(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

時評(金融・経済) 米国の量的緩和縮小でどう動くか

2015-03-28 | 読書
時評(経済・金融) 米国の量的緩和縮小でどう動くか

 金額の多少にかかわらず資産の形成あるいは運用に手を染めておられる人たちにとって、アベノミクスはどうなるか、日本経済は成長してゆくのか、いやもっと端的にいえば日経平均(現時点で1万9285円)はさらに高値を追うのか、さらにはどこかで暴落はないのか、などが日常の関心事であろう。しかし今や日本経済も世界のそれとリンクしあっており、世界経済の動向なかんずく米国経済の動きを注視しなければならないが、中でもFRB(連邦準備制度理事会)による金融緩和がどうなるのかが最も重大な要因であろう。


 2008年のリーマンショックにより金融市場に激震が走った。そして世界中の人々の生活に少なからず影響を与えた。このグローバルな金融危機を緩和するために米国の金融当局はこれまで採用したことのない政策の実施に踏み切った。2008年12月16日に、FRBはFF金利(フェデラル・ファンドレート、金融機関が日々の資金過不足に応じて資金を融通しあう短期金融市場の指標となるレート)を0.00~0.25%まで引き下げることを決定しあt.2008年のはじめにはFF金利は4%を超えていたが、それが年末にはゼロ・パーセント水準まで引き下がれれた。それだけでは不十分と見たFRBは、金融市場から大量の財務省証券(米国債)や住宅ローン担保証券を購入し、金融市場に巨額の資金を投入した。(非伝統的金融政策)これにより長期債利回りも低下、住宅ローン金利も低下した。これにより悲観ムード一色であった金融危機の雰囲気は一変し、金融市場の混乱を収めることに成功した。この金融緩和によりマネタリーベース(銀行券とFRBに銀行が預ける準備預金の合計額)が第一弾、第二弾、第三弾と急速に増加した。詳細は省略する)

この金融緩和がいつ終了あるいは縮小するのか、誰も知る由もないが、毎月発表される雇用統計の結果をみていると非農業部門の雇用者数は次第に拡大しており、また失業率も低下あるいは改善されている。その結果、今年9月頃、FRBは量的緩和縮小に踏み切るとの見方が強まっている。

 ではその時どんな事態が起こるのか? それによって世界の市場は不安定化し、世界は新興国からリスクマネーが流失し、再び低成長に陥る可能性もいわれている。そして日本経済も大きな影響を受ける。その結果、日本の国債暴落などなど様々な影響を受ける可能性があるかも知れない。


(『未知のリスクにさらされる世界の経済』(日本経済新聞出版社、2014年10月24日)真壁昭夫&平山賢一))

 そのような事態を気鋭の経済学者二人が深く考察し、金融市場の不安定化を読み解くのに戦前にまでさかのぼって米国経済史をひもとき、そこから今後の動きを考察した。そして量的緩和縮小が、私たちの生活にどのような影響を及ぼすか、またそれに対し個人の資産運用はどう対処したらよいのかまで明らかにしている。

 この本は極めて含蓄のある優れた著作である。しかし昨年11月に発行された時は、書店においても経済書などの棚の下の方に置かれており、それほど目立っていなかった。しかし、たしかコモンズ投信の渋沢建会長がご自身のフェイスブックで紹介されていたように覚えている。ただ、その内容にまで触れていなかったので、自分の目で読んで内容を確かめることにした。
 
  念のために著者を紹介しておこう。真壁昭夫はDKBからロンドン大学大学院卒。メリルリンチをなどを経て信州大学経済学部教授。行動経済学に詳しい。平山賢一は東京海上火災保険から東京海上アセットマネジメント運用戦略部チーフストラテジスト。一橋大商学研究科非常勤講師。東京工業品取引所指数特別委員会委員、。人口動態や金融に詳しい。つまり、象牙の塔にこもって理論をこねくり回しているような人たちではないのだ。

 では、どんな風に”情勢”を読んでいるのだろうか? まず量的緩和とは何だったのか、1930年代から40年代にかけておこなわれた戦前の量的緩和を含めて振り返っている。そのうえで

 ”FRBは、財務省証券や住宅ローン担保証券などに投資することで、中長期債利回りに低下圧力をかける。金融機関だけでなく機関投資家いしてみれば、利回りが低下した財務省証券の魅力が低下することで、よりリスクの高い高利回り債は新興国債、さらには株式に資金が流れていった”

 そして言う。
 ”FRBの量的緩和第二弾以降はその目的が変質する。すなわち世界中に広がった金融危機からの脱出を主眼とするものではなく、米国内の経済対策を目指したものに変わったのである。”

 ”量的緩和縮小後に、マネタリーベースは再び横ばい局面入りすることになる。緩和第三弾により堅調に維持してきた米国株価指数の勢いも、足を引っ張られる局面が到来することが懸念される

 ”金融の歴史を振り返ってみると楽観と悲観をくりかえしていることに気がつく。・・・・・・、言葉をかえると、バブルとバーストの歴史であるといってもよい。・・・マクロレベルの経済全体でも、負債を拡大させる時期と縮小させる時期がある。歴史の倣いか、負債を過剰に拡大させてバブル期のあとには、その急激な反動として、負債を抑制する負債圧縮のバースト期に突入するものである”・・・金融市場のバブルとは、経済の実態以上にレバレッジをかけたところに歪が生じることに他ならない、この歪は、やがてボラティリティ(価格変動率)の急上昇、株価暴落などにつながってゆく”

 注)「レバレッジ」とは等身大の姿を超えて、背伸びして投資や消費に資金をつぎ込む こと。逆に投資や消費を抑制し、借金や負債を縮小させることを、その逆のうごきであ ることから「デレバレッジ」という。
                                         総括すると、

 ”「FRBは高い負債比率という背伸びからの退出を迫られており、同時に「高い金場から信任」というバブルも抱え込んでいることから、2015年以降の金融市場は、一筋縄ではいかないことが想定される” 


(米国の量的緩和縮小は世界経済・日本経済にどのような影響を与えるだろうか) ここも著者たちの見るところから要約しみよう。
 ”かりFRBが政策金利を引き上げたとしよう。これは米国での資金コストを増加させる。この動きは、株価や社債市場における価格の下落につながるかも知れない。株価などの下落を受けて、投資家はリスク回避に動き、世界的に株価が下落基調になるかもしれないい。企業経営者はこの動きをみて、景気に対する慎重な見方を高め、設備投資や人員の採用に消極的になるかもしれない”

 ”米国の金融政策が正常化に向かうことは、わが国の経済に対するリスク要因であると考えたほうがいい。それと同時に日銀の金融政策にも影響することになる。 真剣に議論すべきは、出口が不確かなときには、持続的成長性のある経済構造をつくる準備を進めることだ。金融政策は期待に働きかけることはできても、潜在的な成長率を引き上げることはできない。それは、政府そして個々の企業の課題なのである”

 世界経済への影響に関しては、次の点を挙げている。

 ”世界の経済成長率は半世紀にわたり趨勢的に低下してきており、その延長線上に金融危機とその対応策としての量的緩和が存在していることを気に留めなければないだろう”

 ”世界の人口増加率は1968年んいピークアウトし、70年代以降はゆるやかに低下し、現在は1.2%まで低下している。(2012年) 同様に経済成長率も1964年にピークを迎え、70年代に一時的に回復する局面があったものの、2.2%まで低下ししている(2013年) われわれは人口増加率が低下してゆくトレンドにあわせるように、経済成長率も低下してゆく半世紀を歩んでいるのだ

 ちなみにこの低成長を回避するためのソリューションはイノベーションの加速により生産性をより高めることである。


(量的金融緩和は金融市場にどのような影響を与えるだろうか)

 米国の量的緩和政策が正常化に向かい、そして政策金利が引き上がられることによって世界経済の下振れリスクが高まりやすくなる。加えて日本国内では我が国の政府債務残高がGDPの2倍を超えており、ギリシャ・イタリアの状況よりも明らかに悪い。わが国の現状では、これまで民間が保有してきた国債を日銀が保有する構造になっており、金利上昇リスクを抱え込んでいる。そのため財政規律は弛緩しやすく国債の大量発行に対する躊躇も無くなってゆく。このようなときは、金融市場が反応し、長期債利回りは上昇せざるを得ない。

 2008年の時点でわが国の国民貯蓄率は国民総所得に対して5%程度であった。その水準がリーマンショックに伴う危機を境にマイナスに陥ったということは家計の貯蓄がいくらあるのかという議論とは別な視点での分析が必要であることを示唆する。つまりわが国は経済ショックに対して脆弱だということだ。改善のためには荒療治が必要なことは言うまでもない。社会保証費の縮小は痛みをともなうがそれなくして財政を立て直すことは難しい。

 そういう中で自分の生活を支える自助努力の必要性を説く。

 ”景気が回復しつつあるからといって、定期預金の利息が増えるなどのローリスクの資産運用を通して享受できるメリットは少ない。また、特に若年層は、老後の人生は自分自身で支えることを真剣に識したほうがよいだろう。そのためには、経済に対する理解が求められる。市場原理の働きを理解し、察知する感覚を持つことが重要だ。

 そしてリーマン・ショック後の世界経済を支えてきた米国の緩和的な金融政策も、転機を迎えつつある。それは、これまで述べてきたように株式や債券、為替などの資産価格が大きく動く可能性も高まるだろう。守るのか、それとも攻めるのか、資産を運用する面でも重要な時期に差しかかっている。・・・重要なことは、投資を行うということは、世界の動きを考えることと同義だと言う意味である”中長期的にどの国の成長期待が高いのか、どういった製品サービスが求められているのかを調べるだけでも、視野が大きく変わるだろう”
 
 日本の国債暴落の可能性については、こう言っている。
 ”日本国債に関するリスクは、日銀と公的年金における政治的動機の急変であろう。無我夢中で日本国債を購入しまくっているだけに、日銀の政策転換や、金融市場とのコミュニケーション失敗は、国債暴落の引き金になりうる。金融市場との対話に注力するFRBの遺伝子に対して、日銀のそれは個人的な日銀総裁の能力に委ねられている。そもそも日銀と金融市場とのコミュニケーションがうまく機能しているという話は現在の黒田総裁をのぞいて日銀史上聞いたことがない。・・・”

 円安か円高か? ”経常収支が黒字から赤字へと変化し、量的・質的金融緩和によるマネタリーベースの引き上げが維持される限り、ドルなどの主要通貨に対する円安トレンドは続くだろう。特に米国の金融政策が正常化に向かうことを考えると、日米間の金利差の拡大からドルが上昇する可能性もある”

 株価大暴落はありうるか? 第2のリーマン・ショックは再来するか? この極めて」重大な疑問について著者らは次のように考察をしている。

 ”第2のリーマン・ショックのよる株価大暴落の可能性は低いとみている。大恐慌の際の株価指数下落をのぞけば、過去100年で最悪の下落を経験したリーマンショック。米国の株価指数で57%超、日本の株価指数で67%超の下落幅であったが、米国の量的緩和正常化の過程で、ここまでの下落幅が發生する確率はきわめて低いだろう。ただし、米国株価指数で2割り程度の暴落は十分に起こりうる。特に、長期債利回りが3.5から4%近くまで上昇すると、長期債利回りの上昇が逆に株価指数の上昇を抑えこむようになる。そのため、急速な長期金利の上昇が發生するときには、株価指数もサプライズから暴落に陥る可能性がぐっと高くなるのである。” そして”世界の金融界の中心地である米国の株価指数の暴落は、海を越えてわが国の株価指数をも左右することになる”


 この株価指数の激しい変動の可能性もあり、それだけに外部環境の激しい変化に左右されない成長企業への選別投資の意義を、著者らは説いているが、そのことは(私たちの生活への影響と、今後の資産運用をどうすればよいのか?)ということで章を改め、私自身の見方も含めて具体的に説明することにする。またこの著書では世界経済への目配りを説きながら、海外株式とくに米国株投資などについては触れていないので、あわせてとりあげることにする。 




(次稿につづく)
















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エッセイ 逆境に生きる

2015-03-23 | 読書
エッセイ 逆境に生きる

 伝記文学というジャンルの文学をつくりあげた小島直記という作家は、とても好きな人である。『出世を急がぬ男たち』とか『東京海上ロンドン支店』、また『異端の言説・石橋湛山』などなど枚挙にいとまがない。彼の作品を読んでいると、胸がスカッとしてくる。その作品の一つに『逆境を愛する男たち』(新潮社 昭和59年3月)という著作がある。

 この本には非常に興味ふかい人物が次々に登場する。たとえば戦後電力の再編成に取り組み「電力の鬼」といわれた松永 安左衞門。この人は鈴木大拙に教えられアーノルド・トインビーの『歴史の研究』とい名著があることを知り、広く日本人に読まれることになればと、80歳の時渡英しロンドンでトインビーから翻訳権を譲ってもらい全25巻の邦訳を成し遂げている。戦後シベリヤに抑留され、過酷な獄中生活を送った瀬島龍三のことも出てくる。さらに日本のケインズと呼ばれた石橋湛山のことや、明治政府のときに財政担当者になり、五箇条の誓文の起草をした由利公正のことが出てくる。その中でただ一人、女性のことが書かれている。

 (読書による自己形成)という章で宝塚歌劇12期生の高浪喜代子という生徒のことがでてくる。当時宝塚歌劇団の世話をしていた丸尾長顕の回想によると、次のようなエピソードがある。(須磨郁代と同期生である)

 ”高浪喜代子という生徒がいた。可愛いい子であったが、背は高くなく、おきゃんなところがあるかと思うと、また静かなところもある、というタイプだったらしい。その生徒から、「わたしはスターになりたいけれども、いっこうにスターになれない。しかし、スターになる方法があったら教えて欲しい」という相談をうけた著者は机上の本をさして、「この『ボヴァリー夫人』を読んだら、きっとすたーになる」と、とっさに言った。
フローベル原作のこの小説の当時の訳本は、訳が下手で読みづらいものだった。しかし、彼女がより知的になったら、その時にチャンスをつかむ女だと思って、あえてすすめたのだ。

 「そんなら読んできます」といって、彼女はその本をもって帰った。いっぺん読んできた。が、スターにならない。二度読んだ、まだスターにならない。著者の目には、まだ輝きが感じられなかった。三度読んできた。それでも、まだダメ。しかしながら、なんとなく知的な面が感じられるようになった。

 「三度読んだけれども、スターにならないじゃないの」という。「じゃ、もう一度だけ読んできてください。もう一度読めば、必ずスターになる。ならなかったら、私が切腹してみせる」 彼女はそういわれて、真剣になって、四度読んできた。そして、四度読んできた時にいったのである。

 「スターになろうと思って、四度も読んだ。だけれども、もう私はスターならなくてよろしい。この本を四度読んで感じたことは、人間の感情というものが、こんなにデリケートである、ということを知った。だから、丸尾さんにダマされてもいい。もうスターにならなくてもいい。この本を四度読んで、そういうことを理解しただけで、私は満足することにする。あなたにダマされたけれども、得はとった」 

 ところが、スターにならなくてもいい、と言った途端に、彼女はスターになったのである。なぜか? 「それはそうである。彼女はもう以前の高浪喜代子ではなかった。知的に輝きを増した目をしていた。それを作者は捨て置くはずはない。すぐ役がついた。目も輝いてきた。肩の力も抜けてきた。こうして高浪喜代子は、大スターにのしあがった」”


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~


  この話を読み返しながら考えた。逆境の中で生き抜き大きく伸びたり、活躍した女性は少なからずいる、と。たとえば歌人与謝野晶子。”柔肌の熱き血潮に触れもみで淋しからずや道を説く君”(みだれ髪)を引っさげてさっそうと歌壇に登場し、夫与謝野鉄幹を支えた彼女は12人の子供を育て婦人・教育問題でも活躍したが、反戦の歌を詠んで世間からは叩かれた。それにもひるまず己の信ずるところを貫いた。時代は下がって、宮尾登美子。妓楼に少女を斡旋することを生業とした家に生まれ、姉妹のように育った子どもたちが芸妓、娼妓となって悲しい末路をたどるのを見てきた。自らも結婚後、夫とともに満州に渡ったが、すぐ夫をなくし自らも長い病を得ながらも艱難辛苦の末、『櫂』『朱夏』などの名作を生み出す。その後70歳に達してから『平家物語』の取り組む。名作『錦』に至っては80歳の時の作品である。彼女たちが、逆境を”愛した”かどうかは分からないが、少なくとも”逆境を生き抜いて”きた。

          

           しかしいずれも故人である。では今の時代に逆境を生きる人はいないのかと思案した。ちょうどそのとき、日経新聞で佐賀市長選のことが報じられた、有力と思われていた人物が思わぬ敗退をしたのだ。そのことを電子版でプライム・インタビューとして報じたのである。本年1月の佐賀県知事選で敗れた前市長の樋渡啓祐(ひわたし・けいすけ)のことである。((企業報道部 香月夏子氏の記事))

彼は佐賀にTSUTAYA図書館をつくった男である。これはとても優れたインタビュー記事であり、電子版の特性上あまり多くの人の目に触れない可能性もあるので、ここに記事のほぼ全文を載せることにした。このTSUYAについては以前このブログで取り上げたことがある。<本を買いに行きたくなる書店 代官山蔦屋書店>(2013年10月13日)東京の代官山にこれをつくったカルチュア・コンビニエンス・クラブ代表取締役の増田宗昭氏のことは、ブログ記事で詳説してあるのでそちらをご覧いただきたい。いずれにしろ彼の考え方には深い共感を覚えている。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(TSUTAYA図書館作った市長、「佐賀の乱」敗戦記 )


 今年1月11日の佐賀県知事選は「佐賀の乱」と称される。保守分裂の末、自民公明両党の推薦候補が、地元農協の政治団体の推薦を受けた新人に4万票の大差で敗れたからだ。敗北したのは佐賀県西部にある武雄市の前市長、樋渡啓祐(ひわたし・けいすけ)。DVDレンタル「TSUTAYA」の企業への図書館の運営受託、市内全小中学生へのタブレット端末配布など、特異な手法で改革を推し進めた名物市長だ。中堅どころの温泉地としてしか知られていなかった同市を一躍全国区に押し上げた剛腕と抜群の知名度が、なぜ通じなかったのか。知事選敗北後、樋渡が初めてインタビューに応じた。


     


  ”武雄市は人材も育ってきており独り立ちできる。今度は佐賀県が抱える問題の解決をお手伝いできればと思った。ただ白黒つける僕のやり方が選挙に向いてなかったみたい。僕のことを嫌いな人たちは絶対に投票に行くから”

 樋渡は武雄市の出身。県立武雄高校から東大経済学部を経て1993年に総務庁(現総務省)に入った。2005年に退官し、翌年、市長選に出馬し初当選。今回の県知事選に出るまでに3期務めた。

 昨年11月、首相の安倍晋三による突然の衆院解散で幕が開いた。前佐賀県知事の古川康が衆院選への出馬を決め辞任。樋渡は自民党からの強い要請を受けて県政へのくら替えを決める。年末年始を挟んだ慌ただしい県知事選となった。自民・公明両党の推薦を受け序盤戦は順調だったが、年明けを境に雰囲気が変わった。県内農協の政治団体「県農政協議会」の推薦を受けた元総務官僚の山口祥義が急激に追い上げてきたのだ。

 安倍政権は佐賀知事選を農協改革の一里塚と考えていた。樋渡を改革派、農協が支持する山口を抵抗勢力と位置づけ、樋渡が勝利することで改革に弾みをつけるシナリオを描いていた。だが、地元農協の結束は固く、中央が地方の意向を聞こうとしないというイメージも関連団体の反感を買った。先鋭的な改革手法が保守派の目には「ヨソモノ」と映ったことも災いした。樋渡と山口の政策にほとんど違いは無かったが、「佐賀のことは佐賀が決める」という言葉の前に樋渡は支持を失った。


当選すると確信していたので、落選が決まった瞬間には(今後の進路は)全くの白紙でしたよ。でもね、落選の2日後にはもう次の道が決まった。朝5時、目覚めた瞬間にひらめいたんです。『そうだ、起業しよう』って。ワクワクしている


 選挙はすでに過去のことだと、晴れ晴れと語る。今度は「民」の立場から地方の活性化に取り組もうと、まちづくり会社「樋渡社中」を立ち上げた。登記も2月2日に完了したという。樋渡のもとにはすでに100を超える企業から地方事業の監修依頼が舞い込む。人口約5万人の一地方都市だった武雄市の名を全国に知らしめた手腕を評価する声は多い。

 さかのぼること9年前。樋渡は当時としては最年少で武雄市長に就任した。武雄市は佐賀では古くからの温泉街として親しまれているが、とりたてて個性のある町ではなかった。その武雄市が今では樋渡の名とともに全国区になった。樋渡は就任以来、次々と突き抜けた政策を実行してきた。その最たる例が公立図書館の改革だ。「TSUTAYA」を展開するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に運営を委託した。休館日がなく、音楽が流れる館内は私語もOK。スターバックスも併設し、コーヒー片手に本のページをめくることも可能だ。

 図書館の既成概念の破壊。ただ、樋渡は話題づくりのために目新しいことをしようと思ったわけではない。一般的な図書館では少ししゃべっただけで怒られるし、夕方には閉まってしまう。閉鎖的な雰囲気を変えたかったという。樋渡自身も本が好きで「自分も行きたくなるような多くの人が集まる図書館をつくろうとしたら、結果として前例のない取り組みになった」

 新しい図書館は人々に受け入れられた。両手に絵本を抱えた子供やコーヒーを楽しむ女子学生。ここには若い人も集まる。近隣の唐津市や佐賀市からも団体客がバスで乗り付ける。13年度の来館者数は92万人と改革前の11年度に比べ4倍近くに増え、本の貸出数も1.6倍になった。視察も含めると市への経済効果は36億円にのぼる。


 ”市民病院の民間移譲を決めたとき)反対運動が起こることは予想できたが、存続には  これしかなかった。反対派はたたきつぶす相手ではない。とにかく自分のやっている  ことを説明して賛同者の分母を増やすしかない”


 こうした実績が支持を集める一方で、批判の声が大きいのも事実だ。「人の意見を聞かない」「独善的」。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で市政批判に激しく反論する姿勢に、眉をひそめる関係者も少なくなかった。


 授業でタブレット端末を使う武雄市朝日小学校の児童。樋渡が導入を決めた

     

 また、しがらみに切り込む改革には時に大きな衝突を招く。08年に、赤字が続いていた市民病院の経営改革に取り組んだ時もそうだった。赤字額は5億円超。常勤医が不足し、一時は急患対応できないほどに追い込まれた。病院を存続させるためには民間移譲しかないと思い民営化を決断したが、地元医師会を中心に猛烈な反発が起きた。それでも樋渡は妥協を嫌い、ゴールに向かって突っ走る姿勢を貫いた。

 結局、反対運動はリコールの動きに発展。樋渡は任期途中の辞任と出直し選挙で対抗した。病院の現状となぜ民営化が必要なのか説いて回り、出直し選挙は僅差ながら勝利。病院は一般社団法人、巨樹の会に移譲された。

 「独善的」といわれることが多い樋渡だが、その逆の面を指摘する者もいる。「いつ見ても市長室にいない。町内をまわっていろんな人に声をかけていた」。武雄市副市長で樋渡と共に市民病院の民営化に取り組んだ前田敏美はこう話す。

 独善か協調かの評価は別として、結果は数字に出ている。現在、病院は年間数億円の黒字を計上し、武雄市の税収にも貢献する。14年4月1日時点の職員数は453人と移譲前の08年度に比べ2倍以上の水準。外来患者数も3倍近くに増えた。


 樋渡の辣腕スタイルの原点は何か。今でこそ自信にあふれる樋渡だが、学生時代はコンプレックスの塊で不登校気味だったという。転機は、たまたま高校に講演にきた当時の西有田町(現有田町)の町長との出会いだった。車いすマラソンや棚田ウオーキングなどのイベントを企画して町を盛り上げようとしている改革派。自らを首長と称し、仕事を心底楽しんでいる姿に心を打たれた。

 首長になるための第一歩は東京大学に入学することだと猛勉強し、一年の浪人を経て合格。順調に進むかのように思えたが、大学に入学後は勉強についていけず、引きこもった。ほとんど寝たきりになってしまった樋渡を救ったのはNHKの受信料徴収員だった。徴収に訪れた際にいきなり体を触られて、あっけにとられていると「合格」と宣言された。自信を無くしていたときにかけられたポジティブな声。徴収員のアルバイトを始めるきっかけになった。

 最初は全く徴収できなかった。やけになって自分を誘った徴収員のまねをした。しゃべり方から、食堂で選ぶメニュー、読む本まで。そうしているうちに少しずつ仕事ができるようになり、最後はトップの成績を収めるまでになった。

 得たものは大きかった。アルバイトでためた金で旅をし、本を読み、いろんな人に会った。「このときに磨かれた自分の感性は今の仕事にも生きていると思う」と話す。

 大学を卒業した樋渡は国家公務員になった。将来何になるにしても、その過程として、公務員の経験はよい勉強になると思ったからだ。だが上司にたてついてしまい、沖縄県への異動を命じられる。任された仕事は米軍普天間基地の移設に向けた地元への聞き取り調査だった。その後、実績が認められ本庁に戻った。時を同じくしてたまたま出席した友人の結婚式でのスピーチが地元有力者の目に留まり、担ぎ出されるかたちで06年に武雄市長選への出馬を決めた。

 もう少し先だと思っていた夢の首長。当選を素直に喜んだ。それから9年弱、改革派市長として走り回り、実績を積み重ねていく。


 今考えているのがふるさと納税を活用した地方自治体の事業の後押しだ。地方には良いコンテンツがある。ただ経営基盤が弱い地方自治体にとって事業の拡張や強化はハードルが高い。ふるさと納税を通じて全国各地の企業から資金を集められるしくみをつくる。企業にとってはブランド価値の向上につながり、両者にメリットがある


 1月11日、樋渡は佐賀県知事選で落選し支持者に頭を下げた。一般市民に戻った樋渡は今、これまでの経験を生かし、公と民の橋渡しをすることで地域の活性化を図ろうとしている。

 アイデアの原点は昨年9月に訪れた米ニューヨーク市のメトロポリタン美術館。民間からの寄付で成り立っていることを知り、感銘をうけた。(注 私自身もここメンバーとなっている。わずかでもこの美術館の維持に役に立てるのは嬉しいことである)

          


 「地元だけでやっていたらいずれ手詰まりになってしまう。いいものはみんなが応援すればいい」とも話す。外部の人も巻き込むことで地方の魅力を磨く狙いだ。様々な人を呼び込み、つなげることで、前例にとらわれ閉鎖的になりがちな地方行政に新風を吹き込むのが樋渡のやり方。自治体と企業の人材交換や地域通貨の新しい活用法などアイデアは尽きない。地方自治体からアドバイザー料は徴収しない方針だ。地方創生を食い物にはしないとし、企業との協力事業などで生計をたてる考えだという。


 ”まちづくりは僕の人生そのもの。「公」だとか「民」だとかは関係ない。僕が築いて  きたオールジャパンのネットワークと経験をいかしていきたい”


 今回、樋渡の強すぎる個性を佐賀県民は拒絶した。だがそれは、劇的な変化を嫌う層による、行政の長としての資質の不承認であり、異端の改革者に対する評価ではない。保守分裂の知事選挙「佐賀の乱」は結局、安倍政権の農協改革への闘志をかき立て、全国農業協同組合中央会(JA全中)の地域農協への指導・監査権がなくなるという結果につながった。在野に立った樋渡は、これからいったいどのようなムーブメントを引き起こすのだろうか。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて、このような変化を恐れぬ樋渡のような男の姿勢をどうみるのか? あなたが佐賀県に住んでいるとして知事選で樋渡を選ぶのだろうか? 言い方はいささか申し訳ないが、佐賀県のような地方都市では、どうしても人々は保守的は考え方に陥り、変化を嫌う傾向がある。そのままの状況を継続してゆけば安定はするだろう。しかし果たしてそれでよいのだろうか? 『進化論』で有名なチャールズ・ダーウインの言葉を思い起こしてみよう。彼はこう言っている。

 ”最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残ることが出来るのは、
変化できる者である”


 ダーウインが言ったのは生物としての種のことである。しかし、この言葉は組織にも、企業にも経営にも、また自治体にも。そして日本という国にも当てはまるのである。

 ダーウインの生物学的な話でなくても、ずばり変化の必要性を指摘している言葉がある。アメリカ第3代大統領トーマス・ジェファーソンのことばである。これもまた以前に
当ブログで書いたことがあるが再掲させていただく。


 ”先年ワシントンを訪れたとき、トーマス・ジェファーソン・メモリアルをに足を運びました。彼は、独立宣言の起草者で、建国の父と言われています。このホールの中の壁にはジェファーソンの言葉が彫り込まれていて、それをみて深い感銘を受け、しばし立ち尽していました。南東の壁、パネル4には次のような言葉が刻まれています。


          

 "I am not an advocate for frequent changes in laws and constitutions , but laws and constitutions must go hand in hand with the progress of the human mind. As  that becomes more developed, more enlightened, as new discoveries are made, new truths discovered and manners and  opinions change, with the change of  circumstances, institutions must advance also to keep pace with the times. We  might as well require  a man to wear still the coat which fitted him when a boy  as a civilized society to remain ever under the regimen of their barbarous ancestors"

 すこしかんたんに言えば、法や憲法は人間の知性(人間の心)の進歩と共に、また時代にあわせて進歩しなければならぬ、と言っているのです。”



 今の激しい変化の時代に旧来の陋習を守っているだけでは、進歩がありません。組織もまた自分自身も変化しつつ進歩してゆかなければならないと思うのです。


     ~~~~~終わり~~~~~


 今日も辛抱強く長文、駄文にお目通しいただきありがとうございました。












 


 

  








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(予告編)エッセイ 逆境に生きる

2015-03-21 | 読書
さわやかな男の生き方をご紹介します。近日中にアップいたします。





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エッセイ 仏教のありかた

2015-03-15 | 読書
エッセイ 仏教のありかた

  ”仏弟子となりし思ひの白障子” (神山白愁)

 「朝々燈明を灯して仏壇に香を捧げる。故人とふたりだけの時間。貼りかえた真っ白な障子のほのかな明りにつつまれて、胸の中につぶやくひととき。・・・」 
                    (飯田龍太 『現代俳句歳時記』より)

 今の世の中、まして都会の家庭ではもうこのような光景をみることも少なくなったことであろう。だいぶ前のことであるが白山山麓にある樹齢1300年といわれる大トチをスケッチするため旅をしたことがあった。そのおり泊まった宿が<春風旅館>という宿であった。誰も泊り客がいないので大広間に通された。そこで食事をしていると女将さんが奥の壁のところにある引き戸を開けた。そこには長さ5メートルほどの仏壇があったびっくりした。聞くところによると女将は金沢の出身で、実家にもっと大きな仏壇があるという。そういえば金沢は一向宗(浄土真宗)の地である。ここまで大きくなくても仏壇のある家も少なくなった。ましてやマンション住まいでは本当に小さいものしか置けない。それはともかく日ごろの仏教とのかかわりもあまりなくなった。子供が生まれれば神社へお参り。結婚式も神式かキリスト教スタイル。最後のお別れの時にお寺にお世話なり、お墓参りするくらい。かくいうわが家も浄土真宗らしい。はるか昔の先祖の墓が高輪泉岳寺にあるが、父母の墓は東京都下多摩市の霊園にある。お寺とのつながりあまりない。この先どうなってゆくのか・・。


 しかしとはいっても私も日本人である。6世紀の仏教伝来いらい日本の政治・文化に大きな影響を及ぼしてきた仏教を知らぬというわけにはいかない。さまざまな形で仏教について勉強もしてきた。そのほとんどは経本ベース。般若心経、法華経、その中の観音経、正法眼蔵などなど。そのまま読んでもなかなか理解できない。なんとか読めるのは道元の弟子である懐奘のあらわした『正法眼蔵随聞記』くらい。仏教学者の紀野一義さん(故人)の書かれた著作などいろいろな解説書を頼りに読んできた。『正法眼蔵』などは宗教書というよりは哲学書ともいうべきものである。しかしいちいちうなずけるのである。そのことは最後の方で触れることにする。まず取り上げたいのは仏教を学び、教える(教化する)立場にある僧侶のことである。京都などのお寺を訪ね、住職や僧侶の方たちと接することがないわけではない。立派な方もおられる。しかし仏教寺院の経営に苦労をしておられる方が少なくない。商売の視点というとお叱りを蒙るかも知れぬが、・・・いやなかなか大変なようである。また大きな宗教集団になると偉い方は”貌下”(げいか)と呼ばれ、金襴の衣をまとって下々に接しておられる。またそうでなくても千日、千峰修行など修行に専念し、山を降りることすらない。そういう姿をみていると、それでいいのかなあ、との疑念も湧いてくるのである。そんな時、10年ほど前のことであるが。日本経済新聞の夕刊に内田康夫さんの『地の日 天の海』と題する小説が連載されていた。その年の瀬も押し詰まった日、第9章(服部半蔵)には次のような一文が載った。それを読んでいて電撃が走ったように感じたのを今でも覚えている。ちなみにこの小説は後に徳川家康のブレーンとなった天海僧正、その若き日の随風を主人公として描いた時代小説である。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~

     
 
 ”(こうして、よいものかー) 折ふし、随風は心が揺らぐ。光秀にせよ秀吉にせよ、同じ街道を旅していた者たちが、今は世の中の表舞台で活躍してる。それに比べて、この自分はーと思う。仏法を通して、一切衆生の心の救済を願う目的に、微塵の誤りもないと信じてはいるが、自ら動くことなく、来るものを待っていては衆生の何万分の一をも救済することはおぼつかない。まして、法灯を掲げてあまねく光をあてることなど叶うはずもない。


 それでは、とどのつまり、出家とは遁世ではないかーと思えてくる。実際、随風自身が出家をした動機も。もとを正せば現実逃避から発している。憎みあい、殺しあう現世のおぞましさから逃れたかったのだ。

 考えてみれば、誰にしたって、憎悪や相克の世界に住みたいとは思わないだろう。平穏で安寧な日々が送れればそれに越したことはない。
 しかし、すべての人間がそれを願って出家してしまったら、世の中は成り立たない。誰かが額に汗し、時には手を汚して働くからこそ社会は動いてゆくのである。己のみ行いすまし、僧院に安住して、世の荒れるさまを手をこまねいて傍観しているばかりでは、徒食のそしりを受けてもしかたがないのではあるまいか。

 いわんや、あの比叡山の僧兵どもの荒みきったありさまを思うと、同じ出家であることに罪悪感すら覚えるのである。(こうしていて、よいのかー)その思いは繰り返し繰り返し、随風の胸に去来し、心を責めた。”

 (さらに随風の心の悩みはつづく。その頃上杉と武田の勢力争いや、中国における毛利家と尼子家の覇権争いの調停役をつとめるなど、すくなくともいくつかの紛争を仲裁するに働きのあった聖護院の道澄(戦国時代の僧侶)のことに思いを馳せ、次のように考えた。)

 ”宗教家であると同時に、政治的な役割をも担うというのは、必ずしも邪道ではなく、それはそれで尊いと思うべきかも知れぬーと、随風は次第に思うようになっていった。要はその目的とするところが平和であり、心の安寧であるという点が合致すれば、むしろ、それこそが大乗の道につながるのではないかと思うのだ”


      ~~~~~~~~~~~~~~~


 (念のためですが、最後の文にある”宗教家であると同時に政治的な役割をも・・”というのは室町時代ころの世相の中で言われたことで、作者の内田康夫さんが、今の時代に宗教集団が政治にも係ることもありうる、と言っているわけではありません)

 ここで描かれた随風の考え方について、みなさんどのように受け止められるでしょうか? 現世の中で言えば、宗教家、仏教の僧侶などは、いたずらに寺院に閉じこもることなく、心に悩みや葛藤を抱いて苦しんでいる人々の中に降りてきて活動することもありうるのではないか、と言っているのです。もっと世の中と交われと・・。実際そのような活動をしておられる例は少なからずあります。一例を上げれば、京都妙心寺の塔頭のひとつ退蔵院(禅宗、臨済宗)の副住職をしておられる松山大耕さんは、京都観光おもてなし大使をして、日本の文化や禅のことなどを海外の人たちに伝える活動をしておられる。これまでの葬式仏教、現世利益仏教から一歩進んで日本の文化や伝統を海外のみならず日本の人たちにも紹介し、その過程で仏教について知ってもらい、さらには学んでもらう、ということもいいのではないか。お寺の中にとどまって教訓を垂れているだけでは、存続の価値も疑われるだろう。

     

 以上書きつづってきたことはミステリー作家の、つまり宗教や仏教についてのアマチュアの見方である。では、すこし仏教についての専門家は、仏教のありかたについてどのように考えているのであろうか? 冒頭の写真にある『仏教の根底にあるもの』という本(講談社学術文庫)は、玉城康四郎という人の書いたものである。東大印度哲学科を卒業、東大名誉教授。中国仏教思想や日本の仏教について長年研究を重ねてこられた碩学(せきがく)である。学者であると同時に求道のひとでもあり、深い宗教体験をもつ。『正法眼蔵』の現代語訳にも取り組んでいる。ここに掲げた本は300ページほどの文庫本である。仏教そのものとは、一体なんであろうか、また唯識思想や天台学などの諸学派の発想の根源はなにか、それらのことを原始経典からさぐり、さらに日本仏教の中から空海・法然・親鸞・道元の思想について考察したもので、最後には仏教の未来にまで及ぶ好著である。

 その中で著者は道元のことを紹介したあと、道元思想の現代的課題という一文を書いている。その課題の最後に、次のような一節がある。

 ”第五に、社会性の問題がある。道元は当時の社会に背を向けて山にこもった。ときおり社会に出てきたが、それは彼にとって活動の場ではなかった。あわてて山へ帰っている。すでに述べたように、当時の社会は、権力欲・我執を中核として武家政治の統一へと動いていた。仏祖正伝の道を求めた道元が、権力欲・我執の社会を捨てたことは当然である。彼は徹底的に社会を越えることによって、形なき仏道の正体を手にいれたのである。そしてわずか一箇半箇(いっこはんこ、一人でも半人でも)が、彼の教化活動の焦点であった。

 このように社会を無視し超越することは、必ずしも非難さるべきではない。そうであってこそ道元は、仏祖の道を歩き得たのである。社会の中に埋没してしまう人間ばかりより、社会を脱出して、仏祖の道ここにあり、と明示しうる人士がひとりでもいることは貴いことである。この意味で道元の存在は、仏教史上まれな例の一つであろう。

 しかし、道元の道を社会の中にいかに生かしていくかという問いは、また別な課題である。ひとりの只管打座(しかんたざ・・ひたすら座禅に取り組むこと)の精神と力が、社会の力となり得るためにはいかにすべきか。またそれが社会の力となるということは、いかなる状態を指すのか。この問題は、現代社会が改めて問いかけねばならない疑問であろう。そうでなければ社会の中の人間は、社会自らの機構と科学技術のために、やがて神と同じ運命をたどるかも知れない。”


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 この玉城教授の問いかけは30年以上も前のものであるが、今日でも真剣に考えねばならないものであろう。仏教界に身をおく人たちも、また私たちも。これを機に、せめて少しでも仏教を勉強してみようという方がおられたら『仏教のキーワード』という紀野一義さんが書かれた本(講談社現代新書)をおすすめしようと思ったのだが、もう手に入らないようである。そこで同じ著者の『いのちの風光』をおすすめする次第である。幸いこの素晴らしい本は今は文庫本になっている。(ちくま文庫 現代仏教シリーズ三部作の一)仏教というような大上段に振りかぶらず、むしろ人生いかに生きるべきかという観点で読むことができる。

                  


 退屈な長文におつきあいいただき、ありがとうございました。



















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春灯雑感 日本酒の魅力

2015-03-02 | 日記・エッセイ
春灯雑感 日本酒の魅力

 時々の雑感を書くのに、これまでは気まぐれ日記としていました。しかし、それでは何のセンスもないなあと思いタイトルを「春灯雑感」とすることにしました。お気づきの方もおられるでしょう。そうです。司馬遼太郎さんの著書『春灯雑記』からヒントを頂戴しています。司馬さんは、”好きな季節は春である。・・春のともしびは靄気(あいき)に滲んで、輪郭がぼやけている。この本もおそよそんなものだ”と言っている。じゃあ、お前夏になったらどうするんや、と問われれば涼風雑感、秋は秋灯雑感。冬・・・もうすこししたら考えます。いい加減さは、お許しください。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このところ日本酒を呑む機会がすこし増えてきた。それなりの理由がある。まず健康体である。”めしもうまいし、酒も旨く感ずる”それから日本酒をつくる方との出会いもある。さらには行きつけの宿で、うまい地酒を呑ませるところがある。またなぜかこの年になると、日本酒への思いが募るのである。あれやこれで、日本酒に関する一文をものすることにした。

 まず酒の歌から。と、いってもいつも書く若山牧水や吉井勇の歌ではない。

 ”ふふみたる新走りの香待ちがてに迎ふる喉(のみど)一管の笛” (山埜井喜美枝)

  すこし解説を加えると、”新走り”、はその年の新米で造った酒で、秋の季語。ただし今は寒造りである。そのイキのいい新酒が喉を下る、その様を”一管の笛”と言った。喉越しの味わいがつたわてくる。

 ”朝酒のたのしみつづき居るうちに夜が来て夜の酒を楽しむ” (佐々木幸綱)

 と、酒の歌を紹介しながら、酒となれば酒とバイオテクノロジーの大先達である坂口謹一郎先生のことを抜かす訳にはいかぬと思い出した。発酵と醸造の世界的権威であり、「酒の博士」と呼ばれている。『愛酒楽酔』という名著があり、その中には酒への想いと酒にまつわる歌が散りばめられている。幸い、この本の愛蔵版3千部のうちの一冊が手元にある。そこから幾つかの酒の歌を書き抜いておくことにする。

          

 ”もろもろの造りの神の集まりて木の下かげに酒ほがひする”

     注)昭和23年、新潟での大蔵省酒造講習会メンバー慰労の宴にて。
       酒ほがい、は酒宴にて祝うこと。

 ”とつくにのさけにまさりてひのもとのさけはかほりもあじもさやけき”

     注)古い本『日本の酒』岩波新書の中で、坂口博士はこう言っている。
       ”世界の数多くの酒の中で穀類を発酵したものをそのまま飲む酒(醸造酒などとも言われる)としては、ヨーロッパのビール、中国の紹興酒と相並んで日本酒は世界の三大銘酒としてほこるべき酒である。”

 ”障りなく水の如くに喉を越す酒にも似たるわが歌もがな”

 ”うまさけをいさや酌みませ若人よこの楽しみを老いは待つべき”

 ”つかのまを生きるこの世の旅人を心やすらに泊めまするかな”


(日本酒とのおつきあい)

 酒の歌は、このくらいにしてわが日本酒遍歴を少々。はじめて日本酒の洗礼を浴びたのは高校二年生。コンパのあと、さるお寺の座敷を借りて悪ガキどもが集った。飲めもしないのにお酒を呑んで二日酔い初体験したことを覚えている。それから年月が流れ神戸にある企業に勤めるようになった。、三十歳頃のことである。研究所にいたので、かなり高額の試験機器を購入した。京都にある、のちにノーベル賞受賞者を出した会社からである。お礼にと、京都は祇園の一角、高瀬川河畔の料理屋で接待された。その時の日本酒の味は覚えていない。本当に日本酒がうまい、と感じたのは後のことである。運輸省の研究所から人材を引き抜く目的で上司のお伴をして東京へ出張した。仕事はうまく運び、慰労もかねて八重洲にある小料理屋へ連れていっていただいた。夫婦ふたりでやっていた小さな店である。白い割烹着を着た女将さんが、お盆にあった日本酒の徳利をもって、”お一つどうぞ”と酒を注いでくれた。はらわたにしみわたるような酒、美味かったなあといまでも思い出す。酒は白鹿であったような気がする。

 1980年代には東京で仕事をすることが多く、九段坂上の靖国神社近くに定宿をもつようになった。近くの神楽坂に<伊勢藤>といういささか古風な酒亭があった。小さな店中に入ると灘の酒、白鷹の菰かぶり。。あては一汁四菜。みんな静かに酒を味わっている。それだけの店だが、人気があった。雑誌「酒」の編集長であった佐々木久子さんも愛したとか。樽の酒を錫のちろりにいれ、温まった酒が徳利に移されてでてくる。炭火の赤い火が好ましい。酒道を極める店だ。 料理も楽しみたい時は、明治座のある浜町近くのカウンターの店<すみ谷>へ足を向けた。ここは黒板塀のつづく大きな料亭のが立ち並んでいた。この店は、ある料亭のバックヤード。お品書きはカンナで薄く切りだされたヒノキの板。そこに墨で料理の品々が書かれていた。酒は、やはり灘の酒を樽から注いでくれた。誰にも教えない秘密の店だったが、いつまにか姿を消した。

          

 そのころ家は神戸の御影にあった。まさに灘五郷の界隈である。菊正宗/白鶴/剣菱などなどの大きな酒蔵が立ち並んでいた。冬の寒造りの季節の頃、こんな句を詠んでいた。

 ”御影郷したたる宮水寒造り”

 ”寒造り道を歩けば蔵の唄”

 ただ家で呑むときは、こういう大手の酒ではなく木村酒造の辛口の酒「瀧鯉」、それから草津でつくられる地酒「道灌」を愛好していた。とくに後者は、すっきりとした味わいでかつフルーティな香りがあって好きな酒の一つである。そういえば、琵琶湖畔の堅田に高浜虚子が愛好した<余花朗>という洒落た建物の料亭があり、季節限定で日本料理を出している。ここは、地元の酒造会社「浪之音酒造」がやっている店で、ここのうなぎはパリっとして美味極まりない。出される酒は純米大吟醸。今も時折、取り寄せて味わっている。ここの純米大吟醸「金井泰一流」はことのほか愛好している。

          


(日本酒の幅が広がった)

 冒頭に書いたが日本酒を造る人との出会いが最近ある。この2年ほど毎月京都で”おばんざいの会”と称する会合がある。江戸時代享保年間より300年以上つづく老舗<松長>の座敷に男女半々くらいで40~50名ほどが集まる。そのほとんどが若いひとである。各自手製のおばんざい料理を持ち寄り、また店にきて調理場で造ったりする。また酒好きが日本酒をもってくる。その中に京は伏見の「富翁」の大吟醸酒がいつも出てくる。さわやかで飲み飽きのこな酒である。この富翁を生産している北川本家の幹部の方が来られていて酒の話を伺うことがある。

 2年ほどまえから会津に再々旅をするようになった。会津若松の市内から30分ほど走ると東山温泉につく。そこにある<芦名>という宿が定宿である。このブログで二回ほど、その滞在記を書いているので詳しいことはそちらをご覧いただければ幸いである。会津・奥会津の食材をふんだんに使った料理は限りなく美味いうえに、大女将が囲炉裏端に座ってお酒の相手をしてくれる。ここで次々に供される会津の地酒の虜になってしまった。朝からいただくこともあり、この宿に滞在すると小原庄助のスタイルとなる。「会津錦」「國権」「飛露喜」「寫楽」、それに辛口の「風が吹く」・・・・。名前を挙げるだけで堪らない! まっこと会津の酒は、美味なのである。

 このところサライやdancyu(ダンチュウ)といった雑誌で日本酒の特集をやっている。”いま。呑むべき日本酒”という記事のなかには馴染みの酒がいくつも入っている。山口・旭酒造の獺祭もときおり呑む。ダンチュウは3月号から2号連続で日本酒をとりあげるという熱のいれよう。ふんだんに写真がはいっていて、見ていて楽しい。また”生もと”について徹底的に教えてくれる。生もと、とはなにか? それが日本酒づくりでどういう意味をもつか、などなど。そして酒の選び方、酒の燗のしかた。ちなみに燗の温度について日本語は美しい表現がありますね。いわく、熱燗、上燗、ぬる燗、人肌燗、日向燗。冷え酒では、涼冷え、花冷え、雪冷え・・・。そして酒の味、選び方についてうんちくを傾けてくれている。



 しかしそのようなアドバイスや情報より、やはり己の舌に信頼をおいて酒を選びたい。ところで先ごろ名古屋の中京TVで「未来シアター~中田英寿が選ぶ革新者」という番組を放映していたと、彼の地の友人が番組を録画して送ってきてくれた。中田は草木染めのしむらふくみ(人間国宝)、デザイナーのファビオ・ノヴェンブレと並んで山形県の村山市という高木酒造を選んだ。全国の酒造会社を200個所以上回り、その上で高木酒造の「十四代」という酒をセレクトしたのである。サライの”いま、飲むべき酒 30”のトップにあり、芳醇旨口の代表作。滅多に手にはいらぬ幻の酒とされている。

 たまたま春になったら山形に旅に出かけるので、村山市にたちよりそこで酒蔵を見せてもらい、一本手に入れようと考えた。もし手に入ったら、れいの京都の店に持ち込み、酒好きを集めて談論風発の酒談義をしようとの魂胆である。ところが呑んだことがないので、なんとか飲ませる店はないかと探してみた。あれこれするうちに酒好きの友人が、”自分の家の近くで「十四代」の瓶を並べてある店をみつけた。どうだ、来るか?”と知らせてきてくれたのである。


(酒亭 わかばやし)

 名古屋の東山公園のすぐ近く。大通り沿いからすこし小路を入った閑静な住宅街の一角にある。入り口の佇まいが好ましい。エアコンが木のケースの中に収められていて、店の主人の細かな所への配慮を感じる。カウンターとテーブル席が三つという小体な店で、小料理屋というべきか。私は勝手に酒亭となずけた。まだ若い主人夫婦とアシスタントの若い人で切り回している。”「十四代」を求めてきました”というと丁寧にその酒のことを説明してくれる。応対はあっさりしていて、余計な言葉はない。そこが好ましいのである。良質な酒の確保に並々ならぬ努力を払っていると感じた。

     
     
     

 メニューがとても充実している。コースもあるが、好みのものを友人とシェアしつつ注文してゆく。酒は「十四代」の中取り純米。まるで白ワインのようにフルーティな感じだ。じつにさわやかな後味だ。ぐい呑は織部と黄瀬戸。突き出しのあと、お刺身。鯛の昆布締めにボウフウ。剣先イカなど。鯛は少し背を炙ってある。同時にこごみの辛子醤油和え。次いで春の山菜の天ぷらということで、まいたけ/山独活/タラの芽/ふきのとうなど。塩で食べる。酒はすすむ。2番目の酒は山形の飛露喜をすすめてくれた。この飛露喜は昨年訪れた奥会津は坂下(ばんげ)の産。米の甘みと旨味がある。

     
     

 料理はつづいて、白海老とほたてのかき揚げ。酒は高知の「亀泉」に変わる。この純米吟醸は辛口で、喉越しがいい。今まで知らなかったが、好きな酒の一つになりそうである。メインは金目鯛の煮付け。カマか身かと聞いてくる。脂っこいカマは避けて身にした。酒とよく合い、ペロリと一口だ。料理は一品一品が丁寧に造られていて、いずれも味にうるさい私の舌を満足させてくれた。食材もいいものを使っている。客あしらいも、付かず離れずで感じが良い。こんな素晴らしい酒亭に出会えて幸せな夕べとなった。お誘いの声をかけてくれた友人に感謝しつつ、新幹線に乗るべく名古屋駅へ急いだ。食べる時間のなかった焼きおにぎりの包を手に提げて。

この店が、ずうーっとつづいてくれることを願う!




(余滴)焼酎のことにつきコメントを頂きました。じつはこの店では、いい焼酎が揃っているようです。小生には猫に小判ですが、写真をアップしておきます。

     











 

 
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