読書『マティスを追いかけて』(ジェームズ・モーガン アスペクト 2006年6月)
(その1)
一年かけてフランスを回り、画家マティスの足跡を追ったアメリカ人夫婦の旅の記録である。私の知人や友人の中にもゴッホの生家を訪れたり、またフェルメールの作品をすべて見てまわったりと好みの画家の跡を辿る人も何人かいる。しかしこの本の著者のように一年以上もフランスに滞在し、画家マティスの人生の旅を追って各地をまわるような精力的な旅をしたひとは聞いたことがない。この読書日記を書くために再三読み返してみるうちに気がついたのであるが、これは単なる画家とその作品を追っただけの記録でなく、マティスという人間の人生を追うことでその姿勢に共感し、己の人生を見つめ直す旅でもあるのだ。
そういう意味で、原題の”Chasing Mattise”に代えて”Chasing the Dream" としたほうがいいかも知れない。
(この旅のプロジェクトに至るまで)
著者ジェームズ・モーガンは、元雑誌編集者だったが、40才代半ばで作家に転身し、再婚相手のベスとアーカンソー・リトルロックの引っ越して執筆生活をはじめたのである。その住まいを試行錯誤しながら装飾を加えたのであるが、それにはベスの弟のブレントの言葉がきっかけになった。 「マティスの色にヴュイヤールの模様」というのがブレントの処方箋だった。
”けれども私たちはブレントのくれたヒントをもとに、壁を塗り直した。地中海の青色、ひまわりの黄色、黄土色(オーカー)、赤褐色(テラコッタ)、青紫色(ペリウインクル)、そしてベスと私が特に愛したゼラニウムの色をふんだんに使って。”
13年そこで生活し、子供たちが成人したころ、ジェームスは昔からの憧れだったヘミングウエイにいつしか魅力を感じなくなっていた。作家としての挫折を理由に自分を消去したことは彼の過ちであったと考えるようになった。そしてブレントがくれた「マティスの色」というアドバイスが発端となり、次第にマティスに関心を抱くようになっていった。
”やがて私は、このテーマをめぐってマティス自身が語った電撃的な言葉に出会うことになる。「われわれが日常見ているものはすべて、多かれ少なかれ、それまでの人生で身についてしまった習慣によって、ゆがめられている」 1953年のマティスの言葉だ。・・・・・「ゆがみのないまっすぐな目で見るためには、ある種の勇気が必要だが、その勇気こそが、画家にとって命ともいうべき大切なものだ。すべての事物を、あたかも初めて見るかのように、それも幼い子供の視線でみること。その力を失えば、画家は独創的・個性的な方法で自分を表現することが、もはやできなくなってしまう」
(マティスはパリのアカデミーでは、教師に、お前には絵は描けないと責め立てられ遠近法なんか、わかっていないと言われ、それでも15年間絵を描きつづけたが何年ものあいだ一枚の絵も売れなかった)
”しかしマティスは屈しなかった。大胆にも、主流だった茶色や灰色のの色調を捨て、当時では危険さえともなった、みずみずしい色彩を信条に掲げた。写実的な描写法をも拒み、真の芸術家とは、外面ではなく、内なる感情を表現するものだと言い放った”
そしてマティスの創造への激しい欲求に、著者は深く心を動かされた。
”夢が何度もくじかれそうになるたびに見せた彼の勇気と執念のすごさを、今の私なら十分に味わえる。・・・ヘミングウエイとくらべてみたとき、マティスの生涯についてもっとも敬服するのは、マティスが最後まで戦い抜いたということだ。自分の内面をとことん掘り下げて、新しいもの、創造的なもの、人生を肯定するものを、生涯かけて探しつづけたことだ。・・・マティスは、84歳になって、もはや描くための視力をほとんど失いながらも、車椅子に座った姿勢のまま、自分を表現する最大限の努力を惜しまなかったのだ。ー陽光あふれる南フランスで、鮮やかに彩った紙を切り紙絵にし、アトリエの壁にピンでとめてゆくことで。”
注)この切り絵作品は、「ジャズ」とよばれリトグラフ集(20枚の版画とマティスの文からなる)となった。
絵を描くことを楽しむと同時に、絵を描くことの真の意味と目的を掴みかねていたモーガン夫妻に、次第に一つのアイデアが形を取りはじめた。
”ベスを旅に道連れかつ絵のモデルにして、数ヶ月かけてアンリ・マティスの足跡を地理的に辿ってみようという計画を、私は立てはじめた。彼の描いた世界を眺め、またみずからも描いてみるのだ。生まれ故郷ピカルディ地方を織物も町を皮切りに、夢と雑踏の街パリ、風吹きすさぶブルターニュ海岸沖の島ベル島、南の明るい太陽に魅せられ彼の人生が一変したコルシカ島、色彩を爆弾のようにあやつったピレネー山脈のふもとの町コリウール、そして壮大な精神の上に築かれた文化を体感した異国情緒のモロッコから、フランス・リヴィエラ海岸を抜け、円熟したマティスが傑作をつぎつぎと生み出すことになった、逸楽の街ニースと神聖なヴァンスに至るまで”
”マティスのような画家を目指したいなどという、おこがましい考えからではない。ーそれこそ身のほど知らずというものだ。しかし、マティスのあの自信にあふれた情熱にあやかって、自分の悲観的な性格を変えてみたいという、強い思い入れがあったのはたしかだ。ベスも私も、マティスの創造生活に対するひたむな態度から、新しい力を授かりたいと思っていた”
そして二人は、残りの人生すべてをかけるだけの価値があるはずだと、旅の決断を下す。思い出のあるリトル・ロックの家を売り払い、借金をすべて返済する準備をする。
(前置きが長いですね。しかしこれが最も重要なところなのです。そして全体で450頁もある大著ですから、この程度のことはお許しください。いよいよ楽しい旅がはじまります)
(続く)
(その1)
一年かけてフランスを回り、画家マティスの足跡を追ったアメリカ人夫婦の旅の記録である。私の知人や友人の中にもゴッホの生家を訪れたり、またフェルメールの作品をすべて見てまわったりと好みの画家の跡を辿る人も何人かいる。しかしこの本の著者のように一年以上もフランスに滞在し、画家マティスの人生の旅を追って各地をまわるような精力的な旅をしたひとは聞いたことがない。この読書日記を書くために再三読み返してみるうちに気がついたのであるが、これは単なる画家とその作品を追っただけの記録でなく、マティスという人間の人生を追うことでその姿勢に共感し、己の人生を見つめ直す旅でもあるのだ。
そういう意味で、原題の”Chasing Mattise”に代えて”Chasing the Dream" としたほうがいいかも知れない。
(この旅のプロジェクトに至るまで)
著者ジェームズ・モーガンは、元雑誌編集者だったが、40才代半ばで作家に転身し、再婚相手のベスとアーカンソー・リトルロックの引っ越して執筆生活をはじめたのである。その住まいを試行錯誤しながら装飾を加えたのであるが、それにはベスの弟のブレントの言葉がきっかけになった。 「マティスの色にヴュイヤールの模様」というのがブレントの処方箋だった。
”けれども私たちはブレントのくれたヒントをもとに、壁を塗り直した。地中海の青色、ひまわりの黄色、黄土色(オーカー)、赤褐色(テラコッタ)、青紫色(ペリウインクル)、そしてベスと私が特に愛したゼラニウムの色をふんだんに使って。”
13年そこで生活し、子供たちが成人したころ、ジェームスは昔からの憧れだったヘミングウエイにいつしか魅力を感じなくなっていた。作家としての挫折を理由に自分を消去したことは彼の過ちであったと考えるようになった。そしてブレントがくれた「マティスの色」というアドバイスが発端となり、次第にマティスに関心を抱くようになっていった。
”やがて私は、このテーマをめぐってマティス自身が語った電撃的な言葉に出会うことになる。「われわれが日常見ているものはすべて、多かれ少なかれ、それまでの人生で身についてしまった習慣によって、ゆがめられている」 1953年のマティスの言葉だ。・・・・・「ゆがみのないまっすぐな目で見るためには、ある種の勇気が必要だが、その勇気こそが、画家にとって命ともいうべき大切なものだ。すべての事物を、あたかも初めて見るかのように、それも幼い子供の視線でみること。その力を失えば、画家は独創的・個性的な方法で自分を表現することが、もはやできなくなってしまう」
(マティスはパリのアカデミーでは、教師に、お前には絵は描けないと責め立てられ遠近法なんか、わかっていないと言われ、それでも15年間絵を描きつづけたが何年ものあいだ一枚の絵も売れなかった)
”しかしマティスは屈しなかった。大胆にも、主流だった茶色や灰色のの色調を捨て、当時では危険さえともなった、みずみずしい色彩を信条に掲げた。写実的な描写法をも拒み、真の芸術家とは、外面ではなく、内なる感情を表現するものだと言い放った”
そしてマティスの創造への激しい欲求に、著者は深く心を動かされた。
”夢が何度もくじかれそうになるたびに見せた彼の勇気と執念のすごさを、今の私なら十分に味わえる。・・・ヘミングウエイとくらべてみたとき、マティスの生涯についてもっとも敬服するのは、マティスが最後まで戦い抜いたということだ。自分の内面をとことん掘り下げて、新しいもの、創造的なもの、人生を肯定するものを、生涯かけて探しつづけたことだ。・・・マティスは、84歳になって、もはや描くための視力をほとんど失いながらも、車椅子に座った姿勢のまま、自分を表現する最大限の努力を惜しまなかったのだ。ー陽光あふれる南フランスで、鮮やかに彩った紙を切り紙絵にし、アトリエの壁にピンでとめてゆくことで。”
注)この切り絵作品は、「ジャズ」とよばれリトグラフ集(20枚の版画とマティスの文からなる)となった。
絵を描くことを楽しむと同時に、絵を描くことの真の意味と目的を掴みかねていたモーガン夫妻に、次第に一つのアイデアが形を取りはじめた。
”ベスを旅に道連れかつ絵のモデルにして、数ヶ月かけてアンリ・マティスの足跡を地理的に辿ってみようという計画を、私は立てはじめた。彼の描いた世界を眺め、またみずからも描いてみるのだ。生まれ故郷ピカルディ地方を織物も町を皮切りに、夢と雑踏の街パリ、風吹きすさぶブルターニュ海岸沖の島ベル島、南の明るい太陽に魅せられ彼の人生が一変したコルシカ島、色彩を爆弾のようにあやつったピレネー山脈のふもとの町コリウール、そして壮大な精神の上に築かれた文化を体感した異国情緒のモロッコから、フランス・リヴィエラ海岸を抜け、円熟したマティスが傑作をつぎつぎと生み出すことになった、逸楽の街ニースと神聖なヴァンスに至るまで”
”マティスのような画家を目指したいなどという、おこがましい考えからではない。ーそれこそ身のほど知らずというものだ。しかし、マティスのあの自信にあふれた情熱にあやかって、自分の悲観的な性格を変えてみたいという、強い思い入れがあったのはたしかだ。ベスも私も、マティスの創造生活に対するひたむな態度から、新しい力を授かりたいと思っていた”
そして二人は、残りの人生すべてをかけるだけの価値があるはずだと、旅の決断を下す。思い出のあるリトル・ロックの家を売り払い、借金をすべて返済する準備をする。
(前置きが長いですね。しかしこれが最も重要なところなのです。そして全体で450頁もある大著ですから、この程度のことはお許しください。いよいよ楽しい旅がはじまります)
(続く)
この記事を書きながらマティスを改めて見直しているというのが正直なところです。世界中の美術館のサイトをチェックしてまわって、マティスの絵をみています。いずれにしろ鮮烈な光と色彩は、私の好むところであります。まだ、なにやかやと血の騒ぐ年頃ですので。数年前のことですが、『マティス・ストーリーズ』というA.S.バイアットの短編小説を読んだことがあって、以来マティスの絵のもつ意味を探っています。
マティスの手によったフランスの教会のシーンは見てみたいですね。やはり現地で体感しなければ、よさは実感できないでしょう。
気合いをいれて、後編に取り組みます。ありがとうございました。
ご参考まで!