(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『いろんな色のインクで』

2008-03-18 | 時評
『いろんな色のインクで』(丸谷才一 マガジンハウス 2005年9月)

 稀代の読書家、丸谷才一が書評のありかたについて語る。これがなかなかユニークだ。それから古今東西の本の書評をする。知らない本の名前が次々に出てきて、嬉しくなる。和田誠の装幀も洒落ていて、眺めているだけで、ページを繰りたくなる。

 フランス文学の鹿島茂は、その著『成功する読書日記』で読書日記の書き方ーつまりは書評の書き方について言っていた。①まずは引用(百の批評より、一の引用、引用に勝るものはない) ②次は引用からなるレジュメ(要約)、これはかなり難度が高い ③このレジュメに習熟したら自分の言葉で要約するーフランスの教育では、「コント・ランデュ」と呼ぶ。④これらができて初めて、「批評」という行為に入る。この鹿島茂の語ることが、書評のメソドロジーとすれば、丸谷の語るのは、「何のために」という目的論のようなものである。イギリスの書評を読んで、面白い思った丸谷が、そのイギリスの書評文化について詳しく語る。なるほど、と唸らされる。


(芸のない書評は、書評じゃない)
 「イギリスの書評がなぜあんなにいいのかというと、書評はなんのためにあるかというのと同じだけれども、①要するに本を選ぶ、本を買う、その実際の役に立つわけです。それから②その中に書いてあることの一応の要約、紹介、そういうものがある。③第三として、書評を書く人間の芸とか趣向とか語り口とか、そういうものを面白がるということがありますね。これが一番高度な段階なわけです。この三つがあって、この三つが渾然一体となったときにいい書評ができるわけです。」

 そしてイギリスの書評(オブザーヴァーとかサンデー・タイムズなどの)には、語り口にすごい芸があるという。さらにイギリスの書評の大きな特色は、枚数が多いという。オブザーヴァーという週刊新聞で、原稿用紙6枚程度、タイムズの文芸付録で20~30枚だという。

 「もう一つ大事なことがあります。ある一冊の本を取りあげてそれを論じる。あるいは推薦するということは、単にこれがいい本だからお読みなさいよ、面白いですよとうだけではない。これはこの手の本の中でどういう位置をしめている本であって、それだから推薦できますという見通しが推薦者の心の中にはなきゃならない・・」

 「別ないいかたをするとイギリスの書評は実際的なんですね。本という証拠物件があって、それについて読書と批評家が対話をする。その会話の一つとして書評があるんでしょうね。さらにそれがひろがって、本格的な文藝評論にもなる。・・」


 「書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。それじゃあ素人同士だって同じじゃないかと言われるかもしれませんが、その場合には、友達なんだからて手紙以前に友好関係が成立しているわけです。好みも分かるし、気質も分かる。何よりも相手を信用している。ところが、書評というものはたんに文章だけで友好関係、つまり信頼感を確率しなきゃならない。それは大変なことなんですよ。その親しくて信頼できる関係、それをただ文章だけでつくる能力があるのが書評の専門家です。その書評家の文章を初めて読むのであっても、おや、この人はいい文章を書く、考え方がしっかりしている、洒落たことをいう、こういう人のすすめる本なら一つ読んでみようかという気にさせる。それがほんものの書評家なんですね」

 
(74の書評)
 さてさて、かく蘊蓄を傾けた丸谷氏の書評は、如何に?この章だけでも東西の74冊を紹介している。ダンテの神曲とならぶイタリア文学の傑作「いいなづけ」(マンゾーニ)は、平川祐弘の新訳に感じ入り、わざわ書評を書き直す力のいれようだ。そしてジョン・バージャー(美術評論)、イワン・ブーニン、A.S.バイアット(マティス・ストーリーズ)、トマス・カヒル、ヘイデン・カルース(アメリカの詩人)、F.M.コンフォード、永六輔、深津睦彦(続後拾遺和歌集)、ジャック・ヒギンズ(スパイ小説まででてくる)、ルキアノス、うれしいことにイワン・マキューアン、ホメロス、森嶋通夫(なぜ日本は没落するか)、、薄田泣菫話)、大岡信(捧げる歌)、ヴェルナー・ゾンバルト(ユダヤ人と経済生活)、鳥居民(横浜富貴楼 お倉)などなど。名前もあまり聞いたことのない作家の本が出てくる。作家の名前は聞いていても、知らない本が。その書評が、なるほど”うまい”ので、かたはしから手にとって読みたくなってしまう。せっかくなので、一つだけそんな例を書き出してみよう。

(大弓の弦は燕の声に似た声を立てて『オデュッセイア』(ホメロス、松平千訳)

 叙事詩『オデュッセイア』は西欧文学の源流であって、ホメロスという存在さへさだかでない作者は、西方の文学者の代表である。その主人公である、知謀に満ちているくせに勇敢、信心深くて女好きで冒険家で運がつよくて膂力衆に優れて言葉の才に恵まれている男は、その複雑さと人柄の魅力ゆえに、ヨーロッパ的人間の原型となった。・・・・・・・・松平千秋の訳は違う。歯切れがよく、口調がいい。文章がもたついていない。イメージが鮮明で、話の筋もいちいち頭によく入る、・・・この読みやすさは、改訳にあたり行分けを廃したため、いっそう増したような気がする。しかしそうかといって、吟遊詩人の歌う古雅な趣が失せたわけではない。訳者は、旧訳(講談社 世界文学全集)のあとがきで、先輩たちの訳業のうちでは土井晩翠訳に負うところが最も多かったと記したが、この謝辞が素直に納得がゆくほど、文章に活気があって、言葉は入念に選ばれている。

テレマコスが父の消息を求めるために乗船すると、「眼光輝くアテネは一行のために順風をおこし、激しい西風が、葡萄酒色の海の面を、音を立てて吹き渡る」そして何人も弦をはることのできない大弓も、オデュッセウスにかかれば、「さながら竪琴と歌に堪能な男が、よく綯いあわせた羊の腸線(ガット)を両方に引き延ばし、新しい糸巻き(ペッグ)に苦もなく弦を張るごとく、オデュッセウスは事もなげに大弓を張り、右手で弾いて弦を試みると、弦はその指の下で燕の声にもにた響きを立てて、美しくなる」。


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鹿島茂のそれとは異なり、丸谷の書評は視点が明確である。また須賀敦子などのほとんどエッセイと渾然一体となっているような書評とも違う。このスタイルには、惹きつけられる。


コメント (4)
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