(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

旅の日記~郡上八幡という町に

2008-04-30 | 時評
旅の日記~郡上八幡という町に

 旅に出ると日常のルーティンから解き放される。どんな季節でもいいが、新緑の頃はことのほか心が弾む。そしてあわただしく町から町へと動いてゆくのではなく、一カ所にじっと滞在するような旅が好ましい。芭蕉も、『紀行文 笈の小文』で言っているではないか。

 ”よしのの花に三日とどまりて、曙、黄昏のけしきにむかい、有明の月の哀れなるさまなど、心にせまり胸にみちて・・・・・”


 夏の郡上踊りで知られる郡上八幡は、人口2万人ほどの小さな山あいのまちである。町の中心を長良川の支流である清流吉田川が流れ、数え切れぬほどの水路や湧水があって色どり美しい錦鯉も泳いでいる。ここに数日特段の予定も決めず滞在して奥美濃の小京都の風情を楽しんだ。毎日、なにかしら愉快なこと、心動かされることがあって楽しい旅となった。心覚えとしてその中からいくつかを記しておく。

(宿のこと)
まずお世話になった宿のことを語らねばならない。中嶋屋は町の中心にある新町通に面したごく小さな和風旅館である。明治3年開業、現在は5代目の女将が奮闘している。夏の郡上祭りのときは常連客であふれかえるが、ちょうど桜祭りが終わったときで静かであった。あらかじめ、奥の庭に面した部屋をとってもらった。縁側で日を浴びていると気持ちがいい。小さい旅館ということで、できるだけ客の要望をとりいれようと予約の時に、いろいろ聞いてくる。京都の旅館で、”片泊まり”という朝食のみのステイがあるが、ここでは、夕食はもちろん朝食も、向かいにある喫茶店「チロル」を紹介してくれる(素敵なママが、400円で洒落れた朝食を出してくれる)。 坪庭に面したお風呂もいいし、廊下には小振りな書棚があってあまりほかではお目にかからぬような雑誌や本が置いてある。4月27日のブログ記事でも紹介したが『ないもの、あります』(思うつぼ、無鉄砲、左うちわなどなど)を読んでいると湯上がりのせいか、心まで溶けてくるようだ。余談になるが、和風旅館に泊まるときは籐枕が欲しいなあ。寝転んで本を読むのにいい。今度は、マイ枕を持参で来よう。それにしても気持ちのいい宿ではある。

この町で育った女将は、なんでもまちの事を教えてくれる。古くは郡上一揆のこと、町のグルメスポット、郡上踊りのこと、町のそとの観光スポットそれに第3セクターの長良川鉄道(昔の懐かしい越美南線、北線のこと) ホスピタリティに溢れ楽しい人である。 

郡上おどり
 7月から9月にかけて行われるおどりは、江戸時代に端を発するもので、観光客も地元の人の一緒になって踊る参加型の祭りである。なかでもお盆の8月13から14日のおどりは夜を徹して行われる。おどりには、10種類あり、なかには「春駒」のようにアップテンポのものもある。中嶋屋には、毎年来る常連が多いが、あるグループは毎年浴衣をオーダーし、それに合わせて帯も下駄もつくるとか。

 シーズン外であったが町中の郡上八幡博覧館では、説明だけでなく実演もして教えてくれた。この夏の季節になると、こどもたちは吉田川にかかる新橋の上から青い淵にむかって飛び込んで遊んでいる。

(町の風景)
町の東北角に位置する八幡城は、車でも上れる。途中の公園には山内一豊の妻千代の銅像がある。最近の調査では、千代は郡上八幡の生まれとか。このお城から町を見下ろすと、郡上八幡は三方を山に囲まれた土地であることがよく分かる。町を歩いていると子供たちがいる。猫もいる。みそ屋がある、郡上紬の店がある。地元の人のための珈琲屋がある。ここは2キロ四方の中心部は、観光だけでなく地元の生活の場なのである。だから、「人々に注意して運転をお願いします」という看板があるくらいだ。



お寺が沢山あるが、南のはしにある滋恩禅寺は、庭園も美しくなかなか立派なお寺である。その本堂を見て回っていたら、壁に岐阜県青年僧の会による
書跡があって、そこには

 ”生かされて生きる命の不思議さに
  不平あるなし 今日も楽しく”

とあった。なるほどと、二人で顔を見合わせてうなずいた。文句をいうことなく、旅を楽しもうと。


(水のこみち)
至るところに水路があり、清流が流れている。名水百選に選ばれた宗祇水という
連歌の祖飯尾宗祇にちなんだ泉もある。宗祇水を詠み込んだ俳句や連句が飾られていた。

 ”宗祇水含み踊りの輪に溶ける” (掲額に)

あまごやいわな、鯉もたくさん泳いでいる「いがわのこみち」、そしてなんといっても吉田川の石8万個を使用してつくられたミニポケットパーク。民芸館や美術館も点在して風情のあるこみちである。宿からすぐということもあり、早く光線の具合のいい朝携帯椅子を持っていってスケッチを楽しんだ。おもだか民芸館は、幸運なことに会津八一の『南京新唱』の大正13年の初版本が売りにでていた。早速手に入れたことは言うまでもない。こみちの突き当たりにある「遊童館心の森ミュージアム」では、水野政雄の紙人形は、虫たちのモービル、それに森や川や自然に遊ぶ動物たちの心あたたまる絵画が展示され、目を楽しませてくれた。「つれない日は魚になって考えよう」や「手づかみ漁師も現れて」と題する山椒魚の絵などユーモアが溢れてとても楽しい。こういう物語り性のある絵はとかく心を和ませてくれる。この「水のこみち」の周辺には、能面打ちの看板があたったり、また小体な酒亭「花むら」があったりして、ぶらぶら歩いていても楽しい。「花むら」で出た筍の刺身は、まさに春の味であった。

(長良川鉄道の旅)

岐阜の美濃太田から北濃を結ぶ越美南線は、山深いところを走るローカル線であっが、民営化され長良川鉄道となった。宿の女将のおすすめもあり、駅に車をおいて一日電車の旅を楽しんだ。郡上八幡から北上して、白山長滝まで。電車は一両のみ。適当な時間にやってきた。数人が乗り込む。電車は、ほとんど長良川に沿って走る。沿線にはちょうど桜もなにもかもが咲きそろっていた。白い梨の花、ピンクの芝桜、山吹の黄と目を楽しませてくれる。しばらくゆくと、前方にまだ雪をいただいた白山の峰みねが見えつ隠れつする。のどかな田園風景はみているだけで楽しい。一時間ほどで、目的の白山長滝駅に到着した。私たちのほかには、誰もいない。無人駅だ。ここは、もともと美濃馬場とよばれ霊峰白山の南正面の登山口であり、白山信仰の拠点であった。杉の巨木に囲まれた神社を見て回る。白山もよく見える。道の駅も、あいにくお休み。食べるところもなく、すぐに郡上八幡に戻ろうかなとも思ったが、一見ログハウスのような食事処が見つかった。その名は、なんと「みのばんば」 キッチン&珈琲館とある。昔の民家を改装したような天井が高く、ゆたりとした店だ。お昼時でつぎから次と客がくる。ハンバーグやパスタをもらったが、いける。ケーキバイキングまであって、若い奥様方も赤ちゃん連れで襲来する。店の対応もよく好感がもてる。ここは、あたり。鄙にはまれな洋食と珈琲を出す。ワインもなかななかの品揃えだ。のんびり昼食を楽しんだので、スケッチの時間があまりなく、急ぎ働きだ。帰りも車窓の風景を楽しんだ。

(織部焼)
帰る途中東海環状道を通って中央道へ回り、多治見ICで降りて織部焼の町を訪ねた。安土桃山時代の武将古田織部は、千利休の高弟で織部好みと言われる大胆かつ自由な茶の湯を始めた。その織部が指導して美濃の地ではじまった織部焼きは緑の釉薬がかかったものが代表的なものであるが、現在では、さまざまな色合いのものがあり、食材とマッチするよう器がたくさんある。



 多治見市役所のすぐそばの「うつわ亭」に立ち寄る。ここは古い民家を巧みに利用した建物が店となっており、日本庭園や2階の座敷もふくめて、さまざまな茶器、什器が並べられている。片口など、いくつかを買い込む。さらにすぐそばの
「オリベストリート」を散策する。ここは明治初期から昭和初期にかけて建てられた商家や蔵の残る町。それらを巧みに取り入れ、陶磁器・骨董・ギャラリーなどなどを取り込んでレトロとモダンが溶け合った。400メートルほどに渡る道をぶらぶら歩けば目移りがしてしょうがない。ここでも「花御堂」で、皿や壺を買う。高いのは手がでないが、リーズナブルなものも多いので、”見てるだけ”ということにはならない。昼食は、このストリートの一角にあるそば処「井ざわ」 平日にもかかわらず、地元の人が詰めかけてくる。やはり古い民家を移築したようで店内は広々として、天井も高い。井戸水でうったそば、器はもちろん多治見の陶器。きびきびしたスタッフが客のリクエストに気持ちよく対応している。天ぷらとざる、それに玉子焼きももらった。酒でも欲しいところだ。メニューをみると、呑み助の喜びそうなものが並んでいる。テーブルの横の壁には、額があり、”秋の山一つ一つに夕かな”という一茶の句が書かれていた。おまけに、その下にはフランス語訳まである凝りようだ。

(オリベストリート)
 →http://www.c-5.ne.jp/~tajimi/oribest/honmachi/sth.htm

旅はこれでおわり、満足した気持ちで車を走らせた。




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読書『猫のつもりが虎』

2008-04-27 | 時評
(お待たせしました)
読書『猫のつもりが虎』(丸谷才一 マガジンハウス 2004年6月)

 これは本の書評というより、気楽な駄文と思ってお目通しください。

イラストレーター和田誠の、猫だか虎だか分からぬ絵が表紙を飾っている。丸谷才一の気楽なミニエッセイ集。JAPAN AVENUE という特定の読者に無料で配られる贅沢な雑誌で、著書は編集顧問をしていた。お目にかかったこともないが”贅沢”なものだということは、書いているひとの名前をみれば、そう思う、大岡信の画集の書評とか、柴田南雄の音楽会評、それに林望、関容子。須賀敦子の名前まである。もう15年ほども前のもので、まだ寄稿者がそれほど世に知られていない頃の雑誌であった。もちろん丸谷も書いていた。これは、その丸谷の文を集めたものである。

 話の内容はたわいもないものが多い。ベルトの研究、男のスカート。絵を買う、話などなど。とはいえなるほどとうなずかされる話もある。「批評の必要」では、文藝批評などは盛んであるが、建築の世界にはまったく批評がないと、いう。

 ”どうやら日本人は、私的な作品(たとえば小説)についてはあれこれ言う習慣
はあっても、公的な作品(たとえば建築)に対しては口をつぐむ国民らしい。しかしこれではわれわれの都市はいつまでも美しくならない。

 イギリスの場合、事情はまったく違う。あの国の週刊新聞や週刊誌はたいてい
建築批評のページを設けているし、最近ではチャールズ皇太子が現代建築を論難して大受けに受けた・・・”

 「故郷の味」では、藤澤周平の『用心棒日月抄 孤剣』について書き、主人公の青江又八郎が、女忍者佐知の運んできた国元の食べ物をご馳走になるシーンから連想をふくらませ、故郷の味について小茄子の塩漬け、寒の海からあがる鱈、四月の筍、夏の小鯛などなどを描写する。そして言う、晩年の又八郎と佐知が、枝豆とハタハタで一杯やる情景を読みたいからである” この文に魅せられ、早速藤澤周平の本を読み出した。

 「夜中の喝采」では、アンブローズ・ピアスの短編小説から、

 ”彼は自分の軍人としての”green and salad days ”のその失敗を思い出すといつも微笑したものだが、しかしいまは微笑をうかべることなどできゃしない” という箇所を引用し、その”green and salad days ”は、シェークスピアノ「アントニーとクレオパトラ」の第1幕第5場のクレオパトラの台詞 ”My slad days,when I was green in judgement ”(あれはあたしがごく若い頃、判断力も足りなかったし)から来ているという西川正身教授の話を紹介している。そして、そこからが面白い。平家物語の「大原御幸」のなかに出てくる”甍やぶれては霧不断の香をたき・・・”の出所を探る。その結末は、読んでからのお楽しみとする。
序でですが、俵万智の「サラダ記念日」というタイトルは、多分ここから来ているのでしょうね。

 とまあこんな次第で、会員誌掲載のエッセイとしては面白みもあり、楽しいものである。

 話は脱線するが、和田誠のイラストは、大好きだ。この本にも随所に現れる。彼のイラストで埋め尽くされた『お楽しみはこれからだ』は、映画の名セリフを集めたものだが、なんど読んでも楽しい。題名を英語でいうと、 ”You ain't heard nothing yet ! ”と言うらしい。(本当?)


 脱線その二。会員誌に載ったエッセイを集めた、同様に気楽で楽しい本をごく最近見つけた。ローカルな旅の宿の書棚にあった。風呂上がりに寝ころんでページを繰った。題して『ないもの、あります』(クラフト・エヴィング商会著 ちくま書房)よく耳にするけれど、一度も見たことのないものあります、堪忍袋の緒、転ばぬ先の杖、左うちわ、舌鼓、思う壺、助け船、無鉄砲・・・・。いやはや、なんともふざけた、遊び心溢れる本でした。旅の疲れも溶けてゆきました。
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気まぐれ日記/<櫻男ー笹部新太郎コレクション展>

2008-04-26 | 時評
気まぐれ日記/櫻男ー桜の神様笹部新太郎コレクション展

 東海北陸自動車道の白鳥インターから国道156号線を北上してゆくと、御母衣ダム(みぼろ)で有名な御母衣湖に至る。このダムは、日本初のロックフィルダムとして昭和36年に竣工した。そのとき湖に水没するはずであった2本の桜の老木を
救ったのが、時の電源開発初代総裁の高崎達之助であった。そして高崎の要請に応え、困難な桜の移植を指導して成功させたのが「桜博士」として知られた笹部新太郎である。その樹齢450年の桜は、翌年花を咲かせた。荘川桜として今もその姿を留めている。そして現在では、その次の世代の桜までもが、その隣に育っている。

 笹部は、東大法学部在学中から、日本の桜の固有種・古来種が失われてゆくのを危惧して勉強を始め、やがて宝塚市の山中に桜演習林を造成して研究・保護育成事業に関わるようになった。その彼が再生・保護・品種保存にかかわった桜は、枚挙にいとまがない。大阪造幣局の「桜の通り抜け」も管理指導しているし、吉野山の桜の保存にもかかわっている。

 笹部は、91年の生涯の大半を桜ーとくに日本古来の山桜・里桜の育成・保護に尽くした。人呼んで、「櫻男」

 ”遠つ代に 桜子という女あり 愛しけき(はしけき)友は 桜男か”
                              ー杉本寛一

その笹部が、自らの日記を基に、昭和33年4月「次の世代の桜にかかわりをもつ人たちへの足がかりにでもなれば」と一冊の本を書き残した。それが『櫻男行状』(平凡社)と題する本である。この著書に書かれた内容を中心に笹部が手がけた桜の事業に関する資料、また彼の収集した桜を描いた書画・漆器などの美術工芸品など厖大な桜に関するコレクションを一同に集めた展示が西宮の白鹿酒造の記念館で今行われている。

ふとしたことからこの特別展のことを知り、早速車を走らせた。御母衣ダム湖畔の荘川桜には、すでに対面しているし、また彼の作った桜演習林(いまは宝塚市が「桜の園」として公開している)も歩いている。部分的にはあ程度桜博士のことは知っていたが、この展示には圧倒され、感激を覚えた。本当に貴重なコレクションである。
『櫻男行状』出版にさいしての装幀原画や、記念に贈られた詩や絵画、桜にまつわる絵と和讃、桜のデザインの入った酒器・茶器・瓦などなど。1965年に吉野山の竹林院のそばに「頌桜」と題された碑が建立されたが、そこには、笹部が筆を執った”花は春を呼び、人は花に酔う、桜の徳であろう・・・”との一文が刻まれている。その書跡や碑の写真もあった。

「里桜・山桜図」(桜戸玉緒)の絵画には、次の和讃があった。

 ”なれぬれば めずらしからぬ 世の中に 
  ひとりならはぬ 山さくらかな”

後年水上勉は、笹部をモデルとして小説「桜守」を書いているが、それに関する水上の手紙もある。私を魅惑した工芸品の一つは、光を当てると桜の絵が浮き出る不思議な「床框」(ゆかがまち)だ。

笹部の桜にかける情熱と愛情に感動すら覚える。必見の特別展である。5月6日までの展示ゆえ、お急ぎを。

なお聞いて見ると来年も桜の季節に展示を行う由。このコレクションは、西宮市に寄贈されたが、その管理・保存・さらに調査研究は白鹿酒造が行っている。正式な名称は辰馬本家酒造株式会社である。メセナの一環として行っていると思うが、相当な経費がかかるのではないか、と心配して記念館のマネージャーに聞いてみた。そうしたら、”うちは西宮市ができる前からありますから・・”とプライドをのぞかせる会長発言を紹介してくれた。

 (酒ミュージアム)
 →http://www.hakushika.co.jp/museum/index.php

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読書(予告編です)『猫のつもりが虎』

2008-04-20 | 時評
花水木の季節、しばし小旅行へ出かけます。次回の本のご紹介は、丸谷才一の
『猫のつもりが虎』です。週末にアップロードいたします。ではでは、
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読書『英国大蔵省から見た日本』

2008-04-19 | 時評
読書『英国大蔵省からみた日本』(木原誠二 文春新書 2002年2月)

 最近の政治の混乱は、目をふさぎたくなる。一体日本はどうなってしまうのだろうと要らざる心配をしてしまう。日銀総裁の人事一つ決められず、空白をつくってしまった。そんな時に民主主義の発祥の地である英国ではどんな政治システムになっているのだろうと、大分前に読んだ本を引っ張りだしてきた。これは、日本の財務省(当時の大蔵省)と英国の大蔵省(Her Majesty's Treasury )の交換派遣制度によって、1999年7月から2年間にわたり、英国行政の現場で働いた若手官僚の書いたものである。

 大蔵省だからといって、財政・金融の話ではない。むしろ彼の地の政治のあり方についての観察である。また7年も前のこととはいえ、この観察とそこからくる思考は、大変前向きであり、今もなおその価値を失っていない。是非みなさんにお読み頂きたいとご紹介する次第である。著者は、財務省の若手官僚である。1997年7月から2年間英国大蔵省へ交換職員として派遣された。その前にもロンドン大学で日英の金融制度に関する法制比較研究をしている。しかし、この本は金融や財政に関するものではなく、むしろ4年間の英国滞在を通じて感じた、日本のありかた、特に政治のありかたについて感じたことをまとめたものである。

 出発点は、「なぜ日本は失われた10年を迎えたのか? そしてなぜそこからなかなか脱却できないのか」という点にある。これらの点に関して鋭い観察眼と問題意識に裏打ちされた著述がある。とくに一人一人の意識改革が重要、と説く著者の考え方には深い共感を覚える。  注)「失われた10年」とは、1990年代の10年間のことである。この期間中の日本のGDP平均成長率は1.3%、生産性は先進7カ国中最低の1.8%に落ち込んでいる。

そして著者は、言う。
 ”英国に来て今回最も印象深かった点は、一発逆転満塁ホームランを狙う革命的指向とは、百八十度反対に位置する「進化する保守」の中に英国の思考法をみた”

 ”どんなに強い指導者を持っても、どんなに素晴らしい改革のプログラムを手にしても、それを支え行動に移す我々一人一人の意識改革が進まなければ、再び何十年後かには停滞を迎えるに違いない・・・”

(たとえば金融ビッグバンにしても)
 ”すくなくとも英国や米国のビッグバンには、小さな改革の流れが少しずつ集まって大河となっていくダイナミズムと永続性がありし、民間主導で改革が進むいき生きした感覚がある”

そして著者は、このようなアプローチの違いが生じてきた所以について英国のコモンロー的思考に着目している。ー「進歩する保守の国」英国
  
 ”英国では、大陸法のように、法が体系化されることがなく、法の体系的・網羅的な美しさよりも、裁判所が事実関係に即して妥当な解釈と救済を図る中で、判例の積み重ねによる一群の法体系がつくられてきた”

 ”現在世界を見渡すと、新しい挑戦に果敢にとりくみ元気がある国には、ニュージーランド、豪州、英国、カナダ、米国など、コモンローの伝統をもった国が多い。何故かとということを考えないわけにはいかない。特に、英国の場合は、成文憲法を持たないという意味で、「コモンロー」的な考え方が一層際だっており、それは、日本のような成文憲法の国とは全く異なる思考方法を持っていることを意味している。かんたんにいえば、英国は歴史と伝統に裏打ちされた「進歩する保守の国」であり、英国人の考え方は、イデオロギーや大げさな理論を大上段に振りかざすのではなく、徹底した実践感覚と、公的関係よりも私的関係を重視する人間、個人への信頼に根付いたものである。”                 ”

  ”コモンロー的な考え方、英国社会に深く根ざす「進化する保守』的思考方法についてしっかりと理解せずに英国からなにか学ぼうとしても、それは熱帯魚を氷水の中で飼おうとするような無謀な結果に終わってしまう危険すらある・・”

英国は基本的に保守の国であるが、伝統に縛られて変化ができないと、いうことではなく、むしろ変化に対して柔軟である、と指摘する。英国の保守党の真骨頂は、維持するためには(生残るためには)変革しなければならない 、ということにある。そして近代保守主義の創始者の一人であるエドモント・バークの言葉を紹介している。

  ”変化のための手段を持たない国家は、その存在事態維持することができない”
 
制度上、英国が変化ということに対してタブーではなく、きわめて柔軟だという事実ほど、現在の英国の強さを説明するものはないであろう。こういう変化への取り組みの事例やアプローチの仕方がおおく紹介されていて、日本との対比で見ていくと大変興味深い。

(とりあえず試してみる、そして現実的であること)
 ”英国では、行政の行う政策を評価する仕組みについて、サッチャー政権以後多くの試行錯誤が繰り返されてきた。そのなかで英国大蔵省は、国民の税金を各省庁が実施する政策の財源として配分する以上、その効果や効率性についてしっかりとしたチェックをしなければならないとして、政策評価に深く関わってきた。特に1997年に労働党政権が誕生すると同時に、大蔵省は総歳出見直しをおこない、その結果を発表するとともに、3年間の期限で、公共サービス同意と、アウトプット・業績分析を各省庁とのあいだで締結した。
(Public Service Agreement, Output and Performance Analysis)

公共サービス同意とは、各省庁が向こう3年間で行う政策についてその政策意図、政策目的、政策目標を掲げ、これを大蔵省との間の同意として国民に公表するものである。特に重要なのは政策目標で、「人口一万五千人以上の規模の町からの下水処理について二次処理を確保」というような具体的なものである。

個別の工事やプロジェクト評価というのは珍しくないが、こうした省庁の政策を大きく評価する取り組みは世界的には必ずしも多くない。”

 →日本でも是非取りいれて欲しい。地方官庁もふくめて。

日本からも様々な分野の人が、調査に来て、いろいろの機関で話を聞くが、「数値化が難しいものはどうするか」、「政策目標に細かいものやおおざっぱなものなど各省庁でばらつきがあって、統一的ではないが、問題はないか」などなど、様々な質問がだされる。それに対する英国側の返答は日本人の想像していたものとは異なる場合が多々あった。 たとえば「数値化が難しいものについては、努力するが無理なら無理でしかたがない」 「成功しようがしまいが、試すだけの価値はある」平たく言えば、「とにかく始めてみて、少しづつ直せばいいじゃないか、何で、今そんな事を質問するのだ、今は今の状況を見ながらできるところから始めればいいじゃないか」ということである。
 
 いずれにせよ、判例や慣習を積み重ね、徐々にではあるが着実に変革を積み重ねてゆく、そんなコモンローの精神こそが英国体質である、と著者は見た。


(日本には何が必要かー変化を叫びつつ変化を潰す日本)
変化の芽をつみ取る「非寛容」の克服として、英国でみた面白いエピソードが紹介されている。

 ”次のような事件が日本で起こったら、どのような反応があるであろうか。
2002年ミレニアムを迎えた英国では、政府の肝いりで膨大な資金がミレニアム事業と呼ばれる巨大事業に投入された。東京ドーム三個分のミレニアムドーム、テムズ河畔の世界最大規模の観覧車、セントポール寺院とテート美術館新館をむすぶミレニアムブリッジ。ところが、いずれも当初見込みから、大幅にはずれる結果となった。ドームは観客動員数が伸びず大赤字、観覧車はなかなか完成せず、やっと完成したと思ったら開業日には動かない。ミレニアムブリッジに至っては、デザインの斬新さが災いして、歩けば大きく揺れるしまつ。ところが、担当大臣は、「国民はミレニアムドームの別の一面(成功した部分)をみるべきである。一から十まですべてが成功することはできない」と語る。さらに奮っていたのが、ブリッジの設計担当者だ。TVのインタビューに答え、”これまでにないモダンな設計の21世紀性をみて欲しい、いままで通りの詰まらない橋をつくるよりよっぽどましじゃないか」と。
日本で、政府が率先して多額の資金をつぎ込んだ事業がこれほど見事にことごとく失敗したら大変である。責任者は、深々と頭を垂れ、まるで犯罪者のごとき扱いをうけるのは必至であろう”

 日本は革命的変化を好み、英国は私流にいえば進化を好むと述べた。それは別の言い方をすれば「欠点、欠如」という進化に必ず伴うものに対して英国は思いのほか寛大だということであり、均衡状態に対して変化をもたらすことで生じる悪弊や不十分さに対して、ことさら騒がず、是正してゆこうという前向きの姿勢とも言えよう”

さらに反対意見を許さない日本社会の雰囲気の問題や、理念の欠如などについて述べているが、もうひとつの変化をつみ取る悪弊として官依存の体質をあげているが、それを脱却するのに国民の自立的視点ということが必要であるとして、次の
ように英国の事例も含めて説明している。

 ”国家はそうした国民の自立的視点の育成をサポートするように活動すべきであろう。日本と英国で政治課題としてマスコミや選挙、あるいはクエスチョン・タイムなどをはじめとする議会での論戦で取りあげられる話題の違いは、この国民の自立的視点ということを考える上で非常に参考になる。

 英国で政治課題、話題として真っ先に取りあげられるものには、「小学校の1クラスあたりの生徒数が労働党あるいは保守党の下で上がったのか下がったのか」、
「乳ガンの発生率が他の先進諸国より高いが、これまで十分な予防措置が講じられていなかったのではないか」、「同性愛について学校でどのように指導していくべきか」などなどで、とにかく国民の生活に密着したものが多い。・・・・・

日本では、上から近代化が進められてきたせいでもあろうが、憲法問題であるとか
マクロ経済政策であるとか、・・・そういうことばかりがマスコミでも選挙でも取りあげられる傾向が強いように思う。そして国民の生活に近い細かい問題は、切り捨てられる傾向がつよい。それどころか、日本社会全体に、国民の生活に密着した細かい事柄をわざわざ取りあげたりする人を、器の小さい、学のない人間のように扱う傾向もないではない。こうしたことが、国民が政治や行政に積極的に関与する機会を奪い、結果として下から沸きがあるような変革の気運が生じてこない一つの原因にもなっている・”


以上、ざっと英国のいいところを見てきたが、もちろん影の部分もある。貧富の差の拡大、教育の荒廃、犯罪の増加などについて述べるのも著者は忘れていない。また最後に重要な問題として政治・行政における制度信仰に陥った日本を、英国の議会制民主主義との対比で議論している。価値ある一節であるが、ここでは長くなるので省略する。

      ~~~~~~~~~~~~~~~

 著者がこの本を著したのは、2001年の帰国後すぐの時点である。弱冠わずかに31才。こんな若手が、とびっくりするくらい視点がしっかりして、読んでいて有望な若手官僚の存在に嬉しくなった。こういう職場交換を外務省や経済産業省、総務省などの若手をも体験してどんどん本を書いてくれないかな?
英語体験記などのように語学のことや海外でも日常生活雑記に近いレポートはいくつも散見するが、こんな政治・行政の中身にまで切り込んだものは、あまり知らない。価値ある一冊だ。




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気まぐれ日記/桃源郷に遊ぶ-与謝蕪村の世界

2008-04-13 | 時評
桃源郷に遊ぶー与謝蕪村の世界

 渓流に沿った道を辿ってゆくと、次第に道は高みに登ってゆく。開けたところに八重のしだれ桜が道の両側にあり、今まさに開かんとしている。隧道をくぐり、橋を渡る。谷のあちらこちらにに白い辛夷が点々として、私たちを迎えている。そして眼前には、ゆったりと建てられた美術館が出現した。

まるで陶淵明の「桃花源記」の描かれたような世界である。そう、その通り。アプローチからして桃源郷なのである。ここ湖南アルプスの山中にあるMIHOミュージアムは、まさに桃源郷を設計のテーマとしたものである。設計を担当したI・M.ペイ氏は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドやワシントンのナショナル・ギャラリー東館などの設計で世界的に知られた建築家である。

 この美術館で「与謝蕪村ー翔けめぐる創意」と題して蕪村の絵画や書簡、俳画などが展示され、その生涯が描き出された。同時にこの春期特別展を記念して芳賀徹京都造形大学名誉教授の「蕪村の桃源郷」と題する講演があった。ご承知のように、芳賀徹は『与謝蕪村ーその小さな世界』の著者である。専門とする比較文学の立場から蕪村の活躍した世界、ひととなり、その書画・詩歌をつぶさに研究してこの名著を著した。

その芳賀さんの講演が直接聴けるというので、親しい友人夫妻を誘って信楽(しがらき)の山の中まで車を走らせた。

(桃花源の詩ならびに記)

 ”晋の太元のころ、武稜の人の魚を捕らうるを業となせるもの、渓(たに)に沿うて行き、路の遠近を忘るるに、たちまち桃花の林に逢う。岸をはさみて数百歩、中に雑樹なき、芳しき草は鮮やかに美しく、落つる英(はなびら)はひんぷんたり。・・・”

 この1600年も昔の陶淵明の詩は、多くの人々に愛唱されてきたが、それを芳賀さんは、詳しく情景描写をしながら、解説した。山の洞窟に光をみた漁師が、そこをくぐり抜けてゆく、すると眼前に平和と幸福そのものと思われる村里がひろがる。人々は古俗を守って働き、老幼は楽しみ、犬や鶏の声が春の昼間に響いていた。この外界から隔絶した里に数日、歓待をうけて滞在した漁師がいったん自分の町に戻り、改めてその桃源の村に戻ろうとすると、もう道は分からなくなっていた。

 すでにこ詩歌を研究し尽くしている芳賀は、すべてを諳んじているので、2時間の長きにわたり、よどみなく話を続ける。中国では、こ物語の場所は、洞庭湖の西のあたりと想定されていることや、この桃源郷は西欧のユートピアのような管理された理想郷とも違うこと、アルカディアや浦島のように時間差がない話であることなどなど。そしてこの東アジア人の理想郷、平和な農村小共同体はいかにも魅力があり、江戸時代には、このような光景は日本ではあちこちで見られたという。

(東洋詩画におけるそのトポスの展開ー桃源郷の系譜)
 この桃源郷は、中国の唐の時代から宋・元・明と、また韓国でも多くの画家が題材として絵を描いた。それらを大きな映像スクリーンに映しての解説があった。日本でも池大雅や松村呉春、富岡鉄斎、小川芋銭などなどが桃源郷の絵を描いたが与謝蕪村のそれは、桃源郷の構図に関心をいだき、入り口と出口をことに描いたという説明は面白かった。近代では漱石が、蕪村の慕って「草枕」にその世界を描いた。

 注)この草枕にある、いはば桃源郷のような世界。それは、熊本は小天(こあま)の那古井館を舞台にした物語である。これを大正十年代の日本画家たちが大和絵に描いた。それを主題とした『漱石世界と草枕絵』という貴重な本が私の手元にある。又の機会に、その内容や絵をご紹介したい。(ゆらぎ)

(蕪村の桃源郷)もう詳しく講演の内容を語るまい。蕪村の句と、芳賀さんの一文をもって、それに代えることにする。

 桃源の路地の細さよ冬ごもり
 商人(あきんど)を吠ゆる犬あり桃の花
 これきりに経(こみち)尽きたり芹の中

 路絶えて香に迫り咲くいばらかな
 花いばら故郷の路に似たるかな
 わが帰る道いく筋ぞ春の草
 うれいつつ岡に上れば花いばら

 ”たしかに与謝蕪村は、桃源郷という東アジア詩画史の中の一つの古い大きなトポスを、徳川日本というそれ自体桃源郷のような小世界にあって我が身に受け継ぎ、それによって自らの詩画両世界を同時におしひろげ、豊にすることのできた人であった。蕪村を介することによって、「桃源郷」は一段と深い夢想の次元を得、今や近代的なアイロニーさえ帯びて夏目漱石へ、富岡鉄斎へ、小川芋銭へ・・へと日本列島の詩画史上に生きつづけてゆくこととなったのである。”


 芳賀さんいわく。「今京都の北山に住んでいるが、京都郊外の風景は桃源郷に似たところが多い。 江戸時代には、蕪村が歌っているように至る所に桃源郷がありました」 そして徳川時代は、巷間いわれるような封建主義の窮屈な世界ではなく、もっと自由でのびやかな世界でありました・・・」と
こんな話を聞いていると、蕪村の詩や俳句に関して美学的な観点からの研究などやってみたいとなあと思う。ひさびさの長時間の講演、わがパートナーたちも、若かった学生時代に還ったようで、話に聴き入っていた。それにしても芳賀先生の講演はユーモアに溢れ、とても楽しい2時間であった。心満ち足りた晩春の一日。

 そういえば昨年の2月頃、このブログ上で蕪村の句について句友と話が弾んだことがあった。芳賀徹著の『与謝蕪村の小さな世界』は、そのひとりのsenjiさんのご紹介であった。改めて感謝申し上げたい。


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読書『脱日する韓国』

2008-04-10 | 時評
『脱日する韓国』ー韓国が日本を捨てる日(澤田克己 ユビキタス・スタジオ 2006年7月)

 人口4800万人、経済力もGDPランクで第14位という韓国だが、意外ににその実情はみんな知らないのではないか。韓流ブームやツーリズムの面である程度知っていても、なかなかその実態を知る機会は、少ない。この本は、慶応大学在学中にソウルで一年間韓国語を学び、99年10月から2004年3月まで5年毎日新聞社のソウル特派員であった著書が、韓国社会を観察し、韓国の人が日本を見る目についてレポートしたものである。著者は、65点分の愛着と35点分の冷めた視線で見たという。5年半の間、現地にじっくり腰をおちつけ、現地の人に取材して書いているだけに、信頼性のある(と思われる)ものになっている。内容は衝撃的に響く。あまりなじみのない話題なので、すこし丁寧に概要を紹介する。長文をお許しいただきたい。

          ~~~~~~~~~~~~~~~
日本は、かつて植民地支配者として朝鮮半島に君臨し、戦後は経済力で韓国を圧倒しつづけた日本は、韓国にとって特別な国であった。しかし、冷戦が終わり、韓国も奇蹟の経済成長をとげた今,日本が韓流ブームに湧く裏側で起きている現象はむしろ、「日本離れ=脱日」である。

(虚像の反日)
2005年の島根県議会の「竹島の日」条例の可決、東京での中学校教科書の検定結果の発表などのあと、暴動に発展するような深刻な反日でもはありえないと考えつつも著者は、それなりに盛り上がっているだろうと思っていた。しかしソウルでみた反日でもは、数十人規模のデモが一日に何回か行われる程度で、思惑を裏切られた。ソウルの、あるタクシー運転手は「領土問題なんて偉い人たちが考える話」だという。繁華街を歩いても、「日本人客お断り」の光景はなく、「いつも通りの
韓国」があった。

 反日的政治家の言動も、盛り上がりに欠けるだけでなく、政治運動として効果を上げようとの思惑で動いているものがある。また政治家のあまりに過激な日本批判にたいして公然と批判がでるようになってきた。
盧武鉉大統領が、2005年3月の独立運動記念日に”日本は過去の真実を究明して心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し・・・”と演説した時に、三大紙のひとつである中央日報は、”日本にまた賠償を請求するのか」という社説を掲げて真っ向から批判に回った。

  注)1965年の韓日基本条約で、過去の植民地支配にともなう被害補償を
    「請求権」という概念で決着させることに合意している。

 脱日がすすむ韓国社会で「反日」自体が、社会から浮いた存在になっている。ただ現在の「反日」は、きわめて少数派ではあるももの、それだけに純化され先鋭なものになっている。


(反日の実像)
とはいうものの、過去には日本は嫌われ、憎まれていた。1964年3月には、上記の請求権がらみで対日「屈辱外交反対の動きが激しく、朴正煕 大統領は非常厳戒令まで出して抑えている。1974年の朴大統領狙撃事件(文世光事件)では、犯人の文世光が日本人を装っていたので、当初日本大使館も襲撃をうけている。
(余談になるが、韓国側が文世光事件の背後に朝鮮総連や北朝鮮があると主張したのに、日本政府はそれらを擁護するような発言をしていた)

1986年も教科書問題、竹島問題などで日韓関係はきびしい年であった。それでもな1950年代以降、ながい間日本は、お手本であった。日本に追いつけけ、追い越せ、というのが韓国にとって最大の目標であった。そして1961年には国民1人あたりの所得がわずか80ドルだったという世界最貧国圏から、1979年には1620ドルといったように、20年弱で国民所得を約20倍にまで跳ね上げるという「漢江の奇跡」を成し遂げたのである。

 そういうことを背景として、韓国における日本のプレゼンスは、次第に小さな
ものになっていった。韓国の若手社員が日本に駐在しても、期間が長すぎると不満がでる。かつて日本の中高年技術者を雇っていた韓国企業も、あまり学ぶことはない、とあまり居なくなった。政治に関わることでも、あまり気にされない。2003年10月の日韓併合に関する石原知事発言(”彼ら(朝鮮人)の総意で日本を選んだ”)のときも、韓国の外交通商省は、遺憾の意を表明したが、大して問題にしなかった。2000年5月の森首相の「神の国」発言も、誰も相手にしなかった。

(冷戦終結が「日本」を消した)
1950年からの朝鮮半島全土を戦場とした朝鮮戦争で、日本は朝鮮特需で潤ったが、韓国に撮ってはすべてを破壊しつくした戦争だった。経済建設を至上の命題とした朴正煕 大統領が実権をにぎった9年後の1970年でも、韓国の国民一人あかりの所得は254$と北朝鮮よりまずしかった。しかし1996年にOECDに加盟した先進国入りし、1997年のIMFショックと呼ばれる経済危機も乗り切った韓国で、今こんなことを云っている人がいる。

 ”実は韓国には「日本のような国を作りたい」と頑張ってきた人が多かった。
 でも私は今、「日本のような国を作っていいのだろうか」と考えている。日本に は個人金融資産が1400兆円あるけれど、その日本の人々を見ていて、みんな が幸せなのか分からない・・・”

2004年まで日本サムスンの社長をつとめた鄭竣明氏の発言である。


 著者は、経済面でも詳しく解説し、日米依存からの卒業を云っている。2006年2月、日本との自由貿易協定(FTA)交渉に見切りをつけ、韓国は米国との交渉を優先させることにした。政治・軍事面でも日本の存在感は急激に軽くなっている。2005年4月の国会答弁で韓国の安全保障会議次長は、野党からの追及に、こう答えている。

 ”南方三角同盟は存在しないというのが、(韓国)政府の立場である。韓国と米国は同盟であり、米国と日本も同盟であるが、韓日間には同盟はない”

  注)南方三角同盟:北朝鮮・ロシア・中国という北の同盟に対する形。

この発言には、日本を「特別な国」と見ていた韓国との深い断絶を感じ取ることができる。

(古くて新しい国)
ここでは、中国を指向する韓国の姿が描かれている。

中国でビジネスをするには、人脈が必要だとして、中学・高校の時から中国に子弟を留学させる韓国の家庭が増えている。韓国政府によれば、早期留学と呼ばれる小中高校生の留学は、2002年には一万人を越えた。政府統計からもれているものもあり、実際は数万人いるという。

早期留学の行く先として、英語圏が多かったが、米国が減少するなか、中国はどんどん増えている。中国に進出している韓国企業でも、中学生を選抜して高校入学と共に中国に留学させ、中国の大学卒業まで奨学金をあたえるケースもある。大学・大学院 を含めた留学生の数は、2004年に3万9千人。中国の留学生の出身国第一位になった。


  →半端じゃないなあ、こんな長い期間を留学させるというのは、日本では
    なかなかない。それに日本には、優秀な学生は、きがたらないとか。

 ただ中国とは、現実の国際関係としてなかなか甘いものではないようだ。たとえば、古代王朝の高句麗について、中国は中国古代地方政権という認識であり、激しい歴史認識論争があるようだ。


 著書は、最後に「知日派の韓国」は、もう出てこない、あるがままの隣国を見詰めよう、「外国の一つである韓国」を冷静にみつめる姿勢が日本には求められていると結んでいる。結構色んなことを考えさせられる本であった。これを機会に韓国や日韓関係を勉強してみようと、刺激を与えられた。


 びわ湖の東岸は若狭湾から経由してくる渡来人のルートであり。いまも至るところにその足跡がある。湖東三山の一つとして知られている百済寺(ひゃくさいじ)は、1400年も前に聖徳太子が、渡来人のために創建した寺で、その庭園にある菩提樹の枝のさきは、はるか朝鮮半島の百済の国を指し示したといわれている。昔は、国はあっても国境を越えて自由に行き来したようで、百済の人々が数おおく近江から大和一円にきている。遙か昔の自由な往来を偲びながら、この本を読んだ。

余談になるが元禄時代に、朝鮮外交を担当し、二度にわたって朝鮮通信史の対応にあたった雨森芳州は、朝鮮外交についての心得を表している。それによれば誠心誠意の善隣外交を説いたという。芳州の生家は、湖北の高月町にあり、彼の遺徳を偲んで芳州庵が建てられている。そんなことも思い出した。韓国大統領の来日の折りに、天皇陛下への挨拶の中で日韓交流の礎になった例として韓国通信使の対応をした雨森芳州の話が出されたとか。


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時事雑感/OECDの対日政策勧告~税制改革を

2008-04-08 | 時評
時事雑感/OECD対日経済審査報告書ー日本は税制改革を

 OECD(経済協力開発機構)が、昨日発表した「対日経済審査報告書2008」(Economic survey of Japan 2008)について、フィナンシャル・タイムズは、”OECD urges Japan to raise taxes"、と報じた。本日の日経新聞にも記事が出た。、すこしづつニュアンスが異なるが、OECDの原文と合わせてみると、おそよの要点は次のようなものである。

       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本は税制改革に取り組まねばならない。政府の対GDP比の公的債務比率は、2007年には180%に達し、OECD加盟国中、もっとも高い。政治の混迷や税を上げると(経済の)縮小効果が出るという懸念は、痛みをともなう意志決定を先送りする言い訳にはならない。放置すれば、金利の上昇につながり、ひいては公的債務
急激な増加にもつながる。

金融・通貨政策のフレキシビリティがない今、OECDとしては、直接税から間接税へ税制制度を転換することを勧告する。売り上げ税(消費税)5%というのは、OECDでも最低の水準だ。税収の網をひろくはるにも間接税がいい。また国際競争力強化のために、さらに海外からの投資を呼び込むためにもOECDでもっとも高い法人税の40%という数字を引き下げるべきである。

さらにサービス分野は国内生産と雇用の70%を占めるのにも関わらず労働生産性が海外に比べて低い。規制改革、競争強化などにより改善を図るべきである。これにはもちろん、公的サーービスである健康・教育などの分野も含まれる。

 最後に労働力市場の問題にも触れ、非正規労働者の待遇改善や女性の労働参加率を上昇させる施策も提言している。

       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 一言でいえば、税制の抜本的な見直しとサービス部門の生産性向上というもので、日本に改革を求めているのである。一人あたりGDPは、OECD参加国中で18位とは言え、全体の経済規模では世界第2位の日本に引っ張ってもらいたいという思いであろう。

 以前に、このブログ(1月6日 来し方行く末~日本の国力)でも書いたようにやるべきことは、この報告書のとおり明確である。しかもやれば、日本の国力は伸びるのである。ソリューションが、ないというものではないのである。

日本政府や自民党あるいは民主党の反応を聞きたい。余計なお世話などと云わないでね。








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読書『にっぽん虫の眼紀行』

2008-04-06 | 時評
『にっぽん虫の眼紀行』(毛丹青 文春文庫 2006年6月第2刷)

こんなに美しく、感動的な文章で埋め尽くされたエッセイを手にするのは、滅多にないことである。読んだあとすぐ、旅行に出かける車の中で、妻にそのところどころを話して聞かせた位、頭に残っている。しかもまだ30才代の中国の青年が書いたというのは、衝撃的に響いた。

 毛青年は、北京大学卒業後、来日し三重大学で言語哲学などを研究し、その後神戸で日中貿易の専門商社で働いていた。そのころ彼の妻は、ベルリンの大学のに留学中で、卒業後はドイツで仕事をすることを考えていた。日本に来るのは望んでいなかった。その彼女が、日本に落ち着くに至った経緯が、「イワナ」と題する文に描かれている。そのさわりを。

          ~~~~~~~~~~~~~~


 たまたまベルリンのレストランで夕食にイワナの薫製が出た。そして店主の話から、日本のある地方のイワナが大変有名であることを知る。その場所は、新潟にあった。神戸の書店で新潟の山林の写真集を探し出すことからはじまり、釣り具店にいって、釣り道具をそろえた。、釣り場の詳細な地図まで用意した。ベルリンの妻に電話でその事を報告し、秋の渓流の素晴らしさを説いた。そんな彼の熱意に、妻
は、”もういいわよ。研究が終わり次第行くわ、もう別れて暮らすこともないわ」と云った。
 
 9月の秋分の日、毛は神戸から夜を徹して車を運転し、成田に向かった。再会を
果たしたふたりは、そのまま新潟に向けて走った。関越自動車道を経由して、一気に新潟を目指した。楓の葉が紅葉し、きらめく渓流は飛ぶように流れた。5時間あまりで山林に入った。地図でみたイワナ回遊の記号のある場所にきた。渓流釣りの完全装備を整えイワナを見ているうちに、イワナの激流を勇気凛々と遡る姿、生命力に感嘆したふたりは、イワナを釣るのを止めた。そのかわり網でイワナをつぎつぎとつかまえ水をいれたクーラーボックスに入れた。イワナが一杯はいったボックスを二人で持ち、渓流沿いの山道に踏み込んだ。しばらく登るうちに、水しぶきの飛び散る滝壺に行き当たった。そこが、イワナが産卵するための目標の場所であった。そこの持ってきたイワナを放し、ふたりは、山々を赤く染める夕陽のなかで、イワナたちをずっと見詰めた。水音は絶えず聞こえているのに、静けさと「安寧」を感じた。

 ”イワナは泳ぎ始めていた。・・・・・・・にわかに彼らの跳躍ががくんと止まった。二匹が一対となって、ぞれぞれ水底に散らばる大きな石に身を伏して止まった。次の瞬間、彼らは狂ったように全身を震わせた。斑点が膨張し、伸縮し、そして痙攣した。・・・イワナが産卵した。無数の卵が体の外に排出され、水底に丸い雲霧が巻き起こり、ゆっくりと昇った。イワナは口を大きく開き、光輝く彫像のように、母性の力を黙々と示していた。これこそが、生命の誕生だ。大自然の洗礼を受けた新しい命はイワナの体からわき出していた。それらは喜悦し、興奮し、歓呼し、沸騰して・・・私たちの手はきつく、きつく結ばれ、目の前の生命の賛歌に深く心打たれていた”

          ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このほかにも共感や感銘を覚える話が幾つも描かれている。
座敷で座っていて、涼風に揺れる風鈴に禅定に似た心境を感じる話。桜をずっと植えてきた庭師についての文では、桜が開くときは樹全体が暖かくなるという。その体温を手で計っていると、あと何日で桜が開花するか分かるという。

 ”桜の花は私の心に咲いている”(浜島老人のことば)


明石海峡の橋塔のうえで仕事をする架橋工がカモメと友達になる話、防府市外を走るローカル線の駅で、毎日落ち葉のきらめきが乗る人の眼にとまるよう落ち葉を掃いてならしている駅員のこと、などなど限りない。手品の種あかしになってしまうので、このくらいに留めておく。
 
 それにしてもこんな文章は、行動力と感性にあふれ、そのうえ美しい日本語を駆使する力がないと書けない。つまらない日常の身辺雑記を書き連ねる凡百の文学作家のエッセイなど足下にもおよばない。日本の大学で研究をするうちに、親鸞の「歎異抄」を中国語で出版した位の語学力と仏教について深い造詣がバックグランドにあるようだ。今後も日中文化交流に尽力して行かれると思うが、一度会って見たいと思わせる魅力を感じる。
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気まぐれ日記/イチローと「天城越え」

2008-04-05 | 時評
気まぐれ日記/イチローと「天城越え」

デジタル音楽配信のサイト(e-onkyo)を見ていたら、石川さゆりの「歌の世界」というアルバムが出ていた。その中には、津軽海峡冬景色や天城越えもある。解説の記事を読むと、大リーグマリナーズのイチロー選手は、今季の打席でのテーマ曲に「天城越え」を選んだ。大リーグ8年連続200本安打の記録がかかるシーズン。大記録達成への決意の表れかと思う。

きっかけは昨年末ののNHK紅白歌で石川さゆりが歌う「津軽海峡・冬景色」に感銘したこと。インターネットでチケットを購入し、1月中旬の兵庫県尼崎市でのコンサートを訪れた。楽屋で初めて石川と対面。「今年、僕はいろんなものを超えたいんです。入場テーマに“天城越え”を使いたいのですが…」と、願い出た。快諾した、石川さゆりは、イチローが打席に入るまでの時間が短いので、インストルメントによる特別バージョンを制作した。

 ”走り水 迷い恋
 風の群れ 天城隧道(
 恨んでも 恨んでも 躯うらはら
 あなた・・・山が燃える

 戻れなくても もういいの
 くらくら燃える 地を這って
 あなたと越えたい 天城越え”

この歌はいいですね。それに石川さゆりの絶唱! あんな風にして迫ってこられたら、どうしよう。
MLBバージョンは、まだ聞いていないが、どんな成績を挙げてくれるか楽しみだ。ちなみにイチローは、昨年は椎名林檎の「浴室」などを使用している。



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