(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

気まぐれ日記/インサイトでも買いますか

2009-02-25 | 時評
090225
気まぐれ日記/インサイトを買いますか~オバマの議会演説

 日経平均が、7000円台というありさま。まさに日本経済は沈没寸前だ。個人も消費意欲を失い、今春卒業の学生たちもこの国の将来に絶望感すら覚えるありさまである。では、何も打つ手はないのか? そんなことはない。いくらでも景気浮揚のアイデアはある。もっとひろく衆知を集めよう。

経済ジャーナリストの財部誠一氏は、JMMのメルマガで語っている。

 ”なぜ永田町からは自動車ローン減税のアイデアがでてこないのか。・・・いま日本経済にとってもっとも必要なことは自動車の需要を創り出すことである。

日本の製造業者は大なり小なりどこかで自動車製造に関わっているというだけではない。IT業界の運命もまた自動車産業の帰趨に左右されるからだ。いまや日本車はIT技術の集積でもある。エンジンの噴射からブレーキのコントロールに至るまで、走る、止まる、曲がるという自動車の基本性能のすべてにIT技術が駆使されている。つまり自動車産業の失速はIT業界に急ブレーキをかけるのだ。

オートローン減税を実施するべきだ。住宅ローン減税のように、オートローンを組んで新車を購入した人に対して思い切った所得控除することで、車の買い替え需要を創出するのである。極論をいえば5年のオートローンを組んだら、毎年、購入金額の5分の1ずつを所得から控除する。現実的には購入代金全額を所得控除するという考え方は行き過ぎかもしれないが、日本の危機的状況を思えば、そのくらい思い切った景気対策があってしかるべしと考える。

想像して欲しい。クルマの購入代金が5年で全額所得控除されたら、あなたはどうするだろう。誰だって新車を買いたくなるだろう。自動車メーカーに補助金をだすのではない。国民への減税を通じて自動車の需要を創り出すのだ。その程度のサプライズをなぜ提供できないのか・・・・”

 こんな政策がうちだされたら、私もすぐにでも新車に切り替えようと思う。わが愛車は、ほぼ10万キロ走行。ショック・アブソーバーもふくめしっかりメンテナンスしてあり、買い換える必要もないが、でもこんな時にこそハイブリッドに買い換えて景気浮揚に貧者の一灯を投じたい。

 いやまだまだアイデアはありますよ。公営の住宅はすべてスペースを倍増させたい。もちろん大型住宅減税込みだ。そうなれば大型家具も売れるし、大きなAVも売れる、ダイニングテーブルを大きくして家族の団らんの機会も増やしせば、子供たちも伸び伸びしてくる。ついでに建物は100年寿命を目指そう。骨格だけでいい。あとで、家族構成の変換に合わせ自由にリフォームできるのだから、

送電線は、すべて超伝導化。送電ロスがなくなるだけではない。超伝導化の工事や、ついでに電流200ボルト化などの投資機会も増える。

 東京証券取引所の上場は、英語の書類提出でよしとしよう。外資をどんどん誘致しよう。外資規制など取り払ってしまおう。なに!英語が問題だ?” 日本の誇るIT技術のパワーで外国語との双方向翻訳ソフトを開発しよう。小さな携帯用の装置にすれば、海外からくる介護士たちにとってもランゲージ・バリアーもなくなる。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

 そういえばオバマ大統領の、今日の議会演説は力強かった。
 ”
“While our economy may be weakened and our confidence shaken, though we
are living through difficult and uncertain times, tonight I want every American to know this,” Mr. Obama said. “We will rebuild, we will recover, and the United States of America will emerge stronger than before.”

 気持ちが高揚してくる。こんなスピーチを、日本の議会でも聞いてみたいなあ!




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読書『町人学者』ー浅田常三郎評伝~および理研のこと

2009-02-21 | 時評
読書メモ『町人学者ー浅田常三郎評伝』(増田美香子編 毎日新聞社 2008年4月)、および理研のことなど

 井深大とともに町工場であった東通工を世界のソニーに育て上げた盛田昭夫が大阪大学(通称阪大)物理学科卒業の技術屋であったことを知る人は、意外に少ないのではないか。盛田は、ソニーの営業面なかんずく資金調達で大活躍をしたが、創業当初は始めた事業が軌道に乗らず経営不振にあえいでいた。その頃盛田は井深大とともに恩師浅田のもとをたずねている。”もう、ダメです”と報告した盛田に対し、浅田は十万円の資金援助を申し出た。代りに、盛田は、ソニーの前身である東京通信工業のボロ株を残して帰った。のちにこの「ボロ株」は、けたはずれの価値を持つことになる。

 盛田は、愛知一中から旧姓の八高(のちの名古屋帝大)に進学した。盛田は高校3年の時に進路相談で、阪大の浅田常三郎の研究室を訪れた。そこで盛田は

 ”私はその散らかった研究室に足を踏み入れ、教授と顔をあわせたとたん、彼を好きになった。生き生きした目をした背の低い太った人で、、鼻にかかった大阪弁でよくしゃべった。冗談をいいあうのが大好きで、教授という立場にありながら、すこしも偉ぶった態度をとらなかった・・”

以後、盛田は阪大理学部物理学科で、浅田の教えをうけることになる。

  ~それ、なんでだんねん~

 浅田は、”物理学を象牙の塔に押し込めず”、物理学の応用展開に努め、戦後、エネルギー効率の高い蛍光灯の開発、金属チタン精錬法の開発、人工降雨・融雪、ベータトロンの開発やそれを利用した非破壊検査技術の研究など産業界に貢献する多くの業績を残した。この本は、浅田を心から敬愛する門下生たちが、まとめあげた浅田常三郎の評伝である。浅田の興味深い人物像が巧みに描き出されている。

ところでこの本のタイトルは「町人学者」である。町人学者といえば江戸時代に両替商升屋の番頭として活躍し、かたわら天文学・地理学・歴史、経済学・医学などの広い分野において、独創的な意見を発表しのちに「夢の代(しろ)」という著書を発表した山片蟠桃のことを思い浮かべる。浅田は、その逆である。帝国大学の物理学者でありがながら、産業技術への関心が深くその物理学の知識を応用展開して戦後の産業発展に尽力をした。

 大分前置きが長くなってしまった。浅田は、堺市で育ち難関の三高から東京帝大理学部物理学科に入学した。時に大正10年(1912年)。この頃世界の物理学は、量子論と「相対性理論を双曲に大きく変貌しつつあった。実験物理で抜群の成績を誇った浅田は、長岡半太郎の研究室に配属された。原子物理で知られた長岡は、明治36年に「土星形有核原子模型」の仮説を発表し、原子核の存在を予見していた。東大物理部長の長岡は、新設された理化学研究所の研究員になった。当時の研究員の名前を列挙すれば、池田菊苗(オリザニン)・鈴木梅太郎(ビタミンA)・本多光太郎(磁性材料)大河内正敏(三代目理研所長)、喜多源逸(工業化学)など俊秀が綺羅星の如くならぶ。この理研時代と長岡の薫陶が、後年の浅田に大きな影響を及ぼしたことは、想像に難くない。理研については、すこし古くなるが『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋 宮田親平 1983年7月)という名著が残されている。

さて東大で長岡研究室に入った浅田は、講義を本郷の理学部で受けつつ、実験を理研で行った。浅田の勉強法は、 ”限られた時間と労力で効果的な勉強を読書で得るには乱読すべきではななく、良い本を熟読すべき”、という。1930年に大阪大学が創設され、長岡半太郎が総長となった。浅田も、それに伴って阪大の物理学科の教授となった。その大阪弁での講義は当初から異色をはなっていた。みな超然とした学者像を思い描いていたが、童顔で教壇にたった浅田のイメージがあまりに違うので、学生たちは驚いた。

 ”一銭銅貨をおきましてな、かかとで踏んでキリーッと舞まいねん”

二枚の銅貨に挟まれたルビーはこなごなに砕かれていた。模造品だったのである。天然ルビーで同じように実験してみせ、ルビーの結晶の丈夫さを示してみせた。肩肘はらない講義が浅田の真骨頂であった。

 「物理が化学を、化学が物理をやっても一向にかまいません」
 「あまり文献を読みあさると、独創力が鈍る。なんでもやってみることだ」

これは理研での大河内所長の教えである。そのとおり浅田は分野にこだわることなく、次々に実験に取り組み、新しい取り組みを展開した。光通信につながってゆく光線電話、戦時中の焼夷弾の消夏法、、原子爆弾が投下されたあとの現地調査、また終戦直後には、はやく立ち直らねばと理学部の機能回復に奔走した。焼け跡から部品を拾いあつめ、ベータトロン(電子加速器)を完成させた。この装置は、高エネルギーのエックス線を発生させるので、いろいろな透過写真の撮影に使われた。原子力用高圧容器の全面放射線検査も容易にできるようになった。その後も日本最初の金属チタン精錬法を企業と共同開発、日本初の人工降雨実験を大阪生駒山山上で行うなど、「社会の役にたちたい」という思いから、いろんな実験に取り組み、また企業の技術相談にも力を貸した。書き出せばきりがないが、要は実用物理学の展開である。

 ”浅田の口癖がある。”なんでだんねん” 議論や説明の中で、ふとした疑問が生じると、「それはなぜですか?」と研究者にでも学生にでも間髪をいれず問いかけた。そこには物理の根源的な問いかけが含まれていることが多く、新しい発見につながることもしばしばだった”
ー余談になるが理研に遅れて参加した寺田寅彦も口癖も同様であった。(「科学者たちの自由な楽園」より)ー ”彼は温顔をかたむけ、ソフトな関西のことばで語りかけた。「ねえ君、不思議とは思いませんか・・・”

 社会に役にたつ実学をめざした浅田は、その親しみやすい庶民的な人柄もあいまって多くの学生たちに慕われた。1966年、浅田の上京にあわせ、門下生たちによる浅田を囲む会が催された。幹事は盛田昭夫だった。浅田が亡くなった今も、東京浅田会は続いている。

          ~~~~~~~~~~~~~~

 浅田は後年関西のさる企業に請われ、基礎研究所の設立に関わった。若い頃、その研究所ともつながる中央研究所に席をおいたものの一人として懐かしい思い出もある。この本は、その頃の先輩の一人であり、また著者の一人でもある岡田健氏からご紹介いただいた。本ブログ上でお礼を申し上げることをお許しください。


 








 








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気まぐれ日記/ヒラリー・クリントンの来日

2009-02-16 | 時評
 今夕、ヒラリー・クリントン米国務長官が来日しました。せっかくのことなので彼女に関するエピソードを一つご紹介しましょう。

 ”アメリカ軍がNATO軍と一緒にユーゴースラビアに出かけていった時に、ヒラリー・クリントンが兵隊さんに演説をしました。そのときヒラリー夫人は、こんな演説をしています。ユーゴが乱れてきたのは、いろいろな宗教、いろいろな民族が入っているからだ。わがアメリカにもいろいろな宗教があり、いろいろな民族がいる。しかしアメリカは一つになってやっている。ここにアメリカの価値がある。・・・・”

 アメリカ兵士はこれを聞いて感激したそうです。

 『知の愉しみ知の力』という、白川静と渡部昇一の対談をまとめた本(致知出版社)があります。そのなかに「世界の常識を百八十度転換させて日本の心学」という一節があり、渡部昇一がこの逸話を紹介していました。日本には、本地垂迹(ほんちすいじゃく)という説があって、神仏儒の区別をしない、人間の心を前提としてそれを立派にすためにはいかなる宗教をつかってもいい、という考え方があるそうです。そういえば”神さま仏さま、稲尾さま”などというように、日本ではあまり神仏の区別をしませんね。仏様も阿弥陀如来、お釈迦様、観音菩薩、大日如来・・・・、とそれほどシリアスに区別せず、手を合わせて拝んでいます。今はそんな”寛容”の精神が必要とされているのではないでしょうか。

 小沢党首が彼女と会うのか、会うとしたらどんな話をするのか推測すべくもありませんが、こんな会話でもされたら如何でしょうか?ついでのことに、こんな話もあります。

(日露戦争の終結策を漢詩で確認しあった伊藤博文と金子堅太郎)
 ”伊藤博文は日露戦争の早期終結を模索するために金子堅太郎をアメリカに派遣します。その時に伊藤が金子に詩を送るんです。その詩は「戦争回避のために動いてきたけれど、もはやどうにもならない。しかしアメリカの仲介があれば、戦争を早期終結させることができるかも知れない」という内容なのですが、アメリカという名前を出さずに言うわけです。それに対して金子堅太郎も詩で答えるんですね。当時の政治家には、そういう江戸幕末の教養の伝統というのが残っていたように思います・・・・”

 外交にも、風格がありますね。わが国の今の政治家や外交官はどうなのでしょうか。昭和37年10月、総理に就任まえの佐藤栄作はがケネディ大統領を表敬訪問しました。会ったとき、はじめはまったく儀礼的でとりつくしまもなかったケネディが、佐藤の引用したシュバイッツアーの言葉に心を動かされ、胸襟を開いて延々三時間話し合った、という出来事もありました。

 ”戦いに勝ちし国は敗れし国に対して、喪に服するの礼をもって処さねばならない”

アメリカはキューバ危機の真っ最中、日本は沖縄返還まえのアジアの一小国にすぎなかった。ちなみに、この言葉は『老子』にでてくるフレーズであるとか。
 

 

 
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気まぐれ日記/神戸の元気印

2009-02-14 | 時評
 神戸には、ファッションや洋菓子でその名を知られた企業が数多くあるが、今日はもう少し違う分野の企業をご紹介したい。その一つが、食品分野である。写真は、フジッコという会社が製造しているレトルト・パウチの一つである。こキムチ鍋のスープは、寒かったこの冬に愛用した。野菜や豚肉などを放り込んでテーブルの上に載せたガスコンロで料理する熱々キムチ鍋は本当に旨い。この他にもちゃんこ鍋つゆ、カレー鍋つゆなどもある。ちゃんこ鍋のつゆは、羅臼昆布とかつお節の出汁で鶏団子や豆腐・薄揚げ・生シイタケにごぼうなどををいれて煮込む。抜群に旨いなあ!

もともと昆布の佃煮や黒豆の煮たのを製造していたが、最近は多角化している。この会社はポートピア・アイランドににある正真正銘の神戸の企業である。売り上げ年間500億ほど。経常利益率も7%近い。最近の金融危機でもでも勢いは落ちていない。

 わが町東灘にあるエム・シーシー食品(株)のつくる「野菜のスープカレー」(神戸テイストカレー・シリーズ)や「100時間かけたハヤシ」などのレトルト・パウチ食品は、みんな味がいい。秀逸だ。たまのランチタイムに一人で放り出されるときがあるが、ここのシリーズは強い助っ人になる。同社は調理冷凍食品の先駆者。ピザやパスタソースも旨い。株は非上場ということで、詳しいことは分らないが、年商はおよそ135億円と立派なものだ。

 おなじ東灘にあるロックフィールドは、惣菜分野で「神戸コロッケ」や「サラダバッグ」などのブランド商品を有し、年商ほぼ470億と規模も大きい。経常利益率も5.4%を誇る。東京も含めたデパ地下にもつよく、規模を伸ばしつつある若い企業だ。株主への情報公開も迅速で、きちんとして好感がもてる。


 工業分野でも、若い企業が元気に活躍している。アサヒプリテックは貴金属やレアアースの加工・再生に加え、医療分野などの特殊産業廃棄物処理に注力し、売り上げは1000億円台、売上高経常利益率も9%台と高い。ROEの20%は凄い。最近メンテナンスに行った歯科でも、そこの廃棄物処理は当社と聞いた。平成21年大四半期は流石に売り上げも急落し、赤字がでた模様だが、産廃資源化・都市マイニングの注目企業としての中期的な進展が期待できよう。

 臨床検査機器・検査用試薬のシスメックスも売り上げ高は、1000億円台である。ここは、鳥インフルエンザを10分で検出する技術など独自の技術を誇り、この経済危機下でも平成21年第3四半期予想で、ほぼ79億の経常利益を確保している。株主を大事にする姿勢も好感がもてる。


 そして最後にみなさんご存じのジュンク堂書店。収益性という分野のビジネスではないが、独自の事業哲学をもち、札幌から鹿児島まで20事業所を展開する。座り読み歓迎、専門書をずらりとそろえる。鳥居民の「昭和20年」も11巻をずらり、社会学者の大澤真幸の著作もずらり。ひとりひとりの読書家に応える姿勢をもつ。いわゆるロング・テールのビジネス展開といえる。このジュンク堂書店は、神戸は三宮センター街の書店が発祥の地である。余談になるが、CDも置いてくれないかな。銀座の山野楽器のような店があって欲しいのである。

          ~~~~~~~~~~~~~~~

 やはり神戸は新しい物好きのユニークな町ですね。


 
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読書『私の履歴書~知の越境者』

2009-02-09 | 時評
読書『私の履歴書ー知の越境者』(白川静・中村元・梅棹忠夫・梅原猛、日経ビジネス文庫 2007年6月)

 ”考える人”、4人の履歴書であるが、ここでは、私の好きな梅原さんのことについて絞り、そのエピソードをご紹介したい。

梅原猛さんは、愛知県知多半島の生まれである。父半二が東北大学工学部機械工学科に学んでいたときに、下宿先の娘と恋に陥り、そこで生まれたのだ梅原猛であった。しかし恋愛結婚など認められなかった時代である。母は、子供を生んで、一才四ヶ月の時に病でなくなってしまった。梅原は、半二の父、つまり祖父の半兵衛の子として育てられた。実父半二は、人材を捜していた豊田喜一郎と出会い、見込まれてトヨタ自動車に入社した。のちにトヨタの技術部長、豊田中央研究所の所長もつとめ、”トヨタの技術の基礎を作った”と喜一郎をしていわしめてめいる。

 養父の半兵衛夫婦は、ことのほか猛を可愛がった。知多半島の内海町で自然と戯れて育った猛は、中学受験で愛知一中を落第し、私立の東海中学に入学した。数学は得意だったが、音楽・書道・体操などは、苦手な少年であった。東海中学は浄土宗系の設立であるが、、私のいた旭が丘高校(以前の愛知一中)とは良き意味のライバル関係にあり、なかなか優れて教育を行っていた。ここで川端康成の小説を読みふけり、文学青年になっていた。そして二度落ちて、やっと入学した八高では、ニーチェや西田幾多郎などの哲学書を乱読、そして西田の後継者である田辺元や和辻哲郎などの著作に魅了され、京都大学で哲学を学ぼうと思うようになった。終戦を経て、昭和20年京都大学文学部哲学科に復学する。

 当時、京都哲学の創始者とも云うべき西田幾多郎は、戦争中に亡くなり、その後継者の田辺元も疎開していなかった。高山岩男、高坂正顕、西谷啓治という、西田哲学の論理を使って大東亜戦争を肯定した、いわゆる世界史の哲学者たちが主要なポストを占めていた。彼らの戦争についての発言にたいする批判から、さらには弁証法という論理に疑問をいだく。ヘーゲルによって打ち立てられた論理はマルクスや西田や田辺などの京都学者によっても採用されているが、弁証法そのものにもある種のいかがわしさがあるのではないかと感じ始めた。そのうちに。世界史の哲学者たちが追放になり、かわりに田中美知太郎、田中三郎氏など赴任してきた。

 ”このような教授たちは、日本の哲学者は西田や田辺のように自己の哲学を樹立するという野心はおこすべきでなく、西洋哲学の研究をしていればよい、という考えであった。”

 梅原の別な著書『哲学する心』(講談社学術文庫 2002年4月 原著は1968年)に、次のような言葉が見出される。

 (戦後哲学者の怠惰)(新しい哲学者像を)

 ”もちろん、哲学者たちは勉強はしすぎるほどし、本は読みすぎるほど読むわけであるが、現実の問題に対して発言しようとしないのみか、発言しようとする態度を自ら禁じた以上、結局こうした哲学者たちはニーチェのいう「背後世界者」になるよりほかなかったであろう”

 ”こうした現状にかんがみて、西田幾多郎の確固不動の思索像が、私たちのどこかに依然として「哲学者であること」の理想像にとどまっていることは否定できないであろう。しかし、私は日本の哲学の前進と、日本国民の将来のためにだんこたる否定をこの理想像に投げかけねばならぬと思う”

 梅原は、『地獄の思想』(中公新書 1967年)などみられるように日本の仏教文の根幹にある生命の哲学、こころの哲学を説くようになる。さらに立命館大学に在任中には、ほぼその学問の基礎を固めるにいたり、新しい哲学の必要性を感じた。”

 ”・・・しかし哲学者として、実存主義に対抗する新しい哲学を立てなければならない。ボルノウが、不安や絶望の感情を人間存在の中心におく実存主義に対して、希望を人間存在の中心におく人間学をたてていることを知った。しかし希望はキリスト教的な感情であり、日本の風土にはあわない。希望の代りに笑いをおいたらどうであろうか”

 この笑いの哲学を打たてるという試みは、挫折に終った。しかし梅原は、挑戦の人である。”認識の精確さを誇るより、あえて一つの仮説をたてて、その仮説を追いつめる誤謬を恐れぬ勇気のほうが、真理の使徒にはふさわしいことである”という彼の姿勢が好きだ。

 次第に笑いあるいは感情の理論の枠を超えて、日本の宗教や芸術に関する論文を発表するようになっていった。その最初の著書が『仏像 心とかたち』(集英社文庫 1985年3月)である。その詳しいことは、ここでは語らないが、釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・観音菩薩・弥勒菩薩などの各仏像について語りつつも、梅原は、そのような仏像をつくった日本文化の問題、日本人の心の問題として考え、現代への意味を考察した、心に染みいってくるような、印象的な著であった。
 
その後の古代三部作「隠された十字架ー法隆寺論」「水底の歌ー柿本人麿論」についてのことや、スーパー歌舞伎での市川猿之助」との意気投合のことも省くが最後に、梅原が創設に力をつくした日本文化の研究所ー国際日本文化研究センターのことについてふれておきたい。当時の中曽根首相に桑原武夫教授他で直訴してできたこの研究所は、昭和62年(1987年)、京都・洛西に創設された。そこへ集めたメンバーの名前を見るだけでも、如何に熱気溢れる研究所かということがよく分る。

 ”コロンビア大学からドナルド・キーン、東京大学から埴原和郎、村上泰亮、芳賀徹、伊東俊太郎、筑波大学から中西進、国立歴史民族博物館から山折哲雄、慶応義塾大学から速水融、名古屋大学から飯田経夫、京都大学から河合隼雄・・・”

 もう80歳代半ばのご高齢ではあるが、日本独自の体系的な哲学書を書き上げていただきたいと切に願う次第である。
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読書『霧の中の巨人』・『怨殺 西穂高独標』

2009-02-05 | 時評
読書メモ『霧の中の巨人』(梓林太郎 詳伝社 2003年11月)、
     『怨殺 西穂高独標』(梓林太郎 光文社文庫 2008年11月)

 山岳ミステリーの名手梓林太郎には、いろんなシリーズの作品がある。長野県豊科署の刑事・道原伝吉の地道な捜査を丹念に描き出す作品、また長野県警山岳救助員の紫門一鬼の活躍を描く「殺人山行」シリーズなど、どれも魅力あふれる作品である。なぜそれを手にとるか、それはミステリーとしての面白さに加え、北アルプスを中心にした山岳風景の描写が魅力的だからである。安曇野からはじまり、蝶ケ岳、西穂高岳、白馬、針の木岳、立山、燕岳、・・・みんな歩いたことがあるだけに懐かしさも覚える。

 『怨殺 西穂高独標』は、梓林太郎の最新刊である。標高2908メートルの西穂高岳の西穂山荘近くの独標から痕跡を消した一人の男の行方を、その娘が追う。そのことを書くつもりはない。この本の後書に、文芸評論家の渡辺起知夫の解説があり、作者梓林太郎が山に親しむようになった経緯が書かれている。それは、梓林太郎が20年にわたって親交のあった松本清張のことを回想した本に書かれていたのである。

『霧の中の巨人』には、「回想・私の松本清張」というサブタイトルがついている。小さな中小企業あいてのコンサルティング会社~むしろ調査事務所といった方がいいかも知れない~に働き、様々な人間像をみてきた梓林太郎に、清張が関心をいだき、後年小説の種になるような話を聞いていた。いうなれば、作品のヒントを提供していた訳である。清張ファンならずとも興味のある話題である。ヒントになるようなエピソードがいくつも語られている。それはともかく、この本は、むしろ清張との結びつきを語りながらも、梓林太郎の自伝的なエッセーといえよう。いくつかの仕事を移り変わり、相当な辛酸を舐めていることが語られている。その会社で、上司の佐竹と話をしているときに、文学作品ことに清張の作品について話が弾んだ。その佐竹が山に登っていることから、ある日冬の北穂高岳に誘われた。

 ”山に登ることを妻に話した。彼女は高い山などに登ったことがなかったから、
「山登り。素敵なことじゃない。気候もいいし」と、草原のピクニックを思い浮かべているようなことを云った。私は、山具店で下見してきた装備が必要なことを話した。ザックだけは古いのがあったが、山靴・ピッケル・アイゼン・寝袋・羽毛服、毛の下着などは取りそろえなくてはならなかった。それらの値段に妻は目をまるくした。登山に反対するかと思ったが、「登りたいんでしょ、行ってきたら」といった。雪や氷や、切り立った岸壁が彼女の頭には浮かばないようであった。それでも「ご来光はきれいでしょうね」といった。”

 ”私の北アルプス処女山行は快適だった。四人のベテランにはさまれて。横尾から涸沢(からさわ)を経て、標高3106メートルの北穂高山頂に登りついた。山頂は、風が強く、立っているのが困難なくらいだったが、薄く雪化粧した穂高連峰や槍ヶ岳をはじめて眺めて感動した。佐竹に教えられ、日本の近代登山黎明期に活躍した山案内人上条嘉門次が「鳥も通わぬ」と云ったという滝谷を、腹這いになってのぞいた。東側の横尾谷の陥没を越えて眺められ常念岳、大天井岳、燕岳も、その時に覚えた。”

 北穂高の山小屋では、レコードでクラシック音楽を聴いたと書かれている。後年とりつかれたように、その時眺めた山々に登るようになる。そんな梓は、じつは天竜川右岸の下伊那郡(現飯田市)の生まれである。小学生のころに、天竜を越えた彼方に連なる赤石山脈(南アルプス)の峰がしらの名を、父や祖父か教えられていた。梓林太郎の、このような山との結びつき、また生きてきた背景を知ると、一層その著作に親しみが湧いてきた。

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