男の嗜み(その二) (写真は安達太良山)
(旅)
”旅は思わぬ出会いやできごとがあるから楽しいのだ。パッケージツアーのように何からなにまで旅程が決まっていたらハプニングの一つも起こらない。そんなのは気の抜けたビールと一緒で刺激がなくて、ちっとも面白くない。”
たしかにそうなのだ。だから、車のナビを使うのもほどほどにしたい。ひところは地図とにらめっこして走っていた。そうすると、ふと目にはいった農家の大きな柿の木に魅せられて立ち止まったり、渓流にあそぶ子どもたちの姿が面白くて眺めていたりすることがあった。そして、見事な夕焼けが見られたら、車を停めてしばし、眺めていよう。
一人旅について、”一人旅にしかない楽しみがある”と言っている。たしかに、誰にも気兼ねせずに旅のプランやスケジュールを自由に決められる。そして、”一人旅をして いると、ふとした瞬間に自分のことや人生に思いがむかうことがある”と筆者はいう
滅多に一人旅をしないが、ふと一人で旅をしたいと思うことがある。問題は、一人旅を歓迎してくれる宿があまりないのである。ましてや、女性の一人旅は、”なにかあるのかも”と訝られることもあるようだ。最近、安曇野からさほど遠くない上田の別所温泉に小体な宿で、”一人旅歓迎”とうたった宿をみつけた。長野県最古の温泉地であり、真田家の隠し湯といわれている。上松屋という。いずれ行って連泊してみたいと
とはいうものの、一人旅の場合、楽しかったことやその地での嬉しかった出会いと言うような思いを共有する相手がいない。せめて手紙を書くのかなあ。
一人旅かあるいは家族や親しい友人と行くのかはさておき、私が行きたいところは、以前にこのブログ「旅にでかけよう」で書き尽くしてあるので、そちらをご覧願いたい。
あ! いや思い出した。私の頭の中には、歴史を追い求める旅や、先人の足跡を辿るという旅のプランがある。それを二つほどご紹介させていただく。
一つ目は、甲斐の国(甲州)への旅。笛吹川流域など、尊敬する俳人飯田龍太の生まれ育った世界がそこにはある。それらを訪ね歩きたいが、最も興味を覚えているのは、塩山市から東北にある雲峰寺へ行ってみたいと思っている。
白洲正子が『行雲抄』の中で取り上げているが、この寺の草創は古く天平時代に遡る。ここは、戦国時代に武田家の祈願所に選ばれており、かの有名な「風林火山」の旗も置いてある。そして、この塩山の地に武田家累代の日の丸の旗などの遺品が蔵されている。これを見た白洲正子は、こう綴っている。
”ことに日の丸の旗は実に美しいもので、白地の薄絹に、紅の日の丸が大きく染めてあるのだが、これは天喜四年(1056年)に、後冷泉天皇から源頼義に賜ったものを、新羅三郎義光が受け継ぎ、甲斐源氏の重宝(じゅうほう)なったと伝えている。また武田家の馬標も・・・、このような見事な宝物に接すると、信玄の武勇が、一朝一夕で培われたものではないことに気がつく。私は美しいものに出会って感動しないと、その時代の精神も人間も、とらえることができない性分なのだが、ここ雲峰寺において、武田氏の経てきた歴史と、ひいては甲斐の文化が、おぼろながらつかめてように思うのであった。”
二つ目は福島県の二本松市である。市の西方には、そのシンボルである安達太良山がある。高村光太郎の『智恵子抄』で、よく知られるところである。
”あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・”
しかし私の目指すところは、そこではない。エール大学の教授として活躍、比較法制学の権威である朝河貫一教授の墓所である。この偉大な先人の足跡を辿ってみたいと願っている。
今日、朝河貫一という名前を耳にしても、ほとんどの方がご存じないだろう。福島県二本松市に生まれた朝河は、早稲田大学卒業後渡米し、以来アメリカの地で活躍した。エール大学では、日本の外交史、文明史さらにはヨーロッパの中世史などを教えた。世界的な歴史学者でもある。日露戦争が終結した1905年から4年経った1909年(明治42年)、朝河は『日本の禍機』という著書を著し、日本軍の東北三省の占領がやがて日米間の破局に至ることになると警鐘を鳴らした。また、日米開戦の直前も、日米関係の破局を回避しようと、アメリカ大統領の親書を天皇宛に送るという企てにかかわることもあった。彼が、昭和23年(1948年8月)、74歳の生涯を終えた時、通信社APとUPIは、”現代日本がもつ最も高名で世界的学者として、その訃報を報道した。またアメリカ機関紙スター&ストライプスは弔慰の記事を掲載し、横浜基地では半旗が掲げられた。
近く来る8月10日は朝河貫一教授の忌日である。
(おしゃれ)・・・香水と男の日傘
あまりお洒落をする方ではないが、身ぎれいで清潔にして。こざっぱりとはしていたい 。若い頃は、気取って蝶ネクタイをしたりしていたが、それは自己満足にすぎないのであって、周囲から見れば噴飯物であったかもしれない。
著者は、”もう年だから”といって関心なくすのはナンセンスと云っている。まったく同感である。男性も女性もお洒落に関心は持ってほしい。ちょっとしたお出かけのときは、女性は紅でもさして欲しい。場合によっては香水を一滴耳朶につけてくれると洒落ているなあと思うが、ないものねだりか?
”香水を買ひし心を夫知らず” (野見山タミ女)
いや脱線しました。万年筆のこと。”大事な場面で心を届けるには、手になじんだいい万年筆があるといい”と筆者は云っている。そういう万年筆があると、しばらく会って いない友人に、つい手紙の一つも書きたくなるという。この頃はメールあるいはスマホ でのメッセージの交換がほとんどだが、やはい手書きの葉書や手紙はもらって嬉しいも のである。私は、このブログ記事の冒頭の写真にあるペリカンの万年筆を愛用している 。それまではご多分にもれず、モンブランのマイスターシュテュックを愛用していたが、インクの色に凝りだしてからはペリカンにしてる。そして毎日の日記は、これで書いている。問題は、生来の悪筆に加え、文字を書く速度が早くなってきているので、自分では読めてても他人様には通用しないようだ。習字の師匠からは、ゆっくり書くようにと 言われている。そんなこともあって、手紙を万年筆で書いて出すのに躊躇している。せっかく頂いたお手紙にも、メールで返事する始末だ。この頃、目の前にあるカレンダーに「手紙の日」と書いたポストイットを貼ってある。早めに残暑お見舞いを出さなくてはと思っている。
今度は「男の日傘」。筆者が、ふとみかけた中年男性の日傘姿が意外といい感じみ見え たので、百貨店に入り、男の日傘をあれこれ見てみたという。 そして売れ筋の折りた たみし式の一本を買い求め、早速照りつける太陽の下を歩いてみた。想像以上に涼しかったという。この猛暑で、私も一本欲しくなった。できれば、もう少しカラフルにしたいのだが・・・。
和傘ということなら京都であろうと、色々調べてみた。あります。ちゃんと。日本最古のという「辻倉」とか「日吉屋」など。カラフルな日傘がある。ただし男性用とは銘打 ていないので、実際手にとってみないと分からない。二分割して小さくもできるらし い。ただ、妙齢の女性がさすのはいいかもしれないは、年を重ねた男がたったら、どう 見られるか。あまり自信はないが、トライしてみたい。実は、某日四条河原町にあるその店を覗いて見た。傘の軸は真ん中あたりで、ねじ込みになっていて持ち運びが便利 になっている。新作が9月に入るとのことなので、今から楽しみにしている。。
(生き方)
自分と向き合い、だめな自分を認めることのできる人間は、逆境を糧(かて)にする、と筆者は云う。
”人生も一緒である。土砂降りの雨に降られ、泥んこになり七転八倒するからこそ、顔のシワ一つひとつに深く刻まれた、その人だけの物語が生まれるのだ。晴れの日ばかりでは、そんな味のある顔はできはしない。”
私自身、長い人生で色んなことがあった。早くに父なくし、いじめを受けたこともある。学生時代、向学心に燃えて勉学に励んだが、しばらくするうちに、あまりにもレベルの低い、ただ黒板に書かれたことを書き写すだけの授業に飽きてしまい、学校に行かない日々もあった。勉強しないから、成績もよくない。志望した学科には行けなかった。よく卒業できたものだ。会社に入ってからは、猛烈に勉強したが・・・。それからも色いろなできごとがあった。精神的にバランスを崩したこともあった。
70年代後半から、80年代にかけて、先人の経験に学ぼうと、その種の本を読み漁った。いわく、『逆境を愛する男たち』(小島直記)、『左遷の哲学』(伊藤肇(はじめ))などなど。
『逆境を愛する男たち』の中に、フローベル原作の『ボヴァリー夫人』という小説にまつわるエピソードがある。本を読むことによって自分の人間をつくりあげた、という実例である。不倫小説であるが、写実主義の傑作と評された。以下に、そのエピソードを紹介しておこう。(少し長くなりますが、ご容赦ください)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
”(読書による自己形成)という章で宝塚歌劇12期生の高浪喜代子という生徒のことがでてくる。当時宝塚歌劇団の世話をしていた丸尾長顕の回想によると、次のようなエピソードがある。(須磨郁代と同期生である)
”高浪喜代子という生徒がいた。可愛いい子であったが、背は高くなく、おきゃんなところがあるかと思うと、また静かなところもある、というタイプだったらしい。その生徒から、「わたしはスターになりたいけれども、いっこうにスターになれない。しかし、スターになる方法があったら教えて欲しい」という相談をうけた著者は机上の本をさして、「この『ボヴァリー夫人』を読んだら、きっとすたーになる」と、とっさに言った。
フローベル原作のこの小説の当時の訳本は、訳が下手で読みづらいものだった。しかし、彼女がより知的になったら、その時にチャンスをつかむ女だと思って、あえてすすめたのだ。
「そんなら読んできます」といって、彼女はその本をもって帰った。いっぺん読んできた。が、スターにならない。二度読んだ、まだスターにならない。著者の目には、まだ輝きが感じられなかった。三度読んできた。それでも、まだダメ。しかしながら、なんとなく知的な面が感じられるようになった。
「三度読んだけれども、スターにならないじゃないの」という。「じゃ、もう一度だけ読んできてください。もう一度読めば、必ずスターになる。ならなかったら、私が切腹してみせる」 彼女はそういわれて、真剣になって、四度読んできた。そして、四度読んできた時にいったのである。
「スターになろうと思って、四度も読んだ。だけれども、もう私はスターならなくてよろしい。この本を四度読んで感じたことは、人間の感情というものが、こんなにデリケートである、ということを知った。だから、丸尾さんにダマされてもいい。もうスターにならなくてもいい。この本を四度読んで、そういうことを理解しただけで、私は満足することにする。あなたにダマされたけれども、得はとった」
ところが、スターにならなくてもいい、と言った途端に、彼女はスターになったのである。なぜか? 「それはそうである。彼女はもう以前の高浪喜代子ではなかった。知的に輝きを増した目をしていた。それを作者は捨て置くはずはない。すぐ役がついた。目も輝いてきた。肩の力も抜けてきた。こうして高浪喜代子は、大スターにのしあがった」” ~~~~~~~~~~~~~~~~~
ついでのことであるが、人間形成について探ろうとするとき、何も難しい心理学などの本を読む必要はないと。それよりも、山本周五郎の時代小説を読むことである。それも目で読み、心で読み、体で読むことである。彼の作品には、様々な人間の表の姿や隠された姿が、いきいきと書かれており、辛く困難な人生を歩んできたものにとっては救いともなる。
話は変わるが、著者は、英語力より学歴より大事なのは生き抜く力だといっている。これから、いや今でもグローバルな世界での活躍が求められるが、英語力イコール仕事力と考えると大きな間違いである。
”本当の意味での国際人は、自分の国に根っこがあり、歴史や文化に精通し、それらを教養として身につけている。それを互いに尊重できなければ、国際ビジネスの現場では信頼は得られない。問われるのは教養であり、人間力だ。英語は単なる道具にすぎない。笑い話になるが、帰国子女には日本語も外国語も歴史や文化などの教養面は、どれも中途半端というケースが少なくない。天気予報で「寒気団」を「サムケダン」と読んだ帰国子女のアナウンサーがいたそうである。
いやいや堅苦しい話になってしまった。埋め草的に心楽しい話をご紹介しておこう。
『課長島耕作」のシリーズで、団塊世代の圧倒的な人気を集めた弘兼憲史は、文庫本『男子の作法』という本を書いている。その中で『黄昏流星群』というコミックを書いた時の取材で聞いた話を紹介している。
”末期がんの患者たちが、死ぬ前に何かしようではないかと話し合い、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランに登頂するというとんでもない企画を立てた。モンブランはフランスとイタリアの国境にある4800mほどの山だ。
末期がんの人たちは目標を持って嬉々とした毎日を送り、富士山で雪上訓練などをした後、最終的に5~6人がモンブランの登頂に成功して帰ってきた。その10年後もほぼ全員が生きていて、ガンが消えたという人もいたという。ところが、一緒 に登った現地のシェルパのほうが、数人先になくなっていたというのである。これは、生きがいを持って目標に向かって楽しく生きた人間が、ガンに打ち勝ったということになる。実際に笑って楽しく過ごして、免疫をつくって長生きをするという 「ホリスティック医学」というものも存在する。楽しいことをすると、体のリンパ液の中にあるNK(ナチュラルキラー)細胞が活性化してガン細胞を退治するという、免疫力を高める医学である。”
楽しく生きたもん勝ちだ!また感動をするようなことがなくなると、一挙に脳は老化を始めるらし。いくつになっても、好きなものは好きでいい。感動を追い求める気持ちを失わないようにしたい。
大分予定のページ数を過ぎて、長くなってしましました。このあたりで、打ち止めといたします。まことに長文におつきあいいただき、ありがとうございました。
(余滴)川北義則さんのこと。この人は、東京スポーツ(略して東スポ)の文化部長などを歴任した人である。東スポや大スポなどの夕刊紙は、最終面などに裸の女の写真などがあって自宅には持ち帰りにくい。だから、駅や電車の中で読んで、あとは捨てて帰る。この人が、ある年『男の品格』という本を出した。手にとってみると、教養に溢れ、歴史/文化/音楽などの話題も豊富で読み応えがあった。彼の書く本は、真面目で固くもあり、また下世話にも通じており、柔らかい一面もたっぷりある。
(旅)
”旅は思わぬ出会いやできごとがあるから楽しいのだ。パッケージツアーのように何からなにまで旅程が決まっていたらハプニングの一つも起こらない。そんなのは気の抜けたビールと一緒で刺激がなくて、ちっとも面白くない。”
たしかにそうなのだ。だから、車のナビを使うのもほどほどにしたい。ひところは地図とにらめっこして走っていた。そうすると、ふと目にはいった農家の大きな柿の木に魅せられて立ち止まったり、渓流にあそぶ子どもたちの姿が面白くて眺めていたりすることがあった。そして、見事な夕焼けが見られたら、車を停めてしばし、眺めていよう。
一人旅について、”一人旅にしかない楽しみがある”と言っている。たしかに、誰にも気兼ねせずに旅のプランやスケジュールを自由に決められる。そして、”一人旅をして いると、ふとした瞬間に自分のことや人生に思いがむかうことがある”と筆者はいう
滅多に一人旅をしないが、ふと一人で旅をしたいと思うことがある。問題は、一人旅を歓迎してくれる宿があまりないのである。ましてや、女性の一人旅は、”なにかあるのかも”と訝られることもあるようだ。最近、安曇野からさほど遠くない上田の別所温泉に小体な宿で、”一人旅歓迎”とうたった宿をみつけた。長野県最古の温泉地であり、真田家の隠し湯といわれている。上松屋という。いずれ行って連泊してみたいと
とはいうものの、一人旅の場合、楽しかったことやその地での嬉しかった出会いと言うような思いを共有する相手がいない。せめて手紙を書くのかなあ。
一人旅かあるいは家族や親しい友人と行くのかはさておき、私が行きたいところは、以前にこのブログ「旅にでかけよう」で書き尽くしてあるので、そちらをご覧願いたい。
あ! いや思い出した。私の頭の中には、歴史を追い求める旅や、先人の足跡を辿るという旅のプランがある。それを二つほどご紹介させていただく。
一つ目は、甲斐の国(甲州)への旅。笛吹川流域など、尊敬する俳人飯田龍太の生まれ育った世界がそこにはある。それらを訪ね歩きたいが、最も興味を覚えているのは、塩山市から東北にある雲峰寺へ行ってみたいと思っている。
白洲正子が『行雲抄』の中で取り上げているが、この寺の草創は古く天平時代に遡る。ここは、戦国時代に武田家の祈願所に選ばれており、かの有名な「風林火山」の旗も置いてある。そして、この塩山の地に武田家累代の日の丸の旗などの遺品が蔵されている。これを見た白洲正子は、こう綴っている。
”ことに日の丸の旗は実に美しいもので、白地の薄絹に、紅の日の丸が大きく染めてあるのだが、これは天喜四年(1056年)に、後冷泉天皇から源頼義に賜ったものを、新羅三郎義光が受け継ぎ、甲斐源氏の重宝(じゅうほう)なったと伝えている。また武田家の馬標も・・・、このような見事な宝物に接すると、信玄の武勇が、一朝一夕で培われたものではないことに気がつく。私は美しいものに出会って感動しないと、その時代の精神も人間も、とらえることができない性分なのだが、ここ雲峰寺において、武田氏の経てきた歴史と、ひいては甲斐の文化が、おぼろながらつかめてように思うのであった。”
二つ目は福島県の二本松市である。市の西方には、そのシンボルである安達太良山がある。高村光太郎の『智恵子抄』で、よく知られるところである。
”あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・”
しかし私の目指すところは、そこではない。エール大学の教授として活躍、比較法制学の権威である朝河貫一教授の墓所である。この偉大な先人の足跡を辿ってみたいと願っている。
今日、朝河貫一という名前を耳にしても、ほとんどの方がご存じないだろう。福島県二本松市に生まれた朝河は、早稲田大学卒業後渡米し、以来アメリカの地で活躍した。エール大学では、日本の外交史、文明史さらにはヨーロッパの中世史などを教えた。世界的な歴史学者でもある。日露戦争が終結した1905年から4年経った1909年(明治42年)、朝河は『日本の禍機』という著書を著し、日本軍の東北三省の占領がやがて日米間の破局に至ることになると警鐘を鳴らした。また、日米開戦の直前も、日米関係の破局を回避しようと、アメリカ大統領の親書を天皇宛に送るという企てにかかわることもあった。彼が、昭和23年(1948年8月)、74歳の生涯を終えた時、通信社APとUPIは、”現代日本がもつ最も高名で世界的学者として、その訃報を報道した。またアメリカ機関紙スター&ストライプスは弔慰の記事を掲載し、横浜基地では半旗が掲げられた。
近く来る8月10日は朝河貫一教授の忌日である。
(おしゃれ)・・・香水と男の日傘
あまりお洒落をする方ではないが、身ぎれいで清潔にして。こざっぱりとはしていたい 。若い頃は、気取って蝶ネクタイをしたりしていたが、それは自己満足にすぎないのであって、周囲から見れば噴飯物であったかもしれない。
著者は、”もう年だから”といって関心なくすのはナンセンスと云っている。まったく同感である。男性も女性もお洒落に関心は持ってほしい。ちょっとしたお出かけのときは、女性は紅でもさして欲しい。場合によっては香水を一滴耳朶につけてくれると洒落ているなあと思うが、ないものねだりか?
”香水を買ひし心を夫知らず” (野見山タミ女)
いや脱線しました。万年筆のこと。”大事な場面で心を届けるには、手になじんだいい万年筆があるといい”と筆者は云っている。そういう万年筆があると、しばらく会って いない友人に、つい手紙の一つも書きたくなるという。この頃はメールあるいはスマホ でのメッセージの交換がほとんどだが、やはい手書きの葉書や手紙はもらって嬉しいも のである。私は、このブログ記事の冒頭の写真にあるペリカンの万年筆を愛用している 。それまではご多分にもれず、モンブランのマイスターシュテュックを愛用していたが、インクの色に凝りだしてからはペリカンにしてる。そして毎日の日記は、これで書いている。問題は、生来の悪筆に加え、文字を書く速度が早くなってきているので、自分では読めてても他人様には通用しないようだ。習字の師匠からは、ゆっくり書くようにと 言われている。そんなこともあって、手紙を万年筆で書いて出すのに躊躇している。せっかく頂いたお手紙にも、メールで返事する始末だ。この頃、目の前にあるカレンダーに「手紙の日」と書いたポストイットを貼ってある。早めに残暑お見舞いを出さなくてはと思っている。
今度は「男の日傘」。筆者が、ふとみかけた中年男性の日傘姿が意外といい感じみ見え たので、百貨店に入り、男の日傘をあれこれ見てみたという。 そして売れ筋の折りた たみし式の一本を買い求め、早速照りつける太陽の下を歩いてみた。想像以上に涼しかったという。この猛暑で、私も一本欲しくなった。できれば、もう少しカラフルにしたいのだが・・・。
和傘ということなら京都であろうと、色々調べてみた。あります。ちゃんと。日本最古のという「辻倉」とか「日吉屋」など。カラフルな日傘がある。ただし男性用とは銘打 ていないので、実際手にとってみないと分からない。二分割して小さくもできるらし い。ただ、妙齢の女性がさすのはいいかもしれないは、年を重ねた男がたったら、どう 見られるか。あまり自信はないが、トライしてみたい。実は、某日四条河原町にあるその店を覗いて見た。傘の軸は真ん中あたりで、ねじ込みになっていて持ち運びが便利 になっている。新作が9月に入るとのことなので、今から楽しみにしている。。
(生き方)
自分と向き合い、だめな自分を認めることのできる人間は、逆境を糧(かて)にする、と筆者は云う。
”人生も一緒である。土砂降りの雨に降られ、泥んこになり七転八倒するからこそ、顔のシワ一つひとつに深く刻まれた、その人だけの物語が生まれるのだ。晴れの日ばかりでは、そんな味のある顔はできはしない。”
私自身、長い人生で色んなことがあった。早くに父なくし、いじめを受けたこともある。学生時代、向学心に燃えて勉学に励んだが、しばらくするうちに、あまりにもレベルの低い、ただ黒板に書かれたことを書き写すだけの授業に飽きてしまい、学校に行かない日々もあった。勉強しないから、成績もよくない。志望した学科には行けなかった。よく卒業できたものだ。会社に入ってからは、猛烈に勉強したが・・・。それからも色いろなできごとがあった。精神的にバランスを崩したこともあった。
70年代後半から、80年代にかけて、先人の経験に学ぼうと、その種の本を読み漁った。いわく、『逆境を愛する男たち』(小島直記)、『左遷の哲学』(伊藤肇(はじめ))などなど。
『逆境を愛する男たち』の中に、フローベル原作の『ボヴァリー夫人』という小説にまつわるエピソードがある。本を読むことによって自分の人間をつくりあげた、という実例である。不倫小説であるが、写実主義の傑作と評された。以下に、そのエピソードを紹介しておこう。(少し長くなりますが、ご容赦ください)
~~~~~~~~~~~~~~~~~
”(読書による自己形成)という章で宝塚歌劇12期生の高浪喜代子という生徒のことがでてくる。当時宝塚歌劇団の世話をしていた丸尾長顕の回想によると、次のようなエピソードがある。(須磨郁代と同期生である)
”高浪喜代子という生徒がいた。可愛いい子であったが、背は高くなく、おきゃんなところがあるかと思うと、また静かなところもある、というタイプだったらしい。その生徒から、「わたしはスターになりたいけれども、いっこうにスターになれない。しかし、スターになる方法があったら教えて欲しい」という相談をうけた著者は机上の本をさして、「この『ボヴァリー夫人』を読んだら、きっとすたーになる」と、とっさに言った。
フローベル原作のこの小説の当時の訳本は、訳が下手で読みづらいものだった。しかし、彼女がより知的になったら、その時にチャンスをつかむ女だと思って、あえてすすめたのだ。
「そんなら読んできます」といって、彼女はその本をもって帰った。いっぺん読んできた。が、スターにならない。二度読んだ、まだスターにならない。著者の目には、まだ輝きが感じられなかった。三度読んできた。それでも、まだダメ。しかしながら、なんとなく知的な面が感じられるようになった。
「三度読んだけれども、スターにならないじゃないの」という。「じゃ、もう一度だけ読んできてください。もう一度読めば、必ずスターになる。ならなかったら、私が切腹してみせる」 彼女はそういわれて、真剣になって、四度読んできた。そして、四度読んできた時にいったのである。
「スターになろうと思って、四度も読んだ。だけれども、もう私はスターならなくてよろしい。この本を四度読んで感じたことは、人間の感情というものが、こんなにデリケートである、ということを知った。だから、丸尾さんにダマされてもいい。もうスターにならなくてもいい。この本を四度読んで、そういうことを理解しただけで、私は満足することにする。あなたにダマされたけれども、得はとった」
ところが、スターにならなくてもいい、と言った途端に、彼女はスターになったのである。なぜか? 「それはそうである。彼女はもう以前の高浪喜代子ではなかった。知的に輝きを増した目をしていた。それを作者は捨て置くはずはない。すぐ役がついた。目も輝いてきた。肩の力も抜けてきた。こうして高浪喜代子は、大スターにのしあがった」” ~~~~~~~~~~~~~~~~~
ついでのことであるが、人間形成について探ろうとするとき、何も難しい心理学などの本を読む必要はないと。それよりも、山本周五郎の時代小説を読むことである。それも目で読み、心で読み、体で読むことである。彼の作品には、様々な人間の表の姿や隠された姿が、いきいきと書かれており、辛く困難な人生を歩んできたものにとっては救いともなる。
話は変わるが、著者は、英語力より学歴より大事なのは生き抜く力だといっている。これから、いや今でもグローバルな世界での活躍が求められるが、英語力イコール仕事力と考えると大きな間違いである。
”本当の意味での国際人は、自分の国に根っこがあり、歴史や文化に精通し、それらを教養として身につけている。それを互いに尊重できなければ、国際ビジネスの現場では信頼は得られない。問われるのは教養であり、人間力だ。英語は単なる道具にすぎない。笑い話になるが、帰国子女には日本語も外国語も歴史や文化などの教養面は、どれも中途半端というケースが少なくない。天気予報で「寒気団」を「サムケダン」と読んだ帰国子女のアナウンサーがいたそうである。
いやいや堅苦しい話になってしまった。埋め草的に心楽しい話をご紹介しておこう。
『課長島耕作」のシリーズで、団塊世代の圧倒的な人気を集めた弘兼憲史は、文庫本『男子の作法』という本を書いている。その中で『黄昏流星群』というコミックを書いた時の取材で聞いた話を紹介している。
”末期がんの患者たちが、死ぬ前に何かしようではないかと話し合い、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランに登頂するというとんでもない企画を立てた。モンブランはフランスとイタリアの国境にある4800mほどの山だ。
末期がんの人たちは目標を持って嬉々とした毎日を送り、富士山で雪上訓練などをした後、最終的に5~6人がモンブランの登頂に成功して帰ってきた。その10年後もほぼ全員が生きていて、ガンが消えたという人もいたという。ところが、一緒 に登った現地のシェルパのほうが、数人先になくなっていたというのである。これは、生きがいを持って目標に向かって楽しく生きた人間が、ガンに打ち勝ったということになる。実際に笑って楽しく過ごして、免疫をつくって長生きをするという 「ホリスティック医学」というものも存在する。楽しいことをすると、体のリンパ液の中にあるNK(ナチュラルキラー)細胞が活性化してガン細胞を退治するという、免疫力を高める医学である。”
楽しく生きたもん勝ちだ!また感動をするようなことがなくなると、一挙に脳は老化を始めるらし。いくつになっても、好きなものは好きでいい。感動を追い求める気持ちを失わないようにしたい。
大分予定のページ数を過ぎて、長くなってしましました。このあたりで、打ち止めといたします。まことに長文におつきあいいただき、ありがとうございました。
(余滴)川北義則さんのこと。この人は、東京スポーツ(略して東スポ)の文化部長などを歴任した人である。東スポや大スポなどの夕刊紙は、最終面などに裸の女の写真などがあって自宅には持ち帰りにくい。だから、駅や電車の中で読んで、あとは捨てて帰る。この人が、ある年『男の品格』という本を出した。手にとってみると、教養に溢れ、歴史/文化/音楽などの話題も豊富で読み応えがあった。彼の書く本は、真面目で固くもあり、また下世話にも通じており、柔らかい一面もたっぷりある。