(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

旅/エッセイ クルーズ・トレイン<ななつぼしin九州>~そして沈壽官のこと

2013-06-26 | 時評
旅/エッセイ クルーズ・トレイン<ななつぼしin九州>~沈壽官のこと

 
 これまで、どこへ行くのでも車を駆って旅をしてきたが、このところ列車の旅に気持ちが傾いている。何といっても運転することに気を使わなくてもいいし、疲れない、乗っている間本を読んだり、車窓を流れる風景を楽しんだり、これから行くところの地図を広げたり、はたまたコップ酒を飲みながら駅弁を味わうという楽しみがある。こういったことは、車の旅ではできない。

 
 という訳で、あれこれ列車の旅を模索していた時、JR九州が「ななつぼしin九州」というクルーズ.トレインを走らせることを計画していると聞き、早速説明会に行ってきた。大阪のリッツ・カールトン・ホテルの会場は予約制であったが、満員。夫婦連れ、家族連れ、若いカップルの姿も見受けられた。そのプレゼンテーションを聞いて、そのコンセプトに魅了された。まだ列車そのものは、まだ日立で製作中であり、実際に走るのは先のことであるが、しかしその素晴らしさを、まずはご紹介したい。

 豪華列車といえば、大阪から日本海側に沿って札幌まで走るトワイライト.
エクスプレスやカシオペア、北斗星といった人気の列車がある。しかし、インダストリアル.デザイナーの水戸岡鋭治は、そんなことは先刻承知。ヨーロッパを走る豪華列車オリエント.エクスプレスをも凌駕する列車を開発しようとしようと考えた。ちなみにこの人は、長年車両のデザインをてがけてきた名うてのデザイナーである。その作品には、奇想天外なデザインで話題となった883系電車『ソニック』、2000年にはオール革張りシートにフローリング床の組合せで登場した在来線特急の885系電車『かもめ』、2004年には西陣織のシート、簾、い草、さらには金箔と言った和のテイストを持ち込んだ九州新幹線800系電車『つばめ』などがある。

(車両について)

 7両編成の列車は、ラウンジカー、ダイニングカー、客室車両が5両。スイート12部屋、DXスイート2部屋の合計わずかに14のゲストルームという贅沢さだ。昼は休息の場となり、夜はバーがオープンする。床から天井までを窓にしたラウンジカーで流れる風景を楽しむこともできる。明るいダイニングカーでは、絵のような景色が流れる中ゆったりと食事を楽しめる。夕食は、行く先々の地元の人気レストランかでの食事も楽しめる。





車両は今年に7月末に完成、試運転を経て10月に本格運行運びとなる。

(日程とプログラム)

  コンセプトは、新たな人生に巡りあう旅。

 3泊4日のコースと1泊2日のコースがあるが、前者の方が、旅の醍醐味を味わえると思うので、そちらについてご紹介する。このコースは、週に1回の運行。年50回しか走らない。


 (一日目)お昼ごろ博多を出た列車は、由布院まで本当にゆるゆる走る。由布院の町を散策したあとの夕食は、地元ゆふいん料理研究会が協力する料理がだされる。由布院といえば、あの伝説の宿「亀の井別荘」「玉の湯」「山荘 無量塔(むらた)が知られているが、どうもこの三旅館が協力するようで楽しみだ。ないものねだりになるかも知れないが、「亀の井」のバー<山猫>など開放してくれないかなあ。「無量塔」のTan's Bar も素晴らしい。古民家を移築、再生したラウンジでは1930年代の劇場用スピーカーWE16Aホーンが重低音を響かせる。頼めば、クラシックの音源も探さして、かけてくれる。クルーズトレインの客には、残念ながら行けないようだ。でもいつか再訪してみたい。

 (二日目)夜中にしずしずと走り、朝宮崎駅に到着する。宮崎神宮などの観光も選べる。都城から鹿児島の隼人駅へ。そこから霧島へ。霧島連山の眺めを楽しむことができる。宿泊は、「天空の森」や「妙見石原荘」などから選ぶことができる。

 (三日目)プライベート.リゾート「天空の森」で散策のあと、隼人駅から鹿児島に向かう。薩摩焼で有名な「沈壽官窯」を訪れ15代目の話を聞き、絵付け体験を楽しむ。夕食は、島津家別邸の「仙巌園」で。列車泊。なお、どこかのタイミングで鹿児島の芋焼酎の名品、森伊蔵の逸品を味あう機会が、あるやに聞いている。



 すこし本論からそれるが、ここで「沈壽官」のことに触れておきたい。鹿児島旧氏族の沈壽官家は370年前に、秀吉軍により朝鮮南原城で捕らえられ、拉致され、ついにはこの薩摩に連れてこられて帰化せしめられた。この時代、薩摩には陶器や磁器に技術はなかった。韓人たちは活発に作陶活動をした。薩摩には、朝鮮ほど良質な磁器の土がなかったが、韓人はできるだけ白磁に近づけるべく努力し、世にいう白薩摩の世界をつくりだした。李朝のそうな素朴さはもたぬにせよ、これほど高雅で気品にみちたやきものをかつて世間は目にしたことがなかった。幕末、薩摩藩は大規模な白磁工場をつくり、十二代沈壽官を主任として、この時期においてすでにコーヒー茶碗、洋食器の製造を命じ、さらにこれらを長崎経由で輸出して巨利を得た。結果的にのちの倒幕のための財源となっている。司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』は、このあたりの事情を詳説している。そして物語は、さらにつづく。司馬は、14代目の沈壽官氏に会いにいった。沈壽官氏は、ある年氏の半生のなかでもっとも長い旅をした。ソウル、釜山、高麗の三大学の美術、美術史関係の研究者に招かれて、渡韓したのである。ある日、ソウル大学で講演した。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以下は、司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』からの引用である。

”沈氏は講演の末尾に、「これは申し上げていいかどうか」と前置きして、私には韓国の学生諸君への希望がある。韓国にきてさまざまな人に会ったが、若い人のだれもが口をそろえて三十六年の日本の圧政について語った。もっともであり、そのとおりっではあるが、それを言いすぎることは若い韓国にとってどうであろう、言うことはよくても言いすぎるとなると、そのときの心情はすでに後ろ向きである。新しい国家は前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。   
 そのように言った。このおなじ言葉が、他の日本人によって語られるとすれば、聴衆はだまっていないかも知れなかった。しかし大講堂いっぱいの学生たちは、演壇の上のシム.スーガン氏が何者であるかをすでに知っていた。本来、薩摩人らしく感情の豊かすぎる沈壽官氏はときどき涙のために絶句した。絶句すると、それに照れてすぐ陽気な冗談をいった。最後に、

 「あなた方が三十六年をいうなら」といった。
 「私は三百七十年をいわねばならなあない」

そう結んだとき、聴衆は拍手をしなかった。しかしながら、沈氏のいう言葉は、自分たちの本意に一致しているという合図を演壇上の沈氏におくるために歌声を湧きあがらせた。(黄色いシャツを着た無口な男)・・・・沈氏は大合唱が終わるまで壇上に身をふるわせて立ち尽くしていた。”

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 という訳で、私自身としては、この沈壽官氏(いまは15代目だが)に会うためにだけでも、この旅に参加したいと思った。



 (四日目)夜走った列車は朝阿蘇駅に着く。駅には、この旅の参加者用の特別な空間が用意され、そこで朝食を味わう。列車は大分へ向かい、阿蘇観光プランを選べば、黒川温泉に寄ることになる。列車内でお別れイベントがあり、夕刻には博多駅に帰着となる。


 なんと優雅なそして九州の良さを満喫できる旅ではありませんか。海ばかり眺めている客船の旅より魅力を感じます。早速出かけたいところですが、まだ走っていません。今年の秋よりの運行となりますが、第1期、また2014年早春の第2期は、すでに予約でいっぱいです。

次は2014年4月からの第3期の旅の抽選にあたることに望みをかけます。またこれが引き金になって日本の他の列車の旅が充実し、さらに洗練されてゆくことを切に願っています。近鉄特急の「しまかぜ」も人気を呼んでいるようです。 



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エッセイ 映画「愛情物語」から~これも社会貢献?

2013-06-20 | 時評
エッセイ 映画「愛情物語」から~これも一つの社会貢献?(映画から、仏教の原典、「正法眼蔵」の愛語の世界、そして高浜虚子の句のことまで語ります)

 少し前のことになりますが、リタイアメン近くなった頃、ふとつけたTVでタイロン・パワー演ずる映画「愛情物語」を見ました。1956年のアメリカ映画ですからご存じない方が多いかも知れません。彼はイギリス出身の舞台俳優で映画「長い灰色の線」や「日はまた昇る」で知られていますが、なんといっても女優キム・ノヴァックと共演した「愛情物語」が大ヒットとなりました。
 
この映画は、実在した不世出のラウンジ・ミュージックのピアニストエディ・デューチン(Eddy Duchin)の、妻と子と音楽に捧げた人生を描いた映画です。映画は知らなくても、主題歌「トゥ・ラブ・アゲイン」を聞かれたら、ああこのメロディーね、と思い出されることでしょう。この曲はショパンの夜想曲をアレンジしたものです。タイロン・パワーもキム・ノヴァックも若いですねえ。キムの色っぽいこと!

  


 大分前に見た映画なので、詳しいことは覚えていませんが、ある日主人公のタイロン・パワーが、インテリアデザイナーの女性のオフィスを訪ねます。”自分は”ただのピアノ弾きです”と謙遜して云うのに対して、彼女は、云うのです。

 ”You produce happiness”  (あなたは人を幸せにする)

と。どういうシーンで、どうしてこう云う言葉が出てきたのか、忘れてしまいましたが、このフレーズは強く印象に残りました。(長々とすみません、これが言いたかったのです)

 さて仏教の経典の中に「雑宝蔵経」(ぞうほうぞうきょう)という教典があります。この中の「無財(むざい)の七施(しちせ)」というお経のことが、この映画の”You produce happiness”というせりふから、思いだされました。無財の七施とは、つぎのようなことです。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ①眼施(げんせ)「やさしい眼差(まなざ)しで人に接する」

 ②和顔悦色施(わげんえつじきせ)「にこやかな顔で接する」、和やかな 笑顔を見ると幸せな気持ちになります。そして周りにも笑顔が広がります。人生では腹の立つこともたくさんありますが、暮らしの中ではいつも微笑んでいたいものです。

 ③言辞施(ごんじせ)「やさしい言葉で接する」「こんにちは」「ありがとう」「おつかれさま」、何事にもあいさつや感謝の言葉がお互いの理解を深める第一歩です。

  道元の正法眼蔵の中の愛語の巻で語られる言葉に通じるものがあります。  (詳しくは、後述します)

 ④身施(しんせ)「自分の身体でできることで奉仕する」
 ⑤心施(しんせ)「他のために心をくばる」慈悲の心、思いやりの心。
 ⑥床座施(しょうざせ)「席や場所を譲る」「どうぞ」の一言で、電車や会  場でお年寄りや身体が不自由な方に席を譲ることです。
 ⑦房舎施(ぼうじゃせ)「自分の家を提供する」お遍路さんをもてなす「お  接待」という習慣が残っています。人を家に泊めてあげたり、休息の場を  提供したりすることは大変なこともありましょうが、普段から来客に対し  てあたたかくおもてなしをするということです。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この「無財の七施」の中で、とくにに和顔悦色施(わげんえつじきせ)と言辞施(ごんじせ)を心がけたいと、私は思っています。にこやかな顔で人と接し、そして優しい言葉をかけてあげることによって人を、世の中を幸せにする。こういうことも社会貢献の一つかな、と考えました。映画「愛情物語」の中で、タイロン・パワー演ずるエディ・デューチンが,"You produce happiness"いわれたのは、おそらく、彼の態度・振る舞いが、これらの七施に通ずることがあったからでしょう。

リタイアメント後の人生で、楽しんでばかりでいいのかと、ふと疑問を持ったとき、そんなことが脳裏に浮かびました。ボランティア活動とか、さまざまなNPO活動に寄付するとか、あるいは活動に参加すること、いろいろありますが、根底にはこういうことで、ささやかながらお役に立つこともいいのなかな、と思案しました。映画のせりふから、いろいろ考えてしまいました。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

せっかくですので、少し「愛語」について書いてみます。道元の「正法眼蔵」95巻本は、おそらく世界最高の哲学書のひとつかと思います。難解なところが多いのですが、多くの解説書が出ています。紀野一義師の「正法眼蔵の風光全8巻」は、本ではなく、連続講義を録音したテープですが、これは貴重なものです。しかし、そういった本格的なものでなくても、いい本があります。例を「愛語」にとりますと、『愛語に学ぶ』という酒井大岳さんの本があります。やさしい言葉で語られていますが、すべて自らの体験にもとづき、自らの言葉で書かれていますので、読みやすいし、また手にとる価値があろうかと思います。もう25年以上まえの本ですが、いまでもアマゾンで手にはいります。わずか、一円で。

まず、「愛語」の項の原文をご紹介します。

(正法眼蔵第45巻 菩提薩た四摂法 (愛語)の項)

 ”愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛(こあい)の
  言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。・・・・

  徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、よう
  やく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられず見えざる愛語も
  現前するなり。・・・・

  むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。
  むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心  よりおこる。愛心は慈心を種子(しゅうじ)とせり。愛語よく廻天(かい  てん)のちからあることを学すべきなり。・・・”

 酒井大岳さんは、この一節をもとにさまざまな愛語の例を紹介しています。春風の愛語、秋霜の愛語、感動できる心、などなど。その中の一文に高浜虚子の『六百五十句』という句集の中の句のことをとりあげています。

   ”霧いかに濃ゆくとも嵐つよくとも”

 ”この句は、高浜虚子が灯台守に贈った句です。「昭和二十三年十月四日。わが国灯台創設八十年記念のため、灯台守に贈る句を徴されて、剣崎灯台吟行。大久保海上保安庁長官、橋本灯台局長、星野立子らと共に」と但し書きがしてあります。驚きました。感動しました。「日本中の灯台守が、この一句によって支えられる」と思いました。そして同時に、わたし自身も励まされていたのです。

 霧の濃い日もあります。嵐のつよい日もあります。長いあいだにはいいことばかりありません。むしろ苦しいことのほうが多いのです。苦しいことずくめのときもあります。しかし、こうして、「霧如何に濃ゆくとも嵐つよくとも」と言われてみると、不思議にちからが湧いてくるし、、ましてや苦しみ悲しみの多い灯台守に贈られた句と思えば、自分の汗や涙など問題ではありません。歯を食いしばってでもがんばろうと思ってしまうのです。

 『六百五十句』という虚子の句集は、わたしの青春を支えてくれました。一度もお目にかかったことのない高浜虚子の墓になんどか詣でているのもそのためです。”


 こういうことまでも「愛語」の世界なんですね。こむつかしい長文とお付き合いいただき、ありがとうございました。

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読書 『アミエルの日記』~アンリ-フレデリック・アミエル

2013-06-15 | 時評
読書 『アミエルの日記』(原題:人生についー日記抄)  
  アンリ・F・アミエル原著、土井寛之訳 白水社(1997年)新装復刊したもので、もとは1964年に出版されている。

  この本の名前は伊藤肇の本で知ったが、もとは安岡正篤がその著書<百朝集>などで紹介してからだ。アミエルは1880年代後半スイス大学の哲学の教授をつとめた。死後フランスの批評家エドモン・シェレル の序を付した日記抄が出版されて一躍その名は有名になった。トルストイはロシア語訳の本の序文で彼を賞賛した。
  
 アミエルは内省的な人でこの日記を貫くものは人生の苦悩や反省失望などで埋められている。正直読んでいて疲れる。文学者や哲学者はこの日記に記された彼の思索の深さに感銘を覚えるかもしれないが、私のようなふつうの人間には重い。ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」よりも重い。そういう意味で、この本が一般的にポピュラーになるかというとかなり疑問である。しかし次のフレーズ一つで彼の名前は後世に残るであろう。

   ”人生は習慣の織物にほかならない”

 この一節の訳は、訳者土井のものより、安岡正篤の訳(意訳)の方が正しく真意を伝えるように思われる。

   ”人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。
    なんとなれば習慣は生きた主義であり、肉体となり本能となった
    主義だから。誰のでも主義を改造するのは何でもないことである。
    それは書名を変えるほどの事にすぎぬ。新しい習慣を学ぶことが
    万事である。それは生活の核心に到達するゆえんである。
    人生とは習慣の織物にほかならない”
  
  ”運命とは性格なり。性格とは心理なり”とは、芥川龍之介のことばだがこの他にもアメリカの心理学者マズローの言に”人間の哲学が変わるとき、あらゆるものが変わる”というのがある。これらをうまく綜合して安岡は云う。

  
    「心が変われば態度が変わる 態度が変われば習慣がが変わる
      習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば人生が変わる」


  忘れることのできない一文である。

 余談であるが、この「日記抄」の後半に、「幸福について」という一節がある。ここのエッセイを読むと、悲観的・内省的な話を読んだあとで、ほっとするのである。

  ”快い、涼しい、澄んだ天気。朝のうちの長い散歩。さんざしと野ばらに花がついているのを見つけた。野原の、ばくぜんとした健康な香気。まぶしいような靄の線によって縁取られているヴォワロンの山々、ビロードのような美しいい色調のサレーヴ山。野良で人々が働いている。二匹の可愛いろば。その一匹は、ひろはへびのぼらずの生垣をがつがつと食べていた。三人の小さな子どもたち。子どもたちに接吻してやりたくてたまらなかった。のどかな時間、野原ののどけさ、晴れた天気、気楽な気持ちを味わう。ふたりの妹も一緒にやってくる。香りの良い牧場と花の咲いている果樹園に目をやすめるる。草木の上に生命の歌が聞こえる。こんなにも穏やかな幸福の中にいるのは、幸福すぎることではないのか?それだけの値打ちが自分にあるのだろうか? いや、天の好意をとがめずに、この幸福を楽しもう。感謝の心を持って、それを楽しもう。不幸な日々はすぐにやって来るし、しかもその数は多いのだ。私には幸福の予感はない。だからいっそう現在を役にたてよう。愛する自然よ、やって来い。ほほえんでくれ。そして私の心をうっとりさせてくれ。しばらくの間でも私の悲しみとほ かの人の悲しみを包み隠してくれ、おまえの着ている女王のマントのひだだけが見えるようにしてくれ。そしてさまざな華麗なものの下にみじめなものを隠してくれ。” (「自然の中の幸福感」より)
  



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読書 『扇野』より「おれの女房」(山本周五郎)

2013-06-10 | 時評
読書 「おれの女房」~短篇集『扇野』より(山本周五郎)(新潮文庫) 

最も好きな作家はと問われたら、その一人としてなんら躊躇することなく「山本周五郎」の名を挙げる。周五郎は多くの長編を書いているが、また短編の名手である。なかでも、昭和22年に発表された「葦」(『夜明けの辻』の一編)は、読むものの心にしみじみと訴えてくる佳作である。いずれご紹介の機会もあろう。

 今回取り上げるのは、『扇野』(おうぎの)の中の作品である。この短編集を手にしたきっかけは、そのなかの作品「三十ふり袖)」を読んでみたいと思ったからである。三十にして振袖を着るのは、女にとってもっとも悲しい、みじめな姿といわれるそうである。最近とみに親しくさせていただいている京都の柳居子さんに教えていただいた。と、いうことでこの『扇野』の短編を読み進んでいくうちに「おれの女房」と巡り合った次第である。

 以前『冬の標』という乙川優三郎の作品をご紹介したことがある。これは絵を描くことに喜びと人生の意味を見出した一人の女性の姿を描いたものである。今回の「おれの女房」は、やはり絵の世界で苦闘する絵師(男)の姿が描かれている。自分でも、多少の絵を描いていることもあり、絵を描く人間の心理にはとても興味を覚える。そしてこの本を読んで、とても感動を覚えた!なにに感動したか? それはこの記事を読まれてからのお楽しみ。

 では引用を中心としたレジュメ・スタイルで。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 長屋に住む絵師、平野又五郎は御家人の三男として生まれ、小さいじぶんから絵が好きで、16歳のとき狩野信近の内門人に入った。又五郎ははじめから信近にてすじのよさを認められ、十八の時には、近恒という号をもらって、塾中の麒麟児(きりんじ)などどいわれた。その頃、狩野家の小間使いをしていたお石は、顔だちも映えなかったが、気性が明るく、動作もてきぱきして気はしが利くため、信近のお気にいりで、もっぱら工房関係の用をしていた。お石は、又五郎のことを、”あのひとは男ぶりも悪かあないけど、あたし男振りなんかに惚れたりしないよ、あの人はきっと今に名をあげ、うちの先生の上を超す絵師になると思うんだよ・・”と言って、好意をだれにも隠さなかった。

 ”又五郎は二十三歳のとき、師の信近に背いて狩野家を出た。御殿絵師というものの生活もいやになったし、古くさい、概念と規矩(きく)の枠にはまりきった、進歩も創造もない画風にあきたらなくなったのである”

 ”古典はもう沢山だ。御殿絵師は古典の糟糠(そうこう)を弄するにすぎない。絵とはもっと命のかよった未知の真を創り出すものだ。おれはおれの絵を描きたいように描く。彼はこう言って、師の信近にそむいた”

 彼は若かった。そして伝習にそむくことに一種の誇りと喜びを感じた。その気持がまたお石を妻にする動機にもなった。小石川の裏長屋の家をもってから、もう十年あまりの月日が経っている。彼が出た後を追って、島田、松屋、井上という三人の門人も、狩野家から去り、又五郎を中心に新しい画風を起こそうとして、再出発することになった。新しい画風という魅力にひかれて若いもんが多く集まるようになり、久屋町の長屋の一間は、昼も夜も客の絶え間がないほど賑わった。

 しかし、家をもって二年目の秋、日本橋矢ノ倉の亀井楼で画会を催したころから情勢は逆転した。独自の手法と、大胆不敵な構図で描いた四種の三幅対と、なでしこを描いた二曲屏風は自信作ではあったが、理解されなかった。この失敗は決定的で、それいらい彼は落ち目になった。”世間はめくらばかりだ。あいつらには本当の絵の良さが分からない”と、若い仲間はそう言って肩をあげた。これまでの苦労を陰でささえてきた、お石もそのころからずけずけと無遠慮にふるまうようになった。終日飲んで、また吉原などで遊び暮らす生活の溺れていた。そんなある日、家に戻ると女達が酒を飲んで騒いでいる。どこから、そんな金がでたかと又五郎が問い詰めると、いまも支援をしてくれている阿波屋が絵を買ってくれたという。彼が失敗作として、押入れにしまっておいた絵を売ったという。

 日本橋石町で乾物商を営んでいる阿波屋加平は、まだ狩野にいたころから又五郎の画風を愛し、なにかとよく面倒をみてくれていた。”あれはだめなんです。どうしたって裂かなければならないものなんです”と懇請する又五郎に、阿波屋はこういう。

 ”それはまあ、あたしも留守へ行って、平野さんの承諾なしにもらってきたのは悪かった。待ちにまってしびれをきらしていたところだもんだから。まあつい何してしまったんだが、どうだろう平野さん、この図柄をもっと大きなものに描く気はありませんか”、と六曲一双への取り組みをすすめる。

 阿波家は、自分の小梅の寮まで提供し、材料なども揃えてやった。そんな中、久堅町に戻ると長屋の人たちが妙な眼で又五郎をみる。

 ”ああ、お帰んなさい、だがお石さんはいませんぜ”

 お石は荷物をまとめて出てったのである。次の朝、又五郎は姿を消した。行方は杳として知れなかった。とうとう失踪ということがはっきりした。だが、長屋の差配の五兵衛は、”平野先生はきっと帰っていらっしゃる”と言って、家には手をつけず待っていた。そうしてまる三年近く、又五郎からは音沙汰もなかった。

 足かけにすれば四年目の九月、日本橋石町の阿波家の店へ又五郎があらわれた。無断で出奔した詫びをいう又五郎に、阿波家はどこでどうしていなさったと聞く。

 ”どことは決まっておりません、いろいろな人足もしましたし、飯炊きも木樵(きこり)もやりました。禅寺へ入ったこともございます。雲水になって乞食もしました。京から奈良、加賀、信濃から甲斐というぐあいに渡りあるいたものです”

”日にやけたばかりではない。全体にがっちりと逞しくなり、顔つきも明るく押しても突いても動かない重厚な力感に溢れていた”

 それでは、これからいったいどうなさるおつもり、と聞かれた又五郎。
”絵を描いて参ります。ーまずあの六曲一双描きあげたいと思いまして・・”
加平は、”結構ですな。ぜひ描いて頂きましょう”といい、旅でなにかいい収穫があったのかと訊ねる

 ”私は御家人の三男に生まれ、絵が好きで、狩野家の門人に入り、寝ても覚めても絵のことばかり考えて育ちました。絵を描くということは、どんな仕事よりも尊く高い意義がある、そう考えて育ちました。ーしかしこんど世の中へ出て、身ひとつで生きてみて、人足をし百姓のてつだいをし、旅籠の飯炊などをしてみました、それが思い上がりであったこと、まちがった考えだったということに、気がついたのです。”

 ”百姓も猟師も、八百屋も酒屋も、どんな職業も、絵を描くことより下でもなく、上でもない。人間が働いて生きてゆくことは、職業のいかんを問わず、そのままで尊いー絵を描くということが、特別に意義をもつものではないー・・私はこう思いあたったのです。わかりきったようですが、私は自分の身で当たってみて、石を担ぎ、土運びをしてみてわかったのです。そうして、初めて本当に絵が描きたくて帰ってきたのです。”


 ”又五郎は小梅の寮に入った。・・・・又五郎はひと足も外へ出ず。八畳二間をぶちぬいた部屋で、ほとんどこもりっきりに仕事をした。梅雨から、暑中、秋風が吹き始めても同じ調子で体も相貌もやせが目立ってきた。十月に指物屋と経師屋が入った。それからなお十五日あまい日が経ち、霜月はじめに加平がくると初めて屏風が仕上がったと云った。又五郎は九月よりさらに痩せ、精魂をつかいはたしたという様子だったが。顔つきも冴え、眼も強い光を帯びて、一仕事仕上げたという充実した感動が、全身に脈を打つかのようにみえた”

絵の友人三人も呼び加平も揃ったところで、又五郎は立ってみんなを奥に案内した。
 
 ”八畳二間の床を背に、六曲一双の屏風が立ててあった。ー左半双の左の上端から、右半双の下端までひとすじの川が弧をなし円を描き、迂曲蛇行して流れている。滝があり瀬があり淵がある。そしてその川の両岸には重畳たる山や、丘や森や野や耕地があり、村落や町があり、いちばん下流は広くなって、繁華な市街に入っている。またその至る所に、農漁工商、それぞれの職業にいそしむ人たち、その人たちにつながる生活の様が描かれている。全画面が墨の濃淡だけで、一点の色も使われていない。しかも墨に七彩ありというのはこのことかと思うほどあらゆる色彩の変化が見事に表現されていた。

  「私は人間が描きたかった、実際に生活している人間の、生活している
   姿が描きたかった。この絵の眼目はそれです」

 又五郎は告白でもするように云った。

 ”山水や花鳥を描いて、幽玄とか風雅とか枯淡などとは云ってはいられない。絵師も人間であり、生活するからには、もっと人間を描き生活を描かなければ嘘だ。ー通俗などといて世間を見下し、一段高いところにいるような気持ちでいるのは遊びだ。私は百姓が稲を作るように絵を描く、大工が家を建て、左官が壁を塗るように絵を描く、・・・この絵にはまだ考えたことの十分の一も出ていない。しかしこれからは少しづつそれがだせると思う。だせるように、努めて仕事をします。どうかそういう気持ちでごらんになってください。”

 この絵は、じつは阿波屋の領主に当たる松平阿波守の委嘱であった。又五郎の屏風は阿波守には予想以上だったらしい。年が明けて二月又五郎は小梅の新居でささやかな祝宴を催した。

 そこに思いもかけぬ人物が姿を表した。心を打つラストシーン。私は、この短編を読み終わったとき、深い感動を呼び起こされた。それは、絵師の姿を描いた一節でもあるが、それ以上に絵師という人の心を読みきった山本周五郎の筆力であった。そしてその深部には、辛く困難な人生を歩んできた周五郎の人生があったのだ。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(余滴)『山本周五郎の生涯ーたゆまざるもののごとく』(水谷昭夫 人文書院)という名著がある。周五郎の作品を読む時は、いつもこの本を横において、彼の生涯を振り返る。その中に、苦しい時期に周五郎が知り合った中西屋の編集長井口長次の言葉がある。井口は、のちに博文館にうつり、雑誌「譚海」の編集長になる。のちの山手樹一郎である。

 ”私のいうとおりに書いてください。ようござんすか。大衆というものは
  、純文学の読者と違うのです。何のあてもない、つらい、苦しい生活に
  耐えているのです。一日の労働が終わって、疲れきって帰ってきて、
  ほっと息をついたときに、読んでもらう作品を書くのです・・”

 ”暗いのは、人生だけでたくさんだ”と井口編集長は云った。そのことばの 意味が周五郎には痛いほどわかった。大衆文芸における「明るさ」は、苦渋にみちた実人生のシノニムだ。 しかし真実でなければならない”

 
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