でしたので、オルガニストも戦闘服を着ていました。演奏する曲も軍歌ばかりです。でも、演奏の合間に、ふしぎな美しい曲が入るのです。兄が、「これがバッハだよ」と耳元で教えてくれました。”
佐治先生はこのとき、なぜかとても心を打たれたといいます。兄の一人が東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)の出身だったこともあり、「ぼくも芸術家になりたい」と夢見るようになりました。
”しかし、東京藝術大学にはそう簡単には入れるものではありません。それなりの基礎的能力のない私にはとても無理な話で、高校生のとき、その事実に直面して落胆し、打ちひしがれていました。しかし、なんとか気をとりなおし、「それではどうするか」を考えたのです。
なぜ私は藝大に入れないのか。演奏も基礎学力もまったく不足しているからです。だとすれば、自分には何ができるのか。自分にできるもので、音楽に感覚的に近いものは何か。私にとっては、それが数学でした。”
そうして大学の数学科に進んだ佐治先生でしたが、ここでも挫折を味わうことになります。
”入学直後は、「自分でも、それなりに頑張れば、いま授業を教えている助教授くらいにはなれるだろう」などと生意気なことを考えていたのです。ところが、周りは本当に優秀な学生ばかり。よく、小説や映画に「一風変わった天才」が出てきますね。本当に、社会生活には馴染めないけれどずば抜けて頭がいい天才たちがたくさんいました。
しかも、学年がすすむにつれて、いつかは追いつけるだろうと思っていた助教授との距離はせばまるどころか、広がっていくばかりです。自分のふがいなさに自信をなくしていきました。焦りましたし、「数学者などという職種には、とうていつけないだろう」と途方に暮れました。
しかし、再び佐治先生は「自分にできること」を考えました。数学に取り組んできた経験を活かせば、物理の研究者にはなれるかもしれない。少し背伸びをして、理論物理の世界へ進みました。”
そうした紆余曲折の末に辿り着いた理論物理でしたが、ここで、その後活躍する活躍する基礎が築かれたのだそうです。
”人に希望を語ることが、生きている人間の役目だと気づいた”
大学院を卒業してからも研究を重ねた佐治先生は、なにもないところからの宇宙創生に深くかかわる「ゆらぎ理論」の第一人者となります。NASAの客員研究員としてボイジャー計画に携わり、ボイジャーが宇宙で知的生命体に出会ったときを想定したメッセージとして、バッハの「プレリュード」を搭載することを提案しました。
なぜバッハだったのでしょう?ひとつの理由は、子どもの頃に聞いたパイプオルガンの思い出がずっと印象に残っていたから。もうひとつは、バッハの曲は、その構成がきわめて数学的で美しいからです。数学の論理こそが、宇宙の普遍的言語であると考えられることから、ETとの交信に役立つだろうと考えたそうです。
音楽や数学を学んだ後、理論物理の世界に入った佐治先生だからこそ、この提案ができたのでしょうね。
”ボイジャーは何千年も何万年も飛び続け、いつか本当にETに出会うかもしれません。ボイジャーに搭載したレコードには、半減期が40億年以上のウラニウム238が塗ってありますが、これは、今から40億年以内にETに遭遇したとき、いつ、どこからやってきたメッセージなのかがわかるように、時計として塗られているのです。そのころ、地球人類はもういないかもしれませんけれどね。
人の一生は百年足らずですが、自分の生涯の長さ、いえ、ひょっとしたら人類の時間をはるかに超えて残る仕事ができたのは、とても幸せなことだったと思っています。もし、私が最初の希望通り音楽家になっていたら、こんなことはできなかったでしょう。そう思うと、人生って不思議ですよね。”
佐治先生はその後、研究やプロジェクトを通して学んだことを若者に伝えるため、さまざまな大学で教鞭を執ることになります。その際、大事にしていたのは「希望を語ること」でした。
”はじめてウィーン大学に行ったとき、敬愛するシューベルトのお墓を訪れました。当時の私は、言葉の壁や、周囲にいるたくさんの秀才たちとの違いに悩んでいました。しかし、その墓碑に書いてあった言葉に、強烈な印象を受けたのです。グリルパルツァーという詩人の言葉で、日本語に訳すと、こういう内容です。
「ここに、ひとつの豊かな宝物を埋葬した。
しかし、それだけではない。たくさんの美しい希望をも埋葬した。
フランツ・シューベルト、ここに眠る」
2行目は、もしシューベルトが生きていたら、我々に与えてくれたであろうたくさんの美しい希望も埋めてしまった、ということです。私はここに胸を打たれたのです。つまり、人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。”
教えるとは「希望を語る」ことであり、授業とは「相手の心に火をつける」営みのこと。しかし、二酸化炭素しかなかったら、火はつきません。まずは酸素のある環境を整えること。そこにそっと火を灯すと、心はひとりでに燃えはじめる。それが先生の持論です。
佐治先生の授業は、ピアノやオルガンの演奏から始まり、金子みすゞさんやまど・みちおさんの詩、時には聖書や仏教の教典なども引用しながら、私たちが生きる世界の不思議を紐解いていくというユニークな内容で、学生から大きな評判を呼びました。
学生時代に周囲の「圧倒的な天才たち」に引け目を感じたという佐治先生ですが、たくさんのひとにわかりやすく世界の仕組みを教え、希望を与えることが先生の役割だったのかもしれませんね。
”昨日の自分はもういない”
~佐治先生のアトリエのある美瑛の風景
いま、レイブル期にある人の中には、過去の失敗から自信を失っていたり、やりたいことがあっても「自分にできるわけがない」と思ったりしている方がいるかもしれません。
でも、佐治先生によると、自分の体を構成している60兆の細胞のうち、約1%、つまり6千億が一晩のうちに入れ替わるそうです。昨日と同じ自分はもうどこにもいないし、数ヶ月後には別人と言ってもいいでしょう。そう考えると、何回でも生まれ変わって、新しい自分になれる気がしませんか。
”よく、「過去・現在・未来」といいますね。この時間の流れから考えると、「これまで」が「これから」を決めると思うかもしれません。でも、いまみなさんが思い浮かべている過去は、脳の中にメモリとして残っているものに過ぎず、実在しているものではありません。とすると、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられることになります。未来が過去を決める、「これから」が「これまで」を決めるのです。
人生というのは、編集作業に似ています。素敵な物語を、美しい暦としてつくっていきたいですね。”
佐治先生は68歳のとき、子どもの頃にはじめて聞いて感動した日本橋三越のパイプオルガンを弾く機会を得ました。知り合いになった三越の社員に思い出を話すと、閉店後に演奏できるよう取りはからってくれたのです。
”半世紀以上も昔、パイプオルガンをはじめて聞いた小学3年生の男の子が年老いて、いまこうしてその同じオルガンにふれている。そう考えると、とても不思議な気持ちがしました。夢なのか、現実なのか・・と。”
佐治先生はそのときのことを、愛おしそうに目を輝かせながら話してくれました。
”人生の半分くらいは予測できても、あとの半分はわからない。これが”ゆらぎ“です。真っ直ぐ一直線に歩こうとすると、莫大なエネルギーを必要とします。ゆらぐことによって、エネルギー消費量を少なくして余裕がでてくるものです。考えてみれば、私の人生って、ゆらぎっぱなしでしたね。
「明日何が起こるかわからない」ことに対して、「怖い」と思う方もいるかもしれません。確かに、怪我をするかもしれないし、失敗をするかもしれない。でも、素晴らしいことが起こるかもしれません。80年生きてきた私が若い人に伝えたいのは、「生きるって、悪いものじゃないよ。しかも、そのすばらしさは生きてみないとわからない」ということ。それが結論です。”
いくつものたとえ話を出し、さまざまな方向から熱心に語る佐治先生からは、「人生のすばらしさを伝えたい」という気持ちがひしひしと伝わってきました。
”もし、人生が灰色に思えたり、未来に不安を感じたときは、一呼吸してから空を見上げてみましょう。途方もなく長い時間と希望を乗せたボイジャーが、いつかETに出会うことを夢見て、いまこの瞬間も広い宇宙をひとりで旅しています。あなたも、この広大無辺な宇宙の中で、たったひとりだけの存在です。力む必要はないけれど、ちょっとだけ未来に向けて踏み出してみませんか。かけがえのないあなた自身の物語をつくるために。”
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みなさんは、このインタビューの記事をお読みになってどんな感想をもたれたでしょう?私の感想をお話するまえに、このインタビューの背景や経緯について、すこし触れておきます。
(佐治晴夫さんのプロフィール)立教大学の物理学科を卒業し、東大の大学院で物理を専攻。東大物性研やNASAの客員研究員などを経て、現在は鈴鹿短大名誉教授。現在は、北海道の美瑛に新設された「美宙(みそら)」天文台の台長。朝起きたらスタインウエイのピアノでバッハを弾き、日中は天体望遠鏡で真昼の星を見るとか。
余談ですが、佐治さんからある人に届いたメールの一部をご紹介します。"美瑛にいらしたら、ぜひ真昼の星を見ていただきたいです。”とあり、そこには金子みすゞの詩が引用されていました。
”昼のお星は目にみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ。見えないものでもあるんだよ” そして、”昼間の星を見る体験は、目に見えるものがすべてではないことを気づかせて
くれます”と結ばれていました。
(インタビューの経緯とこれを書いたライターについて)大阪府に「大阪一丸」という「レイブル」応援プロジェクトがあります>。”レイブル”とは、late bloomer ”遅咲きのことを言います。大阪府には約4万3000人といわれるニート状態の若者、その中でも働く意志を持ち行動している若者は”レイブル”と呼ばれ、就労から自立までを応援するプロジェクトです。企業と行政、それに府民が一緒に、まさに「大阪一丸」となってすべての若者がいきいきと働く、また働き続けることができる社会環境を育てようというものです。
この活動の一環として、「STORY OF MY DOTS」と題して様々な記事がそのウエブサイトに取り上げられています。今回、佐治先生にインタビューをして記事を書いたのはヒダエミコさん、東京在住のライターで、地域/自然/生き方働き方をテーマにしています。
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さて今回のインタビュー記事を知ったのはレオスキャピタルワークスの藤野英人CIOに紹介されたのがきっかけでした。”“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める”というタイトルに心を惹かれました。しかし、読んでいくうちに、それもふくめ次から次へと興味が湧いてきました。それをどうしても、みんなに紹介したいと思い、このブログで取り上げることにしました。
最初にでてくる惑星探査機ボイジャーのことはあまり知りませんでした。ボイジャープログラムというのはアメリカのNASAによる太陽系の外惑星および太陽系外の星の探査をする計画です。1977年8月に1号機が打ち上げられ、199月に2号機が打ち上げられています。なぜこの時期かというと、1970年代から80年代にかけて、木星/土星/天王星などが同じような方向にならび、より遠くまで到達するのに最適な時期だったからです。こんな遠大な計画を考えて、実行に移すアメリカという国は凄い国ですね。
このボイジャーには「地球の音」というタイトルメッキが施された銅版製のレコードが積まれ、地球上の様々な音が収録されました。その音の一つが、佐治先生の提案でバッハのプレリュード(平均律クラヴィーア曲集の第一番)が収録されています。
”バッハの曲は、その構成がきわめて数学的で美しいから”と佐治先生は言われています。この曲は、私も大変好きな曲です。ウラジミール・アシュケナージの演奏のものが、とくに気に入っています。それから、ジャズ・ピアノストのジョン・ルイスの弾いたものが好きです。彼はMJQのリーダーとして活躍しました。天から星が降ってくるように、音が降ってきます。それはともかく、数学的で美しいというのは、どういうことでしょう?
少し調べてみたら、そのことを語る女性ジャズ・ピアニストにして数学教育者の中島さち子さんという人がいました。彼女の語ることを聞いても数学音痴の私にとっては、よく理解できませんが、バッハの音楽の対称性ということを云っています。楽譜の左右が対称であるとか上下線が対称とか・・・。よく分かりません。リンクを張りましたので、それを見てください。これは数理女子を相手にしたトークです。ジャズと数学なんて凄い人がいるものですね。
なんだかよくわかりませんが、佐治先生はこの音楽なら、ETは理解してくれるのではないかと思われたのでしょう。
この次に興味を惹かれたのは、佐治先生の次の言葉です。
”人間が生きる意味は、人に希望を与えること、希望を語ることなんだ、と。それは生きている人にしかできないことなんだと気づいたのです。”
たしかに、前途に希望があればこそ、光明があればこそ、どんな暗い状況であっても人間は生きていけるのですね。ここで、ちょっと脱線して瀬島龍三氏のことをお話しします。
瀬島は、元大本営参謀で、終戦後シベリアに抑留された。帰国後、伊藤忠商事に招かれのちに会長となって活躍した。この人物については様々な評価があります。山崎豊子の『不毛地帯』は、瀬島をモデルとして好意的に描かれていますが、半藤一利の『ノモンハンの夏』では、違う実像で描かれています。それはともかく、11年の長きにわたるシベリアでの抑留生活をどうやって生き延びたのでしょうか。
彼は、シベリアで人間として見てはならぬもの、してはならぬことをやらねばならない地獄の生活を体験しています。とくに極寒の地シベリアでの七ヶ月間の独房生活では極限状態に突き放されました。瀬島は独房の壁に観音像を刻みつけ、独房での寂寥に耐えられなくなると一心不乱に観音経を唱えたのです。
”世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音”
彼は幼いときから母親に、”苦しくて苦しくて仕様がなくなった時、観世音菩薩の御名を一生懸命唱えると観音様はそれをききわけて、その苦しみから救ってくださるのです”ろ繰り返し聞かされてきました。彼が観音経を唱えているうちに、真っ暗だった心の闇に小さな一点の光明が灯った。瀬島は、そのかすかな光明に向かって突進しました。観音経を誦すれば誦するほど、だんだん光明が大きくなり、不安が消え去っていったのです。
というエピソードがあるのですが、何か人に希望を語ることができればいいですね。
最後にとりあげるのは、冒頭でご紹介した“これまで”が“これから”を決めるのではなく、“これから”が“これまで”を決める”、という言葉です。佐治先生は、「これまで」が「これから」を決めるのではなく、これからどのように生きるかによって、過去の価値は、新しく塗り替えられる、つまり未来が過去を決めると云っておられます。
佐治先生は、何事にも肯定的な考え方をされるようですね。私自身も、いくつかの分野で様々な失敗を繰り返してきました。人間関係もあれば、仕事の上でのこともあれば、投資の関連のことなどもあります。だからといって、それらの失敗から自信を失ったりはしていません。むしろ、そこから反省をし、新しいフェーズに進んでゆきます。また過去の失敗体験から、こんなことは自分にできるわけはないと思ったりはしていません。過去の失敗を将来の糧としてそれを生かしてゆくことができれば、その失敗も生かされてくると考えます。
”これから”が”これまで”を決めると言うようなことではなく、柔軟に考えればいいのではないでしょうか? 佐治先生の言葉は、これまでの失敗を今後どのように生かしてゆくかを考える、一つのきっかけとはなりました。
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みなさまが、どのようにこインタビュー記事を受け止めれられるか。お話を伺うのが楽しみです。