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(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 米沢へ(その二)

2015-01-30 | 読書
エッセイ 米沢へ(その二)

 本論からはずれ、あちこち脱線することをお許しください。


 ロバート・ブラウニングの詩「ベン・エズラ博士」を再掲することから話を始める。

 ”努めよ そして艱難を苦にするな。
  学べ、 痛みを恐れずに
   行え 悩みをつぶやかずに 
  人生は 失敗とみえるところに成功が・・
   そしてそのように生きたひとは 火が消え灰になっても
   後に一粒の黄金が残る”

 この詩のことを知ったのは評論家として活躍された坂西志保さんの言葉からである。アメリカのミシガン大学を卒業し哲学博士の学位を得ている彼女は戦後も民主主義とはなにかについて語り続けたひとである。父親から聞かされた話の中から”人間は生きるために食い、食うために生きるのではない、ということばが記憶に残り、幼いなりに”人間は、なにかはっきりした目的をもって生きなければならない”と思うようになった。そんな時にブラウンニングの詩にであったとのことである。私は、この詩を読んで原文に接したくなった。1980年代のある年、海外出張で出かけた際、ロンドンに寄り道させてもらった。ロンドンの街の真ん中にあるチャリング・クロスとセント・マーティン・レーンをつなぐセシル・コートは神田のような古書店の集まる町である。ふと立ち寄った一軒の書店でブラウニングの詩集を見つけることができた。それはペンギン・ポエタリー・ライブラリーの中の一冊であった。古ぼけて変色もみられたが、チェリストのパブロ・カザルスがふと立ち寄った港のそばの古い楽譜屋で、ぼろぼろになり、時の流れに黄ばんだバッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜に出会った時のような感慨を覚えたものである。原文の一部を載せる。

          

 ”(RABBI BEN EZRA)
Youth ended, I shall try
My gain or loss thereby
 Leave the ashes, what survives is gold
And I shall weigh the same,
Give life its praise or blame
Young, all lay in dispute; I shall know,being old.”

     注)ロバート・ブラウニングはヴィクトリア朝の詩人。日本では上田敏の『海潮音』の中の名訳「春の朝(あした)」を知らぬものはないであろう。劇詩「ピパが行く」”時は春、日は朝(あした)、朝(あした)は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで かたつむり枝に這ひ 神、空にしろしめす。すべて世は事もなし”

 上杉鷹山が、”火種”と言ったのはこ一粒の黄金のことである。洋の東西を問わず、同じような考え方があるのは興味ふかい。この火種を次々と人の胸に移すことにより、鷹山は誰も考えもしなかった藩政改革に挑んだのである。鷹山は藩士や藩の家老など多くの反対を押し切り、古き悪習・淀んだ藩政、狎れきった商人との癒着。そしてなによりも変化を恐れる武士さらには商人・農民たちの考え方を変えていったのである。

 実はこのことは現代におけ企業経営にも通ずることである。日本の大企業でもそうであるが米国のエクセレント・カンパニーでも同じようなことが見て取れる。『上杉鷹山』の小説を読んでいた時、同時に「ものづくりの未来を変える GEの破壊力」というレポートを読んだ。(日経ビジネス2014年12月22日号) 日経の記者たちがGEの会長兼CEOのジェフ・イメルトなどの幹部や、同社とビッグ・データ活用で提携したソフトバンク・孫社長などの幹部にインタビューを行い、さらに製造業を激変させる可能性をはらんだインダストリアル・インターネットなどのGE社の取り組みを追った、極めて興味深く、かつクオリティのの高いレポートである。そのことに入る前にGEのことを少しご紹介しておこう。

  GE(ゼネラル・エレクトリック)はアメリカのダウ工業株30種のひとつである。この中では、3MやP&Gそれにユナイテッド・テクノロジーズなどが、私のひいきである。GEはご存知のように30万人の従業員をを擁する世界最大の複合企業(コングロメレート)であるが、かつて金融部門の比率が高く、”ごひいき”ではなかった。しかし最近になり製造部門の比率が70パーセントにもあがり製造業部門が中心となってきた。航空機エンジン/医療機器/産業用ソフトウエア/鉱山機械/鉄道機器/火力発電用ガスタービン/原子力/油田サービス/天然ガス採掘機器などなどでそれぞれナンバーワンかナンバー2の位置を保っている。あのジャック・ウエルチが会長をつとめ、世界最強の企業である。1889年にエジソンが創立した。産業機器では他を圧倒する同社に陰りはみられない。しかしイメルトは遥か先を見据え、単なるものづくり企業からモノとデータを融合する21世紀の産業革命を見据えているのである。主力のエンジンやタービン、鉄道車両などに無数のセンサーを組み込み、顧客の現場での稼働状況をリアルタイムで監視、そに尨大なデータを解析して故障の予防や稼働効率の向上につなげる。日本でも小松製作所が建設機械や鉱山機械ですでに実施している。しかしGEのそれは更に幅広く、また先を行っている。収集したデータはGEの開発プロセスにも反映され、製品設計の最適化へ生かされてゆく。インダストリアル・インターネットはGEにとって抜本的な事業モデルの刷新である。データ解析とソフトウエアの力で製品やサービスの顧客価値を飛躍的に高める、文字通りのものづくり革命なのである。GEを自己変革に突き動かすものは、アマゾンが小売業者を破壊し、アップルが音楽業界を破壊したように、GEが変わらなければ、いずれ産業機器でも同じような道を歩む、という恐怖にも似た認識である。インダストリアル・インターネット以外にも3Dプリンターを活用した極小工場や、開発期間を根底から短縮・迅速化するファストワークスなどの展開がすでに行われている。

 常識を破壊するような変革を巨大企業で行うのは容易ではない。そこでGEはリーダーたちの意識を変え、変化を加速するように仕向けている。社員数が30万人の巨大企業では変革の難しさも桁違いである。

 ”GEのリーダーは、経営トップの生の声を聞き、会社が何を目指しているのかを徹底的にシャワーのように浴びる。そんな強烈な伝達システムが存在する”~日本GEキャピタル安渕氏談
 毎年1月にフロリダ州ボカラトンで65名の世界中の経営幹部が集合する。またNYのクロトンビルにある人材育成の中核拠点では、イメルトCEOが月に2ないし3回足を運び、経営幹部に直接語りかける。またGEでは、企業文化そのものにもメスを入れている。GEは社員が重視する価値観も考えなければならないと考えている。また失敗しても挑戦を評価する姿勢である。 

 以上見てきたことは、上杉鷹山が米沢藩改革で取り組んだに共通している。そんなことをふと感じたのである。藩政改革も企業の経営改革も、要は人の問題であり、人々の意識を変えることにあらゆる努力を惜しまなかった上杉鷹山の偉大さを改めて思う。その鷹山に幼少時代から影響を与えた細井平州のことを稿を改めて語りたいが、ここでは彼の記念館が名古屋の東海市にあることだけを付け加えて置く。親しい友人が調べてくれたところによれば、平洲は愛知県知多郡平島村(今の東海市)の生まれである。彼は、実学的で、政治的には身分制度を打破する自由・平等の思想をもち、その著書の『嚶鳴館(おうめいかん)遺草』は吉田松蔭や西郷隆盛などの幕末の志士たちにも影響を与えたといわれる。同じ郷土に育った人間のひとりとして、そのことを誇らしく思うのである。

 
     ~~~~~~~~~~~~~~

 かなり道がそれてしまった。最後に米沢そのもののこと触れておくことする。今から137年前のことである。明治も初期の11年に一人の英国夫人が日本の奥地(東北・北海道)を単身で旅をした。彼女の名は、イザベラ・バード。その旅行記が『日本奥地紀行』と題して出版された。当時、日本最善の旅行記と言われた。6月から9月、三ヶ月をかけて東京から日光、そして会津、新潟、山形、秋田、青森さらに蝦夷(北海道)へ足を伸ばした。山形県の置賜(おきたま)盆地(米沢平野)に入った時、その美しい田園風景について、”実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデア(桃源郷)である”と称賛している。また単なる景観だけでなく、肥沃な大地が耕作する者たちのものであり、そこの圧迫のない自由な暮らしがあることに深い印象をもったのである。紀行文の一部をここに抜粋しておく。

     

 ”数多くの石畳を登ったり下ったりして高い宇津の峠を越えた。・・・私は、うれしい日光を浴びている山頂から、米沢の気高い平野を見下ろすことができて嬉しかった。米沢平野(置賜盆地)は長さ30マイル、10ないし18マイルの幅があり、日本の花園のひとつである。木立も多く灌漑がよくなされ、豊かな町や村が多い。壮大な山々が取り囲んでいるが、山々は森林地帯ばかりではない。・・・”

 ”たいそう暑かったが、快い夏の日であった。会津の雪の連峰も、日光に輝いていると冷たくは見えなかった。米沢平野は南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべてそれらを耕作している人々の所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ザクロの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である・・・”

 
      (小国町の黒沢峠)


 いやますます米沢へ行ってみたくなりました。せっかくですので自然の風景に加え上杉鷹山が奨励して始まった米沢織の美しさも眺めてみたくなりました。そして最後には、やはり米沢牛ですね!あはは(笑) 長文におつきあいいただき、ありがとうございました。


      

 


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エッセイ 米沢へ

2015-01-22 | 読書
エッセイ 米沢へ

 米沢~米沢藩~上杉鷹山~GE(ゼネラル・エレクトリック)のダイナミックな組織改革~そこに関連する”火種”ということば~ロバート・ブラウニングの詩~さらに明治初期の日本の奥地を旅した英国夫人、イザベラ・バードのこと・・・これらが私の頭の中ですべてリンクしています。上杉鷹山の本を読んでいる、その夜に瞬時にこれらのことが頭をよぎりました。そのことを順を追って描いてみます。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 親しい友人が、この春所要があって山形へ旅をすると云う。山形といわれても余りなじみがない。知っているのは芭蕉が奥の細道の旅で訪れた月山、羽黒山、それに藤沢周平の故郷であり彼の小説の舞台としてさまざまな形で登場する鶴岡の街くらい。それらの場所にしても行ったことがない。ところが用をすませた後、新庄へ回り山形新幹線に乗り南下するとのこと。それならば、”天童あたりで途中下車して温泉にはいり、うまい山形牛でも味わったらどうか”と水を向けたが、織りに関心のある友人は米沢で降り、米沢織をこの目で見たいという。あくまで口がいやしい私は、”米沢牛が旨いよ”とアドバイスを送る。

 しかし、それはともかく米沢と言ってもこれまた知識がない。が、米沢藩といえばあの上杉鷹山公が破たん寸前、というより財政破綻で崩壊の危機に瀕していた藩を藩政改革を断行して救ったことを思い出した。1961年に第35代合衆国大統領に就任したケネディは記者会見で日本人記者団から、「日本の最も尊敬する政治家は?」と聞かれ、「上杉鷹山」(うえすぎようざん)と答えている。このエピソードの真偽を疑う人もいるが、事実である。当時のアメリカの新聞に、次のような文が掲載されていたのある。


 ”Uesugi Yozan (1751-1822), the ninth lord of the Uesugi Clan and former ruler of Yonezawa and the Okitama region, was named by former U.S. president John F. Kennedy as the Japanese leader he most admired. When asked this question at a press conference, Kennedy was most likely thinking of Yozan's greatest accomplishment: pulling the Uesugi Clan out of a centuries old debt and avoiding bankruptcy by encouraging not just the farming class but even the idle warrior class to work in cooperation and with mutual trust and respect. Yozan was able to convince the people to do this by actually setting examples himself, living modestly, and encouraging others to speak out on and question traditional (but not practical) customs. Unfortunately, when Kennedy mentioned Yozan's name a Japanese journalist asked back "Yozan who?", indicating that most Japanese people were unaware of this great leader. It is said that Kennedy was impressed upon reading about Uesugi Yozan in the book Bushido by Nitobe Inazo, written in the U.S. in 1899. This book was later published in Japan, and has been translated into several languages.”

 この事も思い出し、上杉鷹山についての小説を二つ手にとった。もちろん一つは藤沢周平の『漆の実のみのる国』(1997年5月 文藝春秋社)である。藤沢は、丹念に埋もれた資料を渉猟し、上杉伝説の実情を明らかにしようとした。もう一つある。それは小説家童門冬二の手になる『上杉鷹山』である。童門は東京都の美濃部都政をスピーチライターとして支えた人で、組織の経営、リーダーの統率力、人間学、などの著作が多く、米沢藩という組織の改革という視点が多分に盛り込まれた本である。物語はドラマチックに描かれており、これはこれで興趣のある本である。その中の一節に触れることにする。

     

 日向高鍋藩とい小藩から米沢藩第9代藩主となった上杉治憲は江戸藩邸にいる間に危機的な状況にありながら何らの改革に動き出そうとしない国元の米沢に入る。いよいよ藩の領地に入ろうかというところでのことである。

 (灰の国で)米沢城まであと一里。盆地に入っても米沢国内の光景はまったく変わらなかった。土地は痩せ、荒れ果てているのが、雪に覆われていてもよくわかった。暮らしている藩民たちにまったく生気がない。あわてて道端に彼らが土下座するが、その目は死んでおり、治憲という新藩主に何の期待の気持ちも持っていなかった。・・・

 米沢に住む人々は、自然の冬だけでなく、心の冬に鋭くおそわれていた。そして、その心の冬には、いつまで待っても春はこない。永久に凍りついている冷たさを持っていた。・・・心が死んでいるのだ。米沢藩に住む領民は、誰ひとりとして希望を持っていなかった。希望がないから心が死んでいるのである。

 籠の中に煙草盆があった。その中に灰皿があった。灰皿の灰は冷たく冷えていた。治憲はその灰皿に目を止め、「米沢の国はこの灰とおなじだ」とつぶやいた。冷たい灰が、そのまま米沢の国を象徴しているように思えたのである。「この死んだ灰とおなじ米沢の国に、なにかの種を蒔いて一体育つだろうか。恐らくすぐ死んでしまうにちがいない。だからこの国の人間は誰も希望を持っていないのだ・・」 そのうちに、治憲は、何の気なしに冷たい灰の中を煙管(きせる)でかきまわしてみた。灰の中に小さな火の残りがあった。それを見ると、突然治憲の目は輝いた。治憲は何を思ったのか、部屋の隅にあった炭箱から新しい黒い炭を取り出して残り火の脇においた。そして煙管を火吹き竹の代わりにしてふうふうと吹き始めた。つまり、残った火を新しい炭に移そうとしたのである。友の者たちは、不審に思って治憲に何をしているのかと声をかけた。治憲は籠からおり、雪の道に降り立った。手には灰皿と、その上に新しくおこした炭火を持っていた。怪訝な顔をする家臣団に治憲はこう言った。

 「実は福島から米沢への国境を越えて、板谷宿で野宿し、さらにその宿場を発って沿道の光景を見ながら、私は正直いって絶望した。それは、この国が何もかも死んでいたからだ。この灰と同じようにである。恐らくどんな種をまいても、この灰の国では何も育つまいという気がした。・・・私は、いい気なって今までお前たちに改革案を作らせたが、しかしそれを受け入れる国の方が死んでいた。これは気がつかなかった。私は甘かった。、そこで深い絶望感に襲われ、灰をしばらく見つめていた。やがて私は煙管をとって灰の中をかき回してみた。すると、小さな火の残りが見つかった。私は、これだ、と思った。これだというのは、その残った火が火種になるだろうと思ったからだ。そして、火種は新しい火をおこす。その新しい火はさらに火をおこす。そのくりかえしが、この国でもできないだろうか、そう思ったのだ。そして、その火種は誰あろう。まずおまえたちだと気がついたのだ。江戸の藩邸でいりろいろなことを言われながらも、私の改革理念に共鳴し、協力して案をつくり、江戸で実験して悪いところを直し、良いところを残す、そういう辛い作業をやってくれた。そして今、、その練固まった改革案を持っていよいよ本国に乗り込もうとしている。そういうおまえたちのことを思い浮かべたとき、おまえたちこそ、この火種ではないかと思ったのだ。お前たちは火種になる。そして、多くの新しい炭に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり藩民のことだ。それらの中には濡れている炭もあるだろう。湿っている炭もあろう。火のつくのを待ちかねている炭もあろう。一様ではあるまい。ましてや、私の改革に反対する炭も沢山あろう。そういう炭たちは、いくら火吹き竹で吹いても、恐らく火はつくまい。しかし、その中にも、きっと一つやふたつ火がついてくれる炭があろう。私は今、それを信ずる以外にないのだ。そのためには、まず、お前たちが火種になってくれ。そしてお前たちの胸に燃えているその火を、どうか心ある藩士の胸に移してほしい。城についてからそれぞれが持ち場に散ってゆくであろう。その持ち場持ち場で、待っている藩士たちの胸の火をつけてほしい。その火が、きっと改革の火を大きく燃え立たせるであろう。私はそう思って、今駕籠の中で一生懸命この小さな火を大きな新しい炭に吹きつけていたのだ」


 この治憲の言葉に多くの家臣団は感動し、”その火をお借りして、さらに大きな新しい炭に火を移します。そして、お屋形さまがいう改革が達成されるまで、その火を決して消しません” と申し出たのである。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この(灰の国)の文は、この小説の中で最も感動的な部分である。そしてこれを目にしたとき、私は”あっ”、と思った。英国の詩人、ロバート・ブラウニングの詩「ベン・エズラ博士」のことを思い出したのである。

 ”努めよ そして艱難を苦にするな。
  学べ、 痛みを恐れずに
  行え 悩みをつぶやかずに 
  人生は 失敗とみえるところに成功が・・
  そしてそのように生きたひとは 火が消え灰になっても
  後に一粒の黄金が残る”


 この詩の詳しいこと、またそれとの出会いについては次回に譲る。さらにそこではアメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック社)のダイナミックな経営改革のこと、そして最後は明治の初期に日本の奥地を単身旅行した英国夫人イザベラ・バードのみた米沢盆地の美しさについてふれることにする。


(次回へつづく)




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(予告編)エッセイ 米沢へ

2015-01-21 | 読書
上杉鷹山(ようざん)が破綻寸前に立て直した米沢藩のこと、米沢の置賜(おきたま)盆地の美しさ。これらとゼネラル・エレクトリック社の改革、果ては英国の詩人ロバート・ブラウニングの詩のことまで思いは
広がってゆきます。ただ今制作中です。しばらくお待ち下さい。





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エッセイ 長谷寺のこと~こもりく初瀬

2015-01-14 | 読書
エッセイ 長谷寺のこと~こもりく初瀬


 冬牡丹の季節がやってきた。上野公園の東照宮や鎌倉八幡宮など寒牡丹が美しい花を咲かせているスポットは少なくない。奈良にも当麻寺という牡丹の名所がある。しかし、その数、見事さ、また神域ともいうべき雰囲気の中でみる冬牡丹は長谷寺がいい。 

 ”いくたびも参る心ははつせ寺 山もちかいも深き谷川”

これは花山天皇の御製である。この人は有力な外戚もなく、いろいろあってわずか2年で退位している。しかし拾遺和歌集を御撰するなど芸術的な才能のあるひとで、出家後三十三ヶ所の観音霊場を回り、和歌を残している。それが西国三十三ヶ所のご詠歌となった。この長谷寺の歌も、はつせ寺~はじめてのお寺、ちかいも深き~誓もふかい、などかかっていて、リズム感もよく愛唱されている。いや道がそれそう。この長谷寺には、若い頃からいろいろ思い出もあり、また昨今、十一面観音に興味をいだいているので、また訪ねてみようと思っており、色々なことを思い出した。それらをすこしメモワールとして残しておきたくなった。

 ご存知のように長谷寺は奈良の大和西大寺から南下し、近鉄大阪線の桜井から二駅ほど東に行ったとこにある。すこし不便なところである。遥か平安時代にもみやこの女房や天皇たちが長谷寺詣でをしているが、おそらく徒歩あるいはかごで途中二三泊しての道中であったと思われる。なぜ彼ら、彼女たちを惹きつけたか。それは後にして、私自身もまだ二十代のころから長谷寺には再三足を向けている。もちろんガールフレンドを案内してのことである。当時は、ウエブサイトでの案内はもちろん、ろくな観光資料もあまりなかった。記憶にあるのは、『古都巡り』、『みほとけとの対話』『美を求める心』などを書いた随筆家岡部伊都子の本である。それを読んで心ときめき、遠路はるばる出かけて行ったという次第である。

 長谷寺のことを語るまえに、ご存知でない方もおられるでしょうから、すこし様子をご紹介しましょう。以下は十年ほど前の五月の風景である。まず総門を入ると、登廊(のぼりろう)がある。平安時代の創建である。上中下、399段をゆっくり上ってゆく。登って行く間に心が沈潜してくるような気になる。そして小初瀬山の中腹に本堂がある。高みから見おろす景色は素晴らしい。そしてここから左手にみる五重の塔の眺めが新緑や秋には紅葉に溶け込んでいて素晴らしいものがある。
                                                       (写真が3葉 古いものが混ざっており、お見苦しところご容赦ください)

     


     

 春は桜。初夏には牡丹、シャクナゲまたテッセン、紫陽花などの花々が咲きつづいて別名<花の寺>とも呼ばれる。

     


 なお冬の最中にお参りする人はあまりなく、よほど信心深い人しかいないと言われる。しかし、ここの冬牡丹は見るに値する。再び訪れてみたい。

  ”舞う雪も華のあきらか寒牡丹” (皆吉爽雨)

(十一面観音)

 本堂にある本尊は十一面観音である。10メートル18センチの高さの立像。木造の仏としては日本最大級とも言われる。元は平安時代の作とか。地蔵菩薩の像も、穏やかな眼差しで心が惹かれる。この十一面観音については、その生い立ちについてのエピソードをご紹介しておこう。
 
     

 ”初瀬に一人の聖がいた。徳道上人という。里人から大木の樟を譲りうけ、十一面観音を造ろうと願っていた。誰も手伝ってくれる人もなく、この霊木を礼拝するだけで7~8年が過ぎてしまった。この樟には長い歴史があった。『今昔物語』などによると、継体天皇のころ近江に大洪水があり、高島郡の深山から巨大な樟がびわ湖に流失した。伐るとたちまち禍がおこるので、人は畏れて近づかず大津の湖上に浮かんだまま何十年も打ち捨てられていた。

 大和の葛木下の郡に住む人がその噂を聞き、十一面観音を彫ろうとい念願を起こした。が、大きすぎるので、とても大和までは運べない。ためしに曳いてみると案外たやすく動いたので、往来の人も手伝って大和の当麻の里まで運んだ。しかし、目的も果たさぬうちにその人も死に、樟はそこに八十年余のあいだ巨大な姿を晒していた。その頃、当麻では病にかかる人が絶えなかったので、この木の祟ということになり、前の人の遺子の宮丸にを連れてきて曳かせてみると軽々と動いた。宮丸は、それを初瀬川のほとりまで曳いていき、またそこに二十年抛っッておかれた。徳道上人は、そうい霊木を手に入れたのであある。人の噂に上るほどの樟なら数千年の齢を経ていたに違いない。養老四年(720)二月、上人はこの木を初瀬の東の峰に引き上げ、庵を結ん香を炊き「霊木自ら仏成りたまへ」と一心に祈っていた。たまたま初瀬を訪れた藤原房前(ふささき)がその有り様を目撃し、元正天皇に申し上げて十一面観音を造ることを進言した。天皇は程なく退位したので、改めて聖武天皇から勅許を得た。神亀元年(724)三月二日のことである。同六年観音像は完成し、四月八日に開眼された。”(白洲正子 『十一面観音巡礼』より)


 この観音を収めたお堂、神社仏等はは四度、五度、六度と火災にあって焼失しているがその都度焼け残った像は新しく造られた像の体内に収められた。数え切れない災害を乗り越えて復活した生命力の強い観音である。思いも新たに、お目にかかりにゆかねばならぬ。今見られるのは、室町時代の改修になる。(1528年)


 もう一つのエピソードをご紹介しよう。それは”鐘”のことである。以前に別ブログに掲載したものを再掲することをお許しいただきたい。

(未来鐘)

”この年のこの秋の日の未来鐘” (ゆらぎ)

     


 ”牡丹で有名な長谷寺のゆるやかな石段を登りきると、どっしりとした門の上に見立派な鐘楼が見えてきます。毎日朝6時と正午に打ち鳴らされます。奈良昔話によると、平安中期の山城の国で貧しい暮らしをしていた野慈という男は信心深く、毎月長谷寺にお参りをしていました。 寺の鐘の音が小さく、いい音がでていなかったので、野慈は「願いが成就したら新しい鐘をつくりましょう」と慈願上人に云いました。これをきいた人々は、実現性のない話だと笑い、野慈のことを「未来男」と読んで馬鹿にしました。ところが、その後野慈は、出世し近江の国の国司代となりました。約束通り、長谷寺の鐘を奉納し、鐘に「正六位下木津未来男」と刻んだことから、この鐘を未来鐘と呼ぶようになったそうです。その鐘は、火事で焼けてしまい今は元亀元年に新たに造られたものですが、そのまま未来鐘と呼ばれています。”

 なおこの鐘は毎日2回、午前6時と正午につかれる。正午には、あわせてほら貝も吹かれる。本居宣長によれば清少納言も聞いたこの鐘の音を聞いたという。



 さて、ここまではふつうの観光コースである。ここからは「こもりく初瀬」というこの辺り一体のことに触れたい。前述の白洲正子の『十一面観音巡礼』に登場を願うことにする。昭和48年、白洲は写真家の小川光三氏とともに伊勢神宮を参宮した。その時、奈良から初瀬の三輪山麓で長谷寺およびその周辺を訪れている。しっかり歩いており、健脚である。その時の様子を引用する。

(こもりく初瀬)
 
 ”三輪山の裾をまわって、桜井から初瀬川を遡ると、程なく長谷寺の門前町にはいる。冬の最中にお参りするのは、よほど信心深い人か、私のような酔狂者しかいない。が、「こもりくの初瀬」と呼ばれるこの地方が、素顔を現すのはそういう時に限る。ハセは泊瀬、初瀬、長谷とも書くが、いずれも正しい。それは瀬の泊つる所であるとともに、はじまる所でもあり、長い谷を形づくっているからだ。・・・おそらく長谷寺の元は、河上約半里の滝蔵山にあり、いつの時か大嵐があって。神の磐座(岩座)が転落し、その泊まったところが「泊瀬」と呼ばれたのであろう。その川は、やがて三輪山を巻いて、大和平野をうるおす清流となるが、同時に「初瀬流れ」といって、しばしば荒れる恐ろしい淵瀬であった。そういうところが神のおわす聖地として崇められたのは当然のことである。地形から言っても、三輪山の奥の院と呼ぶにふさわしい場所で、「こもりく」は神の籠もる国を示したものにほかならない。だから上代の斎宮も、伊勢へおもむく前にここに篭って、神聖な資格を得たので、そのことと切り離して、「こもりく」という枕詞は考えられない。記紀万葉の歌人たちが、「こもりくの泊瀬」という時、そこに清浄なおとめの姿を思い浮かべたに違いないのである。”

 ”ふつう門前町はお寺に直接みちびいてくれるが、ここだけはちょっと違う。いったん与喜天満宮につきあたり、そこから左折して山門に至る。その天満宮のある山を、与喜山、または「大泊瀬」と呼び、寺の建っているところを「小泊瀬」(おはつせ)という。初瀬川はその中間を流れているわけだが、門前町を歩いていくと、まず正面に与喜山の大泊瀬が仰がれる。前人未到の美しい原始林で、天然記念物に指定されており、野鳥もたくさんいる。”

 ”天満宮の参道からは、太い杉の木の間をとおして、長谷寺の全景が見渡され、大泊瀬に対して、小泊瀬と呼ばれた理由がよく分かる。小泊瀬のほうがはるかに規模が小さく、山も浅い。ただしそれは寺の建っている峰だけの名称で、その裏山から巻向、龍王にかけての全体を「初瀬山」と呼ぶ。一口に「初瀬」といってもその歴史がこみいっているように、奥行きは想像もつかぬ程広いのである。”

 ”この度の目的は、滝蔵山に行くことにあった。長谷寺とは古いお馴染みなのに、「本泊瀬」を訪ねぬ法はない。寺の門前から、北へ向うと、道は急にせまくなり、ほんとうの「こもりく」らしい風景となる。冬の最中には、寒々した眺めだが、山懐に抱かれて、日中はかえって暖かい。「河上約半里」というから、ニキロ位はあるだろう。やがて右手のほうに黒々と茂った山が見えてきた。麓に鳥居があり、「滝蔵権現」と書いてある。そこから急坂を登ると、だんだん畠になり、社殿の前にでる。社殿は高い石垣の上に建っており、美しい建築である。

 そこからの眺めは素晴らしかった、右手のほうに滝蔵の森が見え、真南に当たって、与喜山が、深々とした山容を現している。初瀬川をへだてて、長谷寺が建ち、門前町も玩具のように小さく見える。遥かかなたには、宇陀から吉野にかけての連山が、その中にひときわ高くそびえているのは「烏の塒屋(とや)」であろうか。まさしくそれは「長谷曼荼羅」の風景で、これ以上何一つ付け加えるものも、詞もない。流石に「本泊瀬」と呼ばれるだけのことはある。そう納得して、その日は帰った。”

 
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 このように書いてきて、やはり長谷寺は再訪したいところの一つである。それも単に冬牡丹を楽しむ、虚子が「はな咲かば堂塔埋もれつくすべし」と詠んだ桜の景色に詠嘆する、また初夏の牡丹の見事さに目を瞠る、そして紅葉の眺めも素晴らしと感じ入るにとどまるだけでは、本当の長谷寺の良さを味わい尽くすことにはならない。

 その上で、かわたれ時の眺め、早朝の未来鐘の音、暮れなずむ夕景からさらには初瀬の高みからみる山々などを楽しもうとすれば、ここは門前の宿に泊まって一両日を過ごしたいところである。かの芭蕉も言ったではないか。
 
  ”よしのの花に三日とどまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀れなるさまなど、心にせまり胸にみちて・・・”



(余滴)

ここ長谷寺については、竹西寛子さんの名文(『京の寺 奈良の寺』)がある。以前に本ブログで紹介したが、長谷寺の部分のみ下記に再掲する。


 (初瀬の王朝)

 ”初瀬は、この目でみるより早く、王朝の歌や日記、物語でなじんだ土地である。こういう土地はなにも初瀬だけとは限らないが、女の旅と参籠への関心は、「蜻蛉日記」や「源氏物語」の初瀬詣でにいきおいわが身を添わせて読むようになり、長谷観音への様々な思いを秘めて旅だった女たちの、その目に見、耳に聞いた初瀬を、いつのまにか自分の見聞きした初瀬と思い込んでいるようなことも少なくないのだった。

 当時の貴族の参詣や参籠、ことに姫君や女君、女房たちのそれは、清水寺、広隆寺、雲林院、清凉寺、鞍馬寺などの京近辺のお寺から、石山寺、長谷寺などのよく及んでいる。片道だけでも京から三日、四日とかかる初瀬詣は、当時にすればかなり大掛かりな旅を伴う物詣である。「蜻蛉日記」の作者は車を使っていて、それでも京を出て三日目にやっと長谷寺くの椿市に来たことを記しているが、それとても決して楽な旅ではない。それまでにしてなぜ初瀬詣でをということになれば、女たちに自覚された苦悩の深さと、難儀な長旅をも当然と思い込ませるだけの長谷観音の霊験のあらたかさということになろう。”

 ”居ながらにしての祈願よりも、苦しい長旅の果てに、山に囲まれた、川の水音も清々しい霊場に入って祈願するほうが、敬虔の情はよりつのりみ仏のありがたさもまさるというのは、中世ならぬ王朝の女たちの心情の自然だったかもしれない”

 ”人との交わりを断ち、雑念を断って祈願に篭もるというなら、なるほど初瀬こそ女たちの籠もりの場にはふさわしい。四年まえの冬に初めて、段には違いないが、段というには少々低すぎる燈籠の階段を三百九十九踏み登って本堂の十一面観音に掌をあわせ、振り返って礼堂の舞台から今登ってきた登廊や仁王門を見下した時、右手の方向西を残して三方を山に囲まれた初瀬の地勢の中に、山懐の立体的な広さがそのまま境内でもある長谷寺がはじめて収まり、初瀬川の水音を聞きながら、まさに幾重もの山なみに囲まれて女たちの籠もるにふさわしい土地としての初瀬が、わが目と耳に納得できたのであった。”

     
         
 そして著者は、秋にも訪れる。

 ”この秋、年来の望みが叶って、長谷寺の門前町に宿泊した。たとえ一夜だけでもよい、あの礼堂の吊り燈籠や、回廊の球燈籠に灯が入ってから登りたいという願望の中には、玉鬘(源氏物語の)や藤原道綱の母の長谷寺の夜を、そこにいて偲びたいという気持ちも強くあって、しきりに時をうかがっていただけに、それが叶うと知った時のよろこびはひとしをであった。

 昼間、右手に錫杖、左手に宝瓶を持たれるご本尊の前に跪き、そのおみ足に触れて拝ませていただいたあと、寺側の案内で、七千株は越すといわれる牡丹の剪定と施肥の現場を見て、専従者の鮮やかなわざと労力に今更のように感嘆したが、幸運にも、この初夏に寺蔵から見出されたという秘宝「長谷版曼荼羅版木」を宝物館で目のあたりにした時には、その図像の精緻精妙に思わず息をのんだ。”













 


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(予告編)エッセイ 長谷寺のこと~こもりく初瀬

2015-01-11 | 読書
(近日中にアップいたします)






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エッセイ 桃源郷を想う

2015-01-04 | 日記・エッセイ

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 元旦に届いた日経紙の頁をくっていたら、「桃源へ」との見出しで美しい日本画が大きく広がっていた。画の左右をよぎる流れがあり、橋をわたると緑の田園地帯。そしていつくかの民家。霞んだようにある桃の花咲く林。そうは、まさに桃源郷を象徴するような画である。若き日本画家の俊英、奥村美佳が2014年に描いたものである。添えられた記事には次のような文章があった。

 ”桃源郷は東アジアでは古くから綿々と詩や歌に詠まれ、絵に描かれてきましたが、私もまた、数年前に桃源郷というテーマにめぐり合い、その世界に魅せられています。

 京都、奈良で生まれ育った私にとって、修学院や大原、山城、木津川周辺、奈良の田園、里山は懐かしくも身近な場所なので、題材を求めて歩き回り、桃源郷を思わせる風景を見つけたは、心躍ら写生をしています。

 この絵では、奈良県の月ヶ瀬の梅林の写生をもとに、桃の林を描きました。・・・

 この絵でも、村の入口に桃の林が続いていますが、林を抜け、目も眩むような色彩と芳香の洗礼を受けた訪問者には、この平凡な村里がどのように見えるのでしょう”

          


 桃源郷、英語ではシャングリラと言われる。イギリスの作家ジェームス・ヒルトンの小説に『失われた地平線』という本があって、その中で登場するヒマラヤ奥地の理想郷、あるいは楽園として描かれている。しかし、東アジアではそれより遥かに古い1600年前、中国の詩人陶淵明がその著書『桃花源記』の中で創作した理想が登場しているのである。だから様々な本に書かている。まずは芥川龍之介の『杜子春』(とししゅん)。地獄を見た杜子春は、”もうこれからは栄華や冨を求めず平和に暮らしたい”、と仙人にいう。それよしとした仙人が、言う最後のセリフがある。

 「鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
 「おお、幸い、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう、とさも愉快さうにつけ加へました。」

 これは文字通り桃源郷のことを指している。

  注)詳しいことは以前に書いた記事(ラストシーン~別れのきめぜりふ)を参照ください。


 それから忘れられないのが民藝運動のなかで「陶」の世界と四つに組んで活躍した河井寛次郎の言葉である。その著書『火の誓い』(昭和28年)の中で、河井は戦前のことであるが、京都府相楽郡の地を歩き、いくつかの村々(河合は、、と呼んでいる)の美しさを讃えている。桃源郷という呼び方はしていないが、ある意味その感がある。「の総体」という一節がある。彼は田んぼの向こうから山の麓にかけていくつかの村を遠望して、村と家と地形に応ずる巧妙な配置について驚く。なぜなら村に入って一番親しみを示してくれるのは家であるから。

 ”家は隣との境に、季節々々花を咲かせてお互いの平和を示す緩衝地帯でもあるかのように、一枚か二枚の畑をはさませて置く。畑の処々には柿や栗や梅を植える。実をとる以外に、これらの樹木は植えたものさえ知らぬ大きな使命を果たす。またその畑を青くしたり、赤くしたりして遊ばせて置かないのも、実益以外どんなに大きな仕事が果たされていくことか。また相談ずくで残されたとは思えぬ一二枚の田や畑がよくの中に入り混じっていることがある。あるべき場所にこの田や畑はいやがうえにもを美しいものにする。

 小川の洗い場には石を並べる。素晴らしく並べる。その上には大きな榎を茂らせ、四ツ辻にはほこらを祀り、愛宕大明神や二月堂や天満宮の石灯籠を立てる。みずみずしい生け垣や低い見事な土塀で小路をはさませ、樫を刈りこんで風よけ日よけの壁を育てる。路に沿う庫の隅にはこぶだらけのケヤキや榎の太い木を育ててさらに立派なものにしておく。の道は何故にこんな美しく曲がりくねっているのか。家を守るための垣根になぜ花を咲かすのか。人を拒む門になぜ戸を立てないのか。今年の三月のある日自分は南山城の山田川村の大仙堂のから、大里、北の荘、吐師(はぜ)へかけて次々にみつかる素晴らしい村の姿に引きつけられて歩いていた。・・・

 長い年月自分は村を見て歩いたが、今日この処に見た村のように自分を有頂天にした村はそう沢山にはない。こうも隙間もなくぎっしり詰まっているこのの美しさはどうしたら根こそぎ取り出せるのか。この村は始めから終いまで自分を魔法にかけてしまった。・・・を出ると思いがけない池に出た。しかもこのの全景を支配している池に出た。・・・この美しいがこんな美しい池に沿うていたという思いがけない事を最後に知らされたのであった。・・・まだまだそれでは足りない。この素晴らしい配置をこれ以上美しくは見られない土手には桜の古木がならんでいるのであった。湖水や入海に望む美しい港や村があることは知っているが、こんな丘の用水池のかたわらにこんな村があるとはまったく思いがけないことであった。

 その後ここへ行くごとに村の人々はぶらぶらしている自分に、何をしに来たのかと問いかけたが、適当な返事ができたことがない。美しいために来た~そういうことは返事にはならないからだ。”

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ここに述べられているように河井寛次郎にとっての桃源郷は、古き日本の良さを残した村里であり、それには私自身も深い共感を覚える。冒頭に載せた写真は福島の花見山で、春になると梅、花桃、桜、連翹(レンギョウ)、木瓜、山茱萸(さんしゅゆ)などが一斉咲き乱れる。写真家の故・秋山庄太郎さんは、”福島は桃源郷なり”と言われた。しかし、本来の桃源郷はそこに生活する人々の風景があわせてなければならない。


 さて現代で桃源郷を語るにふさわしい人を挙げるとすれば、比較文学の泰斗(たいと)である芳賀徹さんであろう。彼が先年、滋賀県のミホ・ミュージアムにこられて蕪村と桃源のことを語った。講演会があるというので、親しい友人としめしあわせて甲賀の山中まで車を飛ばしたのである。もう大分以前のことなので、当時の記憶があまりない。それよりも芳賀さんには素晴らしい著作があるので、それに基づいて桃源郷のことを記すことにする。『与謝蕪村の小さな世界』(中央公論社 1986年)が、それである。まずは芳賀さんの思い入れから。

          


 ”もう十年あまり前から、私は桃源郷を探し続けている。いまでは、書物を開いていて、「桃」とか「源」とか、あるいは「鶏犬」とか「絶境」とかの文字があれば、すぐに目に飛び込み、しばし心臓が高鳴るほどになった・”


 その桃源郷について芳賀さんは次のように説明する。

 ”陶淵明の話そのものが、短いなかに汲めども尽きせぬものを湛えていることはいうまでもない。ある春の日、一人の漁師が、どうしたことか、桃の林のひっそりと花咲きあふれる谷間にさまよいこんだ。不思議に思ってその流れをさかのぼると、水源に立ちはだかる山の腹に、「髣髴」(ほうふつ)として光あるがごとき」洞窟があった。心誘われてそれをくぐりぬけた。すると眼下に、平和と幸福そのものと思われる見知らぬ村里がひろがり、人々は古俗を守って働き、老幼は楽しみ、鶏犬の声は春の昼間に響いていたのである。しかも、外界の変遷から隔絶したこの里に数日滞在して、漁師がまた自分の町に戻り、あらためてその桃源の村に行こうとすると、もう道はわからなくなっていた。それ以後も、あの谷と山のかなたの村への入り口を見つけたものは誰もいない”


 (陶淵明の詩より)たちまち桃花の林に逢う。岸をはさみて数百歩、うちに雑樹なく、芳しき草は鮮やかに美しく、落つる英(はなびら)は繽紛(ひんぷん)たり。

          ~薄い濃い紅の花びらが、風もないのにはらはら、ひらひらと、萌え出たばかりの緑の下草の上に散りつづけている。

 ”いや、だから唐の王維や李白から、宋の蘇軾や陸游をへて明治の夏目漱石、大正の佐藤春夫や昭和の一高生福永武彦に至るまで、東洋の名ある詩人でこれに魅せられなかったひとはいないといってもよいほどだ。西洋の世界でいえば、これはほぼ旧約のエデンの園や、ギリシャのアルカディアあるいは「アルキノス王の園」(オデュッセイア)またウエルギリウスの田園詩にも匹敵する。・・私達もそれにならって桃源郷を東アジア文学におけ”「る一つの楽園のトポスと考えてよいだろう”

 そして芳賀さんは、中国や日本の詩と物語りのうちに桃源郷のトポスを探ってゆくだけでは物足りなくなり、絵画による表現のうちにも追い求めてゆく。ワシントンのフリーア美術館にある石涛の「桃花源図巻」であり、天理大学図書館にある韓国李朝の名手安堅の「夢遊桃源図」などがある。また富岡鉄斎の「武陵桃源図屏風」、小川芋銭の「桃花源図屏風」などなどに言及している。そして、やっとこの本の本論与謝蕪村の「桃源の路次」にいたるのである。

 ”18世紀日本の詩人にして画家、与謝蕪村も、このような東アジアの桃源郷の詩画史のなかに、よろこんで身をおいたものの一人であった。日本における桃源郷のトポスは奈良朝の『懐風藻』からはじめて平安朝貴族の漢詩文、また鎌倉室町の五山の詩僧の作品へと辿ることができるにしても、それが詩と画にともどもに花開いて、陶淵明がなによりも桃源郷の詩人、そして「田園の居に帰る」田園詩人として見られるようになるには、池大雅と蕪村の時代、十八世紀の後半からであったと考えられる。蕪村はたしかに、近代日本におけるこの桃源郷再発見の動きのなかのパイオニアであった。”

   ”桃源の路次の細さよ冬ごもり”
   ”商人を吠ゆる犬あり桃の花”
  
 ”とくに「桃源の路次の細さよ」という「細さ」へのそれとない強調は陶淵明の「桃花源記」における想像の力学、その夢想のへの鍵を、蕪村がすばやくあやまたず捉えてしまっていたことをよく示す。・・・つまり、桃源郷は、谷間と洞窟という、次第に狭まるアプローチを辿ってこそ到りつく。そこにはじめて豁然と開朗するからこそ暖かい、鳥の巣のような、母体のようなやすらぎの小空間なの・・・である。・・・くねくねと曲がる細い路次の奥に潜んでいるからこそ、こささやかな市井のたたずまいも冬の巣ごもりにふさわしい、桃源の春のように暖かい別天地となるのである。”

   ”屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり”
   ”うずみ火や我が隠れ家も雪の中”


のような句でさえ、実は桃源郷の心理学を内蔵した、桃源郷のトポスを巧みに生かした作と考えていいようである。”

 芳賀徹は、さらに現代アメリカの黒人詩人のリチャード・ライトの「ハイク」にまで言及する。

   ”まっすぐに一ブロックゆき給え
    そして右に曲がるんだ、するとー
    桃の木が花ざかり”

    Keep straight down this block
Then turn right where you will find
A peach tree blooming

 ”この三行詩が蕪村の「桃源の路次の細さ」を明和の京都から今のニューヨークのマンハッタンに転移したようなものであることは、たしかだろう。室町通や烏丸通り、あるいはマジソン街やパーク・アヴェニューなどの大通りをまっすぐ行って桃源郷に突き当たるはずはない。そこからふと「右に曲がった」ところ、細い路次に入り込んだところにこそ「屋根ひくき」桃源の宿は隠れているのである。”


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 いやいや最後は、すこし人里離れた山間の村にある桃源のイメージから離れてしまいました。しかし、蕪村の桃源の宿は、今もなお、京都の宿にそのイメージを見ることができるようにも思います。スティーブ・ジョブスの愛した<俵屋>、またおなじ麩屋町の姉小路上がるにある<柊家>も門をくぐれば、そこは別天地があるのです。本来の桃源が、今の日本で見出すことができるかどうか分かりませんが、花祭で知られる愛知県の奥三河あたりには日本の原風景が色濃く残っていて、今もなお春になれば桃の花や杏、山桜に囲まれた静かな里があるそうです。いつか訪れてみようと思っています。 みなさまの桃源郷のイメージは、いかがなものでしょう?







 







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